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萬壽姫
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八代将軍・吉宗が家治にとって崇拝すべき祖父であったならば、萬壽姫は家治にとっての大事な愛娘であった。
だが同時に、萬壽姫は家基の姉に当たる。但し、腹違いではあった。それと言うのも、萬壽姫が将軍・家治と御台所、即ち正室との間に生まれた娘であるのに対して、家基は家治と側室・千穂との間に生まれた嫡男であった。
それでも姉弟間の仲は良く、萬壽姫は姉として、弟の家基を良く可愛がり、一方、弟の家基もそんな姉・萬壽姫を慕ってやまなかった。
それゆえ萬壽姫が安永2(1773)年の2月20日に薨去するや、弟の家基は父・家治以上に悲歎にくれたものだった。いや、萬壽姫の死を嘆き悲しんだのは何も家治や家基に限らない。萬壽姫の婚約者であった徳川治休にしても同じであっただろう。
徳川治休とは御三家筆頭、尾張徳川家の当主である宗睦の世子である。いや、今はもう、世子であったと言うべきであろう。
治休は萬壽姫の婚約者であったのだ。
明和5(1768)年3月27日に治休と萬壽姫との結婚が決まり、それから一月後の4月23日に納采の儀が執り行われた。
そして治休と萬壽姫は安永2(1773)年の2月頃に正式に結婚、結ばれる筈であった。ちなみに明和5(1768)年の4月23日の納采の儀から安永2(1773)年の2月まで随分と時間が経っているように思われるかも知れないが、これは致し方のないことであった。
それと言うのも将軍家の姫君が大名家へと輿入れ、所謂、
「降嫁」
ともなると、将軍家の姫君を受け入れる大名家の方でもそれなりの準備を…、将軍家の姫君を受け入れる準備を整えねばならず、その好例が、
「御守殿の造営」
それであった。御守殿とは将軍家の姫君が暮らす御殿、つまりは屋敷のことであり、ちなみに御守殿という名は婿が三位以上の位にある場合に限られ、婿がそれよりも下の官位であれば、即ち、将軍家の姫君が三位より下の位にある婿の元へと降嫁、嫁ぐ場合にはその将軍家の姫君が暮らす屋敷は、
「御住居」
そう呼ばれ、姫君の呼び名にしてもそれに合わせて、
「御守殿様」
あるいは、
「御住居様」
そう区別される。そして萬壽姫の場合、婿となる筈であった治休は既に明和2(1765)年12月15日に従三位に叙されていたので、当然、治休との結婚後は、
「御守殿様」
そう呼ばれる筈であった。
ともあれ、治休と萬壽姫との住まいである御守殿を造営せねばならず、この場合、御守殿は上屋敷に造営されるのが慣例であった。
尾張徳川家の場合、市谷御門外に上屋敷があり、しかし、その当時、既に上屋敷内には当主である宗睦の住居と共に、世子・治休の住居まであり、その上、萬壽姫の住居となる御守殿まで造営するとなると、今の上屋敷では到底、
「おさまりきらぬ…」
ということで、宗睦は幕府に願い出て、その市谷御門外にある上屋敷の拡張を願い出、幕府も事情が事情なだけに即座にこれを許し、こうして市谷御門外の上屋敷の拡張が認められるや、尾張徳川家では本格的に御守殿の造営に着手した。
いや、御守殿の造営のみならず、
「御守殿御門」
それも併せて造営せねばならなかった。この御守殿御門とはその名からも察せられる通り、降嫁…、輿入れしてくる将軍家の姫君…、この場合は萬壽姫一行が屋敷内へと入るための門のことであった。
一方、萬壽姫にしても単身、尾張徳川家に嫁入りするわけではなかった。
この時…、尾張家の跡取りの治休との婚約が成った明和5(1768)年の段階では萬壽姫は本丸の大奥にて実母である、家治の正室でもある倫子と暮らしていた。
そして萬壽姫には己…、萬壽姫附の老女、即ち、年寄やそれにその他にも萬壽姫に仕える女中がおり、また女のみならず男も、即ち、男子役人もおり、侍衆がそれであった。
彼ら萬壽姫附の侍衆は大奥のやはり男子役人である広敷役人とほぼ同じ機能を果たし、とりわけ外出がままならない萬壽姫や、あるいは萬壽姫に仕える老女を始めとする女中のために江戸市中にて買い物をするのであった。
ともあれ、萬壽姫が尾張徳川家へと…、市谷御門外にある上屋敷へと降嫁…、輿入れするとなると、萬壽姫は己に仕えるそれら老女を始めとする女中に加えて、侍衆をも従えてその上屋敷へと、そして御守殿へと入ることになるので、そこでそんな萬壽姫一行を迎えるための、
「御守殿御門」
それまで設える必要があるわけで、一方、萬壽姫にしても輿入れのための準備があるので、納采の儀の直後にすぐに輿入れというわけにはいかなかった。
だがそれでも明和8(1771)年の7月までには輿入れの準備が相整い、あとは8月に輿入れを待つばかりであった。
それが8月頃より萬壽姫の実母、倫子の体調が崩れ始め、8月20日に遂に薨去した。行年34であった。
そうなるともうその年には輿入れは不可能となる。何しろ喪に服さねばならないからだ。
いや、それ以上に萬壽姫の嘆き、悲しみたるや、
「尋常ならず…」
であり、とても輿入れできるような状態ではなく、結局、輿入れは翌年の明和9(1772)年に延期されることになった。
ところがその翌年の明和9(1772)年、またしても輿入れが延期となる悲劇に襲われた。いや、この場合、江戸市民にとっての悲劇と言えようか。
輿入れを直前に控えた2月29日、目黒行人坂の大火が発生したのだ。
幸い、と言えば語弊があるが、南西の風向きの所為で火勢は主に北東へと拡がり、そのお蔭で江戸城の西側に位置する市谷御門外にある尾張徳川家の上屋敷は無事であった。つまりは萬壽姫一行を出迎える御守殿御門も御守殿も無事だったというわけだ。
しかし、それとは逆…、江戸城の西に位置する市谷御門外に上屋敷を構える尾張徳川家とは逆に、江戸城の東、あるいは東北に上屋敷なり、あるいは中屋敷なり下屋敷なりを構える大名家もあり、彼ら大名家は屋敷が焼失してしまった。例えば、江戸城の東側、和田倉御門内に上屋敷を構える会津松平家や、同じく東側、常盤橋御門内に上屋敷を構える福井松平家など、錚々たる諸侯がこの大火により上屋敷を失うことと相成った。
いや、大名家は大抵、中屋敷や下屋敷も構えており、こういった火事、それも大火に備えての避難用のそれであったが、しかし、中には上屋敷は元より、避難先である筈の中屋敷や下屋敷までも失う羽目になった大名家もあった。
それゆえ翌日の晦日…、2月の30日には幕府は万石以上、即ち、大名家に対して、それも今回の大火の被害に遭わずに済んだ大名家に対して、それとは逆に大火の被害に遭い、上屋敷を始めとし、避難用の中屋敷や、あるいは下屋敷をも失い、正に、
「難民」
と化した大名家のためにその敷地の一部を貸し出すよう、お触れを出したのであった。無論、61万9500石もの太守である尾張徳川家もその例外ではなく、それどころか、率先して受け入れねばならない立場であり、そうなるとやはり輿入れどころではなかった。
いや、大名家は火事で屋敷を失ったとしても、仲間とも言える大名家が救ってくれるからまだ良い。だが、これが市井に生きる名も無き庶民ともなるとそうはいかない。火事の被害に遭わずに済んだ仲間とも言うべき庶民にしても己の生活を維持するのに手一杯であり、とても他人を救う余裕などなかった。
そんな中で正に、
「典雅なる…」
輿入れを強行しようものなら、江戸の庶民の怨嗟の的になるのは間違いなく、そうなれば最悪、幕藩体制をも揺るがしかねない事態へと発展するやも知れず、そこで萬壽姫の輿入れは更に翌年へと延期されることになったのであった。ちなみにこの目黒行人坂の大火が発生した明和9(1772)年11月25日に明和から安永へと改元があり、それゆえ翌年とは安永2年であった。
萬壽姫の輿入れが安永2(1773)年まで延び延びになったのはこういった事情による。
そしてそのために萬壽姫は遂に治休と夫婦になることは叶わずに安永2(1773)年の2月20日に本丸大奥にて薨去したのであった。
それゆえ父・家治や弟・家基は元より、婚約者であった治休も大いに嘆き悲しみ、それが祟ってか、治休自身もその年の6月18日に婚約者であった萬壽姫の後を追うようにして亡くなった。行年21であった。
だが同時に、萬壽姫は家基の姉に当たる。但し、腹違いではあった。それと言うのも、萬壽姫が将軍・家治と御台所、即ち正室との間に生まれた娘であるのに対して、家基は家治と側室・千穂との間に生まれた嫡男であった。
それでも姉弟間の仲は良く、萬壽姫は姉として、弟の家基を良く可愛がり、一方、弟の家基もそんな姉・萬壽姫を慕ってやまなかった。
それゆえ萬壽姫が安永2(1773)年の2月20日に薨去するや、弟の家基は父・家治以上に悲歎にくれたものだった。いや、萬壽姫の死を嘆き悲しんだのは何も家治や家基に限らない。萬壽姫の婚約者であった徳川治休にしても同じであっただろう。
徳川治休とは御三家筆頭、尾張徳川家の当主である宗睦の世子である。いや、今はもう、世子であったと言うべきであろう。
治休は萬壽姫の婚約者であったのだ。
明和5(1768)年3月27日に治休と萬壽姫との結婚が決まり、それから一月後の4月23日に納采の儀が執り行われた。
そして治休と萬壽姫は安永2(1773)年の2月頃に正式に結婚、結ばれる筈であった。ちなみに明和5(1768)年の4月23日の納采の儀から安永2(1773)年の2月まで随分と時間が経っているように思われるかも知れないが、これは致し方のないことであった。
それと言うのも将軍家の姫君が大名家へと輿入れ、所謂、
「降嫁」
ともなると、将軍家の姫君を受け入れる大名家の方でもそれなりの準備を…、将軍家の姫君を受け入れる準備を整えねばならず、その好例が、
「御守殿の造営」
それであった。御守殿とは将軍家の姫君が暮らす御殿、つまりは屋敷のことであり、ちなみに御守殿という名は婿が三位以上の位にある場合に限られ、婿がそれよりも下の官位であれば、即ち、将軍家の姫君が三位より下の位にある婿の元へと降嫁、嫁ぐ場合にはその将軍家の姫君が暮らす屋敷は、
「御住居」
そう呼ばれ、姫君の呼び名にしてもそれに合わせて、
「御守殿様」
あるいは、
「御住居様」
そう区別される。そして萬壽姫の場合、婿となる筈であった治休は既に明和2(1765)年12月15日に従三位に叙されていたので、当然、治休との結婚後は、
「御守殿様」
そう呼ばれる筈であった。
ともあれ、治休と萬壽姫との住まいである御守殿を造営せねばならず、この場合、御守殿は上屋敷に造営されるのが慣例であった。
尾張徳川家の場合、市谷御門外に上屋敷があり、しかし、その当時、既に上屋敷内には当主である宗睦の住居と共に、世子・治休の住居まであり、その上、萬壽姫の住居となる御守殿まで造営するとなると、今の上屋敷では到底、
「おさまりきらぬ…」
ということで、宗睦は幕府に願い出て、その市谷御門外にある上屋敷の拡張を願い出、幕府も事情が事情なだけに即座にこれを許し、こうして市谷御門外の上屋敷の拡張が認められるや、尾張徳川家では本格的に御守殿の造営に着手した。
いや、御守殿の造営のみならず、
「御守殿御門」
それも併せて造営せねばならなかった。この御守殿御門とはその名からも察せられる通り、降嫁…、輿入れしてくる将軍家の姫君…、この場合は萬壽姫一行が屋敷内へと入るための門のことであった。
一方、萬壽姫にしても単身、尾張徳川家に嫁入りするわけではなかった。
この時…、尾張家の跡取りの治休との婚約が成った明和5(1768)年の段階では萬壽姫は本丸の大奥にて実母である、家治の正室でもある倫子と暮らしていた。
そして萬壽姫には己…、萬壽姫附の老女、即ち、年寄やそれにその他にも萬壽姫に仕える女中がおり、また女のみならず男も、即ち、男子役人もおり、侍衆がそれであった。
彼ら萬壽姫附の侍衆は大奥のやはり男子役人である広敷役人とほぼ同じ機能を果たし、とりわけ外出がままならない萬壽姫や、あるいは萬壽姫に仕える老女を始めとする女中のために江戸市中にて買い物をするのであった。
ともあれ、萬壽姫が尾張徳川家へと…、市谷御門外にある上屋敷へと降嫁…、輿入れするとなると、萬壽姫は己に仕えるそれら老女を始めとする女中に加えて、侍衆をも従えてその上屋敷へと、そして御守殿へと入ることになるので、そこでそんな萬壽姫一行を迎えるための、
「御守殿御門」
それまで設える必要があるわけで、一方、萬壽姫にしても輿入れのための準備があるので、納采の儀の直後にすぐに輿入れというわけにはいかなかった。
だがそれでも明和8(1771)年の7月までには輿入れの準備が相整い、あとは8月に輿入れを待つばかりであった。
それが8月頃より萬壽姫の実母、倫子の体調が崩れ始め、8月20日に遂に薨去した。行年34であった。
そうなるともうその年には輿入れは不可能となる。何しろ喪に服さねばならないからだ。
いや、それ以上に萬壽姫の嘆き、悲しみたるや、
「尋常ならず…」
であり、とても輿入れできるような状態ではなく、結局、輿入れは翌年の明和9(1772)年に延期されることになった。
ところがその翌年の明和9(1772)年、またしても輿入れが延期となる悲劇に襲われた。いや、この場合、江戸市民にとっての悲劇と言えようか。
輿入れを直前に控えた2月29日、目黒行人坂の大火が発生したのだ。
幸い、と言えば語弊があるが、南西の風向きの所為で火勢は主に北東へと拡がり、そのお蔭で江戸城の西側に位置する市谷御門外にある尾張徳川家の上屋敷は無事であった。つまりは萬壽姫一行を出迎える御守殿御門も御守殿も無事だったというわけだ。
しかし、それとは逆…、江戸城の西に位置する市谷御門外に上屋敷を構える尾張徳川家とは逆に、江戸城の東、あるいは東北に上屋敷なり、あるいは中屋敷なり下屋敷なりを構える大名家もあり、彼ら大名家は屋敷が焼失してしまった。例えば、江戸城の東側、和田倉御門内に上屋敷を構える会津松平家や、同じく東側、常盤橋御門内に上屋敷を構える福井松平家など、錚々たる諸侯がこの大火により上屋敷を失うことと相成った。
いや、大名家は大抵、中屋敷や下屋敷も構えており、こういった火事、それも大火に備えての避難用のそれであったが、しかし、中には上屋敷は元より、避難先である筈の中屋敷や下屋敷までも失う羽目になった大名家もあった。
それゆえ翌日の晦日…、2月の30日には幕府は万石以上、即ち、大名家に対して、それも今回の大火の被害に遭わずに済んだ大名家に対して、それとは逆に大火の被害に遭い、上屋敷を始めとし、避難用の中屋敷や、あるいは下屋敷をも失い、正に、
「難民」
と化した大名家のためにその敷地の一部を貸し出すよう、お触れを出したのであった。無論、61万9500石もの太守である尾張徳川家もその例外ではなく、それどころか、率先して受け入れねばならない立場であり、そうなるとやはり輿入れどころではなかった。
いや、大名家は火事で屋敷を失ったとしても、仲間とも言える大名家が救ってくれるからまだ良い。だが、これが市井に生きる名も無き庶民ともなるとそうはいかない。火事の被害に遭わずに済んだ仲間とも言うべき庶民にしても己の生活を維持するのに手一杯であり、とても他人を救う余裕などなかった。
そんな中で正に、
「典雅なる…」
輿入れを強行しようものなら、江戸の庶民の怨嗟の的になるのは間違いなく、そうなれば最悪、幕藩体制をも揺るがしかねない事態へと発展するやも知れず、そこで萬壽姫の輿入れは更に翌年へと延期されることになったのであった。ちなみにこの目黒行人坂の大火が発生した明和9(1772)年11月25日に明和から安永へと改元があり、それゆえ翌年とは安永2年であった。
萬壽姫の輿入れが安永2(1773)年まで延び延びになったのはこういった事情による。
そしてそのために萬壽姫は遂に治休と夫婦になることは叶わずに安永2(1773)年の2月20日に本丸大奥にて薨去したのであった。
それゆえ父・家治や弟・家基は元より、婚約者であった治休も大いに嘆き悲しみ、それが祟ってか、治休自身もその年の6月18日に婚約者であった萬壽姫の後を追うようにして亡くなった。行年21であった。
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