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大詰め ~家治の愛妾の千穂に年寄として仕える玉澤とその妹の長尾の真の経歴、その3~
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こうして玉澤こと袖は延享2(1745)年に名門の駒井家の嫡子の兵部親奉の許へと嫁したそうな。
「それから翌、延享3(1746)年に嫡子を…」
「玉澤、いや、袖は兵部との間に子を…、男児をなしたと申すか?」
「御意…」
延享2(1745)年の時点では玉澤こと袖も兵部親奉も共に15歳であり、つまり袖は16歳で出産したわけだ。
「ふむ…、それでそのまま、兵部も呑む、打つ、買うなどと、遊興にうつつを抜かさずば玉澤、いや、袖も苦労せずに済んだものを…」
「御意…、なれど一概に兵部親奉ばかりも責められないようで…」
「そはまた、如何な意味ぞ?」
明らかに遊興にうつつを抜かした兵部親奉が悪い、それも全面的に悪いように思えてならぬ家治にとって、千穂のその言葉は意外であった。
「されば…、これはあくまで玉澤の想像にござりまするが…」
千穂は慎重にそう前置きした後、意外なことを口にした。
「されば…、兵部親奉は養父の半右衛門興房に嗾けられて、呑む、打つ、買うの遊興に…」
これには家治も驚いた。だがすぐに合点がいった。
「さしずめ…、憎い婿を追い出すため、か?」
家治がそう察しをつけるや、千穂も「御意…」と答えた。
成程、と家治は思った。半右衛門興房にとって兵部親奉は元々、気に入らぬ婿であった。
それが愛娘が兵部親奉を見初めたために、半右衛門興房としても娘可愛さのあまり已む無く二人の結婚を認めたわけであるが、しかし、正式に結婚する前に愛娘は病死してしまった。
これで愛娘が嫡男でも出産していれば、養父・半右衛門としても愛娘が嫡男を遺して病死した時点で気に入らぬ婿である兵部親奉を廃嫡、それどころか駒井家から叩き出していたことだろう。気に入らぬ婿である兵部親奉に替えて、愛娘が産んだ遺児を新たに嫡子に据えれば良いからだ。
だが実際には愛娘は嫡男をなさずして病死してしまい、これでは兵部親奉が如何に気に入らぬ婿とは申せ、兵部親奉を駒井家から叩き出してしまっては、駒井家は嫡子不在となってしまい、
「御家の存続」
という観点から見て、これは危ういことである。
そこで養父・半右衛門興房は不本意ではあったが、憎い婿の兵部親奉のために嫁探しに奔走し、その結果、玉澤こと袖を射止めることに漕ぎつけたのであった。
「その袖が兵部の子を、それも嫡男を挙げたとなれば、もう今度こそ兵部は用済みと、そこで兵部に呑む、打つ、買うをすすめ、兵部に遊興の味を覚えさせ、のめり込ませたというわけか?半右衛門めは…、全ては兵部を廃嫡に追いやるために…、その口実を得るために…」
「恐らくは…、尤もすぐに遊興の味を覚えさせましたるわけではないようで…」
「と申すと?」
「駒井家の当主たる半右衛門興房と致しましては何より家の存続を、駒井家の存続を第一義に考えておりましたようで…」
「さもあろう…」
「されば半右衛門興房と致しましては、嫁…、取嫁の玉澤、いえ袖には出来るだけ子を…、兵部親奉との間に子を、それも男児をなすことを望み…」
「さもあろう…」
江戸時代は現代と比べて、乳幼児の死亡率が遥かに高い。つまりは折角、男の子を産んでも直に死んでしまう確率が非常に高かった。
そこでとりわけ「御家の存続」が何よりも求められる武家においては嫁には出来るだけ多くの子を、それも男児を産むことが義務付けられていた。
玉澤こと袖も当然、その例外ではなかっただろう。
「なれど玉澤、いえ、袖は兵部親奉との間には結局、嫡男を1人、産みましたるだけにて…、女児にも恵まれず…」
「何と…、1人しか子に恵まれなかったのか…」
家治は目を丸くした。16歳で出産したからにはその後も性別はともかく、夫・兵部親奉との間に立て続けに子をなしたものと、家治はてっきりそう思っていたのだが、それが案に相違して1人しか子に恵まれなかったとは…。
「玉澤、いえ、袖は16で出産せしことから拝察致しまするに…」
「男の方に問題があった、か?」
家治がそう尋ねると、千穂は伏し目がち、「御意」と小声で答えた。
つまり兵部親奉は淡白な性質だったのであろう。
「されば半右衛門興房と致しましても、駒井家の当主として気が気でなく…」
「さもあろう…、折角、男児を挙げたは良いが、いつ夭折するとも限らぬゆえ、半右衛門としては玉澤、いや、袖にはもそっと子を…、男児を挙げてもらいたいと、然様に願うた筈…」
「正しく…、尤も今も申し上げましたる通り、玉澤、いえ、袖は16で出産致しましたるゆえ…」
「半右衛門としても、兵部・袖夫妻に子が恵まれぬは袖の責ではのうて、兵部…、憎き婿の兵部にあると、承知していたわけだの?」
「御意。それゆえ玉澤、いえ、袖はそのことに…、子が恵まれぬことにつきましては舅の半右衛門興房より責められることはなく…」
「それはせめてもの救いだの…」
「御意…、玉澤も同じく然様に申しておりました…」
「なれど結局、兵部と袖との間には1人しか子が恵まれなかったのであろう?」
「御意…、幸いにも夭折することもなく…」
「すくすくと成長したわけだの?」
「御意…、なれどそのことで半右衛門興房に、いよいよもって憎い婿の追い出しを決意させましたそうで…」
「それは分かるの…、家の存続を願う半右衛門としては兵部と袖との間に子が…、男児が1人しか恵まれず、果たして夭折することなしにすくすくと成長してくれるかどうか案じていたが、それがどうにか成長したのでこれでもう、夭折する心配はないと、されば憎い婿である兵部に替えて、兵部と袖との間に生まれしその男児…、半右衛門にとりては嫡孫を嫡子に据えれば良いと、そこで兵部を追い出すべく、そのための格好の口実を作るべく、兵部に呑む、打つ、買うの遊興の味を覚えさせたというわけだな?」
「御意…、とりわけ買うことをすすめましたそうで…」
千穂がやはり伏し目がちそう告げると、家治は苦笑した。養父・半右衛門興房の意図するところが理解できたからだ。
養父・半右衛門興房の意図とは他でもない、呑む、打つ、買うの中でも買う、つまり女を買うことを兵部親奉にすすめたのは、これで仮にだが、兵部親奉が女との間に子を、それも男児でもなしてくれればいよいよもって駒井家は安泰と、そう考えたからに相違ない。
兵部親奉と袖との間に生まれた男児がすくすくと成長し、最早、夭折する心配がないとは言え、それでもいつ何が起こるか分からない。
そこで兵部親奉には遊び、それも「女遊び」に励んでもらい、結果、別の女との間に男児をなしてくれればいよいよもって駒井家は安泰、その上、そのように遊びに興じたことが憎い婿である兵部親奉を廃嫡に出来る格好の口実にも使えるのだから、養父である半右衛門興房にしてみれば、兵部親奉の「女遊び」は一石二鳥、いや、三鳥どころか四鳥にも思えた筈だ。
「尤も、兵部親奉はやはり他の女との間にも子をなすことはなかったそうにて…」
千穂は苦笑しながらそう答えた。やはり兵部親奉は淡白な性質らしい。
「されば宝暦12(1762)年に兵部親奉は嗣を除かれ…」
「半右衛門は遂に兵部を廃嫡に致したと申すか?」
「御意…、さればそれまでは兵部親奉は一応、本丸の書院番士にて…」
千穂は「一応」と前置きしたところから察するに、「遊び」が過ぎて勤めも疎かになっていたことが窺い知れる。
「されば書院番を辞すと同時に嗣を除かれ…、実際には養父たる半右衛門興房が無理やりに兵部親奉に番を辞させ、それと同時に廃嫡に及びましたそうで…」
「然様か…、宝暦12(1762)年と申さば…、兵部と袖との間に生まれし男児はちょうど16になった年に当たるの…」
「御意…、されば兵部親奉と玉澤、いえ、袖が初めて、そして最後に男児をなしましたる年でもあり…」
「成程…、半右衛門はこの嫡孫たる男児はもう、夭折することもなくば、万が一の場合もないと然様に考えて、憎き婿たる兵部に替えて嫡子に据えるべく、兵部を廃嫡に及んだというわけか…」
「御意…、それにこのままいつまでも兵部親奉を遊ばせましたるところで…、女遊びに興じさせましたるところで、他の女との間に子を…、男児をもうけることに期待は持てぬと…」
「確かに…、兵部と袖との間に生まれし男児が16に成長せし…、それは裏を返さば、兵部は16年間も遊びしわけで、なれど16年間も遊びながら…、女遊びをしながらも、他の女との間に子が、性別はともかく1人もなすことができなかったとあらば、この先もさらに兵部に遊びを…、女遊びをさせたところで子が生まれることはないだろうと、半右衛門めは然様に見切りをつけ、いや、見限り、いよいよ兵部を廃嫡に及んだというわけか…」
「御意…」
「確かに…、遊ぶにも軍資金が必要だからの…」
家治は己の言葉に苦笑した。そしてその軍資金の出処は養父たる半右衛門興房の懐…、となれば肝心要の男児をなしてくれることが最早、期待できないとなれば無駄金、捨て金ということになる。半右衛門興房がいよいよ兵部親奉に見切りをつけた、いや、見限ったのも当然と言えた。
「されば廃嫡されし兵部は如何相成ったのだ?」
「当初、半右衛門興房は兵部親奉を玉澤、いえ、袖共々、家から追い出すつもりにて…」
「さもあろう…、嫡孫を嫡子に据えた上は憎き婿に取嫁など無用の長物…、とんだ金食い虫と半右衛門めは大方、然様に考えたのであろう…」
「正しく…、玉澤も同じように申しておりました…」
「で、相成ったのだ?」
「されば結論から申し上げますれば、玉澤のみ家を出ましてござりまする…」
「されば…、憎き婿たる兵部親奉は家に残ったと?」
家治はやはり目を丸くした。
「御意…」
「よくも半右衛門が許したの…」
「無論、半右衛門興房にしてみれば大層、不本意ではありましょうが…」
「さもあろう…」
「なれど男児…、嫡孫の半蔵爲隣に泣き付かれまして…」
千穂がそう答えると、家治は目を剥いた。
「何と…、玉澤、いや、袖が産みし男児と申すは駒井半蔵爲隣であったと申すか…」
家治は心底、驚いた様子であった。
それも無理からぬことであり、それと言うのも半蔵爲隣は家治の愛息の家基に小納戸として仕えていたからだ。
家治は家基に仕えていた者全てを把握しているわけではないものの、それでも小姓と小納戸は把握していた。
「あの半蔵がのう…」
家治はしみじみそう呟いた。正しく奇縁と言うべきであり、その奇縁に家治は感慨深いものを感じた。
「して、その半蔵が祖父・半右衛門めに泣き付いたと申すか?」
「御意…、されば何卒、両親を追い出さないで欲しい、と…」
「それで半右衛門は…」
「婿は気に食わぬが、さりとて孫は別…、なれど二人とも…、兵部と玉澤、いえ、袖の二人とも家において置くわけにもゆかぬと…、まぁ、経済的な事情からでありましたようで…」
半右衛門興房が兵部親奉を廃嫡した上で、嫁…、取嫁である玉澤こと袖共々、駒井家より追い出そうとしたのは、憎き婿たる兵部親奉に対するその憎悪からという感情的理由もあっただろうが、それ以上に、兵部親奉と袖|夫妻、それに子の半蔵爲隣の一家三人を養うだけの余力…、経済的な余力が駒井家にはなかった…、千穂は家治にそう示唆した。
「そは…、遊びが過ぎたため、か?」
家治がそう尋ねると、千穂も「恐らくは…」と首肯した。つまり兵部親奉の遊興のせいですっかり駒井家の家計が傾いてしまったというわけだ。
「それで兵部が残りし理由は?」
「されば玉澤、いえ、袖が身を引きましたるためにて…」
「身を引いた、とな?」
家治は首を傾げた。
「御意…」
「妻子を蔑ろにせし夫のために、か?」
玉澤は山っ気がある女である。そのような女が果たして、家庭を顧みることなく遊びに、それも女遊びにうつつを抜かしていた夫のために身を引くものかと、家治にはそれが疑問であった。
「されば夫のためと申しますよりは子のために…」
「そはまた一体…」
「されば玉澤が申しますには、兵部親奉は何の取り柄もない、下世話に申しますと、ぐうたら亭主とのこと…」
「ぐうたら亭主の…、確かに…」
言い得て妙だなと、家治は苦笑した。
「されば斯かるぐうたら亭主を家から追い出すような真似を致しますれば最悪、辻斬りでも働くやも知れず…」
「辻斬り…」
「御意…、されば何の取り柄もない…、いえ、唯一の取り柄が剣ともなれば、生きていくために…」
「辻斬りにて食い扶持を稼ぐやも知れぬ、と?」
「御意。されば斯かる事態にでも相成りますれば、兵部親奉は無論のこと、駒井家も無事では済まぬと…、たとい、既に兵部親奉を廃嫡に及んでいたとしても、駒井家にも何らかのお咎めが…、されば半蔵爲隣の将来にも少なからぬ影響が…、それも悪影響が…、と…」
「袖は半右衛門をそう脅したわけだの?」
「御意。その代わり、私めが家を出ますゆえ、と…」
「それで半右衛門は納得したのか?」
「無論、不承不承ではありましたでしょうが、なれど玉澤、いえ、袖の申すことにも一理ある、と…」
「確かに…、何の取り柄もない兵部のような男をそれこそ身一つで追い出すような真似を致さばそれこそ手負いの獣と変ずるやも知れず…、その結果、辻斬りでも働くやも知れぬしのう…」
「正しく…」
「それで…、袖は駒井家を出たわけか?夫と子を残して…」
「御意。それが宝暦12(1762)年のことにて…」
成程と、家治は納得すると同時に、玉澤のようや山っ気のある女でも我が子のこととなると、やはり普通の母親と変わらぬようである。
いや、普通以上やも知れなかった。それと言うのも、半蔵爲隣が次期将軍たる家基の小納戸として仕えることができたのもひとえに実母たる袖こと、年寄として名を改めた玉澤の力の賜物やも知れぬと、家治はそう思った。何しろ小納戸と言えば、従六位の布衣役だからだ。しかも誰もが羨む中奥役人であり、それゆえ誰もがなれるわけではない。
その小納戸に半蔵爲隣が就くことができたのもやはり実母たる玉澤の力の賜物に相違あるまい。
無論、人事の決裁権者は基本的には征夷大将軍であり、家治は勿論、将軍として愛息の家基に仕える小納戸の人事についても決裁したわけだが、実際には御側御用取次より提出される人事の推薦名簿を決裁するのが通例であり、余程のことがない限り、御側御用取次より提出されるその人事の推薦名簿を将軍が拒否することはない。
つまり御側御用取次が将軍に対して提出する人事の推薦名簿に名前が登載されるかどうかが勝負であり、そこで玉澤は大いに力を奮ったものと思われる。
「それから袖はこの御城の、それも大奥へと上ったわけか?」
「いえ、その前にいったん、妹の婚家に身を寄せましたそうで…」
「妹とは…」
「1つ年下の、長尾の婚家にて…」
「長尾の婚家とな…」
「御意。されば赤井家にて…」
「それから翌、延享3(1746)年に嫡子を…」
「玉澤、いや、袖は兵部との間に子を…、男児をなしたと申すか?」
「御意…」
延享2(1745)年の時点では玉澤こと袖も兵部親奉も共に15歳であり、つまり袖は16歳で出産したわけだ。
「ふむ…、それでそのまま、兵部も呑む、打つ、買うなどと、遊興にうつつを抜かさずば玉澤、いや、袖も苦労せずに済んだものを…」
「御意…、なれど一概に兵部親奉ばかりも責められないようで…」
「そはまた、如何な意味ぞ?」
明らかに遊興にうつつを抜かした兵部親奉が悪い、それも全面的に悪いように思えてならぬ家治にとって、千穂のその言葉は意外であった。
「されば…、これはあくまで玉澤の想像にござりまするが…」
千穂は慎重にそう前置きした後、意外なことを口にした。
「されば…、兵部親奉は養父の半右衛門興房に嗾けられて、呑む、打つ、買うの遊興に…」
これには家治も驚いた。だがすぐに合点がいった。
「さしずめ…、憎い婿を追い出すため、か?」
家治がそう察しをつけるや、千穂も「御意…」と答えた。
成程、と家治は思った。半右衛門興房にとって兵部親奉は元々、気に入らぬ婿であった。
それが愛娘が兵部親奉を見初めたために、半右衛門興房としても娘可愛さのあまり已む無く二人の結婚を認めたわけであるが、しかし、正式に結婚する前に愛娘は病死してしまった。
これで愛娘が嫡男でも出産していれば、養父・半右衛門としても愛娘が嫡男を遺して病死した時点で気に入らぬ婿である兵部親奉を廃嫡、それどころか駒井家から叩き出していたことだろう。気に入らぬ婿である兵部親奉に替えて、愛娘が産んだ遺児を新たに嫡子に据えれば良いからだ。
だが実際には愛娘は嫡男をなさずして病死してしまい、これでは兵部親奉が如何に気に入らぬ婿とは申せ、兵部親奉を駒井家から叩き出してしまっては、駒井家は嫡子不在となってしまい、
「御家の存続」
という観点から見て、これは危ういことである。
そこで養父・半右衛門興房は不本意ではあったが、憎い婿の兵部親奉のために嫁探しに奔走し、その結果、玉澤こと袖を射止めることに漕ぎつけたのであった。
「その袖が兵部の子を、それも嫡男を挙げたとなれば、もう今度こそ兵部は用済みと、そこで兵部に呑む、打つ、買うをすすめ、兵部に遊興の味を覚えさせ、のめり込ませたというわけか?半右衛門めは…、全ては兵部を廃嫡に追いやるために…、その口実を得るために…」
「恐らくは…、尤もすぐに遊興の味を覚えさせましたるわけではないようで…」
「と申すと?」
「駒井家の当主たる半右衛門興房と致しましては何より家の存続を、駒井家の存続を第一義に考えておりましたようで…」
「さもあろう…」
「されば半右衛門興房と致しましては、嫁…、取嫁の玉澤、いえ袖には出来るだけ子を…、兵部親奉との間に子を、それも男児をなすことを望み…」
「さもあろう…」
江戸時代は現代と比べて、乳幼児の死亡率が遥かに高い。つまりは折角、男の子を産んでも直に死んでしまう確率が非常に高かった。
そこでとりわけ「御家の存続」が何よりも求められる武家においては嫁には出来るだけ多くの子を、それも男児を産むことが義務付けられていた。
玉澤こと袖も当然、その例外ではなかっただろう。
「なれど玉澤、いえ、袖は兵部親奉との間には結局、嫡男を1人、産みましたるだけにて…、女児にも恵まれず…」
「何と…、1人しか子に恵まれなかったのか…」
家治は目を丸くした。16歳で出産したからにはその後も性別はともかく、夫・兵部親奉との間に立て続けに子をなしたものと、家治はてっきりそう思っていたのだが、それが案に相違して1人しか子に恵まれなかったとは…。
「玉澤、いえ、袖は16で出産せしことから拝察致しまするに…」
「男の方に問題があった、か?」
家治がそう尋ねると、千穂は伏し目がち、「御意」と小声で答えた。
つまり兵部親奉は淡白な性質だったのであろう。
「されば半右衛門興房と致しましても、駒井家の当主として気が気でなく…」
「さもあろう…、折角、男児を挙げたは良いが、いつ夭折するとも限らぬゆえ、半右衛門としては玉澤、いや、袖にはもそっと子を…、男児を挙げてもらいたいと、然様に願うた筈…」
「正しく…、尤も今も申し上げましたる通り、玉澤、いえ、袖は16で出産致しましたるゆえ…」
「半右衛門としても、兵部・袖夫妻に子が恵まれぬは袖の責ではのうて、兵部…、憎き婿の兵部にあると、承知していたわけだの?」
「御意。それゆえ玉澤、いえ、袖はそのことに…、子が恵まれぬことにつきましては舅の半右衛門興房より責められることはなく…」
「それはせめてもの救いだの…」
「御意…、玉澤も同じく然様に申しておりました…」
「なれど結局、兵部と袖との間には1人しか子が恵まれなかったのであろう?」
「御意…、幸いにも夭折することもなく…」
「すくすくと成長したわけだの?」
「御意…、なれどそのことで半右衛門興房に、いよいよもって憎い婿の追い出しを決意させましたそうで…」
「それは分かるの…、家の存続を願う半右衛門としては兵部と袖との間に子が…、男児が1人しか恵まれず、果たして夭折することなしにすくすくと成長してくれるかどうか案じていたが、それがどうにか成長したのでこれでもう、夭折する心配はないと、されば憎い婿である兵部に替えて、兵部と袖との間に生まれしその男児…、半右衛門にとりては嫡孫を嫡子に据えれば良いと、そこで兵部を追い出すべく、そのための格好の口実を作るべく、兵部に呑む、打つ、買うの遊興の味を覚えさせたというわけだな?」
「御意…、とりわけ買うことをすすめましたそうで…」
千穂がやはり伏し目がちそう告げると、家治は苦笑した。養父・半右衛門興房の意図するところが理解できたからだ。
養父・半右衛門興房の意図とは他でもない、呑む、打つ、買うの中でも買う、つまり女を買うことを兵部親奉にすすめたのは、これで仮にだが、兵部親奉が女との間に子を、それも男児でもなしてくれればいよいよもって駒井家は安泰と、そう考えたからに相違ない。
兵部親奉と袖との間に生まれた男児がすくすくと成長し、最早、夭折する心配がないとは言え、それでもいつ何が起こるか分からない。
そこで兵部親奉には遊び、それも「女遊び」に励んでもらい、結果、別の女との間に男児をなしてくれればいよいよもって駒井家は安泰、その上、そのように遊びに興じたことが憎い婿である兵部親奉を廃嫡に出来る格好の口実にも使えるのだから、養父である半右衛門興房にしてみれば、兵部親奉の「女遊び」は一石二鳥、いや、三鳥どころか四鳥にも思えた筈だ。
「尤も、兵部親奉はやはり他の女との間にも子をなすことはなかったそうにて…」
千穂は苦笑しながらそう答えた。やはり兵部親奉は淡白な性質らしい。
「されば宝暦12(1762)年に兵部親奉は嗣を除かれ…」
「半右衛門は遂に兵部を廃嫡に致したと申すか?」
「御意…、さればそれまでは兵部親奉は一応、本丸の書院番士にて…」
千穂は「一応」と前置きしたところから察するに、「遊び」が過ぎて勤めも疎かになっていたことが窺い知れる。
「されば書院番を辞すと同時に嗣を除かれ…、実際には養父たる半右衛門興房が無理やりに兵部親奉に番を辞させ、それと同時に廃嫡に及びましたそうで…」
「然様か…、宝暦12(1762)年と申さば…、兵部と袖との間に生まれし男児はちょうど16になった年に当たるの…」
「御意…、されば兵部親奉と玉澤、いえ、袖が初めて、そして最後に男児をなしましたる年でもあり…」
「成程…、半右衛門はこの嫡孫たる男児はもう、夭折することもなくば、万が一の場合もないと然様に考えて、憎き婿たる兵部に替えて嫡子に据えるべく、兵部を廃嫡に及んだというわけか…」
「御意…、それにこのままいつまでも兵部親奉を遊ばせましたるところで…、女遊びに興じさせましたるところで、他の女との間に子を…、男児をもうけることに期待は持てぬと…」
「確かに…、兵部と袖との間に生まれし男児が16に成長せし…、それは裏を返さば、兵部は16年間も遊びしわけで、なれど16年間も遊びながら…、女遊びをしながらも、他の女との間に子が、性別はともかく1人もなすことができなかったとあらば、この先もさらに兵部に遊びを…、女遊びをさせたところで子が生まれることはないだろうと、半右衛門めは然様に見切りをつけ、いや、見限り、いよいよ兵部を廃嫡に及んだというわけか…」
「御意…」
「確かに…、遊ぶにも軍資金が必要だからの…」
家治は己の言葉に苦笑した。そしてその軍資金の出処は養父たる半右衛門興房の懐…、となれば肝心要の男児をなしてくれることが最早、期待できないとなれば無駄金、捨て金ということになる。半右衛門興房がいよいよ兵部親奉に見切りをつけた、いや、見限ったのも当然と言えた。
「されば廃嫡されし兵部は如何相成ったのだ?」
「当初、半右衛門興房は兵部親奉を玉澤、いえ、袖共々、家から追い出すつもりにて…」
「さもあろう…、嫡孫を嫡子に据えた上は憎き婿に取嫁など無用の長物…、とんだ金食い虫と半右衛門めは大方、然様に考えたのであろう…」
「正しく…、玉澤も同じように申しておりました…」
「で、相成ったのだ?」
「されば結論から申し上げますれば、玉澤のみ家を出ましてござりまする…」
「されば…、憎き婿たる兵部親奉は家に残ったと?」
家治はやはり目を丸くした。
「御意…」
「よくも半右衛門が許したの…」
「無論、半右衛門興房にしてみれば大層、不本意ではありましょうが…」
「さもあろう…」
「なれど男児…、嫡孫の半蔵爲隣に泣き付かれまして…」
千穂がそう答えると、家治は目を剥いた。
「何と…、玉澤、いや、袖が産みし男児と申すは駒井半蔵爲隣であったと申すか…」
家治は心底、驚いた様子であった。
それも無理からぬことであり、それと言うのも半蔵爲隣は家治の愛息の家基に小納戸として仕えていたからだ。
家治は家基に仕えていた者全てを把握しているわけではないものの、それでも小姓と小納戸は把握していた。
「あの半蔵がのう…」
家治はしみじみそう呟いた。正しく奇縁と言うべきであり、その奇縁に家治は感慨深いものを感じた。
「して、その半蔵が祖父・半右衛門めに泣き付いたと申すか?」
「御意…、されば何卒、両親を追い出さないで欲しい、と…」
「それで半右衛門は…」
「婿は気に食わぬが、さりとて孫は別…、なれど二人とも…、兵部と玉澤、いえ、袖の二人とも家において置くわけにもゆかぬと…、まぁ、経済的な事情からでありましたようで…」
半右衛門興房が兵部親奉を廃嫡した上で、嫁…、取嫁である玉澤こと袖共々、駒井家より追い出そうとしたのは、憎き婿たる兵部親奉に対するその憎悪からという感情的理由もあっただろうが、それ以上に、兵部親奉と袖|夫妻、それに子の半蔵爲隣の一家三人を養うだけの余力…、経済的な余力が駒井家にはなかった…、千穂は家治にそう示唆した。
「そは…、遊びが過ぎたため、か?」
家治がそう尋ねると、千穂も「恐らくは…」と首肯した。つまり兵部親奉の遊興のせいですっかり駒井家の家計が傾いてしまったというわけだ。
「それで兵部が残りし理由は?」
「されば玉澤、いえ、袖が身を引きましたるためにて…」
「身を引いた、とな?」
家治は首を傾げた。
「御意…」
「妻子を蔑ろにせし夫のために、か?」
玉澤は山っ気がある女である。そのような女が果たして、家庭を顧みることなく遊びに、それも女遊びにうつつを抜かしていた夫のために身を引くものかと、家治にはそれが疑問であった。
「されば夫のためと申しますよりは子のために…」
「そはまた一体…」
「されば玉澤が申しますには、兵部親奉は何の取り柄もない、下世話に申しますと、ぐうたら亭主とのこと…」
「ぐうたら亭主の…、確かに…」
言い得て妙だなと、家治は苦笑した。
「されば斯かるぐうたら亭主を家から追い出すような真似を致しますれば最悪、辻斬りでも働くやも知れず…」
「辻斬り…」
「御意…、されば何の取り柄もない…、いえ、唯一の取り柄が剣ともなれば、生きていくために…」
「辻斬りにて食い扶持を稼ぐやも知れぬ、と?」
「御意。されば斯かる事態にでも相成りますれば、兵部親奉は無論のこと、駒井家も無事では済まぬと…、たとい、既に兵部親奉を廃嫡に及んでいたとしても、駒井家にも何らかのお咎めが…、されば半蔵爲隣の将来にも少なからぬ影響が…、それも悪影響が…、と…」
「袖は半右衛門をそう脅したわけだの?」
「御意。その代わり、私めが家を出ますゆえ、と…」
「それで半右衛門は納得したのか?」
「無論、不承不承ではありましたでしょうが、なれど玉澤、いえ、袖の申すことにも一理ある、と…」
「確かに…、何の取り柄もない兵部のような男をそれこそ身一つで追い出すような真似を致さばそれこそ手負いの獣と変ずるやも知れず…、その結果、辻斬りでも働くやも知れぬしのう…」
「正しく…」
「それで…、袖は駒井家を出たわけか?夫と子を残して…」
「御意。それが宝暦12(1762)年のことにて…」
成程と、家治は納得すると同時に、玉澤のようや山っ気のある女でも我が子のこととなると、やはり普通の母親と変わらぬようである。
いや、普通以上やも知れなかった。それと言うのも、半蔵爲隣が次期将軍たる家基の小納戸として仕えることができたのもひとえに実母たる袖こと、年寄として名を改めた玉澤の力の賜物やも知れぬと、家治はそう思った。何しろ小納戸と言えば、従六位の布衣役だからだ。しかも誰もが羨む中奥役人であり、それゆえ誰もがなれるわけではない。
その小納戸に半蔵爲隣が就くことができたのもやはり実母たる玉澤の力の賜物に相違あるまい。
無論、人事の決裁権者は基本的には征夷大将軍であり、家治は勿論、将軍として愛息の家基に仕える小納戸の人事についても決裁したわけだが、実際には御側御用取次より提出される人事の推薦名簿を決裁するのが通例であり、余程のことがない限り、御側御用取次より提出されるその人事の推薦名簿を将軍が拒否することはない。
つまり御側御用取次が将軍に対して提出する人事の推薦名簿に名前が登載されるかどうかが勝負であり、そこで玉澤は大いに力を奮ったものと思われる。
「それから袖はこの御城の、それも大奥へと上ったわけか?」
「いえ、その前にいったん、妹の婚家に身を寄せましたそうで…」
「妹とは…」
「1つ年下の、長尾の婚家にて…」
「長尾の婚家とな…」
「御意。されば赤井家にて…」
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