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牧野成賢の決断
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成程、池原良誠は歴とした官医、それも法印の地位にあり、如何に江戸町奉行と言えども下手に手出しはできないが、それでも話を聴くぐらいのことは一々、目付に許しを得ずとも可能であった。
それが今日の夕方…、暮六つ(午後6時頃)にその池原良誠が斬殺されてしまうとは、予想以上に田沼の動きは早かったと言うべきであろう…、成賢はそう思えばこそ、
「やはり…、岩本喜内が申す通りであったやも知れぬな…」
しみじみそう口にしたのであった。
「いずれにしろ田沼様が家臣を使うて奥医師の池原を斬らせた…、それも大納言様の死の真相を…、田沼様が池原を使うて大納言様を殺害、それを上様に悟られまいと、今度は池原までも口封じに殺した…、家臣に命じて斬らせたとあらば、とても町奉行の手に負えるものではあるまい…」
「それではこのまま見過ごされるご所存にて?」
そう尋ねる半右衛門に対して成賢は「阿呆」と冗談めかして答えた。
成賢が半右衛門に対して怒らずに冗談めかしてそう答えたのは、半右衛門とて心底からそのように言ったわけではなく、あくまで冗談でそう言っているに過ぎないと、成賢も十分に分かっていたからだ。
「されば田沼様に対抗できる御方を頼る」
成賢がそう示唆するや、間髪を容れずに、
「一橋卿様でござりまするな?」
そう半右衛門から答えが返ってきたので、成賢は満足気に頷いてみせた。
それから成賢は室内に設えてある和時計に目をやった。刻限は宵五つ(午後8時頃)をもう、四半刻(約30分)も過ぎていたが、
「これより直ちに一橋卿様が許へと馳せ参じる」
成賢はそう宣した。ここ数寄屋橋御門内にある南町奉行所から一橋邸までは馬を駆れば四半刻(約30分)もかからない。それどころか10分弱で到着するであろう。大名や旗本の門限である宵五つ(午後8時頃)はもう過ぎていたが、それでも緊急事態とあらば開門してくれるに違いない。
「それから半右衛門は大目付殿の元へ…」
成賢がそう示唆しただけで、やはり半右衛門は全てを理解した。
「大屋遠江守様のお屋敷へと向かえば宜しいので?」
半右衛門がそう答えると、成賢は頷いた。
つまりはこういうことである。仮に池原良誠斬殺の一件に、老中にして大名の田沼意次が関与している場合、のみならず、家基殺害の一件にまで関与していたとしたら、大名の監察役である大目付の職掌とも重なってくる。
尤も、大目付がその本来の職掌である大名の監察役としての色彩を帯びていたのも幕府創建期においてであり、今では専ら、奏者番と並ぶ儀典官と化していた。
それでも大目付が大名の監察役としての職掌を今もって持ち合わせていることに変わりはなく、つまりは、
「一応、報告だけはしておこう…」
という意味であった。
仮にだが、田沼意次が裁かれるとなれば、それは間違いなく「五手掛吟味」となるであろう。
この「五手掛《かかり》吟味」とは、寺社奉行・江戸南北両町奉行・公事方勘定奉行の三奉行で構成される評定所一座と、それに大目付と目付が加わった五者の中から一人ずつ、「裁判官」として選ばれ、その五人が「裁判官」を務める裁判のことである。
いや、これで単なる奥医師殺しのみなら、
「五手掛吟味」
それだけで十分過ぎるだろうが、意次にはさらに次期将軍殺しの嫌疑まであるのだ。そうなると到底、
「五手掛吟味」
それでは済まないかも知れない。
場合によっては「五手掛吟味」よりもさらに格上の、
「評定所一座掛詮議物」
として裁かれる可能性があり得た。これは大目付と目付こそ「裁判官」として加わらないものの、その代わりに老中が「裁判官」として加わる。無論、意次も老中とは言え、「被告人」の立場に立たされるので、当たり前だが「裁判官」には加わらずに、意次を除いた全ての老中が「裁判官」として加わることになる。
だが今回は次期将軍殺しという余りに重大な事件に発展する可能性があり、場合によっては本来、その、
「評定所一座掛詮議物」
そのメンバーではない大目付や目付もメンバーとして、即ち、「裁判官」として加わる可能性があり得た。
その場合、仮に大目付の中からも一人、「裁判官」として選ばれるならば、それは間違いなく、大屋遠江守正富に違いなかった。
それと言うのも大屋正富は道中奉行と日記改を兼務しており、大目付の筆頭に位置するからだ。
大目付は本来の大名の監察役や儀典官としての本来任務に加えて、道中奉行や日記改、あるいは十里四方鉄砲改や指物帳改、それに分限帳改や服忌令改、そして宗門改を兼務しており、わけても道中奉行を兼務している者が大目付の筆頭に位置付けられ、今は大屋正富がそうであった。
そこで成賢は大目付の、それも大屋遠江守正富の元へと半右衛門を遣わし、大屋正富に事件の一報を入れさせようとしたのだ。
大目付と江戸町奉行とでは大目付の方が格上ではあるものの、しかし、上司と部下の関係ではない。大目付にしろ江戸町奉行にしろ共に、老中の配下であり、それゆえ江戸町奉行から大目付に対して一々、上司に対するかのように、「報告」を入れる必要はなかったが、今後のことを考えれば大目付の中でも筆頭の大屋正富にだけは事件の一報を入れておいて損はない。下手を打ってヘソでも曲げられたら面倒だからだ。
大目付というポストは旗本にとっては留守居と並ぶ名誉職的な意味合いの強いそれであり、ゆえに任じられるのは年寄りが多く、大屋正富は今年で御齢69になった。
そして年寄りともなると、何よりも、
「筋」
というものを大事にする傾向があり、ここで南町奉行たる牧野成賢が老中であり、何より大名である田沼意次による奥医師殺し、さらには次期将軍殺しの情報に接しながらもその情報を、一応とは言え、大名の監察役が主任務の大目付に直ちに知らせなかったとなれば、後々、面倒なことになる。
具体的には仮に田沼意次を裁く段になって、ことある毎に、上品に言えば、口を挟み、下品に言えば邪魔をしてくる可能性があり得た。これを未然に防ぐには大目付の中でも筆頭である大屋正富に知らせてやることである。
そうしておけば大屋正富も納得するであろうし、さらに大屋正富から他の相役…、同僚である大目付へと伝えてくれるに違いない。
年寄りは「筋」というものにうるさいが、裏を返せば「筋」さえ通せばこれほど御しやすい相手はない。
「されば書状をしたためられました方が…、用人の私めが申し上げますよりは殿の書状がありました方が…」
信用性が増す…、半右衛門はそう示唆した。
半右衛門はさらに一歩、踏み込む格好で主君・成賢にそう進言した。命じられたことにただ従うだけではやはり、「秘書役」としては物足りない、はっきり言えば駄目なのである。プラスα、進言してこその「秘書役」なのである。
成賢は半右衛門のその進言を、
「多とし…」
直ちに事件の概要を書状にしたためると、それを半右衛門に持たせた。
「今さらだが、大屋殿の屋敷は把握しておるであろうな…」
成賢は念のために尋ねた。念のためとは他でもない、
「半右衛門なれば知っているに相違あるまい…」
その前提があるからだ。それだけ成賢は半右衛門を信頼していた。
そして半右衛門にしてもそんな主君・成賢の信頼に応える格好で、
「されば市ヶ谷は浄瑠璃坂かと…」
大屋邸の所在地を正確に答えてみせ、成賢をやはり満足気に頷かせた。
それが今日の夕方…、暮六つ(午後6時頃)にその池原良誠が斬殺されてしまうとは、予想以上に田沼の動きは早かったと言うべきであろう…、成賢はそう思えばこそ、
「やはり…、岩本喜内が申す通りであったやも知れぬな…」
しみじみそう口にしたのであった。
「いずれにしろ田沼様が家臣を使うて奥医師の池原を斬らせた…、それも大納言様の死の真相を…、田沼様が池原を使うて大納言様を殺害、それを上様に悟られまいと、今度は池原までも口封じに殺した…、家臣に命じて斬らせたとあらば、とても町奉行の手に負えるものではあるまい…」
「それではこのまま見過ごされるご所存にて?」
そう尋ねる半右衛門に対して成賢は「阿呆」と冗談めかして答えた。
成賢が半右衛門に対して怒らずに冗談めかしてそう答えたのは、半右衛門とて心底からそのように言ったわけではなく、あくまで冗談でそう言っているに過ぎないと、成賢も十分に分かっていたからだ。
「されば田沼様に対抗できる御方を頼る」
成賢がそう示唆するや、間髪を容れずに、
「一橋卿様でござりまするな?」
そう半右衛門から答えが返ってきたので、成賢は満足気に頷いてみせた。
それから成賢は室内に設えてある和時計に目をやった。刻限は宵五つ(午後8時頃)をもう、四半刻(約30分)も過ぎていたが、
「これより直ちに一橋卿様が許へと馳せ参じる」
成賢はそう宣した。ここ数寄屋橋御門内にある南町奉行所から一橋邸までは馬を駆れば四半刻(約30分)もかからない。それどころか10分弱で到着するであろう。大名や旗本の門限である宵五つ(午後8時頃)はもう過ぎていたが、それでも緊急事態とあらば開門してくれるに違いない。
「それから半右衛門は大目付殿の元へ…」
成賢がそう示唆しただけで、やはり半右衛門は全てを理解した。
「大屋遠江守様のお屋敷へと向かえば宜しいので?」
半右衛門がそう答えると、成賢は頷いた。
つまりはこういうことである。仮に池原良誠斬殺の一件に、老中にして大名の田沼意次が関与している場合、のみならず、家基殺害の一件にまで関与していたとしたら、大名の監察役である大目付の職掌とも重なってくる。
尤も、大目付がその本来の職掌である大名の監察役としての色彩を帯びていたのも幕府創建期においてであり、今では専ら、奏者番と並ぶ儀典官と化していた。
それでも大目付が大名の監察役としての職掌を今もって持ち合わせていることに変わりはなく、つまりは、
「一応、報告だけはしておこう…」
という意味であった。
仮にだが、田沼意次が裁かれるとなれば、それは間違いなく「五手掛吟味」となるであろう。
この「五手掛《かかり》吟味」とは、寺社奉行・江戸南北両町奉行・公事方勘定奉行の三奉行で構成される評定所一座と、それに大目付と目付が加わった五者の中から一人ずつ、「裁判官」として選ばれ、その五人が「裁判官」を務める裁判のことである。
いや、これで単なる奥医師殺しのみなら、
「五手掛吟味」
それだけで十分過ぎるだろうが、意次にはさらに次期将軍殺しの嫌疑まであるのだ。そうなると到底、
「五手掛吟味」
それでは済まないかも知れない。
場合によっては「五手掛吟味」よりもさらに格上の、
「評定所一座掛詮議物」
として裁かれる可能性があり得た。これは大目付と目付こそ「裁判官」として加わらないものの、その代わりに老中が「裁判官」として加わる。無論、意次も老中とは言え、「被告人」の立場に立たされるので、当たり前だが「裁判官」には加わらずに、意次を除いた全ての老中が「裁判官」として加わることになる。
だが今回は次期将軍殺しという余りに重大な事件に発展する可能性があり、場合によっては本来、その、
「評定所一座掛詮議物」
そのメンバーではない大目付や目付もメンバーとして、即ち、「裁判官」として加わる可能性があり得た。
その場合、仮に大目付の中からも一人、「裁判官」として選ばれるならば、それは間違いなく、大屋遠江守正富に違いなかった。
それと言うのも大屋正富は道中奉行と日記改を兼務しており、大目付の筆頭に位置するからだ。
大目付は本来の大名の監察役や儀典官としての本来任務に加えて、道中奉行や日記改、あるいは十里四方鉄砲改や指物帳改、それに分限帳改や服忌令改、そして宗門改を兼務しており、わけても道中奉行を兼務している者が大目付の筆頭に位置付けられ、今は大屋正富がそうであった。
そこで成賢は大目付の、それも大屋遠江守正富の元へと半右衛門を遣わし、大屋正富に事件の一報を入れさせようとしたのだ。
大目付と江戸町奉行とでは大目付の方が格上ではあるものの、しかし、上司と部下の関係ではない。大目付にしろ江戸町奉行にしろ共に、老中の配下であり、それゆえ江戸町奉行から大目付に対して一々、上司に対するかのように、「報告」を入れる必要はなかったが、今後のことを考えれば大目付の中でも筆頭の大屋正富にだけは事件の一報を入れておいて損はない。下手を打ってヘソでも曲げられたら面倒だからだ。
大目付というポストは旗本にとっては留守居と並ぶ名誉職的な意味合いの強いそれであり、ゆえに任じられるのは年寄りが多く、大屋正富は今年で御齢69になった。
そして年寄りともなると、何よりも、
「筋」
というものを大事にする傾向があり、ここで南町奉行たる牧野成賢が老中であり、何より大名である田沼意次による奥医師殺し、さらには次期将軍殺しの情報に接しながらもその情報を、一応とは言え、大名の監察役が主任務の大目付に直ちに知らせなかったとなれば、後々、面倒なことになる。
具体的には仮に田沼意次を裁く段になって、ことある毎に、上品に言えば、口を挟み、下品に言えば邪魔をしてくる可能性があり得た。これを未然に防ぐには大目付の中でも筆頭である大屋正富に知らせてやることである。
そうしておけば大屋正富も納得するであろうし、さらに大屋正富から他の相役…、同僚である大目付へと伝えてくれるに違いない。
年寄りは「筋」というものにうるさいが、裏を返せば「筋」さえ通せばこれほど御しやすい相手はない。
「されば書状をしたためられました方が…、用人の私めが申し上げますよりは殿の書状がありました方が…」
信用性が増す…、半右衛門はそう示唆した。
半右衛門はさらに一歩、踏み込む格好で主君・成賢にそう進言した。命じられたことにただ従うだけではやはり、「秘書役」としては物足りない、はっきり言えば駄目なのである。プラスα、進言してこその「秘書役」なのである。
成賢は半右衛門のその進言を、
「多とし…」
直ちに事件の概要を書状にしたためると、それを半右衛門に持たせた。
「今さらだが、大屋殿の屋敷は把握しておるであろうな…」
成賢は念のために尋ねた。念のためとは他でもない、
「半右衛門なれば知っているに相違あるまい…」
その前提があるからだ。それだけ成賢は半右衛門を信頼していた。
そして半右衛門にしてもそんな主君・成賢の信頼に応える格好で、
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