天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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南町奉行・牧野大隅守成賢

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 南町奉行の牧野まきの大隅守おおすみのかみ成賢しげかたがそのしらせを聞いたのは町奉行所内にある自室とも言うべき座舗ざしきにおいてであった。江戸町奉行に任じられると、その在任中は町奉行所内で起居ききょ、つまりは生活を送ることになる。

 例えば、牧野まきの成賢しげかたのように南町奉行に任じられると、ここ数奇屋橋すきやばし御門内にある南町奉行所内で生活することになる。

 牧野まきの成賢しげかた自身は愛宕下あたごした屋敷やしきかまえており、それゆえ南町奉行に任じられる前まではそこで暮らしていたのだが、南町奉行に任じられるや、そく監物けんもつ成知しげともと共にこの数寄屋橋すきやばし御門内にある南町奉行所へと引き移り、父子ふしで暮らしていた。

 なお監物けんもつ成知しげとも成賢しげかた実子じっしではなく、養嗣子ようししであり、それも成賢しげかた娘婿むすめむこ、つまりは娘の夫である。

 そして成賢しげかた妻女さいじょは既にく、娘と婿むこ監物けんもつ、それに孫の大九郎だいくろう成美しげよしという家族構成であり、それゆえ成賢しげかた愛宕下あたごしたにある屋敷に娘と孫…、娘の子の大九郎だいくろうを残し、成賢しげかた自身は婿むこ監物けんもつと共にこの数寄屋橋すきやばし御門内にある南町奉行所へと引き移ってきたというわけだ。

 その際、愛宕下あたごしたの屋敷に娘とその子だけを残しては家政かせいに不自由するに違いないと、そこで成賢しげかた公用人こうようにん高橋たかはし栄左衛門えいざえもんもやはり愛宕下あたごしたの屋敷に残し、大事な娘と孫の「面倒めんどう」を頼んだのであった。

 さて、成賢しげかたはその自室において「残業」をしていた。既に刻限こくげんは宵五つ(午後8時頃)を回ろうとしていた頃であった。

 町奉行職は激務であり、それが月番つきばんともなれば尚更なおさらであった。しかも今日4月1日は恒例こうれい月次つきなみ御礼おんれいの総登城日であり、南町奉行たる牧野まきの成賢しげかた勿論もちろん、登城しなければならず、それゆえ午前は町奉行としての仕事ができずに、午後から仕事をしなければならなかった。

 それゆえまもなく宵五つ(午後8時頃)になろうとしている今も成賢しげかたは残業から解放されることはなかった。

 そこへもう一人の公用人こうようにん高原たかはら半右衛門はんえもんが姿を見せたのであった。

 成賢しげかたつかえる公用人こうようにんには愛宕下あたごした自邸じていに残した高橋たかはし栄左衛門えいざえもんの他にもう一人、この高原たかはら半右衛門はんえもんがおり、成賢しげかたはこの高原たかはら半右衛門はんえもんもこの南町奉行所へと一緒に連れて来ては、高原たかはら半右衛門はんえもんをすぐさま内与力ないよりきとした。

 内与力ないよりきとは町奉行所につかえる役人ではなく、町奉行個人につかえる役人であり、つまりは町奉行の個人的な秘書のような存在ということで、この高原たかはら半右衛門はんえもんのような公用人こうようにん内与力ないよりきく。

 高原たかはら半右衛門はんえもん高橋たかはし栄左衛門えいざえもんも共に、成賢しげかた個人につかえる公用人こうようにんではあるものの、席次せきじで言えば高原たかはら半右衛門はんえもんの方が高く、そこで成賢しげかた愛宕下あたごしたにある屋敷には高橋たかはし栄左衛門えいざえもんを残し、高橋たかはし栄左衛門えいざえもんよりも席次せきじが上の高原たかはら半右衛門はんえもん数寄屋橋すきやばし御門内にあるここ南町奉行所へと一緒に連れて来て、内与力ないよりきに任じたのであった。

 その公用人こうようにんにして、今は内与力ないよりきである高原たかはら半右衛門はんえもん成賢しげかたの元へと姿を見せるや、

「申し上げまする…、火急かきゅう用向ようむきにて…」

 そう告げたのであった。

火急かきゅう用向ようむきとな?」

「ははっ。されば愛宕下あたごしたにておく御医師ごいし池原いけはら長仙院ちょうせんいん殿が何者か斬殺ざんさつされたとのしらせが…」

「なっ、何だとっ!?」

 成賢しげかたは、はしたないことだが、それでも驚きのあまり思わずそんな頓狂とんきょうな声を出した。それだけ驚いた証拠であった。奥医師おくいしが殺害されて驚くなと言う方が無理であろう。

「そはまことかっ!」

「まことでござりまする。今しがた、年番ねんばん与力よりき山本やまもと茂市郎もいちろうよりしらせが届きましてござりまする…」

 年番ねんばん与力よりきとは町奉行所の事実上のトップであり、その与力よりきである山本やまもと茂市郎もいちろうからのしらせとあらば間違いはなかった。

「して、仔細しさいは…」

 成賢しげかたは事件の詳細しょうさいを尋ねた。

「それにつきましては山本やまもと茂市郎もいちろうより…、すぐそばにてひかえさせておりますゆえ、ここへしてもよろしゅうござりまするか?」

 高原たかはら半右衛門はんえもんは主君・成賢しげかたが事件の詳細しょうさいを尋ねるであろうことを予期よきして、既に事件の詳細しょうさい把握はあくしている年番ねんばん与力よりき山本やまもと茂市郎もいちろうを連れて、ここ主君・成賢しげかた自室じしつへと足を運び、その上でまずは半右衛門はんえもんが先にその自室じしつへと顔をのぞかせ、主君・成賢しげかたに事件の一報を入れ、その間、山本やまもと茂市郎もいちろうは外廊下にてひかえさせていたのだ。

 主君に命じられてから動くようでは公用人こうようにんは務まらない。常に主君の考えを先に読み、動いてこその公用人こうようにんであった。

 一方、成賢しげかた半右衛門はんえもん処置しょちに対して満足したのか、少しは落ち着きを取り戻した様子でうなずいた。

 それに対して半右衛門はんえもん会釈えしゃくでこれにこたえると、茂市郎もいちろうに入るよううながしたのであった。

 さて、山本やまもと茂市郎もいちろう半右衛門はんえもんうながされて奉行の自室へと足を踏み入れると、奉行たる成賢しげかたを前にして平伏へいふくしようとして、それを成賢しげかたが制した。今の成賢しげかたには虚礼きょれいわしているいとまはなかった。ちなみに半右衛門はんえもんもそれが分かっていたからこそ、つい今しがた、会釈えしゃくこたえたのであった。

「それより聞かせろ」

 成賢しげかたはそううながした。事件の詳細しょうさいであることは明らかであったので、そこで茂市郎もいちろうも「されば…」と切り出すと、語り出した。

 茂市郎もいちろうが語った事件の詳細しょうさいはこうであった。

 旗本の、いや、まだ正式には家督かとくを相続してはいないが、ともあれ千石取の鷲巣わしのす家の当主の益五郎ますごろう清典きよのり寄合よりあい医師の長谷川はせがわ玄通げんつう博打ばくち帰りに愛宕下あたごしたにさしかかったところで、同所に屋敷をかまえる奥医師おくいし池原いけはら長仙院ちょうせんいん法印ほういん良誠よしのぶが屋敷の門前に到着したのを益五郎ますごろう玄通げんつうの二人が見届け、さて、池原いけはら良誠よしのぶが屋敷に入ろう、門前の方角へと折れ曲がろうとしたその時、池原いけはら良誠よしのぶは、ぐえ、という声と共にひざから崩れ落ち、そしてその背後はいごには白刃はくじんをぶらげた編笠あみがさ姿の男が立っており、益五郎ますごろう玄通げんつうはあまりのことにしばらく声も出ずにその編笠あみがさ姿の男を凝視ぎょうし、一方、良誠よしのぶ斬殺ざんさつしたその編笠あみがさ姿の男もやはり、益五郎ますごろう玄通げんつう凝視ぎょうししていたようで、そしてそれからその編笠あみがさ姿の男はきびすを返して逃走を図ったので、益五郎ますごろうも我に返るとその編笠あみがさ姿の男を追跡したものの、比丘尼びくに橋のたもとで編笠あみがさ姿の男を見失い、なお、その時に編笠あみがさ姿の男は紫の袱紗ふくさを落とした…。

「旗本ともあろうものが博打ばくちとは…」

 成賢しげかた眉根まゆねを寄せたが、今はそんなことを議論している場合ではなかった。

 成賢しげかたもそうと察すると、

「紫の袱紗ふくさとな?」

 そう聞き返し、すると茂市郎もいちろう懐中かいちゅうより紫の袱紗ふくさを取り出したのであった。

「これにござりまする…」

 茂市郎もいちろうはそう告げると、うやうやしく成賢しげかたへと差し出し、成賢しげかたはその紫の袱紗ふくさを受け取り、そしてあらためるや、思わず大きな声を上げそうになった。

「これは…」

「はい。七曜しちよう紋にて…、それといまひとつ…」

「何だ?」

小川おがわ久兵衛きゅうべえが池原殿の妻女さいじょ藤江ふじえ殿を聴取ちょうしゅいたしましたところ、とんでもない事実が判明いたしました…」

「だから何だ?」

 茂市郎もいちろうらすようにそう言うので、成賢しげかたは思わず声をあらげた。

「はい。それが…、妻女さいじょ藤江ふじえ殿の証言によりますと、池原殿は往診おうしんの帰りだったそうでして…」

往診おうしんとな…」

「はい」

「まさかに…、神田かんだばし御門内にある田沼様の上屋敷かみやしきとでも、申すのではあるまいの?」

 成賢しげかたなかば、期待をめてそう尋ねた。

「それが、そのまさかにて…、藤江ふじえ殿が申しますには、今日の日中…、昼頃に田沼様よりのつかいの者が愛宕下あたごしたにある池原様のお屋敷やしきに見えられ、龍助りゅうすけ様…、あの田沼様の嫡孫ちゃくそんの…」

 茂市郎もいちろうがそう註釈ちゅうしゃくを入れようとしたので、「分かっておる」と成賢しげかたはそれをさえぎった。

大和守やまとのかみ意知おきとも様が嫡男ちゃくなん龍助りゅうすけ様であろう?」

「はぁ、その通りにて…」

「それでその龍助りゅうすけ様がどうしたと申すのだ?具合ぐあいでも悪いので、池原殿が帰邸きてい次第、神田橋御門内にある上屋敷かみやしきへと往診おうしんして欲しいとでも申したのか?その田沼様よりのつかいの者は…」

 成賢しげかた先回さきまわりしてそう尋ねた。それに対して茂市郎もいちろうは「はい」と答えた。

「そのつかいの者は名を名乗ったのか?」

「いえ、名までは…」

「いや、それでも田沼様の臣には相違そういあるまいて…」

藤江ふじえ殿もそのように思い、特に穿鑿せんさくもせず…」

「左様か…、いや、田沼様の臣に相違そういあるまいて、それも無理からぬことぞ…」

 成賢しげかたはそう断言したので、これにはさしもの茂市郎もいちろうも、

「まだそう断定されますのは早計そうけいかと…」

 そう奉行たる成賢しげかたに「見込みこみみ捜査」の危険性を指摘してきしたのだが、「何を申すかっ」と逆に成賢しげかたから一喝いっかつされてしまった。

 それでも茂市郎もいちろうにも年番ねんばん与力よりきとしてのプライドがあり、負けじと言い返した。

「まだ田沼様より確認を取ってはおりません…」

「確認とな?」

「はい。まこと、池原様のお屋敷にご家中かちゅうの者を誰か、つかいに出したか、その確認が取れてはおりません」

「どのようにして確認を取るつもりだ?」

 茂市郎もいちろう成賢しげかたにそう問われると流石さすがに口を閉ざした。それはそうだろう。何しろ田沼様こと田沼意次はいまをときめく天下の老中である。その意次があるじを務める相良さがら藩の上屋敷かみやしきへと、同心どうしん風情ふぜいがのこのこと出向いて、意次から事情を聴取ちょうしゅしようものなら、それこそ、

町方まちかた風情ふぜい分際ぶんざいで、この慮外りょがい者めがっ」

 その場にてり捨てられても文句は言えないであろう。いや、相手が天下の田沼意次ならずとも、例え、小大名であったとしても結果は同じであろう。同心どうしん風情ふぜいが乗り込もうものなら、やはりその時点でり捨てられるに違いない。

 そうなると、町奉行所では手に負えず、茂市郎もいちろうが黙り込んだのもいたし方のないことであった。

 一方、成賢しげかた茂市郎もいちろう胸中きょうちゅう見透みすかすと冷笑れいしょうを浮かべ、「もう良い」と答えると、

「事態はよく飲み込めた…」

 成賢しげかたはさらにそう付け加えた。するとやはり半右衛門はんえもんかせて、茂市郎もいちろう退がらせた。
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