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躋寿館 ~その発足と経営~
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但し、当初の小野章以は貧しい患者からもきちんと薬代を取り立て、不足分については医学館に対して経費として請求した。元より、小野章以は医学館に頼まれて定期的に往診に訪れていたのだ。即ち、
「小児医を希望する医学生に対して小児医療を学ばせたいので…」
そのためには実習が欠かせないと、そこでその医学生に対して、小児の診察の模様を見学させたいのでと、小児医である小野章以を招聘したというわけだ。
そうである以上、医学館としても小野章以に対しては立場が弱く、ゆえに小野章以の求めに応じて、貧しい患者が薬代を少ししか払えず、或いは全く払えない場合、その差額分については医学館で支払ってくれるようにとの、小野章以からの頼みを断れなかったのであった。
それが一変したのがそれから更に2年後の明和5(1768)年のことであった。
もうその頃には医学館の督事は元孝から元悳へと代替わりしていた。明和3(1766)年に小野章以が「メンバー」として加わってから間もなく、6月20日に父・元孝が逝去したため、それから大よそ三月後の9月4日に元悳は多紀家の遺跡を継ぐと同時に、医学館も相続したことによる。
それから2年後の明和5(1768)年の初頭のことである。小野章以は驚くべきことを言い出した。
「これからは薬代は不要にて…」
自腹で往診、若い医学生に教えると、小野章以は言い出したのであった。
無論、薬代を払える患者にはこれまで通り、きちんと薬代を払ってもらうものの、薬代を少ししか払えない患者に対しては払えるだけで、薬代を全く払えない患者に対してはこれを払わずとも良い、無論、差額分を請求したりなどしない…、小野章以はそんなことを言い出して、父・元孝より医学館を相続して新たに督事となった元悳を驚愕させたものだった。
いや、狂喜乱舞したと言った方が正確であろう。
それと言うのもこの頃、既に医学館は経営危機に陥っていたからだ。
医学館はその敷地こそ幕府が面倒を見てやったものの、しかし、そこから先は、つまりは医学館の運営は多紀家に任されていた。
任されていたと言えば聞こえは良いが、要は、
「お上の力に頼るな…」
それに他ならず、それは医学館の運営において絶対不可欠な資金についても当て嵌まる。即ち、
「お上の金に頼るな…」
つまりは多紀家の独力で医学館を運営しろと言うわけだ。
とは言え、幕府も医者を育てるという医学館の存在意義は認めていた。それゆえ医学館の運営を完全に多紀家に任せる、と言うよりは丸投げに近いのだが、ともあれ多紀家に丸投げするのではなく、江戸の町医者に対して医学館への出席を奨めると同時に、学費というわけでもないが、醵金を求めたのであった。
江戸の町医者が挙って医学館に通えば医者の質的向上が図られると同時に、彼らが学費代わりに医学館に対して醵金…、資金醵出に応じてくれれば医学館の運営にも資するというわけで、正に、
「一石二鳥…」
その四字熟語がピタリと当て嵌まるアイディアというわけだ。このアイディアを創設したのが他ならぬ田沼意次であった。意次は医学館が創設された明和2(1765)年時点でこそ御側御用取次であったが、いや、中奥の事実上の最高長官である御側御用取次であったからこそ、幕政に大きな影響力を行使することができ、当時…、明和2(1765)年の時点で本丸奥医師であった多紀元孝もそのことは良く承知していたからこそ、御側御用取次の意次に対して、
「医学館を創設したい…」
そう陳情したのであった。ちなみに当時の中奥には御側御用取次の意次の上に御側御用人として板倉佐渡守勝清が控えており、御側御用人と御側御用取次とでは一応、御側御用人の方が上であるので、名目上は御側御用人の板倉勝清こそが中奥の最高長官と言えたが、しかし実際には板倉勝清は、
「お飾りの側用人…」
それに過ぎず、事実上、意次こそが中奥の最高長官であり、元孝はやはりこのことも承知していたからこそ、「お飾りの御側御用人」の板倉勝清ではなくて、事実上の中奥の最高長官であった意次に陳情したのであった。
それに対して意次はと言うと、一応、勝清とも相談の上、将軍・家治に対して多紀元孝からのその陳情を伝えた上で、
「是非とも医学館の創設を認めてやり度…」
意次は勝清共々、そう己の意見を申し述べ、それに対して将軍・家治も医学館の必要性を認めてくれたので、そこで意次は医学館を実際に創設するには表向の最高長官である老中や、或いは副長官とも言うべき若年寄との協議が欠かせないので、そこで表向の最高長官である老中や、或いは副長官とも言うべき若年寄と協議を行うことを認めて欲しいと、意次は将軍・家治に対して更にそう頼み、これに対して家治もやはり意次のその申し出を至当と認め、これを許したのであった。
こうして意次は御側御用人の板倉勝清と共に、表向へと出向いては、老中や若年寄に対しても多紀元孝からの陳情をそのまま伝えた上で、元孝が望む通り、医学館の創設を認めて欲しいと、意次は老中や若年寄に対してそう頼み、それに対して老中のそれも首座にして勝手掛をも兼務する松平右近将監武元が即座に意次のその申し出を了としたので、他の老中や、さらに若年寄までもがそれこそ、
「雪崩を打って…」
意次の申し出を、つまりは医学館の創設を望む多紀元孝のその陳情が容れられたのであった。ちなみに老中首座にして勝手掛をも兼務する松平武元は意次とは盟友関係にあり、そうであればこそ、武元は意次のその申し出に対して即座に頷いてみせたのであった。
こうして元孝の望み通り、医学館の創設が認められると、意次はその医学館を創設するための敷地こそ元孝に与えるものの、その後のことは、即ち、医学館の運営については、
「多紀家が独力にてこれを運営せしむるものとす…」
意次はそうも提案して、やはり皆の賛同を得た。とりわけ財政を担う勝手掛を兼務する老中首座の松平武元としてはその方が幕府の財政に負担をかけずに済むというもので、意次との盟友関係も相俟って、異論はなかった。
それに対して元孝はと言うと、元より医学館創設の言わば、
「言いだしっぺ…」
その立場である以上、医学館についてはこれを認める代わりに、
「多紀家が独力にてこれを運営」
させるとする、幕府の条件を呑まざるを得ず、それゆえ幕府より与えられた敷地の上に上物とも言うべき医学館を建設する資金については元孝は「ポケットマネー」でこれを賄い、さらに運営資金についても同じく「ポケットマネー」で賄うこととした。
「小児医を希望する医学生に対して小児医療を学ばせたいので…」
そのためには実習が欠かせないと、そこでその医学生に対して、小児の診察の模様を見学させたいのでと、小児医である小野章以を招聘したというわけだ。
そうである以上、医学館としても小野章以に対しては立場が弱く、ゆえに小野章以の求めに応じて、貧しい患者が薬代を少ししか払えず、或いは全く払えない場合、その差額分については医学館で支払ってくれるようにとの、小野章以からの頼みを断れなかったのであった。
それが一変したのがそれから更に2年後の明和5(1768)年のことであった。
もうその頃には医学館の督事は元孝から元悳へと代替わりしていた。明和3(1766)年に小野章以が「メンバー」として加わってから間もなく、6月20日に父・元孝が逝去したため、それから大よそ三月後の9月4日に元悳は多紀家の遺跡を継ぐと同時に、医学館も相続したことによる。
それから2年後の明和5(1768)年の初頭のことである。小野章以は驚くべきことを言い出した。
「これからは薬代は不要にて…」
自腹で往診、若い医学生に教えると、小野章以は言い出したのであった。
無論、薬代を払える患者にはこれまで通り、きちんと薬代を払ってもらうものの、薬代を少ししか払えない患者に対しては払えるだけで、薬代を全く払えない患者に対してはこれを払わずとも良い、無論、差額分を請求したりなどしない…、小野章以はそんなことを言い出して、父・元孝より医学館を相続して新たに督事となった元悳を驚愕させたものだった。
いや、狂喜乱舞したと言った方が正確であろう。
それと言うのもこの頃、既に医学館は経営危機に陥っていたからだ。
医学館はその敷地こそ幕府が面倒を見てやったものの、しかし、そこから先は、つまりは医学館の運営は多紀家に任されていた。
任されていたと言えば聞こえは良いが、要は、
「お上の力に頼るな…」
それに他ならず、それは医学館の運営において絶対不可欠な資金についても当て嵌まる。即ち、
「お上の金に頼るな…」
つまりは多紀家の独力で医学館を運営しろと言うわけだ。
とは言え、幕府も医者を育てるという医学館の存在意義は認めていた。それゆえ医学館の運営を完全に多紀家に任せる、と言うよりは丸投げに近いのだが、ともあれ多紀家に丸投げするのではなく、江戸の町医者に対して医学館への出席を奨めると同時に、学費というわけでもないが、醵金を求めたのであった。
江戸の町医者が挙って医学館に通えば医者の質的向上が図られると同時に、彼らが学費代わりに医学館に対して醵金…、資金醵出に応じてくれれば医学館の運営にも資するというわけで、正に、
「一石二鳥…」
その四字熟語がピタリと当て嵌まるアイディアというわけだ。このアイディアを創設したのが他ならぬ田沼意次であった。意次は医学館が創設された明和2(1765)年時点でこそ御側御用取次であったが、いや、中奥の事実上の最高長官である御側御用取次であったからこそ、幕政に大きな影響力を行使することができ、当時…、明和2(1765)年の時点で本丸奥医師であった多紀元孝もそのことは良く承知していたからこそ、御側御用取次の意次に対して、
「医学館を創設したい…」
そう陳情したのであった。ちなみに当時の中奥には御側御用取次の意次の上に御側御用人として板倉佐渡守勝清が控えており、御側御用人と御側御用取次とでは一応、御側御用人の方が上であるので、名目上は御側御用人の板倉勝清こそが中奥の最高長官と言えたが、しかし実際には板倉勝清は、
「お飾りの側用人…」
それに過ぎず、事実上、意次こそが中奥の最高長官であり、元孝はやはりこのことも承知していたからこそ、「お飾りの御側御用人」の板倉勝清ではなくて、事実上の中奥の最高長官であった意次に陳情したのであった。
それに対して意次はと言うと、一応、勝清とも相談の上、将軍・家治に対して多紀元孝からのその陳情を伝えた上で、
「是非とも医学館の創設を認めてやり度…」
意次は勝清共々、そう己の意見を申し述べ、それに対して将軍・家治も医学館の必要性を認めてくれたので、そこで意次は医学館を実際に創設するには表向の最高長官である老中や、或いは副長官とも言うべき若年寄との協議が欠かせないので、そこで表向の最高長官である老中や、或いは副長官とも言うべき若年寄と協議を行うことを認めて欲しいと、意次は将軍・家治に対して更にそう頼み、これに対して家治もやはり意次のその申し出を至当と認め、これを許したのであった。
こうして意次は御側御用人の板倉勝清と共に、表向へと出向いては、老中や若年寄に対しても多紀元孝からの陳情をそのまま伝えた上で、元孝が望む通り、医学館の創設を認めて欲しいと、意次は老中や若年寄に対してそう頼み、それに対して老中のそれも首座にして勝手掛をも兼務する松平右近将監武元が即座に意次のその申し出を了としたので、他の老中や、さらに若年寄までもがそれこそ、
「雪崩を打って…」
意次の申し出を、つまりは医学館の創設を望む多紀元孝のその陳情が容れられたのであった。ちなみに老中首座にして勝手掛をも兼務する松平武元は意次とは盟友関係にあり、そうであればこそ、武元は意次のその申し出に対して即座に頷いてみせたのであった。
こうして元孝の望み通り、医学館の創設が認められると、意次はその医学館を創設するための敷地こそ元孝に与えるものの、その後のことは、即ち、医学館の運営については、
「多紀家が独力にてこれを運営せしむるものとす…」
意次はそうも提案して、やはり皆の賛同を得た。とりわけ財政を担う勝手掛を兼務する老中首座の松平武元としてはその方が幕府の財政に負担をかけずに済むというもので、意次との盟友関係も相俟って、異論はなかった。
それに対して元孝はと言うと、元より医学館創設の言わば、
「言いだしっぺ…」
その立場である以上、医学館についてはこれを認める代わりに、
「多紀家が独力にてこれを運営」
させるとする、幕府の条件を呑まざるを得ず、それゆえ幕府より与えられた敷地の上に上物とも言うべき医学館を建設する資金については元孝は「ポケットマネー」でこれを賄い、さらに運営資金についても同じく「ポケットマネー」で賄うこととした。
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