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大奥篇 ~倫子、萬壽姫、千穂、そして種姫~ 最終章・倫子と萬壽姫が家基よりも先に毒殺された理由
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将軍・家治は約束を反故にして西之丸の大奥に「篭城」する玉澤たちの「強制排除」を一度は決断したものの、しかし、将軍・家治に附属する年寄の松島と高岳に諫められて、それは取り止めた。
尤も、家治が玉澤たちの「強制排除」を白紙に戻したのは他でもない、高岳が策を…、玉澤たち奥女中が、
「自主的に…」
西之丸の大奥から出て来たくなるような、そのように仕向ける策を家治に授けてくれたためであり、仮に高岳が家治にその策を授けてくれなかったならば、家治は年寄の松島や高岳を無視する格好で、玉澤たち年寄を西之丸の大奥より、
「強制排除…」
例え、怪我人が出ようとも、或いは死人が出ようとも、その「強制排除」を実行するつもりでいた。ここまで家治が強行姿勢を見せることは滅多にないが、それだけ玉澤たち奥女中に対して、いや、将軍たる己をまんまと出し抜いてくれた玉澤に対して、憤りを通り越して、殺意まで抱いていた。
そしてそのことは松島や高岳にもすぐにそうと察せられたので、それゆえその中でも高岳は玉澤の身を案じればこそ、その家治に対して玉澤たち奥女中が西之丸の大奥より自らすすんで出て来たくなるよう仕向ける策を家治に対して献上…、献策したのであった。
それではその策とは何かと言うと、
「西之丸の大奥の警衛・監察を担う西之丸廣敷番之頭の数を増やす…」
というものであった。
玉澤たち奥女中がそもそも何ゆえに西之丸の大奥に篭城しているのか、その原因を突き詰めれば、
「西之丸の大奥の方が本丸の大奥よりも居心地が良いから…」
それに尽きた。
それでは更に進めて、玉澤たち奥女中は何ゆえに西之丸の大奥の方が本丸の大奥よりも居心地が良いと感じるのか、それを考えた時に出される答えは、
「本丸の大奥では9人もの廣敷番之頭がその本丸の大奥に目を光らせているものの、しかし、西之丸の大奥においては、その大奥の警衛・監察に当たる廣敷番之頭は、
「たった3人しかいない…」
それゆえ、玉澤たちは廣敷番之頭の目をそれ程、気にせずにそれこそ、
「思う存分…」
羽を伸ばせるというもので、そうであればその西之丸の大奥へと、本丸の大奥の警衛・監察に当たる廣敷番之頭…、本丸の廣敷番之頭を西之丸の大奥へと送り込み、そして西之丸の廣敷番之頭に合流、共同で西之丸の大奥の警衛・監察に当たらせれば、さしもの玉澤も、それに他の奥女中にしても、
「これでは窮屈なる本丸の大奥と変わらず…」
ということで、堪らずに西之丸の大奥を出て、本丸の大奥へと戻って来るに相違ない、というのが高岳の「読み」であり、そこで家治は高岳のこの「読み」に乗ることにし、9人いる本丸の廣敷番之頭のうち、その過半数の5人を…、5人もの本丸の廣敷番之頭を西之丸の大奥へと派し、そして西之丸の廣敷番之頭に合流させると、8人でもって、西之丸の大奥の警衛・監察に当たるようにした。
すると高岳の「読み」通り、初日も…、本丸の廣敷番之頭を西之丸の大奥へと派し、そして西之丸の廣敷番之頭と共に、西之丸の大奥の警衛・監察に当たり始めたその日のうちに、玉澤たち奥女中はこれは堪らぬと、本丸の大奥へと戻って来たのであった。
そうして玉澤たち奥女中…、千穂に仕えていた奥女中が皆、西之丸の大奥から本丸の大奥へと戻って来るや、西之丸の大奥へと派した…、西之丸の廣敷番之頭と共にその西之丸の大奥の警衛・監察に当たった本丸の廣敷番之頭にしてもやはりその日のうちに再び、本丸の大奥へと戻させたのであった。
そして安永4(1775)年の11月に種姫は家基の御台所として西之丸の大奥へと招かれたのであった。
いや、正確にはまだ…、安永4(1775)年の11月の時点では種姫は家基の、
「婚約者…」
その位置付けであった。
家基が正式に本丸の盟主、即ち征夷大将軍になった暁に、その晴れて将軍となった家基の御台所となる筈であった。
ちなみに、大奥の御客会釈を勤める向坂より田安家サイドに対して、家基と種姫の縁談が持ち込まれたのが安永2(1773)年であるので、種姫が晴れて家基の御台所、いや、婚約者として西之丸の大奥へと招かれた安永4(1775)年まで2年もの間があるが、これは、
「花嫁修行」
そのための期間であった。つまり、2年間、種姫は「花嫁修行」に費やしたのであった。
そして今に至る…、いや、家基亡き後、種姫も千穂が住まう本丸の大奥へと移り、今に至る。
将軍・家治はこれら大奥の事情を意知と平蔵に打ち明けるや、意知は「もしかして…」と思わせぶりに切り出した。
「何だ?」
家治は意知を促した。
「ははっ。されば…、何ゆえに一橋治済が畏れ多くも御台所様と萬壽姫様のお命を狙うたのか…」
「そは…、人体実験のためであろう?シロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケなる毒キノコの効能を確かめるべく…」
家治はそう応じた。
「御意…、なれどいまひとつ、別の目的があったのやも知れませぬ…」
「別の目的とな?」
「御意…」
「して、その別の目的とは?」
「されば…」
意知は流石に躊躇した。言っても良いものかどうか、と…。
するとそうと察した家治が、「許す、腹蔵なく申せ…」と意知を促したので、意知も、「ははっ」と応ずるや、その「目的」を説明し始めた。
「されば、一橋治済は確実に将軍職が…、次期将軍の地位が豊千代君の許へと回ってくるよう、まずは畏れ多くも御台所様、次いで萬壽姫様のお命を狙うたものと思われまする…」
「そはまた一体、何ゆえに?次期将軍の地位が欲しくば、家基が命を奪うのが筋と申すものではあるまいか?」
そう答える家治の顔は流石に歪んでいた。
「御意…、なれど畏れ多くも大納言様がお命を奪いしところで、畏れ多くも御台所様や萬壽姫様…、とりわけ御台所様が生きておわせば、必ずしも次期将軍の地位が得られるとは限らず…」
「何ゆえに?」
「されば…、仮にでござりまするが、畏れ多くも大納言様がお命を奪われし時点で御台所様が生きておわせば、畏れ多くも上様が大納言様に代わる次期将軍として…、将軍家御養君として一橋治済が一子、豊千代君をお据えあそばされますことに猛反対あそばされましたやも知れず…」
「倫子が豊千代を次期将軍に据えることに反対したと申すか?」
「それは分かりませぬが、なれど…、少なくとも一橋治済は左様に考えた筈…」
「そはまた何ゆえぞ?」
「されば…、この意知めが斯かることを申し上げまするは僭越の極みなれど…」
「構わぬ」
「ははっ。されば…、畏れ多くも御台所様は賢夫人にて…」
意知が倫子のことを賢夫人だと持ち上げてみせるや、家治は満更でもなさそうな表情を浮かべた。
「さればその、賢夫人にあらせられます御台所様のこと、畏れ多くも上様が亡き大納言様に代わりまする次期将軍として豊千代君を…、一橋治済が一子、豊千代君をお据えあそばされようとすれば、必ずや反対あそばされたのではないかと…、されば畏れ多くも上様にあらせられてはまだお若く、されば御子を…、御嫡男をおもうけあそばされますことを諦められまするにはまだ早いと…、されば側室との間にいまいちど…」
「何と…、倫子は左様なことを申したと言うのか?」
家治はすっかり、倫子がそう言ったものと誤解していた。
「いえ、ですからあくまで、一橋治済が想像にて…」
意知がそう付け加えると、家治も思い出したような顔をしたものの、しかし、すぐに「いや…」と言うと、
「倫子なれば或いは左様に申したやも知れぬな…」
家治も同じ想像をしてみせた。その点については意知も同意見であり、「御意…」と首肯すると、
「されば、或いは畏れ多くも御台所様ご自身が今一度、畏れ多くも上様との間で…」
嫡男をもうけようとした筈…、意知がそう示唆すると、家治もやはり同じ想像をしていたらしく、頷いてみせた。
「ともあれ、一橋治済としては先に大納言様がお命を奪い奉りしところで、必ずしも我が子、豊千代に将軍職が…、次期将軍の地位が回ってくるわけではないと、その可能性に思い至り、そこで…」
「倫子が命を狙うたと申すのか?」
「御意…、それに萬壽姫様がお命も…」
「萬壽も同じことを…、倫子と同じことを…、と申しても萬壽は我が娘なれば、倫子のように自らが余との間に嫡男をもうけようとは考えず、されば千穂との間に今一度、家基に代わる嫡男をもうけてはと、左様に進言致したと申しすか?」
「少なくとも一橋治済は左様に想像した筈にて…」
「それで、治済めは倫子と萬壽が命をまず先に狙い、そして奪ったと申すか?」
家治は再び、表情を歪ませた。
「御意…、それもまず初めに御台所様、次いで萬壽姫様…、この順番が重要で…」
「なに?」
「さればこの逆…、先に萬壽姫様がお命を奪い奉りし場合、畏れ多くも御台所様のお命は奪えなかったやも知れず…、いえ、一橋治済は左様に考え申したのではあるまいかと…」
「何と…、まず初めに萬壽を殺害せし場合には倫子には手が届かなかったと?いや、治済めは左様に考えたと申すか?」
「御意…」
「何ゆえに?」
「さればそのご下問に答え申し上げまする前に、尋ね申し上げたき儀がござりまする…」
「許す」
「ははっ。さればお千穂の方様に仕え申し上げし中年寄の長尾なる者、一橋家との縁は…」
意知のその問いに対しては留守居の高井直熙が答えた。
「長尾なれば一橋家との縁はないぞえ」
直熙は即答した。
「左様で…、いや、これでこの意知が推量、成り立つものと申すものにて…」
意知が思わせぶりにそう言うと、家治は「早く申せ」と意知をせっついた。
「ははっ。されば…、畏れ多くも御台所様に仕え奉りし中年寄の岩田…、お富の方、及び、萬壽姫様に仕え奉りし中年寄の高橋…、この両名につきましてはいずれも一橋家との縁があり、されば…」
「倫子と萬壽の毒殺も可能だったのであろう…、何しろ中年寄は毒見役ゆえな…」
「御意…、なれどそれに比しまして、お千穂の方様の場合には中年寄の長尾なる者は一橋家とは所縁のなき者なれば、お千穂の方様を毒殺せしは…、一橋治済が毒殺を謀ろうにも、その、お千穂の方様のお毒見役でもありまする長尾との伝手がなくば不可能と申すものにて…」
「いかさま…、千穂はお蔭で今でもピンピンしておるわ…」
家治は皮肉な口調でそう応じた。
「されば…、先に…、明和8(1769)年8月に、畏れ多くも御台所様ではのうて、先に萬壽姫様のお命を奪い奉りし場合、この頃、既に西之丸の大奥へとお移りあそばされし、お千穂の方様が本丸の大奥へとお戻りあそばされたやも知れず…」
意知がそう言うと、家治も何かに気付いたらしく、「ああ」と大きな声を発した。
「そういうことか…」
家治がそう呟いたので、意知も家治がどうやら己の言いたいことを理解したものと勘付き、「御意…」と応じた。
「されば…、萬壽をまず初めに殺してしもうては、千穂が西之丸の大奥から本丸の大奥へと戻る可能性が無きにしも非ず…、そして千穂が西之丸の大奥から本丸の大奥へと戻りし場合には当然、千穂に仕えし奥女中共も本丸の大奥へと戻っていたことであろう…」
「そしてその中には長尾なる中年寄も含まれておりましたに相違なく…」
「うむ…、そしてその場合には、仮に倫子を毒殺しようにも…、富が毒見の機会を利用して毒を…、シロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケを食事に混入しようにも長尾なる中年寄の目があるゆえ、それは不可能と申すものにて…、されば大奥での食事…、御台所や息女、それに側室がそれぞれ口にせし食事、その毒見は同時に、それも同じ場所…、奥御膳所にて行われるゆえ、倫子の毒見役である富が倫子の食事にそのシロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケを混入しようにも、長尾の目があるゆえ、不可能というわけだな?」
「御意…、さればまずは御台所様のお命を奪い奉り、次いで萬壽姫様のお命を…、萬壽姫様がおられましたる大奥…、本丸の大奥に、お千穂の方様がお戻りあそばされしことはないだろうと…」
「治済めはそこまで読み切り、そこでまず初めに千穂の命を奪い、次いで一人となった萬壽姫の命までも奪ったと申すのだな?」
「御意…、されば萬壽姫様に仕え奉りし中年寄…、お毒見役の高橋もまた、御台所様に仕え奉し岩田、いえ、お富の方と同じく、一橋家に所縁のある者なれば…」
「されば千穂が西之丸の大奥におりし頃…、裏を返さば、千穂が本丸の大奥にはおらなんだ頃…、即ち、本丸の大奥に倫子と萬壽の二人しかおらなんだ頃には、まず倫子の毒殺、次いで萬壽の毒殺が可能だったというわけか…」
「御意…」
意知は伏目がちに応じた。
尤も、家治が玉澤たちの「強制排除」を白紙に戻したのは他でもない、高岳が策を…、玉澤たち奥女中が、
「自主的に…」
西之丸の大奥から出て来たくなるような、そのように仕向ける策を家治に授けてくれたためであり、仮に高岳が家治にその策を授けてくれなかったならば、家治は年寄の松島や高岳を無視する格好で、玉澤たち年寄を西之丸の大奥より、
「強制排除…」
例え、怪我人が出ようとも、或いは死人が出ようとも、その「強制排除」を実行するつもりでいた。ここまで家治が強行姿勢を見せることは滅多にないが、それだけ玉澤たち奥女中に対して、いや、将軍たる己をまんまと出し抜いてくれた玉澤に対して、憤りを通り越して、殺意まで抱いていた。
そしてそのことは松島や高岳にもすぐにそうと察せられたので、それゆえその中でも高岳は玉澤の身を案じればこそ、その家治に対して玉澤たち奥女中が西之丸の大奥より自らすすんで出て来たくなるよう仕向ける策を家治に対して献上…、献策したのであった。
それではその策とは何かと言うと、
「西之丸の大奥の警衛・監察を担う西之丸廣敷番之頭の数を増やす…」
というものであった。
玉澤たち奥女中がそもそも何ゆえに西之丸の大奥に篭城しているのか、その原因を突き詰めれば、
「西之丸の大奥の方が本丸の大奥よりも居心地が良いから…」
それに尽きた。
それでは更に進めて、玉澤たち奥女中は何ゆえに西之丸の大奥の方が本丸の大奥よりも居心地が良いと感じるのか、それを考えた時に出される答えは、
「本丸の大奥では9人もの廣敷番之頭がその本丸の大奥に目を光らせているものの、しかし、西之丸の大奥においては、その大奥の警衛・監察に当たる廣敷番之頭は、
「たった3人しかいない…」
それゆえ、玉澤たちは廣敷番之頭の目をそれ程、気にせずにそれこそ、
「思う存分…」
羽を伸ばせるというもので、そうであればその西之丸の大奥へと、本丸の大奥の警衛・監察に当たる廣敷番之頭…、本丸の廣敷番之頭を西之丸の大奥へと送り込み、そして西之丸の廣敷番之頭に合流、共同で西之丸の大奥の警衛・監察に当たらせれば、さしもの玉澤も、それに他の奥女中にしても、
「これでは窮屈なる本丸の大奥と変わらず…」
ということで、堪らずに西之丸の大奥を出て、本丸の大奥へと戻って来るに相違ない、というのが高岳の「読み」であり、そこで家治は高岳のこの「読み」に乗ることにし、9人いる本丸の廣敷番之頭のうち、その過半数の5人を…、5人もの本丸の廣敷番之頭を西之丸の大奥へと派し、そして西之丸の廣敷番之頭に合流させると、8人でもって、西之丸の大奥の警衛・監察に当たるようにした。
すると高岳の「読み」通り、初日も…、本丸の廣敷番之頭を西之丸の大奥へと派し、そして西之丸の廣敷番之頭と共に、西之丸の大奥の警衛・監察に当たり始めたその日のうちに、玉澤たち奥女中はこれは堪らぬと、本丸の大奥へと戻って来たのであった。
そうして玉澤たち奥女中…、千穂に仕えていた奥女中が皆、西之丸の大奥から本丸の大奥へと戻って来るや、西之丸の大奥へと派した…、西之丸の廣敷番之頭と共にその西之丸の大奥の警衛・監察に当たった本丸の廣敷番之頭にしてもやはりその日のうちに再び、本丸の大奥へと戻させたのであった。
そして安永4(1775)年の11月に種姫は家基の御台所として西之丸の大奥へと招かれたのであった。
いや、正確にはまだ…、安永4(1775)年の11月の時点では種姫は家基の、
「婚約者…」
その位置付けであった。
家基が正式に本丸の盟主、即ち征夷大将軍になった暁に、その晴れて将軍となった家基の御台所となる筈であった。
ちなみに、大奥の御客会釈を勤める向坂より田安家サイドに対して、家基と種姫の縁談が持ち込まれたのが安永2(1773)年であるので、種姫が晴れて家基の御台所、いや、婚約者として西之丸の大奥へと招かれた安永4(1775)年まで2年もの間があるが、これは、
「花嫁修行」
そのための期間であった。つまり、2年間、種姫は「花嫁修行」に費やしたのであった。
そして今に至る…、いや、家基亡き後、種姫も千穂が住まう本丸の大奥へと移り、今に至る。
将軍・家治はこれら大奥の事情を意知と平蔵に打ち明けるや、意知は「もしかして…」と思わせぶりに切り出した。
「何だ?」
家治は意知を促した。
「ははっ。されば…、何ゆえに一橋治済が畏れ多くも御台所様と萬壽姫様のお命を狙うたのか…」
「そは…、人体実験のためであろう?シロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケなる毒キノコの効能を確かめるべく…」
家治はそう応じた。
「御意…、なれどいまひとつ、別の目的があったのやも知れませぬ…」
「別の目的とな?」
「御意…」
「して、その別の目的とは?」
「されば…」
意知は流石に躊躇した。言っても良いものかどうか、と…。
するとそうと察した家治が、「許す、腹蔵なく申せ…」と意知を促したので、意知も、「ははっ」と応ずるや、その「目的」を説明し始めた。
「されば、一橋治済は確実に将軍職が…、次期将軍の地位が豊千代君の許へと回ってくるよう、まずは畏れ多くも御台所様、次いで萬壽姫様のお命を狙うたものと思われまする…」
「そはまた一体、何ゆえに?次期将軍の地位が欲しくば、家基が命を奪うのが筋と申すものではあるまいか?」
そう答える家治の顔は流石に歪んでいた。
「御意…、なれど畏れ多くも大納言様がお命を奪いしところで、畏れ多くも御台所様や萬壽姫様…、とりわけ御台所様が生きておわせば、必ずしも次期将軍の地位が得られるとは限らず…」
「何ゆえに?」
「されば…、仮にでござりまするが、畏れ多くも大納言様がお命を奪われし時点で御台所様が生きておわせば、畏れ多くも上様が大納言様に代わる次期将軍として…、将軍家御養君として一橋治済が一子、豊千代君をお据えあそばされますことに猛反対あそばされましたやも知れず…」
「倫子が豊千代を次期将軍に据えることに反対したと申すか?」
「それは分かりませぬが、なれど…、少なくとも一橋治済は左様に考えた筈…」
「そはまた何ゆえぞ?」
「されば…、この意知めが斯かることを申し上げまするは僭越の極みなれど…」
「構わぬ」
「ははっ。されば…、畏れ多くも御台所様は賢夫人にて…」
意知が倫子のことを賢夫人だと持ち上げてみせるや、家治は満更でもなさそうな表情を浮かべた。
「さればその、賢夫人にあらせられます御台所様のこと、畏れ多くも上様が亡き大納言様に代わりまする次期将軍として豊千代君を…、一橋治済が一子、豊千代君をお据えあそばされようとすれば、必ずや反対あそばされたのではないかと…、されば畏れ多くも上様にあらせられてはまだお若く、されば御子を…、御嫡男をおもうけあそばされますことを諦められまするにはまだ早いと…、されば側室との間にいまいちど…」
「何と…、倫子は左様なことを申したと言うのか?」
家治はすっかり、倫子がそう言ったものと誤解していた。
「いえ、ですからあくまで、一橋治済が想像にて…」
意知がそう付け加えると、家治も思い出したような顔をしたものの、しかし、すぐに「いや…」と言うと、
「倫子なれば或いは左様に申したやも知れぬな…」
家治も同じ想像をしてみせた。その点については意知も同意見であり、「御意…」と首肯すると、
「されば、或いは畏れ多くも御台所様ご自身が今一度、畏れ多くも上様との間で…」
嫡男をもうけようとした筈…、意知がそう示唆すると、家治もやはり同じ想像をしていたらしく、頷いてみせた。
「ともあれ、一橋治済としては先に大納言様がお命を奪い奉りしところで、必ずしも我が子、豊千代に将軍職が…、次期将軍の地位が回ってくるわけではないと、その可能性に思い至り、そこで…」
「倫子が命を狙うたと申すのか?」
「御意…、それに萬壽姫様がお命も…」
「萬壽も同じことを…、倫子と同じことを…、と申しても萬壽は我が娘なれば、倫子のように自らが余との間に嫡男をもうけようとは考えず、されば千穂との間に今一度、家基に代わる嫡男をもうけてはと、左様に進言致したと申しすか?」
「少なくとも一橋治済は左様に想像した筈にて…」
「それで、治済めは倫子と萬壽が命をまず先に狙い、そして奪ったと申すか?」
家治は再び、表情を歪ませた。
「御意…、それもまず初めに御台所様、次いで萬壽姫様…、この順番が重要で…」
「なに?」
「さればこの逆…、先に萬壽姫様がお命を奪い奉りし場合、畏れ多くも御台所様のお命は奪えなかったやも知れず…、いえ、一橋治済は左様に考え申したのではあるまいかと…」
「何と…、まず初めに萬壽を殺害せし場合には倫子には手が届かなかったと?いや、治済めは左様に考えたと申すか?」
「御意…」
「何ゆえに?」
「さればそのご下問に答え申し上げまする前に、尋ね申し上げたき儀がござりまする…」
「許す」
「ははっ。さればお千穂の方様に仕え申し上げし中年寄の長尾なる者、一橋家との縁は…」
意知のその問いに対しては留守居の高井直熙が答えた。
「長尾なれば一橋家との縁はないぞえ」
直熙は即答した。
「左様で…、いや、これでこの意知が推量、成り立つものと申すものにて…」
意知が思わせぶりにそう言うと、家治は「早く申せ」と意知をせっついた。
「ははっ。されば…、畏れ多くも御台所様に仕え奉りし中年寄の岩田…、お富の方、及び、萬壽姫様に仕え奉りし中年寄の高橋…、この両名につきましてはいずれも一橋家との縁があり、されば…」
「倫子と萬壽の毒殺も可能だったのであろう…、何しろ中年寄は毒見役ゆえな…」
「御意…、なれどそれに比しまして、お千穂の方様の場合には中年寄の長尾なる者は一橋家とは所縁のなき者なれば、お千穂の方様を毒殺せしは…、一橋治済が毒殺を謀ろうにも、その、お千穂の方様のお毒見役でもありまする長尾との伝手がなくば不可能と申すものにて…」
「いかさま…、千穂はお蔭で今でもピンピンしておるわ…」
家治は皮肉な口調でそう応じた。
「されば…、先に…、明和8(1769)年8月に、畏れ多くも御台所様ではのうて、先に萬壽姫様のお命を奪い奉りし場合、この頃、既に西之丸の大奥へとお移りあそばされし、お千穂の方様が本丸の大奥へとお戻りあそばされたやも知れず…」
意知がそう言うと、家治も何かに気付いたらしく、「ああ」と大きな声を発した。
「そういうことか…」
家治がそう呟いたので、意知も家治がどうやら己の言いたいことを理解したものと勘付き、「御意…」と応じた。
「されば…、萬壽をまず初めに殺してしもうては、千穂が西之丸の大奥から本丸の大奥へと戻る可能性が無きにしも非ず…、そして千穂が西之丸の大奥から本丸の大奥へと戻りし場合には当然、千穂に仕えし奥女中共も本丸の大奥へと戻っていたことであろう…」
「そしてその中には長尾なる中年寄も含まれておりましたに相違なく…」
「うむ…、そしてその場合には、仮に倫子を毒殺しようにも…、富が毒見の機会を利用して毒を…、シロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケを食事に混入しようにも長尾なる中年寄の目があるゆえ、それは不可能と申すものにて…、されば大奥での食事…、御台所や息女、それに側室がそれぞれ口にせし食事、その毒見は同時に、それも同じ場所…、奥御膳所にて行われるゆえ、倫子の毒見役である富が倫子の食事にそのシロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケを混入しようにも、長尾の目があるゆえ、不可能というわけだな?」
「御意…、さればまずは御台所様のお命を奪い奉り、次いで萬壽姫様のお命を…、萬壽姫様がおられましたる大奥…、本丸の大奥に、お千穂の方様がお戻りあそばされしことはないだろうと…」
「治済めはそこまで読み切り、そこでまず初めに千穂の命を奪い、次いで一人となった萬壽姫の命までも奪ったと申すのだな?」
「御意…、されば萬壽姫様に仕え奉りし中年寄…、お毒見役の高橋もまた、御台所様に仕え奉し岩田、いえ、お富の方と同じく、一橋家に所縁のある者なれば…」
「されば千穂が西之丸の大奥におりし頃…、裏を返さば、千穂が本丸の大奥にはおらなんだ頃…、即ち、本丸の大奥に倫子と萬壽の二人しかおらなんだ頃には、まず倫子の毒殺、次いで萬壽の毒殺が可能だったというわけか…」
「御意…」
意知は伏目がちに応じた。
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ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
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歴史・時代
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