天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

文字の大きさ
157 / 197

大奥篇 ~倫子、萬壽姫、千穂、そして種姫~ 7

しおりを挟む
 こうして種姫たねひめ萬壽ますひめの「あそ相手あいて」をつとめるようになり、それは萬壽ますひめくなる直前の、安永2(1773)年の2月まで続いた。

 ともあれ種姫たねひめ萬壽ますひめの「あそ相手あいて」をつとめるようになった背景はいけいにはこのような事情、さしずめ、

「ルート」

 それがかくされており、そしてその「ルート」は家基いえもと種姫たねひめとの、

縁談えんだん

 それにおいても活用された。

 すなわち、江戸城本丸ほんまる大奥にてつとめる御客おきゃく会釈あしらい向坂さきさかから、田安たやす家サイドに、それも、

公儀こうぎおく女使おんなづかい…」

 として本丸ほんまる大奥に出入りする、田安たやす家の侍女じじょ廣瀬ひろせへと伝わり、そして廣瀬ひろせからさら田安たやす家の重臣じゅうしんである竹本たけもと要人かなめ常見つねみ文左衛門ぶんざえもんへと…、その「ルート」で次期将軍であった家基いえもと種姫たねひめとの「縁談えんだん」が田安たやす家サイドへと伝わったのだ。

 いや、この時…、倫子ともこに続いて萬壽ますひめまでがくなった安永2(1773)年時点ですでに、それまで常見つねみ文左衛門ぶんざえもんと共に番頭ばんがしら御役おやくにあった竹本たけもと要人かなめは、

御側おそば用人ようにん

 へと昇進しょうしんたしていた。いや、

一頭いっとういた…」

 と言った方が正確せいかくやも知れぬ。何しろ御三卿ごさんきょう御側おそば用人ようにんともなると、従六位じゅろくい相当そうとうする布衣ほい役と、その点は番頭ばんがしらと同じだが、しかしその…、御側おそば用人ようにん役料やくりょうたるや千俵と、番頭ばんがしらのそれの5倍であった。

 すなわち、番頭ばんがしら役料やくりょうは200俵に過ぎなかった。

 それが御側おそば用人ようにん役料やくりょうともなると千俵であり、これは家老かろう役料やくりょうの2千俵にもせまる。

 その御側おそば用人ようにん竹本たけもと要人かなめが取り立てられたのはやはり、田安たやす宗武むねたけ母堂ぼどう…、実母じつぼ古牟こん縁者えんじゃだからであろう。

 一方、田安たやす家のわば譜代ふだいの臣である常見つねみ文左衛門ぶんざえもんあいわらず番頭ばんがしらの地位にかれたままであり、それが竹本たけもと要人かなめが一人、

一頭いっとうく…」

 その格好かっこう御側おそば用人ようにんに取り立てられたわけで、それはすなわち、

田安たやす邸内ていないにおける勢力せいりょく均衡きんこう変動へんどう…」

 所謂いわゆる、パワーバランスの変動へんどうが生じた。

 そして廣瀬ひろせも「公儀こうぎおく女使おんなづかい」に選ばれるだけあって、さとい女であり、それゆえこの「パワーバランスの変動へんどう」も敏感びんかんぎ取り、するとそれまで何をおいてもさき竹本たけもと要人かなめ常見つねみ文左衛門ぶんざえもんの二人に報告していたのが、竹本たけもと要人かなめ御側おそば用人ようにん昇進しょうしんたすや、つまりは、

「パワーバランスの変動へんどう

 それ以降いこうは、廣瀬ひろせさきに報告すべき相手あいて竹本たけもと要人かなめ一人にしぼったのであった。

 それに対して竹本たけもと要人かなめはと言うと、廣瀬ひろせのその、

正確せいかくなる状況じょうきょう認識にんしき…」

 要はこの田安たやす邸内ていないにおいては誰が一番、えらいのか、それをぎ取った廣瀬ひろせの「聡明そうめいさ」をめそやしつつ、そこは海千うみせん山千やませんの男だけあって、

「されば廣瀬ひろせ殿より、身共みども常見つねみ殿に対していま一度いちど、同じくしらせを…」

 そう提案してみせたのだ。

 要は最初に己一人が報告を受けたことを常見つねみ文左衛門ぶんざえもんさとられないためである。

 廣瀬ひろせよりさきに、例えばこの、家基いえもと種姫たねひめ縁談えんだんの件ならば、大奥の御客おきゃく会釈あしらい向坂さきさかより家基いえもと種姫たねひめとの縁談えんだんの「オファー」を伝えられた廣瀬ひろせ田安たやす邸へとその「オファー」を持ち帰ると、さきにその「オファー」を受けたことをしらせた相手あいて御側おそば用人ようにん竹本たけもと要人かなめであるにもかかわらず、竹本たけもと要人かなめとしては廣瀬ひろせよりさきにその「オファー」を受けたことをしらされたことを常見つねみ文左衛門ぶんざえもんさとられないために、廣瀬ひろせにはもう一度、今度は己…、竹本たけもと要人かなめ常見つねみ文左衛門ぶんざえもんが「なかく」ならぶ前で、「オファー」を受けたことを伝えてもらい、その際、竹本たけもと要人かなめは今、初めて聞いたような顔をしてみせたのであった。

 それもこれも常見つねみ文左衛門ぶんざえもんの「おへそ」をげさせないための、竹本たけもと要人かなめなりの、

なみだぐましい配慮はいりょ

 であったが、それなら今まで通り、廣瀬ひろせには竹本たけもと要人かなめ常見つねみ文左衛門ぶんざえもんの二人に対してさきしらせればむ話であったが、しかし、竹本たけもと要人かなめとしてはそこまで常見つねみ文左衛門ぶんざえもんに対して「配慮はいりょ」するつもりはなかった。

 竹本たけもと要人かなめとしては…、御側おそば用人ようにんへと昇進しょうしんたした竹本たけもと要人かなめは、

御側おそば用人ようにんたる己の方があいわらず番頭ばんがしらぎぬ常見つねみ文左衛門ぶんざえもんよりも上である…」

 その意識いしき芽生めばえたので、廣瀬ひろせのその判断…、さき報告ほうこくすべき相手あいてを己…、竹本たけもと要人かなめ常見つねみ文左衛門ぶんざえもんの二人から己一人…、竹本たけもと要人かなめ一人にしぼった廣瀬ひろせのその判断を大いに「歓迎かんげい」していたからだ。

 ともあれ廣瀬ひろせは大奥の御客おきゃく会釈あしらい向坂さきさかより、家基いえもと種姫たねひめ縁談えんだんの「オファー」を受けたことを竹本たけもと要人かなめ常見つねみ文左衛門ぶんざえもんの二人に打ち明けるや、二人は「おどろく」と同時に、即座そくざ賛同さんどうした。

 何と言っても己がつかえる、主家しゅけ姫君ひめぎみ…、娘が次期将軍のよめになれるという話である。反対すべき理由はどこにもなかった。養母ようぼ宝蓮院ほうれんいんにしてもそうであろうし、何より当人とうにんとも言うべき種姫たねひめ自身じしん、次期将軍たる家基いえもととの縁談えんだんいやがるはずがなかった。

 それでも廣瀬ひろせたちはやはり一応いちおうと言うべきか、

廣敷ひろしきつき用人ようにん

 宝蓮院ほうれんいんづき用人ようにんを通じて宝蓮院ほうれんいんにもこのむね…、縁談えんだんの「オファー」を伝え、それに対して宝蓮院ほうれんいん廣瀬ひろせたちが予期よきした通りの反応はんのうを示した。

 すなわち、即座そくざ賛同さんどうしてみせたのであった。

 いや、無論むろん種姫たねひめ当人とうにんの気持ちもあるだろうが、しかしそれについても宝蓮院ほうれんいんが、

「この身が必ずや種姫たねひめうなずかせてみせましょうぞ…」

 種姫たねひめにこの縁談えんだんを必ずや受けさせると、そうってくれたのであった。

 宝蓮院ほうれんいんはその上で廣瀬ひろせたちに対して、

「この家老かろうにも伝えられた方がよろしかろう…」

 そうアドバイスをしたのであった。それは廣瀬ひろせたちがすっかり失念しつねんしていたことで、如何いか廣瀬ひろせたちが家老かろう…、御三卿ごさんきょう家老を軽視けいししていたかの証左しょうさでもあった。

 実際、先の種姫たねひめ萬壽ますひめあそ相手あいてつとめる件につき、御三卿ごさんきょう家老が…、田安たやす家老の山木やまき筑前守ちくぜんのかみ正信まさのぶ大屋おおや遠江守とおとうみのかみ昌富まさとみの二人がそれを知ったのは当日とうじつのことであった。

 すなわち、廣瀬ひろせたちは家老かろうの二人に報告するのをすっかり失念しつねんしていたのだ。

 いや、萬壽ますひめあそ相手あいてつとめる件につき、種姫たねひめ諒承りょうしょうが得られた時点で廣瀬ひろせたちは家老かろうの二人にも報告するつもりでいたのだが、それが萬壽ますひめ諒承りょうしょうしてくれたことでホッとしたために、家老かろうへの報告をすっかり忘れてしまい、結果、宝蓮院ほうれんいん萬壽ますひめの手を引いて、初めて御城おしろへと登城とじょうするだんになって、家老かろうの二人は宝蓮院ほうれんいんより種姫たねひめ萬壽ますひめあそ相手あいてつとめる件を知らされるという有様ありさまであった。

 この時ばかりは流石さすが山木やまき正信まさのぶにしろ、大屋おおや昌富まさとみにしろ不快ふかいであり、廣瀬ひろせたちも家老かろうの二人をめ過ぎたと大いに反省したものである。

 それが今回は縁談えんだんである。あそ相手あいてつとめる比ではない。今度もまた、家老かろうの二人は、

蚊帳かやの外…」

 だったとなれば、山木やまき正信まさのぶ大屋おおや昌富まさとみだい激怒げきどに違いなかった。別段べつだん山木やまき正信まさのぶ大屋おおや昌富まさとみだい激怒げきどしたところで、廣瀬ひろせたちは少しもこわいとは思わなかったが…、精々せいぜい五月蠅うるさいと思う程度ていどぎなかったが、それでも衝突しょうとつ回避かいひできるのであれば、回避かいひするにしたことはない。

 それゆえ今度は廣瀬ひろせたちは、

「忘れずに…」

 家老かろう山木やまき正信まさのぶ大屋おおや昌富まさとみの二人に対しても家基いえもと種姫たねひめとの縁談えんだんを…、その「オファー」が大奥の御客おきゃく会釈あしらい…、将軍・家治に附属ふぞくする御客おきゃく会釈あしらい向坂さきさかよりあったことを打ち明けたのであった。

 それに対して家老かろう山木やまき正信まさのぶ大屋おおや昌富まさとみは二人共、誇張こちょうではなし、

狂喜きょうき乱舞らんぶ

 それをしたものである。御三卿ごさんきょう家老というポストは、「附人つけびと」、すなわち、御三卿ごさんきょうの、

「お目付めつけ役」

 として、ご公儀こうぎ…、幕府よりされた者であるが、それでも「お目付めつけ役」とは言え、己が家老かろうとしてつかえる、その御三卿ごさんきょうより、娘が次期将軍に見初みそめられたとあらば、うれしくないわけがなかった。

 そして肝心かんじんかなめの、当人とうにんである種姫たねひめ意向いこうはと言うと、こちらもまた廣瀬ひろせたちが予期よきした通り、即座そくざ快諾かいだくしてみせたのであった。

 こうして田安たやす家サイドより、種姫たねひめ家基いえもととの縁談えんだんを、

つつしんで受け申し上げまする…」

 その意向いこうが「公儀こうぎおく女使おんなづかい」の廣瀬ひろせより大奥の御客おきゃく会釈あしらい向坂さきさかへと伝えられたのはその翌日よくじつ…、萬壽ますひめ薨去こうきょしてから丁度ちょうど一月ひとつき後の3月20日のことであった。

 種姫たねひめ家基いえもととの縁談えんだんを受け入れた…、そのことはただちに将軍・家治にも向坂さきさかより年寄としより松島まつしま高岳たかおかの二人をかいして伝えられた。

 すると家治はそれを受けてもう一度、それもただちに、あいわらず西之丸にしのまるの大奥にすわり続ける側室そくしつ千穂ちほと、千穂ちほつかえる年寄としより玉澤たまざわを始めとするおく女中じょちゅうたちに対して、家基いえもと種姫たねひめとの縁談えんだんを伝えた上で、

「されば種姫たねひめは将軍たる養女ようじょさだめし上で、家基いえもとしつとして西之丸にしのまるの大奥へとむかえるゆえ、内証ないしょうぎぬそなたよりも立場は上ぞ…」

 家治は千穂ちほに対してそんな「おどし」とも取れる「メッセージ」を発したのであった。

 いや、千穂ちほからすれば、その「メッセージ」は立派りっぱな「おどし」そのものであった。

 何しろ、西之丸にしのまるの大奥に家基いえもと御台所みだいどころとして、のみならず、将軍・家治の養女ようじょとしてむかえられる種姫たねひめかしずかねばならないと、そうおどされたも同然どうぜんであるからだ。

 いや、千穂ちほ一介いっかい側室そくしつぎない「お内証ないしょう様」かられて次期将軍の生母せいぼである「お部屋へや様」へと昇格しょうかくたせばこの問題は解決する。すなわち、種姫たねひめかしずく必要はないということだ。

 だが家治からのおどし、もとい「メッセージ」からは家治が千穂ちほを「お部屋へや様」へと昇格しょうかくたさせるつもりがないことが読み取れた。

 それゆえ家治のその「おどし」もとい「メッセージ」の効果たるや、千穂ちほにとってはまさに、

覿面てきめん

 それであり、千穂ちほただちに西之丸にしのまるの大奥から本丸ほんまるの大奥へと、

避難ひなん

 しようとした。だがそれを年寄としより玉澤たまざわせいしたのであった。

「どうせ本丸ほんまるの大奥へと、おもどりあそばされますのなら、この際、お内証ないしょう様から、お部屋へや様への昇格しょうかくを、上様うえさまねがげられましては如何いかがでござりましょうや?」

 玉澤たまざわのその提案ていあん千穂ちほの気持ちを大きく動かした。それと言うのも「お内証ないしょう様」から「お部屋へや様」への昇格しょうかく千穂ちほがずっと望んできたことであるからだ。

 そこで千穂ちほ玉澤たまざわのその「アドバイス」にしたがい、あわてて本丸ほんまるの大奥へと「避難ひなん」することは取りめ、その代わり、玉澤たまざわが口にしたその「アドバイス」、もとい、

本丸ほんまるの大奥にもどわりに己をお内証ないしょう様から、お部屋へや様へと昇格しょうかくさせて欲しい…」

 その条件を将軍・家治への「メッセージ」として届けたのであった。

 これに対して将軍・家治はと言うと、千穂ちほがその条件を持ち出すであろうことはなか予期よきしていたことであったので、たいしておどろきもなく、

本丸ほんまるの大奥へともどって来たならば、千穂ちほが望む通り、お部屋へや様へと昇格しょうかくさせてやろうぞ…」

 即座そくざにそう、千穂ちほに対して「メッセージ」を送ったのであった。

 するとそれを受けた千穂ちほは今度こそ、本丸ほんまるの大奥へともどろうとしたものの、そんな千穂ちほをやはり年寄としより玉澤たまざわせいしたのであった。

「お千穂ちほ方様かたさま本丸ほんまるの大奥へとおもどりあそばされましたる途端とたんてのひらかえして、お部屋へや様への昇格しょうかくの件をたなざらしにせし魂胆こんたんやも知れませぬ…」

 玉澤たまざわはその恐れを千穂ちほに対して伝え、その上で、

「されば、本丸ほんまるの大奥へと、おもどりあそばされまする前に、お部屋へや様へと昇格しょうかくさせて欲しいと、上様うえさまねがい上げられましては如何いかがでござりましょうや…」

 玉澤たまざわ千穂ちほに対してそんな「アドバイス」までする始末しまつであった。

 すると千穂ちほもまたしても玉澤たまざわのその「アドバイス」をもっともであると感じ、そこで玉澤たまざわのその「アドバイス」にしたがい、

本丸ほんまるの大奥へともどる前に、お部屋へや様へと昇格しょうかくさせて欲しい…」

 千穂ちほは家治に対してさらにそんな「メッセージ」を送ったのであった。

 すると今度は家治が強い「拒否きょひ反応はんのう」を示す番であった。

 それはそうだろう、何しろ千穂ちほが望む通り、本丸ほんまるの大奥にもどって来る前に千穂ちほを「お内証ないしょう様」から「お部屋へや様」へと昇格しょうかくたさせてやったが最期さいご、そのまま西之丸にしのまるの大奥に今まで通り、すわる恐れがあり得たからだ。

 勿論もちろん、家治はただちにこれを拒否きょひする返答をした。

 それにしても千穂ちほがここまで水際みずぎわった返答へんとうをよこすとは、千穂ちほには申し訳ないが、到底とうてい千穂ちほ才覚さいかくとは思えなかった。それと言うのも千穂ちほ生憎あいにく、そこまで頭が回るような女には少なくとも家治には見えなかったからだ。

「これは背後はいご千穂ちほそそのかす誰かがいるに相違そういあるまいて…」

 家治はそう直感ちょっかんすると、その誰かが、

年寄としより玉澤たまざわ相違そういあるまい…」

 すぐにそう、玉澤たまざわ連想れんそうしたものである。

 ともあれ事態じたい膠着こうちゃくするかに思われたが…、それどころか最悪さいあく強制きょうせい排除はいじょの可能性もあり得たが、これを打破だはしたのは意外いがいにも千穂ちほ、もとい玉澤たまざわであった。

 玉澤たまざわは家治が察した通り、千穂ちほそそのかし、家治にあらたな提案ていあんをさせたのだ。その提案ていあんたるや、

西之丸にしのまるの大奥から本丸ほんまるの大奥へともどるのは千穂ちほ一人」

千穂ちほつかえる年寄としより玉澤たまざわを始めとするおく女中じょちゅうは皆、西之丸にしのまるの大奥に残り、本丸ほんまるの大奥へと一人もどった千穂ちほがお部屋へや様へと昇格しょうかくたしたのをとどけた後、玉澤たまさわたちおく女中じょちゅうも皆、西之丸にしのまるの大奥から本丸ほんまるの大奥へともどる…」

 といった内容であった。つまり、仮に本丸ほんまるの大奥へと一人もどった千穂ちほが約束通り、「お部屋へや様」へと昇格しょうかくたせないようなら、西之丸にしのまるすわる、いや、篭城ろうじょうする玉澤たまざわたちが引き続き、その西之丸にしのまるの大奥にて豪奢ごうしゃな生活を送ると、将軍・家治をそうおどしていたのだ。

 ともあれ、玉澤たまざわのその提案ていあんは家治・千穂ちほ両者りょうしゃの顔が立つものであり、そこで家治はこの提案ていあんりょうとする「メッセージ」を千穂ちほ、もとい玉澤たまざわに送ったのであった。

 するとそれからもなくして、本当に千穂ちほが一人で西之丸にしのまるの大奥から本丸ほんまるの大奥へともどって来たのであった。いや、一応いちおう下女げじょが一人、千穂ちほっていたものの、事実上、一人であった。

 それでも千穂ちほがここ本丸ほんまるの大奥へともどって来たことにわりはないので、家治も約束通り、千穂ちほを「お内証ないしょう様」から「お部屋へや様」へと昇格しょうかくたさせたのであった。

 これで玉澤たまざわたちおく女中じょちゅう西之丸にしのまるの大奥から本丸ほんまるの大奥へともどって来れば、

万事ばんじまるおさまる…」

 というものであったが、しかし、現実にはそうあまくはなかった。

 それと言うのも将軍・家治は見事みごと玉澤たまざわかれてしまったからだ。

 どういうことかと言うと、千穂ちほれて、「お部屋へや様」へと昇格しょうかくたしたにもかかわらず、玉澤たまざわたちおく女中じょちゅうは皆、西之丸にしのまるの大奥より本丸ほんまるの大奥へともどって来ようとはしなかったからだ。

 当然、家治は激怒げきどした。それはそうだろう、何しろ年寄としより玉澤たまざわを始めとするおく女中じょちゅうは、

本丸ほんまるの大奥へと一人もどった千穂ちほがお部屋へや様へと昇格しょうかくたしたのをとどけた後、玉澤たまさわたちおく女中じょちゅうも皆、西之丸にしのまるの大奥から本丸ほんまるの大奥へともどる…」

 家治に対してそう約束していたからだ。そうであれば、

は約束通り、千穂ちほ部屋へやがたに…、お部屋へや様へと昇格しょうかくさせてやったのだから、今度はそなたらおく女中じょちゅうが約束を守る番ぞ…」

 家治は玉澤たまざわに対してそう「メッセージ」を…、ただちに西之丸にしのまるの大奥から本丸ほんまるの大奥へともどって来いとの「メッセージ」を送ったのであった。

 だがそれに対して玉澤たまざわはと言うと、

「確かに、千穂ちほがお部屋へや様へと昇格しょうかくたしたのをとどけた後…」

 西之丸にしのまるの大奥から本丸ほんまるの大奥へともどるとは言ったが、それがいつなのか…、つまりはとどけた後、ただちにもどるとは言ってないと、玉澤たまざわはそううそぶいてみせたのであった。

 てき…、玉澤たまざわの方が家治よりも「役者やくしゃ」が一枚上であったと言うべきか、これにはさしもの家治も「お手上てあげ」であった。

 一方、松島まつしま高岳たかおかたち年寄としよりはと言うと、将軍・家治づき年寄としよりであるので、おおっぴらには表に出せなかったものの、それでも内心ないしん玉澤たまざわのそのあざやかなる手口てぐち…、将軍・家治をもいたそのあざやかなる手口てぐちに、

したいた…」

 ものであった。

 そしてかれた格好かっこうの家治はと言うと、玉澤たまざわ千穂ちほ味方みかたのようなフリをしながら、その実、本丸ほんまるの大奥にくらべて制約せいやくの少ない、つまりは、

自由じゆう快適かいてき

 その西之丸にしのまるの大奥にいつまでもすわりたいがために、千穂ちほ味方みかたを…、さしずめ「参謀さんぼう」をつとめていたのだと、それに気付かされ、それから家治はそのような玉澤たまざわに対して怒りの感情がみ上げてきた。

 家治は千穂ちほふたたび、「お内証ないしょう様」から「お部屋へや様」へと降格こうかくさせようかとも思ったが、しかし、それではみすみす、玉澤たまざわたちおく女中じょちゅうに対して、西之丸にしのまるの大奥にすわつづける格好かっこう口実こうじつを与えることとなり、第一だいいち玉澤たまざわかれたからと言って、それで千穂ちほふたたび、「お内証ないしょう様」から「お|部屋へや様」へと降格こうかくさせるのは、

たり…」

 それ以外の何ものでもなく、それに何より、いったん「お部屋へや様」へと昇格しょうかくさせた千穂ちほふたたび、「お内証ないしょう様」へと降格こうかくさせるなど、元より不可能ふかのうであった。

 そこで家治は極力きょくりょく、怒りをおさえつつ、

本丸ほんまるの大奥にては、お部屋へや様となった千穂ちほが、己につかえしおく女中じょちゅうがおらぬので、大変、難儀なんぎをしておる。されば千穂ちほのためにも、今すぐに本丸ほんまるの大奥へともどってまいれ…」

 玉澤たまざわに対してそう「メッセージ」を送ったのであった。あくまで玉澤たまざわ良心りょうしんうったえかけるものであった。

 だがそれに対して玉澤たまざわはと言うと、そのような家治の配慮はいりょみにじるかのような返答へんとうをよこした。すなわち、

上様うえさまづきおく女中じょちゅうがおられるではありませぬか…」

 将軍・家治づきおく女中じょちゅう面倒めんどうを見てもらえば良いではないかと、玉澤たまざわはそれそこ、

はなくくったよう…」

 そのような返答へんとう寄越よこしたものだから、ことここにいたっては、家治は最早もはや

強制きょうせい排除はいじょし…」

 そう決断しようとした。今、西之丸にしのまるの大奥に残っているのは千穂ちほつかえるおく女中じょちゅうばかりであり、千穂ちほはその中には当然とうぜんふくまれてはいなかったので、それゆえ「強制きょうせい排除はいじょ」の結果、怪我けがにんが出ようとも、家治は一向いっこうかまわなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

仇討浪人と座頭梅一

克全
歴史・時代
「アルファポリス」「カクヨム」「ノベルバ」に同時投稿しています。 旗本の大道寺長十郎直賢は主君の仇を討つために、役目を辞して犯人につながる情報を集めていた。盗賊桜小僧こと梅一は、目が見えるのに盗みの技の為に盲人といして育てられたが、悪人が許せずに暗殺者との二足の草鞋を履いていた。そんな二人が出会う事で将軍家の陰謀が暴かれることになる。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

処理中です...