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一橋治済が朝早くに江戸城に登城すると、宿直の御側衆(平御側)の小笠原信喜が治済の元へと馳せ参じる
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翌日、治済は明六つ(午前6時頃)と同時に一橋邸を出立し、江戸城に登城した。江戸城の諸門、所謂、三十六見附が開くのが明六つ(午前6時頃)だからだ。
尤も、いくら明六つ(午前6時頃)に江戸城の諸門が開くからと言って、それと同時に登城するような諸役人はまずいない。せいぜい勘定奉行、それも激職の勝手方勘定奉行ぐらいのものであり、同じく激職の江戸町奉行と言えどもそんなに朝早くから登城することはない。
それは勿論、御三卿家老にも当て嵌まり、御三卿家老は交代で江戸城に登城するわけだが、やはり朝早くから登城することはない。
それゆえ治済は意致を差し置いて、近習の岩本喜内に命じて駕籠を仕立てさせ、早々と自邸を出立したのであった。
そうして自邸を出立した治済一行はしかし、大手御門からではなく平河御門より登城した。
諸大名や旗本は必ず、江戸城の通用門とも言うべき大手御門より登城しなければならなかった。それは御三家と言えどもその例外ではなかった。
だがこと御三卿に限り、平河御門よりの登城が許されていたのだ。
即ち、御三卿の登城ルートであるが、その平河御門よりさらに下梅林御門、上梅林御門を潜り、さらに大奥の通用口とも言うべき切手御門を潜って大奥の長局に面した沿道に出ると、その沿道をさらに真っ直ぐに進んで大奥と中奥とを仕切る奥仕切御門へと進み、そしてその奥仕切御門を潜って、漸くに目的地とも言うべき御三卿の詰所がある中奥へと到達するというルートであった。
そして御三卿はそうして中奥の通用口とも言うべき、奥仕切御門を潜ったすぐのところにある御風呂屋御門の前で駕籠から降りると、その御風呂屋御門を潜って御風呂屋玄関より殿中に上がり、そのまま真っ直ぐ御三卿の詰所である御控座敷へと向かうことが許されていた。
御風呂屋玄関から御三卿の詰所であるその御控座敷までは正しく直線上にあるので…、決して比喩表現ではなしに、真っ直ぐという表現が当て嵌まるのであった。
これは御三卿にのみ与えられた特権であり、それはやはり御三卿は御三家とは違い、将軍家の家族として扱われていることに由来するであろう。
ところで今はまだ、明の六つ半(午前7時頃)の前…明六つ(午前6時頃)を四半刻(約30分)程度、過ぎた頃に過ぎず、そのような朝早くに御三卿の一橋治済が登城、中奥へと姿を見せたものだから、御側衆の詰所…、御側衆部屋にて宿直をしていた平御側…、ヒラの御側衆は仰天したものである。
それと言うのも御風呂屋玄関から御三卿の詰所であるその御控座敷までのルート上に御側衆の詰所である御側衆部屋があり、そこには宿直の御側衆、それも平御側が1人、ほぼ毎日詰めては宿直をしていた。
それゆえ「葵のご紋」があしらわれた肩衣を身につけている治済が御側衆部屋の前を通り過ぎれば…、それもその、
「葵のご紋」
それがあしらわれた肩衣をまるで周囲に見せ付けるかのように|肩を怒らせて歩くものだから、すぐに、それも嫌でも宿直の平御側にも分かるというものであった。
ともあれその宿直の当番であった平御側は直ちに御側衆の詰所から出ると、御控座敷へと足を伸ばし、そして御控座敷の出入り口の前の外廊下にて控えた。
一方、治済もそれを…、平御側がすっ飛んで来ることを期待して、あえてゆっくりと、「葵のご紋」があしらわれた肩衣を聳やかせるようにして、御側衆部屋の前を通り過ぎたのであった。
こんなに早い刻限に御三卿が登城したとあらば、宿直を担う平御側としてはそれに気付いた以上は直ちにすっ飛んで行かねばならなかった。
宿直には中奥にて異常がないかどうか、それに目を配る、いや、目を光らせるという意味合いも含まれていたからだ。
ともあれ治済は平御側が御控座敷の出入り口の前の外廊下に控えたことを察するや、平御側がその中にいる治済に声をかけようとしたその前に、治済の方から、
「許す。入れ」
そう命じたのであった。
すると、外廊下から「ははっ」という声がしたかと思うと、平御側の小笠原若狭守信喜が姿を見せた。
治済は小笠原信喜の姿を見て、つくづく己はツキに恵まれているとそう思ったものである。
それと言うのも小笠原信喜は御側衆の中では誰よりも治済の一子、豊千代の西之丸入り、即ち、次期将軍になることを支持したのであった。そのことは中奥の工作を担った意致より聞かされたことであるが、治済は意致よりそのことを聞かされて、
「さもありなん…」
そう思ったものである。それと言うのも一橋家と小笠原家とは細い糸だが、しっかりと結ばれていたのだ。
信喜の分家筋に当たる小笠原熊蔵貞郷なる男がいるのだが、その熊蔵の妻女が一橋家にて治済に近習として仕える天野傳七郎富安の娘なのである。
だが信喜が豊千代擁立にいち早く賛成した背景には感情的な、それも、
「ドロドロとした…」
そのような感情も含まれていた。
これまで…、家基が存命の折には平御側の中では津田日向守信之が一番、
「羽振り」
が良かった。その「羽振り」の良さたるや、御側御用取次ではないかと、そう見紛うばかりであった。
平御側に過ぎない信之が何ゆえにそこまで羽振りが良かったのかと言うと、それはやはり信之が将軍・家治の愛妾の千穂の実弟だからだろう。
即ち、家基の叔父に当たる。それゆえ信之は平御側でありながら、御側御用取次並みに羽振りが良かったのである。
そんな信之のことを小笠原信喜はかねがね、苦々しく思っていたものである。要は嫉妬である。さしずめ、
「同じ平御側なのに…」
といったところである。
そのような負の感情に加えて、一橋家との細い縁とが相俟って、信喜は豊千代擁立にいち早く賛成したわけだが、そこには打算も勿論、あっただろう。即ち、
「豊千代擁立に真っ先に賛成してみせることで、今度は己が津田信之に取って代わって羽振りを利かせたい…」
さらに一歩、進めて、
「豊千代が西之丸入りを果たした暁には己も西之丸の御側衆、それも御側御用取次になりたい…」
そんな野望も秘めていたのだ。
尤も、いくら明六つ(午前6時頃)に江戸城の諸門が開くからと言って、それと同時に登城するような諸役人はまずいない。せいぜい勘定奉行、それも激職の勝手方勘定奉行ぐらいのものであり、同じく激職の江戸町奉行と言えどもそんなに朝早くから登城することはない。
それは勿論、御三卿家老にも当て嵌まり、御三卿家老は交代で江戸城に登城するわけだが、やはり朝早くから登城することはない。
それゆえ治済は意致を差し置いて、近習の岩本喜内に命じて駕籠を仕立てさせ、早々と自邸を出立したのであった。
そうして自邸を出立した治済一行はしかし、大手御門からではなく平河御門より登城した。
諸大名や旗本は必ず、江戸城の通用門とも言うべき大手御門より登城しなければならなかった。それは御三家と言えどもその例外ではなかった。
だがこと御三卿に限り、平河御門よりの登城が許されていたのだ。
即ち、御三卿の登城ルートであるが、その平河御門よりさらに下梅林御門、上梅林御門を潜り、さらに大奥の通用口とも言うべき切手御門を潜って大奥の長局に面した沿道に出ると、その沿道をさらに真っ直ぐに進んで大奥と中奥とを仕切る奥仕切御門へと進み、そしてその奥仕切御門を潜って、漸くに目的地とも言うべき御三卿の詰所がある中奥へと到達するというルートであった。
そして御三卿はそうして中奥の通用口とも言うべき、奥仕切御門を潜ったすぐのところにある御風呂屋御門の前で駕籠から降りると、その御風呂屋御門を潜って御風呂屋玄関より殿中に上がり、そのまま真っ直ぐ御三卿の詰所である御控座敷へと向かうことが許されていた。
御風呂屋玄関から御三卿の詰所であるその御控座敷までは正しく直線上にあるので…、決して比喩表現ではなしに、真っ直ぐという表現が当て嵌まるのであった。
これは御三卿にのみ与えられた特権であり、それはやはり御三卿は御三家とは違い、将軍家の家族として扱われていることに由来するであろう。
ところで今はまだ、明の六つ半(午前7時頃)の前…明六つ(午前6時頃)を四半刻(約30分)程度、過ぎた頃に過ぎず、そのような朝早くに御三卿の一橋治済が登城、中奥へと姿を見せたものだから、御側衆の詰所…、御側衆部屋にて宿直をしていた平御側…、ヒラの御側衆は仰天したものである。
それと言うのも御風呂屋玄関から御三卿の詰所であるその御控座敷までのルート上に御側衆の詰所である御側衆部屋があり、そこには宿直の御側衆、それも平御側が1人、ほぼ毎日詰めては宿直をしていた。
それゆえ「葵のご紋」があしらわれた肩衣を身につけている治済が御側衆部屋の前を通り過ぎれば…、それもその、
「葵のご紋」
それがあしらわれた肩衣をまるで周囲に見せ付けるかのように|肩を怒らせて歩くものだから、すぐに、それも嫌でも宿直の平御側にも分かるというものであった。
ともあれその宿直の当番であった平御側は直ちに御側衆の詰所から出ると、御控座敷へと足を伸ばし、そして御控座敷の出入り口の前の外廊下にて控えた。
一方、治済もそれを…、平御側がすっ飛んで来ることを期待して、あえてゆっくりと、「葵のご紋」があしらわれた肩衣を聳やかせるようにして、御側衆部屋の前を通り過ぎたのであった。
こんなに早い刻限に御三卿が登城したとあらば、宿直を担う平御側としてはそれに気付いた以上は直ちにすっ飛んで行かねばならなかった。
宿直には中奥にて異常がないかどうか、それに目を配る、いや、目を光らせるという意味合いも含まれていたからだ。
ともあれ治済は平御側が御控座敷の出入り口の前の外廊下に控えたことを察するや、平御側がその中にいる治済に声をかけようとしたその前に、治済の方から、
「許す。入れ」
そう命じたのであった。
すると、外廊下から「ははっ」という声がしたかと思うと、平御側の小笠原若狭守信喜が姿を見せた。
治済は小笠原信喜の姿を見て、つくづく己はツキに恵まれているとそう思ったものである。
それと言うのも小笠原信喜は御側衆の中では誰よりも治済の一子、豊千代の西之丸入り、即ち、次期将軍になることを支持したのであった。そのことは中奥の工作を担った意致より聞かされたことであるが、治済は意致よりそのことを聞かされて、
「さもありなん…」
そう思ったものである。それと言うのも一橋家と小笠原家とは細い糸だが、しっかりと結ばれていたのだ。
信喜の分家筋に当たる小笠原熊蔵貞郷なる男がいるのだが、その熊蔵の妻女が一橋家にて治済に近習として仕える天野傳七郎富安の娘なのである。
だが信喜が豊千代擁立にいち早く賛成した背景には感情的な、それも、
「ドロドロとした…」
そのような感情も含まれていた。
これまで…、家基が存命の折には平御側の中では津田日向守信之が一番、
「羽振り」
が良かった。その「羽振り」の良さたるや、御側御用取次ではないかと、そう見紛うばかりであった。
平御側に過ぎない信之が何ゆえにそこまで羽振りが良かったのかと言うと、それはやはり信之が将軍・家治の愛妾の千穂の実弟だからだろう。
即ち、家基の叔父に当たる。それゆえ信之は平御側でありながら、御側御用取次並みに羽振りが良かったのである。
そんな信之のことを小笠原信喜はかねがね、苦々しく思っていたものである。要は嫉妬である。さしずめ、
「同じ平御側なのに…」
といったところである。
そのような負の感情に加えて、一橋家との細い縁とが相俟って、信喜は豊千代擁立にいち早く賛成したわけだが、そこには打算も勿論、あっただろう。即ち、
「豊千代擁立に真っ先に賛成してみせることで、今度は己が津田信之に取って代わって羽振りを利かせたい…」
さらに一歩、進めて、
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