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公事上聴 8
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大目付は閑職とは言え、それでも儀典官としての色彩は残っていたので、完全に閑な役職というわけでもなかった。
だがその大目付の唯一の実務とも言うべき儀典官としての仕事さえも、大目付の筆頭である池田政倫が一手に引き受けてくれていたので、それゆえ大井満英と稲垣正武は本当に閑となり、誇張ではなしに、何もしなくて良かったのだ。
それでも政倫は仕事を進める上で必ずと言っても良い程に、大井満英と稲垣正武への事前了解は怠らなかった。大井満英にしろ稲垣正武にしろ、
「仕事はしたくない、さりとて、蔑ろにもされたくない…」
極めて身勝手な考えの持ち主であったからだ。即ち、身勝手極まりない人間ということだ。
政倫はそんな二人の身勝手さに怒るのではなく、よしよしと、それこそ赤子をあやすかのように接して、二人の身勝手さに付き合ってやった。
尤も、事前説明と言っても、政倫の説明にただ、うんうんと頷くだけで良かったのだ。実際に、政倫から実務の相談を持ちかけられても、大井満英にしろ、稲垣正武にしろ答えようがなかっただろう。
それゆえ政倫のその二人への事前説明は、
「仕事はしたくない、さりとて、蔑ろにもされたくない…」
そんな二人の気持ちを満たすための所謂、「セレモニー」に過ぎなかった。
ともあれ、依田政次が新たに大目付として加わるまでは、何ら問題はなかった。
それが政次が大目付に加わってからというもの、政次は積極的に働き始め、のみならず、それまで閑職に甘んじていた大井満英と稲垣正武にも同様に働くように求めたのだから、大井満英や稲垣正武にしてみれば堪ったものではない。それこそ、政次に余計な口出しをされることで目付が感じるストレスの比ではなかった。
それゆえ、大井満英と稲垣正武は落ち着きを取り戻すや、景漸のその「失言」に対する怒りも冷め、すると再び、政次に対する疎ましい感情が再燃したのであった。
「豊前よ…、これは筑後殿が申す通りぞ…」
大井満英は豊前こと、政次に対して諭すようにそう声をかけた。ちなみに78歳の大井満英とは一回り、どころか二回り以上も離れている政倫のことを、
「筑後殿…」
そう敬称を付けて呼んだのは他でもない、普段から政倫に世話になっているからであり、一方、政次はと言うと、政倫に比べれば年が近いとは言え、しかし、政次からは世話どころか迷惑しか蒙っていないので、そこで大井満英はこの政次に対しては、「豊前」とその官職名を呼び捨てにしたのであった。
一方、政次はよもやの展開に唖然とし、次いで思い通りに事が運ばなかったことに対する怒りの感情が込み上げてきた。
「何を申されるかっ!大目付はただの儀典官ではないっ!大名の監察役なるぞっ!されば積極的に働き、のみならず、目付の仕事にも目を配るは当然であろうがっ!」
政次のその「懲りない…」時代遅れの主張に対して、大井満英も稲垣正武も心底、ウンザリさせられたものである。
だが政次はそんなことにはお構いなしと言わんばかりに、やはり大目付と共に監察役として陪席している十人目付の方へと振り向いたかと思うと、
「このわしが、目付の仕事に目を配ってやっていることに果たして、迷惑を蒙っている者がおるのかっ!」
十人目付に対してそう尋ねる始末であり、これには問われた当人とも言うべき十人目付は元より、その場にいた誰もが唖然とさせられたものである。
それでも十人目付のうちの一人…、唯一人の裏切り者とも言うべき、山村十郎右衛門良旺のみ、「とんでもないっ!」とそう声を上げたかと思うと、
「依田様のありがたい目配り、この山村十郎右衛門、目付を代表してあつく御礼申し上げますっ!」
平然とそう口にして、いよいよ周囲を唖然とさせたものである。いや、中には失笑する者もおり、大井満英と稲垣正武がそうであった。
「それは…、舅と婿なれば息も合おうと申すもの…」
稲垣正武がそう指摘したので、失笑する者が増えた。
そう、山村十郎右衛門良旺とは今の公事方勘定奉行の山村信濃守良旺であり、その時は目付であり、且つ、既に政次の娘を娶っていたのだ。
大井満英と稲垣正武がまず初めに失笑したのもそのことにすぐに気付いたからであり、そして、稲垣正武がそのことを指摘したので失笑の輪が広がったというわけだ。
そこへ大井満英が負けじと、
「連獅子なら山村座でやってくれ…」
そう茶々を入れたので、いよいよ失笑の輪が広がり、そしてよせば良いのに景漸までが「参戦」を果たしてしまった。即ち、
「畏れながら…、山村座はもうお取り潰しに…」
そう指摘したのであった。この頃にはもう、山村座は彼の有名な絵島生島事件により取り潰されており、この頃にはもう影も形もなかった。
無論、大井満英もそれは承知しており、むしろその「ツッコミ」を入れてくれることを待っていたのだ。それゆえ景漸が「ツッコミ役」を買って出てしまったことから、いよいよもって大井満英は調子に乗り、
「おお、そうであったわ。年の所為か、すっかり忘れておったわ。山村の前で山村座は禁句であったわ…」
大井満英はそう言うや、哄笑した。
翻って、政次と山村良旺は屈辱の余り、顔面を紅潮させた。
後年、景漸の息・勝次郎景露が政次の実子である初鹿野傳右衛門信興からいじめを受けたのもこの時のことと関係があるのやも知れなかった。
ともあれこのままでは政次が哀れ、何より目付の不満を解消してやらねばならぬと、やはり式日ゆえ出席していた当時の老中はそう思い、割って入った。
結局、この問題は政次を本丸の留守居へとさらに「栄転」させることで決着を見た。無論、
「棚上げ人事」
であることは明らかであったが、それでも本丸の留守居と言えば役高は何と5千石で、これは幕府の所謂、
「武官五番方」
の中でもトップに位置する大番頭のそれと同額であり、しかも、幕府内の序列で言えば本丸の留守居の方が大番頭よりも上であった。
また本丸の留守居は城主各の大名としての待遇が与えられ、それを裏付けるかのように、嫡男のみならず、次男までもが将軍に御目見得を許され、その上、下屋敷まで与えられるのだ。留守居への「栄転」が「棚上げ人事」であるとしても、ここまで優遇が与えられれば上出来な部類であろう。
ことに政次の家禄は1100石なので、留守居の御役にある間は3900石もの「足高」が保証されるのである。悪い話ではないだろう。
尤も、政次自身はこの「棚上げ人事」にいたく自尊心が傷つけられた様子であったが、人事である以上、従わざるを得ない。政次は不承不承ではあったが、本丸の留守居を「ありがたく」拝命したのであった。政次が大目付を拝命してから2ヵ月後のことであった。
即ち、政次は大目付をたった2ヶ月しか在職しなかったということだ。
政次は元々、筒井大和守忠雄の後任であった。筒井忠雄は大目付在職中、明和6(1769)年の7月12日に74歳で逝去したために、その後任として政次が新たに大目付として迎えられたのであった。これがちょうど一月後の8月15日であった。
そしてそれから2ヵ月後、それも2ヶ月にも満たない10月20日に留守居へと「栄転」を果たしたのにはこのような事情があったためである。
だがその大目付の唯一の実務とも言うべき儀典官としての仕事さえも、大目付の筆頭である池田政倫が一手に引き受けてくれていたので、それゆえ大井満英と稲垣正武は本当に閑となり、誇張ではなしに、何もしなくて良かったのだ。
それでも政倫は仕事を進める上で必ずと言っても良い程に、大井満英と稲垣正武への事前了解は怠らなかった。大井満英にしろ稲垣正武にしろ、
「仕事はしたくない、さりとて、蔑ろにもされたくない…」
極めて身勝手な考えの持ち主であったからだ。即ち、身勝手極まりない人間ということだ。
政倫はそんな二人の身勝手さに怒るのではなく、よしよしと、それこそ赤子をあやすかのように接して、二人の身勝手さに付き合ってやった。
尤も、事前説明と言っても、政倫の説明にただ、うんうんと頷くだけで良かったのだ。実際に、政倫から実務の相談を持ちかけられても、大井満英にしろ、稲垣正武にしろ答えようがなかっただろう。
それゆえ政倫のその二人への事前説明は、
「仕事はしたくない、さりとて、蔑ろにもされたくない…」
そんな二人の気持ちを満たすための所謂、「セレモニー」に過ぎなかった。
ともあれ、依田政次が新たに大目付として加わるまでは、何ら問題はなかった。
それが政次が大目付に加わってからというもの、政次は積極的に働き始め、のみならず、それまで閑職に甘んじていた大井満英と稲垣正武にも同様に働くように求めたのだから、大井満英や稲垣正武にしてみれば堪ったものではない。それこそ、政次に余計な口出しをされることで目付が感じるストレスの比ではなかった。
それゆえ、大井満英と稲垣正武は落ち着きを取り戻すや、景漸のその「失言」に対する怒りも冷め、すると再び、政次に対する疎ましい感情が再燃したのであった。
「豊前よ…、これは筑後殿が申す通りぞ…」
大井満英は豊前こと、政次に対して諭すようにそう声をかけた。ちなみに78歳の大井満英とは一回り、どころか二回り以上も離れている政倫のことを、
「筑後殿…」
そう敬称を付けて呼んだのは他でもない、普段から政倫に世話になっているからであり、一方、政次はと言うと、政倫に比べれば年が近いとは言え、しかし、政次からは世話どころか迷惑しか蒙っていないので、そこで大井満英はこの政次に対しては、「豊前」とその官職名を呼び捨てにしたのであった。
一方、政次はよもやの展開に唖然とし、次いで思い通りに事が運ばなかったことに対する怒りの感情が込み上げてきた。
「何を申されるかっ!大目付はただの儀典官ではないっ!大名の監察役なるぞっ!されば積極的に働き、のみならず、目付の仕事にも目を配るは当然であろうがっ!」
政次のその「懲りない…」時代遅れの主張に対して、大井満英も稲垣正武も心底、ウンザリさせられたものである。
だが政次はそんなことにはお構いなしと言わんばかりに、やはり大目付と共に監察役として陪席している十人目付の方へと振り向いたかと思うと、
「このわしが、目付の仕事に目を配ってやっていることに果たして、迷惑を蒙っている者がおるのかっ!」
十人目付に対してそう尋ねる始末であり、これには問われた当人とも言うべき十人目付は元より、その場にいた誰もが唖然とさせられたものである。
それでも十人目付のうちの一人…、唯一人の裏切り者とも言うべき、山村十郎右衛門良旺のみ、「とんでもないっ!」とそう声を上げたかと思うと、
「依田様のありがたい目配り、この山村十郎右衛門、目付を代表してあつく御礼申し上げますっ!」
平然とそう口にして、いよいよ周囲を唖然とさせたものである。いや、中には失笑する者もおり、大井満英と稲垣正武がそうであった。
「それは…、舅と婿なれば息も合おうと申すもの…」
稲垣正武がそう指摘したので、失笑する者が増えた。
そう、山村十郎右衛門良旺とは今の公事方勘定奉行の山村信濃守良旺であり、その時は目付であり、且つ、既に政次の娘を娶っていたのだ。
大井満英と稲垣正武がまず初めに失笑したのもそのことにすぐに気付いたからであり、そして、稲垣正武がそのことを指摘したので失笑の輪が広がったというわけだ。
そこへ大井満英が負けじと、
「連獅子なら山村座でやってくれ…」
そう茶々を入れたので、いよいよ失笑の輪が広がり、そしてよせば良いのに景漸までが「参戦」を果たしてしまった。即ち、
「畏れながら…、山村座はもうお取り潰しに…」
そう指摘したのであった。この頃にはもう、山村座は彼の有名な絵島生島事件により取り潰されており、この頃にはもう影も形もなかった。
無論、大井満英もそれは承知しており、むしろその「ツッコミ」を入れてくれることを待っていたのだ。それゆえ景漸が「ツッコミ役」を買って出てしまったことから、いよいよもって大井満英は調子に乗り、
「おお、そうであったわ。年の所為か、すっかり忘れておったわ。山村の前で山村座は禁句であったわ…」
大井満英はそう言うや、哄笑した。
翻って、政次と山村良旺は屈辱の余り、顔面を紅潮させた。
後年、景漸の息・勝次郎景露が政次の実子である初鹿野傳右衛門信興からいじめを受けたのもこの時のことと関係があるのやも知れなかった。
ともあれこのままでは政次が哀れ、何より目付の不満を解消してやらねばならぬと、やはり式日ゆえ出席していた当時の老中はそう思い、割って入った。
結局、この問題は政次を本丸の留守居へとさらに「栄転」させることで決着を見た。無論、
「棚上げ人事」
であることは明らかであったが、それでも本丸の留守居と言えば役高は何と5千石で、これは幕府の所謂、
「武官五番方」
の中でもトップに位置する大番頭のそれと同額であり、しかも、幕府内の序列で言えば本丸の留守居の方が大番頭よりも上であった。
また本丸の留守居は城主各の大名としての待遇が与えられ、それを裏付けるかのように、嫡男のみならず、次男までもが将軍に御目見得を許され、その上、下屋敷まで与えられるのだ。留守居への「栄転」が「棚上げ人事」であるとしても、ここまで優遇が与えられれば上出来な部類であろう。
ことに政次の家禄は1100石なので、留守居の御役にある間は3900石もの「足高」が保証されるのである。悪い話ではないだろう。
尤も、政次自身はこの「棚上げ人事」にいたく自尊心が傷つけられた様子であったが、人事である以上、従わざるを得ない。政次は不承不承ではあったが、本丸の留守居を「ありがたく」拝命したのであった。政次が大目付を拝命してから2ヵ月後のことであった。
即ち、政次は大目付をたった2ヶ月しか在職しなかったということだ。
政次は元々、筒井大和守忠雄の後任であった。筒井忠雄は大目付在職中、明和6(1769)年の7月12日に74歳で逝去したために、その後任として政次が新たに大目付として迎えられたのであった。これがちょうど一月後の8月15日であった。
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