天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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公事上聴 9

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 さて、評定所ひょうじょうしょ白洲しらすには二人分の床机しょうぎが用意されていた。益五郎ますごろう玄通げんつうが座るために用意された床机しょうぎであった。

 益五郎ますごろうにしても玄通げんつうにしても、あくまで「証人」としてこの評定所ひょうじょうしょ召喚しょうかんされたのであって、ゆえに茣蓙ござの上に座らせるわけにはゆかないと、こうしてわざわざ床机しょうぎが用意されたのであった。

 南町奉行の牧野まきの成賢しげかた公事くじ方勘定奉行の山村やまむら良旺たかあきらに頼んで用意させたものであった。もっともそれは、成賢しげかたが旗本である益五郎ますごろう官医かんいである玄通げんつう、この両者の立場をおもんじて、というよりは。

「意次・意知おきとも父子を失脚しっきゃくに追い込むための証言をしてくれよ…」

 その思惑おもわくめてのものであった。

 ともあれ益五郎ますごろう玄通げんつう床机しょうぎの前まで来ると、誓詞之間せいしのまにて鎮座ちんざする将軍・家治と、それにその左右にてひかえる一橋ひとつばし治済はるさだと清水重好しげよしの二人の御三卿ごさんきょうと向かい合った。

 もっとも、益五郎ますごろう玄通げんつういまだ、将軍への謁見えっけん歴がないために、家治の顔を知らず、また家治の左右にてひかえる御三卿ごさんきょう治済はるさだ重好しげよし、この両者の顔も知らずで、それでもどこかえらそうな様子は何となくだが察せられたので、益五郎ますごろう玄通げんつうはあれは一体、誰だろうと、内心、首をかしげたものである。

 するとこの「両者」の真ん中に位置する評席ひょうせきにてひかえる南町奉行の牧野まきの成賢しげかたがそんな…、家治の顔が分からずにボケっと突っ立ったままでいる益五郎ますごろう玄通げんつうの二人に対して、

「上様の御前ごぜんであるぞ…」

 低い声でだが、そう叱責しっせきし、これにはさしもの益五郎ますごろうも大いに慌てた。如何いかに「バサラ」が過ぎようとも、将軍を前にしていつも通りの己の「スタイル」をつらぬけるほどには、益五郎ますごろう生憎あいにく、そこまで「バサラ」ではなかった。益五郎ますごろうでさえそうなのだから、益五郎ますごろうよりは「まともな」玄通げんつう益五郎ますごろう以上に大いに慌てたのは言うまでもない。

 それでもそこは益五郎ますごろうである。今にも土下座どげざせんばかりの様子の玄通げんつうとは違い、益五郎ますごろうはそれでもまだっ立ったままであった。ここが江戸城内の殿中なれば、将軍を前にしては益五郎ますごろう土下座どげざ平伏へいふくすることにやぶさかではなかったものの、しかし、ここは白洲しらすである。被告人として召喚しょうかんされたわけでもないのに白洲しらす土下座どげざ平伏へいふくすること益五郎ますごろうは抵抗感を感じたのだ。はっきり言えば嫌だった。益五郎ますごろう自身は認めたくないであろうが、益五郎ますごろうにもやはり、

「武士としての血」

 というものが脈々みゃくみゃくと流れていたのだ。

 もっとも、典型的な「ヒラメ」である成賢しげかたはそのような益五郎ますごろうの心情など理解しようとせず、また、理解もできず、

「これ、何をしておるっ!はようにひかえぬかっ!」

 一向いっこう平伏へいふくしようとせぬ益五郎ますごろうに対してそう怒声どせいを浴びせたのであった。

 するとその直後、「かまわぬ」との家治の声がした。低いが明瞭めいりょうな声であり、益五郎ますごろうの元まで良く響き、ゆえに益五郎ますごろうの隣にいた、今にも平伏へいふくしようとしていた玄通げんつうにもその声が届き、それで玄通げんつう白洲しらすひざをつくのをやめた。

 それから家治は益五郎ますごろう玄通げんつうの二人に対して、

「腰をかけるが良いぞ…」

 床机しょうぎに座るよううながしたのであった。そこで益五郎ますごろう白洲しらすにて土下座どげざ平伏へいふくしない代わりに、家治に対して深々ふかぶかと頭を下げてから床机しょうぎに腰かけ、玄通げんつうもそれにならった。

 こうして益五郎ますごろう玄通げんつうの二人が床机しょうぎに腰かけたところで、家治は成賢しげかたに対して、「進めよ」と「証人しょうにん訊問じんもん」をうながしたので、成賢しげかたもそうと察すると、「ははぁっ」と応じた後、益五郎ますごろう玄通げんつうに対する、それも主に、益五郎ますごろうに対する「証人しょうにん訊問じんもん」へと入った。

 すなわち、まずは愛宕下あたごしたにおける奥医師おくいし池原いけはら長仙院ちょうせんいん法印ほういん良誠よしのぶ斬殺ざんさつ事件について、益五郎ますごろう玄通げんつうがその現場を…、正しく池原いけはら良誠よしのぶが何者かられる現場を目撃した経緯について、成賢しげかたから聞かれたのであった。

 それに対して益五郎ますごろう玄通げんつう流石さすが躊躇ちゅうちょした。それと言うのもそれを説明するには博打ばくち帰りに事件に遭遇そうぐうしたことにれなければならないからだ。つまりは博打ばくちをしていましたと、正直に告白しなければならないからだ。

 それでもうそは厳禁と、昨日、そして今朝も南町奉行の成賢しげかたより固く申し渡されていたので、益五郎ますごろう玄通げんつう博打ばくち帰りに事件に遭遇そうぐうしたことを正直に打ち明けたのであった。玄通げんつうの場合は南町奉行の成賢しげかた剣幕けんまくくっしたからであろうが、益五郎ますごろうの場合は元より、嘘をつくのが苦手であったためであり、ゆえにこれが逆であったとしても、すなわち、成賢しげかたより、それこそ、

博打ばくち帰りであったなどと、正直に打ち明けるな…」

 仮にそう命じられたとしても、益五郎ますごろうはやはり、博打ばくち帰りであったと、正直に打ち明けたであろう。

 ともあれ博打ばくち帰りに事件に遭遇そうぐうしたという、益五郎ますごろう玄通げんつうのその証言は評席ひょうせきにてひかえる幕閣ばっかくから大いに「不評ふひょう」を買った。

博打ばくち帰りなどと、士たる者の所業しょぎょうとも思えぬ…」

 そうまゆひそめて苦言くげんていしたのは老中の板倉いたくら佐渡守さどのかみ勝清かつきよであった。それに相役あいやく…、同僚の松平まつだいら周防守すおうのかみ康福やすよしうなずいた。
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