天明繚乱 ~次期将軍の座~

大詰め ~家治の愛妾の千穂に年寄として仕える玉澤とその妹の長尾の真の経歴、その2~

「端的たんてきに申し上げますれば、母親になったのでござりましょう…」

「柴田しばた日向ひゅうがの娘は子をなして…、それも嫡ちゃく男なんをもうけて、か?」

「御意ぎょい…、爾来じらい、日向守ひゅうがのかみの娘はそれまでのように、玉澤たまざわたちを姉妹のようにはみなさず…」

「それどころか邪険じゃけんに…、玉澤たまざわや長尾ながおを邪じゃ魔ま物もの扱あつかいし始めたと申すか?」

　家治がそう勘かんを働かせるや、千穂ちほは「御意ぎょい」と答えた。

「されば…、それまでは兄と妹のような関係であった叔父おじの清兵衛せいべえ正章まさあきらと姪めいの玉澤たまざわ、長尾ながお姉妹のその関係が変質へんしつせし原因は清兵衛せいべえ正章まさあきら当人と申すよりはその、妻女である日向ひゅうがの娘が原因であったか…」

「玉澤たまざわが申しまするには、清兵衛せいべえ正章まさあきらは引きずられましたるだけであったようだと…」

　妻に、それも母となった妻に亭主が引きずられる格好かっこうで、それまで仲なか睦むつまじかった養女ようじょを邪険じゃけんに扱あつかい始めるというのもこれまた「ポピュラー」と言えた。

「されば玉澤たまざわたち三姉妹はこの上は、一刻いっこくも早くに実家を出ようと…」

　千穂ちほがそう言いかけるや、それを家治が「待て」と制した。

「三姉妹、とな?」

　家治がそう聞き咎とがめるや、千穂ちほは「ああ、申し忘れておりました…」と失念しつねんしていたことを思い出した。

「されば玉澤たまざわには長尾ながおの他にもいまひとり、妹が…」

「末すえの妹がおると申すのか?」

「御意ぎょい…、されば末すえの妹もまた長尾ながおより1歳年下にて…」

「成程なるほどのう…、それで三姉妹か…」

「御意ぎょい…」

「して、三姉妹は叔父おじ夫婦のはしたない、いじめから逃れるために家を出る決意を致いたしたと?」

「御意ぎょい…、されば婚こん家かをみつけ…」

　江戸時代、武家の娘が家を出るとなれば、婚こん家かをみつける、つまりは結婚と同義どうぎであった。

「されどそう都合つごう良くみつかるものかのう…」

　家治は首をかしげた。何しろ清兵衛せいべえ正章まさあきが嫡ちゃく男なんに恵めぐまれた、つまりはその妻女さいじょが母親となり、それまで親しくしていた玉澤たまざわたち三姉妹をいびり出した延享元(1744)年、玉澤たまざわの齢よわいはその妻女さいじょの齢よわいと同じく14、長尾ながおは13、そして末の妹は12である。いくら江戸時代が現代に比べて早熟そうじゅくとは申せ、14や、それ以下の齢よわいの少女の婚こん家かを見つけるのは正まさに、

「至し難なんの業わざ…」

　そう言えた。

「いえ、それにつきましては意外にも、妻女さいじょが…」

「成程なるほど…、日向ひゅうがの娘め、目め障ざわりなる玉澤たまざわたち三姉妹が己のいびりに耐たえかねて、家を出る決意をしてくれたのなれば、これ幸いと、態度を一転いってん…、積極的に玉澤たまざわたちの婚こん家か探しに躍起やっきになった…、さしずめ然様さようなところであろう?」

　家治が千穂ちほにそう水を向けるや、千穂ちほは「御意ぎょい…」と首肯しゅこうした。

「して、玉澤たまざわたち三姉妹の婚こん家かは見つかったのか?」

「御意ぎょい。さればその翌年の延享2(1745)年には玉澤たまざわたち三姉妹の婚こん家かを見つけることができましたそうで…」

「左様さようか…、さればその経緯いきさつや動機はともあれ、玉澤たまざわたち三姉妹は漸ようやくに愁眉しゅうびが開かれたわけだの…」

　家治がしみじみそう言うと、千穂ちほもまずは「御意ぎょい…」と応じてから、しかしその上で、

「玉澤たまざわを除のぞきますれば確かに…」

　そう気になることを付け加えたのであった。

「何やら含ふくみがあるのう…」

　家治は千穂ちほのその含ふくみのある言い方に興味を惹ひかれた様子であった。

「されば玉澤たまざわは知ち行ぎょう500石の駒井こまい家に…、嫡ちゃく子しの兵部ひょうぶ親奉ちかともの許もとへと嫁かしましてござりまする…」

「駒井こまい家と申もうさば名家だの…」

　知ち行ぎょうこそ「中級」だが、しかし駒井こまい家の家名は名家であり、「上級」に属する。

「その駒井こまい家の嫡ちゃく子しの兵部ひょうぶ親奉ちかともの許もとへと嫁かしたゆえ、玉澤たまざわも愁眉しゅうびが開かれたのではあるまいか?」

「確かに…、当初は…」

「と申すからにはまさかに…、父、新兵衛しんべえ正久まさひさと同じく、その兵部ひょうぶ親奉ちかともも何か不ふ束つつかにて追放刑に処せられたとか?」

「いえ、決して左様さようなことは…、なれど病者びょうしゃにより嗣しを除のぞかれ…」

「廃はい嫡ちゃくされたわけか…」

「御意ぎょい…、もっとも病者びょうしゃ云々うんぬんはあくまで表向きにて…」

「と申すと…」

「されば真まことのところは新兵衛しんべえ正久まさひさと同様に不ふ束つつか…、いえ、然様さようなる表現では生易なまやさしい程ほどの乱らん行ぎょうぶりにて…」

「乱らん行ぎょうとな…」

「御意ぎょい…、されば兵部ひょうぶ親奉ちかともはその…、大変下世話げせわなる表現になりまするが…」

「構かまわぬ、申せ」

　家治がそう促うながすと、しかし千穂ちほはそれでも言い難にくそうであったが、

「されば…、呑のむ、打つ、買うの三拍子さんびょうしにて…」

　そう打ち明けたのであった。

「歴れきとした武家ぶけの嫡ちゃく子しが呑のむ、打つ、買うとは…」

　家治は呆あきれた様子で反芻はんすうした。

「されば御お家いえのため、父・半右衛門はんえもん興房おきふさが兵部ひょうぶ親奉ちかともを廃はい嫡ちゃくに及およびましたる由よし…」

　成程なるほどと、家治は内心、頷うなずいた。父・半右衛門はんえもん興房おきふさの心中が良く理解できたからだ。

　武家ぶけ、それも直参じきさんの旗本はたもとの嫡ちゃく子しが「呑のむ」「打つ」「買う」の遊興ゆうきょうに耽ふけっていたとなればそれだけで、改易かいえきの理由となる。例え、当主ではなく嫡ちゃく子しの身であったとしてもだ。

　それゆえ父・半右衛門はんえもん興房おきふさが「御お家いえの危機」と、兵部ひょうぶ親奉ちかともを廃はい嫡ちゃくに及およんだのも当然の対応と言えよう。

　だがそれでも家治には分からないことがあった。

「されば…、その父・半右衛門はんえもん興房おきふさは兵部ひょうぶ親奉ちかともを訓戒くんかいせなんだか?」

　廃はい嫡ちゃくにする前に一度ぐらい、親子で話し合う機会はなかったのだろうか…、そこが家治には疑問であった。それとも話し合った末に、最早もはやいかぬと、見み放はなしたか…。

「されば…、これで兵部ひょうぶ親奉ちかともが半右衛門はんえもん興房おきふさの実子じっしなれば左様さようなる機会きかいもあるいはあったやも知れませぬが…」

「と申すと、兵部ひょうぶ親奉ちかともは養よう嗣子ししとな?」

「御意ぎょい…、されば玉澤たまざわの話によりますれば上坂うえさか安左衛門やすざえもん政形まさかたなる旗本の次男坊とのこと…」

　千穂ちほがそう告げると、家治は「うえさか、のう…」と反芻はんすうした。先ほどの駒井こまい家とは違い、上坂うえさか家には聞き覚えがない様子であった。つまりは駒井こまい家のように将軍たる家治でも知っているような名家ではないということだ。

　案の定、千穂ちほの補足ほそくがそれを証明した。

「されば上坂うえさか家は、安左衛門やすざえもん政形まさかたが初代にて…」

　千穂ちほのその示唆しさで家治も上坂うえさか家が名家ではない、それどころか新興しんこうの旗本であることに気付いたようで、

「さしずめ…、班はんを進すすめられた口か?」

　家治は確かめるようにそう尋たずねたのであった。班はんを進すすめるとは、御家人から旗本へと家か格かくが上昇することである。

「御意ぎょい。されば上坂うえさか安左衛門やすざえもん政形まさかたは町方まちかたの与よ力りき…、それが代官に取り立てられ…」

　代官は旗本役であり、つまり代官に取り立てられた時点で安左衛門やすざえもん政形まさかたが当主を務める上坂うえさか家は御家人から旗本へと家か格かくが上昇、所謂いわゆる、

「班はんを進すすめた」

　わけである。

「なれど…、それでは分からぬのう…」

　家治は首を傾かしげた。それに対して千穂ちほはと言うと、家治が何に対して疑問に思っているのか、すぐに察しがついた。

「されば駒井こまい家のような名家が…、その当主ともあろう者が何ゆえに、上坂うえさか家のような新興しんこうの家より養よう嗣子ししを迎むかえたのか、でござりましょう?」

　千穂ちほは家治の内心の疑問をピタリと言い当ててみせ、家治も「正まさにその点よ…」と応じた。

「これもまた玉澤たまざわの話でござりまするが…、どうやら娘が上坂うえさか家の次男坊を…、兵部ひょうぶ親奉ちかともを見初みそめましたそうで…」

「娘とは…、駒井こまい半右衛門はんえもん興房おきふさが娘という意味か?」

　家治は確かめるように尋たずねた。

「申すまでもなきこと…」

「なれどそれでは、玉澤たまざわが出る幕まくがないではないか…」

「それが、娘…、半右衛門はんえもん興房おきふさがいざ、兵部ひょうぶ親奉ちかともを養よう嗣子ししとして迎え、そして娘と添そい遂とげさせようとした矢先やさき…」

「まさかに…、娘は病やまいにて身み罷まかったとか?」

「正まさしく…、これで仮に娘が兵部ひょうぶ親奉ちかともの子を、それも嫡ちゃく男なんを身み篭ごもり、そして産み落とした後に病死致いたさば、父の半右衛門はんえもん興房おきふさと致いたしてもその時点で婿むこの兵部ひょうぶ親奉ちかともを最早もはや用よう済ずみとばかりに…」

「お払はらい箱ばこ…、つまりは廃はい嫡ちゃくにしたとな?」

「御意ぎょい…、何しろ半右衛門はんえもん興房おきふさ自身はそもそもこの縁談えんだん…、上坂うえさか家の次男坊の兵部ひょうぶ親奉ちかともを養よう嗣子ししとして迎むかえ入れることに必ずしも賛成ならず…、いえ、それどころか反対の由よしにて…」

　さもあろうと、家治は思った。

「それでも娘に…、さしずめ愛まな娘むすめにせがまれたためにやむなく…、とな?」

「御意ぎょい…、なれどその愛まな娘むすめが病にて身み罷まかりましたとなれば、その父、半右衛門はんえもん興房おきふさと致いたしましてはやはり下世話げせわなる表現になりまするが…」

「さしずめ…、愛まな娘むすめを誑たぶらかせし婿むこである兵部ひょうぶ親奉ちかともなぞ、さっさと廃はい嫡ちゃくにしたい…、それどころか家から追い出したいところが本音ほんねであろうぞ…」

「御意ぎょい…、なれど最前さいぜん申し上げましたる通り、娘は婿むこの兵部ひょうぶ親奉ちかともとの間に子を…、嫡ちゃく男なんをなさずして身み罷まかりましたゆえ…」

「追い出すわけにもゆかぬ、か…」

「御意ぎょい…」

「されば他に適当てきとうなる娘はおらなんだか?養よう嗣子ししを迎むかえるぐらいゆえ、半右衛門はんえもん興房おきふさは嫡ちゃく男なんには恵めぐまれなかったのであろうが…」

「確かに…、半右衛門はんえもん興房おきふさには他にも娘はおりましたそうで…、なれどその時点では…、娘が身み罷まかりし延享元(1744)年の時点では皆、早世そうせい致いたしておりましたそうな…」

「夭折ようせつ致いたしていたと?」

「御意ぎょい。されば半右衛門はんえもん興房おきふさと致いたしましては甚はなはだ不ふ本意ほんいではありましたでしょうが、愛まな娘むすめを誑たぶらかせし憎にくい婿むこであります兵部ひょうぶ親奉ちかとものために嫁探しを…」

「そこで玉澤たまざわが登場すると…」

「御意ぎょい…、されば駒井こまい家は名家なれば、その嫡ちゃく子しの嫁ともなれば…」

「嫁になりたと願う女おなご、と申すよりはその名家たる駒井こまい家に娘を嫁とつがせたいと願う父はそれこそ吐はいて捨すつるほどいるに相違そういあるまいて…」

「御意ぎょい…、なれど実際には…」

　駒井こまい兵部ひょうぶ親奉ちかともの許もとに嫁とつぎたいと願う女子、いや、大事な娘を嫁とつがせたいと願う父親は誰一人としていなかったと、千穂ちほはそう示唆しさし、家治もそうと気付いて大いに頷うなずいたものである。

　それはそうだろう。如何いかに駒井こまい家が名家とは申せ、そして兵部ひょうぶ親奉ちかともがその駒井こまい家の嫡ちゃく子しとは申せ、実際には兵部ひょうぶ親奉ちかともは名族である駒井こまい家の血を引いているわけではない。

　それどころか、新興しんこう旗本の上坂うえさか家の次男坊に過ぎない。それがたまたま駒井こまい家の娘に見初みそめられたがために、名家である駒井こまい家に養よう嗣子ししとして迎むかえられたのだ。

　しかも、娘は兵部ひょうぶ親奉ちかともと正式に結ばれる…、夫婦めおとになる前、つまりは婚約者のうちに亡くなったわけであるが、それでも所謂いわゆる、

「体の関係…」

　それぐらいはあったに違いない。いや、ない方がおかしい。

　そうだとすれば、そのような兵部ひょうぶ親奉ちかともの許もとへと嫁とつぎたいと願う物もの好ずきな女はそうそういないであろうし、仮に女が…、娘がそう願ったとしても父親がそれを許さないであろう。

「いかさま…、嫁探しが難航なんこうせし半右衛門はんえもんの許もとに、清兵衛せいべえ正章まさあきらが…、いや、妻女さいじょが縁談えんだんを…、玉澤たまざわを嫁にと、話を持ち込こんだか…」

　清兵衛せいべえ正章まさあきらの妻女さいじょが、玉澤たまざわたち三姉妹の縁談に躍起やっきになったとすれば、当然、妻女さいじょが駒井こまい家に…、当主の半右衛門はんえもん興房おきふさの許もとへと縁談えんだんを…、玉澤たまざわを嫁にしないかと、そう話を持ち込んだものと推察すいさつされた。

「正確には妻女さいじょの父が…」

「何と…、それでは妻女さいじょは父に…、柴田しばた日向ひゅうがに泣き付いたと申すか?」

「玉澤たまざわが申しますには…、その折おり…、延享元(1744)年には柴田しばた日向守ひゅうがのかみは使つかい番ばんから先さき手て鉄砲てっぽう頭がしらへと更さらに昇進しょうしんを…、されば相役あいやくの先さき手て頭がしらの間での噂うわさで駒井こまい家のことが…、当主の半右衛門はんえもん興房おきふさが訳ありの婿むこのために嫁探しに奔走ほんそうしておりますようなれど、中々なかなかに…、難航なんこうせしその噂、柴田しばた日向守ひゅうがのかみも耳に致いたしておりましたそうで…」

「そこへ娘が玉澤たまざわたち三姉妹を本田ほんだ家より追い出したいので、どこぞ、良い嫁とつぎ先さきはないかと…、さしずめ斯様かように泣き付いたと申すか?妻女さいじょは父である柴田しばた日向ひゅうがに…」

「御意ぎょい…、されば柴田しばた日向守ひゅうがのかみは大事な娘の願いとばかり、まずは玉澤たまざわをその、駒井こまい兵部ひょうぶ親奉ちかともに宛あてがうことに…」

「それはまた何ゆえに?」

「やはり同い年ゆえでござりましょうか…」

「兵部ひょうぶ親奉ちかともと玉澤たまざわは同い年とな?」

「御意ぎょい…、されば延享元(1744)年の時点では兵部ひょうぶ親奉ちかともも玉澤たまざわも共に齢よわい14にて…」

「成程なるほど…」

「されば駒井こまい半右衛門はんえもん興房おきふさは柴田しばた日向守ひゅうがのかみより持ち込まれしこの話…、玉澤たまざわを…、いえ、その当時は袖そでと名乗っておりましたようで…、本田ほんだ家の袖そでを是非ぜひとも駒井こまい家の嫡ちゃく子しの兵部ひょうぶ親奉ちかともの嫁にと、その話に即座そくざに飛びつきましたる由よしにて…」

「さもあろう…」

　家治は大いに頷うなずいた。本田ほんだ家と言えば、駒井こまい家ほどの名家ではないにしても、少なくとも上坂うえさか家よりは由緒ゆいしょがあり、何より、嫁が見つからぬ現状、

「贅沢ぜいたくなど言っていられない…」

　というわけで、半右衛門はんえもん興房おきふさが即座そくざにこの話に飛びついたのも、

「むべなるかな」

　であった。