天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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躋寿館 ~経営者としての元悳~

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 だがそれが…、多紀たき家の「ポケットマネー」で医学館を運営うんえい出来たのも明和5(1768)年までのことであった。すで多紀たき家は元孝もとたかから今の当主である元悳もとのりへとだいわりを果たしており、それにともない、医学館の督事とくじ元孝もとたかから元悳もとのりへとだいわり、それから2年が経過しようとしていた。

 流石さすがに明和5(1768)年にもなると、多紀たき家の財産は底をつき始め、財政的に多紀たき家の独力どくりょくにて医学館を運営うんえいするのは不可能となってきた。

 そこで元悳もとのりはやはり父・元孝もとたかと同じく、意次に陳情ちんじょうを行ったのである。すなわち、資金援助の陳情ちんじょうである。

 明和5(1768)年には意次は御側おそば御用ごよう取次とりつぎから御側おそば御用ごようにんへと栄達えいたつかさねていた。それも板倉いたくら勝清かつきよのような、

「おかざりの側用人そばようにん…」

 などではなく、名実めいじつともに実力のある、つまりは御側おそば御用ごよう取次とりつぎ手中しゅちゅうおさめる御側おそば御用ごようひとであった。

 ちなみに前の御側おそば御用ごようにん板倉いたくら勝清かつきよはその当時、家基いえもとが住んでいた西之丸にしのまるの老中へと異動いどうたし、それゆえ御側おそば御用ごようにんのポストが空席くうせきとなったために、ただ一人ひとり御側おそば御用ごよう取次とりつぎであった意次がその空席くうせきめるべく、御側おそば御用ごよう取次とりつぎの上に位置いちする御側おそば御用ごようにんへと昇進しょうしんたしたというわけだ。

 ともあれ元悳もとのりより資金援助の陳情ちんじょうを受けた意次はやはり将軍・家治にその陳情ちんじょうを伝えた上で、

「町医者に医学館に通うことをすすめ、その代わりに町医者には医学館に対して醵金きょきんを求める…」

 そのアイディアを披瀝ひれきしたのであった。そうすれば町医者の質的しつてき向上こうじょうはかれると同時に、医学館の運営うんえいにもするというわけで、このアイディアは意次の発案によるものであった。

 そして意次のそのアイディアにしてもやはり幕府の財政に負担ふたんをかけないものとして、わらずに幕府の財政をにな勝手かってかかり兼務けんむする老中首座しゅざとして表向おもてむきにて君臨くんりんする松平まつだいら武元たけちか即座そくざに賛同してくれたおかげで、他の老中や若年寄も意次のそのアイディアを認めたために、晴れてそのむね、幕府のおれとして江戸市中に公告こうこくされたのであった。

 だが現実は意次の思惑おもわく通りにはいかなかった。すなわち、意次が、そして元悳もとのりが期待したほどには町医者が医学館に通ってくれず、それはそのまま醵金きょきんの少なさとなって表れた。

 小野おの章以あきしげが、これからは貧者ひんじゃからのやくだい不要ふよう無論むろん差額さがくを医学館に請求することもしないと、そう言い出したのはまさにそんな時であった。

 のみならず、小野おの章以あきしげは年間50両もの醵金きょきん…、資金醵出きょしゅつを約束してくれたのであった。これでは教師が学校より給与を支払ってもらうのではなく、逆に授業料を払うようなものであり、まさにあべこべな話であろう。

 小野おの章以あきしげよりその申し出を受けた元悳もとのり流石さすがに己の耳を疑い、思わず何度も聞き返したほどであった。

 だが小野おの章以あきしげは決して冗談じょうだん酔狂すいきょうでそのような重大なことを申し出たわけではなく、それが証拠しょうこにその翌日には実際に50両を持参じさん、それを元悳もとのりたくしたのであった。

何卒なにとぞ、医学の進歩のために役立ててくだされ…」

 小野おの章以あきしげはそう言って50両を元悳もとのりたくしたのであった。元悳もとのり小野おの章以あきしげに大いに感謝感激したことは言うまでもない。

 爾来じらい小野おの章以あきしげは毎年50両もの大金をこの躋寿せいじゅかん醵出きょしゅつしていた。

 ちなみに医学館から今の、「躋寿せいじゅかん」へと名を改めたのは明和9(1772)年のことであった。いや、正確には安永元年と言うべきであろうか。

 明和9(1772)年の2月29日に発生した目黒めぐろ行人ぎょうにんざか大火たいかは医学館をもんだ。

 元悳もとのり流石さすが落胆らくたんし、一時いっときは本気で医学館を閉じようかとも思ったほどであった。

 だがそんな元悳もとのりに対して小野おの章以あきしげは何と、いつもの醵金きょきんの50両にうわせする格好で150両もの大金を醵出きょしゅつしてくれたのであった。

 つまり合わせて200両もの醵金きょきんであり、これだけあれば他からの醵金きょきんも合わせて医学館の再建さいけんには十分にりるというものであった。

 それも前よりも立派な、設備のととのった医学館を再建さいけん出来るというものであり、結局、|医学館が再建さいけんしたのはそれから丁度ちょうど9ヵ月後の11月29日のことであり、元号げんごうすでに安永にあらたまっていた。

 さて意知おきとも元悳もとのりよりそれらの事情を聞かされるや、元悳もとのりが何ゆえに小野おの章以あきしげ捕縛ほばくを気にかけるのか、その理由がようやくにめた。要は金であった。

 小野おの章以あきしげ家基いえもと殺害の共犯により捕縛ほばくされるようなことにでもなれば、小野おの章以あきしげよりの毎年の醵金きょきん、それも50両にものぼ醵金きょきん途絶とだえてしまうと、元悳もとのりはそれを案じていたのだ。

 意知おきともはそんな元悳もとのりのさしずめ、

かくされた一面いちめん…」

 それも見たくはなかった一面いちめんを見せ付けられたようで、意知おきとも落胆らくたんしたが、しかしすぐにそれがとんだ「おかどちがい」であることに意知おきともは気付かされた。

 それと言うのも意知おきともは、いや、意知おきともに限らず父・意次をふくめたすべての武士に当てまることであったが、意知おきともたち武士は領民りょうみん…、百姓ひゃくしょうが生産する米を年貢ねんぐとして取り立て、その年貢ねんぐまいを売り、あるいは食用にして生計せいけいを立てていた。要は武士は百姓ひゃくしょうの上に胡坐あぐらをかいているようなものであり、生活の心配をする必要はなかった。

 だが元悳もとのりはそうはいかない。いや、元悳もとのりもこの躋寿せいじゅかん兼務けんむする格好で本丸ほんまるおく医師いしつとめており、そうであれば幕府の官医かんいということで、武士と同様、この元悳もとのりにも蔵米くらまいという形で年貢ねんぐまい俸禄ほうろくとして支給しきゅうされていた。元悳もとのりの場合、己が当主をつとめる多紀たき家には毎年2百俵もの蔵米くらまい俸禄ほうろくとして支給しきゅうされていた。

 そうであれば元悳もとのりとて、百姓ひゃくしょうの上に胡坐あぐらをかく武士と同じという見方みかたも出来るやも知れなかったが、しかし、元悳もとのりの場合は本丸ほんまるおく医師いしとしての顔の他にもこの躋寿せいじゅかん督事とくじとしての顔をも持ち合わせており、そのため元悳もとのり躋寿せいじゅかん運営うんえいのためにそれこそ、

骨身ほねみけずる…」

 日々ひびがそのれであり、躋寿せいじゅかん運営うんえいには絶対にと言っても決して過言かごんではない資金調達も元悳もとのり骨身ほねみけずらせる一つの要素ようそであり、いや、最大の要素ようそであろう。

 そのため元悳もとのりはまず、祖先より受けいだ私財しざい躋寿せいじゅかん運営うんえいそそみ、それが底をつくや、己に支給しきゅうされている、本丸ほんまるおく医師いしとしての給与である俸禄ほうろくまいの2百俵をまずそそみ、それだけでは躋寿せいじゅかん運営うんえいには到底とうていりず、そこで元悳もとのりは意次を頼り、幕府より江戸の町医者に対して医学館へと通うことをすすめると同時に、その医学館に是非ぜひとも醵金きょきんをと、その触れを出させることに成功したわけだが、しかしそれでも思うように醵金きょきんは集まらず、そこへまるで救世きゅうせいしゅごとく、小野おの章以あきしげが年間50両もの醵金きょきんを約束してくれ、実際、今にいたるまで小野おの章以あきしげは年間50両もの醵金きょきんを続けてくれていた。

 そのような小野おの章以あきしげ家基いえもと殺害の共犯として捕縛ほばくされるやも知れぬとなれば、元悳もとのりが金のことを心配するのは至極しごく当然のことであり、それを、

かくされた一面いちめん…」

 などと、それこそ元悳もとのりの見たくなかった、やみの部分でも見せられたかのように思うのは、あまつさえ落胆らくたんするなど、とんだおかどちがいというものであった。

 少なくとも意知おきともを始めとする武士は、つまりは百姓ひゃくしょうの上に胡坐あぐらをかいては生活の心配をする必要のない武士はそのような、金の心配をする元悳もとのりを非難する資格はなかった。無論、勝手に落胆らくたんする資格さえも、である。元悳もとのりを非難できるのは精々せいぜい元悳もとのりに毎年支給しきゅうされている俸禄ほうろくまいの2百俵、それが生産されている幕領(天領)における百姓ひゃくしょう程度ていどのものであろう。
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