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公事上聴 5
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ともあれそのような事情から益五郎と玄通は数寄屋橋御門内にある南町奉行所に留め置かれ、そして今朝になってここ辰ノ口にある評定所へと連行された次第であった。
尤も、評定所の事実上の支配者とも言うべき、評定所留役組頭の許しなくしては、如何に南町奉行の牧野成賢の命とは言え、二人を…、益五郎と玄通の二人を評定所内へと入れることは不可能であった。無論、二人の案内役である内与力たちも、である。
成賢も無論、そのことは承知していたので、実は一橋邸からの帰途、公事方勘定奉行の山村良旺の屋敷へと足を伸ばしたのであった。
それは他でもない、益五郎と玄通の二人を奥医師・池原良誠斬殺事件の参考人として評定所へと召喚、出廷させるべく、その協力を求めるためであった。
評定所を取り仕切る留役組頭は勘定吟味役、あるいは勘定組頭との兼務であり、且つ、評定所における直属の上司とも言うべき公事方勘定奉行からも高い独立性が保障されているとは言え、完全に独立性が保障されているわけではなく、それゆえ例えば、
「益五郎と玄通の二人をある事件の参考人として評定所へと召喚、出廷させる必要が生じたので、二人と、それに案内役の町方を評定所内に入れるように…」
公事方勘定奉行よりそう命じられれば、留役組頭としてもこれを拒否し得ず、公事方勘定奉行のその命に従わざるを得ないというわけだ。
成賢が公事方勘定奉行をも頼ることを思いついたのは、いや、公事方勘定奉行を頼らざるを得なかったのはそのような事情からであったが、この公事方勘定奉行もやはり江戸町奉行やそれに勝手方勘定奉行と同じく二人制であり、現在は山村良旺と、それに桑原伊予守盛員がそうであった。
成賢がそのうち、山村良旺を頼ったのは他でもない、成賢と良旺とは、
「反・曲淵」
で共闘関係にあったからだ。
成賢は常に相役…、同僚である北町奉行の曲淵景漸を一方的に「ライバル視」していた。
景漸の方は成賢など眼中にもなかった、と言っては言葉が強すぎるであろう、景漸は一応、成賢を相役…、同僚として気にかけており、特に含むところはなかったものの、しかし、成賢の方が一方的に「ライバル視」していたのだ。景漸の方が己よりも町奉行として有能、それゆえの嫉妬心というのもその、景漸を一方的に「ライバル視」する背景にあるだろう。
そんな成賢は公事方勘定奉行の山村良旺に目をつけたのであった。それと言うのも良旺もまた、景漸を「ライバル視」していた、と言うよりは明確に嫌っていたからだ。
それも成賢の場合とは違い、良旺と景漸とは双方、犬猿の仲であったからだ。
山村良旺は本丸留守居を相勤める依田豊前守政次の長女を娶っており、この長女には弟がおり、即ち、政次の三男坊がそうであり、傳右衛門信興と言う。
この政次の三男坊の傳右衛門は本丸にて小納戸を勤めた初鹿野清右衛門信彭の養嗣子として迎えられ、晴れて初鹿野家を継いだわけだが、この初鹿野傳右衛門が北町奉行の景漸の嫡男の勝次郎景露と犬猿の仲であったのだ。
初鹿野傳右衛門は今から2年前の安永8(1779)年の正月に幕府の使者を務める使番に異動、栄転を果たしたのだが、それ以前は本丸の小姓組番士であった。
その時、同僚であったのが景漸の嫡男の勝次郎景露であった。勝次郎は未だ、家督相続前であったが、それでも父・景漸のお蔭により小姓組に番入り、つまりは小姓組番士として就職を果たしたわけだ。
だが初鹿野傳右衛門はそんな勝次郎を、
「親の七光り…」
そう侮辱して、いじめたのであった。尤も、勝次郎も負けてはいまい。そんな傳右衛門に対して、
「ごくつぶしの三男坊…」
そう言い返したものだから、両者の仲は険悪となり、それが親にまで伝染したのであった。
ちなみにこの場合の親とは実父を指す。即ち、勝次郎の実父である景漸、そして傳右衛門の実父である依田政次である。
実は勝次郎と傳右衛門、双方の実父同士、即ち、景漸と政次の仲も悪かったのだ。
それというのも政次は万事、融通が利かずに他人を大いに困らせることが度々であり、目付もその「被害者」の一人となったことがあった。
政次は今の本丸の留守居に栄転するまでは大目付を務めていた。
大目付は大名の監察役、目付は旗本や御家人の監察役というわけでコンビを組んだわけだが、大目付の実態は最早、大名の監察役という色合いは薄れ、奏者番などと同様、儀典官と化しており、本来、旗本と御家人の監察が主任務である目付が大名の監察役まで担うようになったのである。
ところが政次は大目付としての本来の職分とも言うべき大名の監察役としてその権限を大いに振りかざそうとした。
つまり目付が担っていた大名の監察を大目付たる己が担おうとしたのだ。成程、確かにそれが本来、あるべき姿であり、それ自体は目付も反対しなかった。
ところが次第に政次は目付の職分である旗本や御家人の監察にまで口を挟むようになり、目付と大衝突を引き起こしたのだ。
政次としては元来、名誉職と見られがちな大目付にも実際的な権限があるところを見せつけようと張り切っただけのだろうが、目付にしてみれば堪ったものではない。
目付の定員は10人であり、ゆえに別名、
「十人目付」
とも称されるのだが、そのうちの桑原善兵衛盛員と柘植三蔵正寔の二人が遂に堪りかねた末に、景漸に相談を持ちかけたのであった。
政次が大目付に「栄転」を果たしたのは今から12年前の明和6(1769)年の8月15日のことであり、奇しくも景漸が今の北町奉行に「栄転」を…、こちらは正真正銘の「栄転」を果たした日であった。
そして目付の桑原善兵衛盛員と柘植三蔵正寔が「窮状」を訴えたのはそれから一月後の9月の半ばのことであり、
「大目付の依田様が目付の職掌にまで口を挟む始末で、大いに困り果てており申す…、何とかなりませぬか…」
善兵衛盛員と三蔵正寔は北町奉行となっていた景漸にそう泣き付いたのだ。
元来、目付は将軍に対して直接に異見具申できる特権を与えられていたものの、しかし、
「頑迷固陋な老人に手を焼いているので何とかして欲しい…」
そのような意見ならぬ泣き言を将軍に具申しようものなら、目付としての見識を疑われるであろう。いや、場合によっては、
「その任にあらず…」
ということで旗本にとっての出世コースの一つでもある目付の職を解かれるやも知れなかった。
だがこのまま、依田政次の気儘を許していて良いわけもない。何しろ依田政次の所為で殆どの目付が今にも不満を爆発させようとしていたからだ。
こういう場合、一番の「古株」が何とかしなければならない、即ち、調整力が求められるもので、それは古今東西変わらず、この場合、桑原善兵衛盛員がそうであった。
所謂、「十人目付」とも呼ばれる十人もの目付の中でも、桑原善兵衛盛員は宝暦13(1763)年の9月28日に目付に昇進し、この時点…、明和6(1769)年の時点では目付の中で一番のベテランであり、日記御用掛を兼務していた。日記御用掛とは江戸城の殿中での出来事や、あるいは日常の事件などを日記に記録する掛のことであり、この掛を兼務する者が目付の筆頭と位置付けられていた。
それゆえ他の目付は当然、目付の筆頭とも言うべきこの桑原善兵衛盛員に相談を持ちかけた。いや、はっきり言えば、
「目付の筆頭であるあんたが何とかしてくれ…」
他の目付は桑原善兵衛盛員にそう強く要求したのであった。それほどまでに目付は依田政次の「専横」に苦しめ、追いつめられていたのだ。
尤も、評定所の事実上の支配者とも言うべき、評定所留役組頭の許しなくしては、如何に南町奉行の牧野成賢の命とは言え、二人を…、益五郎と玄通の二人を評定所内へと入れることは不可能であった。無論、二人の案内役である内与力たちも、である。
成賢も無論、そのことは承知していたので、実は一橋邸からの帰途、公事方勘定奉行の山村良旺の屋敷へと足を伸ばしたのであった。
それは他でもない、益五郎と玄通の二人を奥医師・池原良誠斬殺事件の参考人として評定所へと召喚、出廷させるべく、その協力を求めるためであった。
評定所を取り仕切る留役組頭は勘定吟味役、あるいは勘定組頭との兼務であり、且つ、評定所における直属の上司とも言うべき公事方勘定奉行からも高い独立性が保障されているとは言え、完全に独立性が保障されているわけではなく、それゆえ例えば、
「益五郎と玄通の二人をある事件の参考人として評定所へと召喚、出廷させる必要が生じたので、二人と、それに案内役の町方を評定所内に入れるように…」
公事方勘定奉行よりそう命じられれば、留役組頭としてもこれを拒否し得ず、公事方勘定奉行のその命に従わざるを得ないというわけだ。
成賢が公事方勘定奉行をも頼ることを思いついたのは、いや、公事方勘定奉行を頼らざるを得なかったのはそのような事情からであったが、この公事方勘定奉行もやはり江戸町奉行やそれに勝手方勘定奉行と同じく二人制であり、現在は山村良旺と、それに桑原伊予守盛員がそうであった。
成賢がそのうち、山村良旺を頼ったのは他でもない、成賢と良旺とは、
「反・曲淵」
で共闘関係にあったからだ。
成賢は常に相役…、同僚である北町奉行の曲淵景漸を一方的に「ライバル視」していた。
景漸の方は成賢など眼中にもなかった、と言っては言葉が強すぎるであろう、景漸は一応、成賢を相役…、同僚として気にかけており、特に含むところはなかったものの、しかし、成賢の方が一方的に「ライバル視」していたのだ。景漸の方が己よりも町奉行として有能、それゆえの嫉妬心というのもその、景漸を一方的に「ライバル視」する背景にあるだろう。
そんな成賢は公事方勘定奉行の山村良旺に目をつけたのであった。それと言うのも良旺もまた、景漸を「ライバル視」していた、と言うよりは明確に嫌っていたからだ。
それも成賢の場合とは違い、良旺と景漸とは双方、犬猿の仲であったからだ。
山村良旺は本丸留守居を相勤める依田豊前守政次の長女を娶っており、この長女には弟がおり、即ち、政次の三男坊がそうであり、傳右衛門信興と言う。
この政次の三男坊の傳右衛門は本丸にて小納戸を勤めた初鹿野清右衛門信彭の養嗣子として迎えられ、晴れて初鹿野家を継いだわけだが、この初鹿野傳右衛門が北町奉行の景漸の嫡男の勝次郎景露と犬猿の仲であったのだ。
初鹿野傳右衛門は今から2年前の安永8(1779)年の正月に幕府の使者を務める使番に異動、栄転を果たしたのだが、それ以前は本丸の小姓組番士であった。
その時、同僚であったのが景漸の嫡男の勝次郎景露であった。勝次郎は未だ、家督相続前であったが、それでも父・景漸のお蔭により小姓組に番入り、つまりは小姓組番士として就職を果たしたわけだ。
だが初鹿野傳右衛門はそんな勝次郎を、
「親の七光り…」
そう侮辱して、いじめたのであった。尤も、勝次郎も負けてはいまい。そんな傳右衛門に対して、
「ごくつぶしの三男坊…」
そう言い返したものだから、両者の仲は険悪となり、それが親にまで伝染したのであった。
ちなみにこの場合の親とは実父を指す。即ち、勝次郎の実父である景漸、そして傳右衛門の実父である依田政次である。
実は勝次郎と傳右衛門、双方の実父同士、即ち、景漸と政次の仲も悪かったのだ。
それというのも政次は万事、融通が利かずに他人を大いに困らせることが度々であり、目付もその「被害者」の一人となったことがあった。
政次は今の本丸の留守居に栄転するまでは大目付を務めていた。
大目付は大名の監察役、目付は旗本や御家人の監察役というわけでコンビを組んだわけだが、大目付の実態は最早、大名の監察役という色合いは薄れ、奏者番などと同様、儀典官と化しており、本来、旗本と御家人の監察が主任務である目付が大名の監察役まで担うようになったのである。
ところが政次は大目付としての本来の職分とも言うべき大名の監察役としてその権限を大いに振りかざそうとした。
つまり目付が担っていた大名の監察を大目付たる己が担おうとしたのだ。成程、確かにそれが本来、あるべき姿であり、それ自体は目付も反対しなかった。
ところが次第に政次は目付の職分である旗本や御家人の監察にまで口を挟むようになり、目付と大衝突を引き起こしたのだ。
政次としては元来、名誉職と見られがちな大目付にも実際的な権限があるところを見せつけようと張り切っただけのだろうが、目付にしてみれば堪ったものではない。
目付の定員は10人であり、ゆえに別名、
「十人目付」
とも称されるのだが、そのうちの桑原善兵衛盛員と柘植三蔵正寔の二人が遂に堪りかねた末に、景漸に相談を持ちかけたのであった。
政次が大目付に「栄転」を果たしたのは今から12年前の明和6(1769)年の8月15日のことであり、奇しくも景漸が今の北町奉行に「栄転」を…、こちらは正真正銘の「栄転」を果たした日であった。
そして目付の桑原善兵衛盛員と柘植三蔵正寔が「窮状」を訴えたのはそれから一月後の9月の半ばのことであり、
「大目付の依田様が目付の職掌にまで口を挟む始末で、大いに困り果てており申す…、何とかなりませぬか…」
善兵衛盛員と三蔵正寔は北町奉行となっていた景漸にそう泣き付いたのだ。
元来、目付は将軍に対して直接に異見具申できる特権を与えられていたものの、しかし、
「頑迷固陋な老人に手を焼いているので何とかして欲しい…」
そのような意見ならぬ泣き言を将軍に具申しようものなら、目付としての見識を疑われるであろう。いや、場合によっては、
「その任にあらず…」
ということで旗本にとっての出世コースの一つでもある目付の職を解かれるやも知れなかった。
だがこのまま、依田政次の気儘を許していて良いわけもない。何しろ依田政次の所為で殆どの目付が今にも不満を爆発させようとしていたからだ。
こういう場合、一番の「古株」が何とかしなければならない、即ち、調整力が求められるもので、それは古今東西変わらず、この場合、桑原善兵衛盛員がそうであった。
所謂、「十人目付」とも呼ばれる十人もの目付の中でも、桑原善兵衛盛員は宝暦13(1763)年の9月28日に目付に昇進し、この時点…、明和6(1769)年の時点では目付の中で一番のベテランであり、日記御用掛を兼務していた。日記御用掛とは江戸城の殿中での出来事や、あるいは日常の事件などを日記に記録する掛のことであり、この掛を兼務する者が目付の筆頭と位置付けられていた。
それゆえ他の目付は当然、目付の筆頭とも言うべきこの桑原善兵衛盛員に相談を持ちかけた。いや、はっきり言えば、
「目付の筆頭であるあんたが何とかしてくれ…」
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