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大詰め ~家治の愛妾の千穂に年寄として仕える玉澤とその妹の長尾の真の経歴、その5~
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「ところで…、玉澤の今の宿元は確か…、養父の堤代長中納言殿ではなかったか…」
家治は思い出したように尋ねた。
「御意…、されば玉澤の申すところによりますれば、赤井越前…、京都町奉行へと昇進せし赤井越前守忠皛の好意によるものとのこと…」
「越前の?」
「御意…、されば玉澤は最早、一介の奥女中に非ずして、歴とせし年寄なれば、宿元も己よりももそっと地位の高き…、所謂、権門勢家をと…」
「成程…、京都町奉行ともなれば、公家衆との付き合いもあるしの…、いや…、中納言に宿元を頼むともなれば、京都町奉行では些か、力不足かの…」
家治がそのことに気付くと、千穂も「御意…」と答えた上で、
「されば京都所司代の力を借りましたそうで…」
そう付け加えたのであった。
「京都所司代…、いかさま、京都所司代なれば、奥女中のためにと、中納言に宿元を頼むことも可能であろう…」
「御意…、されば京都所司代の土井大炊頭利里の力を借りましたそうで…」
「何と…、土井大炊だと?」
「御意…」
「土井大炊と申さば、確か安永…、安永6(1777)年の8月頃に身罷った筈…、老中を目前にして…」
家治の言う通りであった。京都所司代とは老中のいわば、
「待機ポスト…」
そのような意味合いの役職であり、ゆえに京都所司代にまで辿り着くことができればあとは老中職を待つばかりであった。
土井利里も勿論、そのつもりであっただろうし、家治とてそのつもりであった。
だが土井利里は結局、老中まであと一歩のところで病死してしまったのだ。もし病死していなければ、今頃は土井利里も老中に名を列ねていたに相違あるまい。
「さればそれはいつの話ぞ?」
「赤井越前守忠皛が京都町奉行へと昇進してすぐのことゆえ、安永3(1774)年のことではなかったかと…」
「安永4(1774)年、のう…」
家治の愛娘の萬壽姫が薨去…、一橋治済の毒牙…、正に字義通り、毒牙にかかってから1年後のことであった。家治はそのことに思いを馳せると胸が痛んだ。
家治はそれを振り払うべく、「されば…、安永3(1774)年の時点でも堤中納言殿は…」と、その時点でも今と同じく、
「正二位・権中納言…」
その位にあったのか…、家治がそう示唆すると、千穂も家治の胸中を察して、
「されば正二位でこそなきものの、従二位の権中納言にて…」
従二位・権中納言…、やはり京都町奉行では手に余る相手であろう。
「それで…、赤井越前は土井大炊を頼ったわけか…」
「御意…、玉澤自身は今まで通り、赤井越前守忠皛に宿元をと…、なれど赤井越前守忠皛は京都町奉行として京の都に赴任せしゆえ、権門勢家…、公家衆に頼んでみようぞと…、胸を叩きましたそうにて…」
「然様であった…、赤井越前が玉澤に好意を示したは京の都への赴任前であったか…」
家治は確かにその通りの話だなと合点がいった。これで電話などの通信機器が発達していれば、京都から江戸…、東京へとダイヤル1つで玉澤と意思疎通が出来るが、生憎、この時代はまだそのような便利な通信機器は発達しておらず、ゆえに玉澤に好意を示すとなれば、赴任前が一番タイミングが良い。
「御意…、されば京の都においては既に、土井大炊頭利里が…」
千穂がそう言うと、家治も頷いてみせた。
土井利里が京都所司代に就いたのはそれよりも前、明和6(1769)年の8月のことであったからだ。
それにしてもと、家治は赤井忠皛のその、
「目の付け所の良さ…」
それに心底、舌を巻いたものだった。
目の付け所の良さとは他でもない、赤井忠皛が土井利里に照準を合わせたこと、つまりは土井利里を頼ったことに、である。
土井利里は京都所司代ゆえ、赤井忠皛としては、土井利里をおいて外に頼るべき人物はおらず、ゆえに赤井忠皛が土井利里を頼ったところで、それは当たり前の選択であり、
「目の付け所の良さ…」
そうではないように思われる。
だが、赤井忠皛は京都町奉行に昇進するや、そして現地に赴任する前に、既に現地には京都所司代として土井利里が赴任していることを把握していればこそ、玉澤に対して宿元を己から権門勢家、つまりは公家に切り換えてやると、そう手形を切ったのではあるまいか。
どういうことかというと、土井利里が京都所司代ならば、
「お千穂の方様に年寄として附属せし玉澤のことなれば、土井大炊は必ずや力を貸してくれるに相違あるまい…」
その勝算が赤井忠皛にあったに違いない。
それというのも土井利里の遠縁に当たる者の中に旗本で中奥小姓の要職にある土井豊前守利國という者がいるのだが、この土井利國は他でもない、千穂の弟で将軍・家治の御側衆…、平御側というこれまた要職にある津田日向守信之の次男坊なのである。
つまり、土井利國は千穂の実の甥に当たる、
しかも利國の妻女の三保子は土井利里の孫娘なのである。
赤井忠皛ほどの男なれば勿論、それらの事情を把握していたに違いなく、そして瞬時に算盤を…、
「千穂の甥に大事な孫娘を嫁がせている土井利里ならば、その千穂に年寄として附属する玉澤のためとあらば動いてくれるに違いない…」
その算盤を弾いたに違いない。
一方、土井利里にしてみても、次期将軍たる家基の生母でもある千穂に年寄として附属する玉澤にここで恩を売っておくのも悪くはないと、やはりそんな算盤を弾いたに違いない。
ともあれ打算が絡み合い、玉澤の宿元を中納言の堤代長へと切り換えることに、のみならず、玉澤を堤代長の養女とすることにまで漕ぎ着けたということだろう。
「されば長尾は…、長尾の宿元は今でも?」
家治はやはり思い出したようにそう尋ねた。
「御意…、今でも赤井越前守忠皛にて…、されば中年寄たる己には中納言様を宿元などと、過ぎたることにてと、然様に峻拒致しましたる由…」
長尾のその奥ゆかしい態度は家治にとっては正に、
「一服の清涼剤…」
それであった。
「なれど長尾も今では年寄であろう…」
長尾も今では千穂附の年寄、つまりは姉・玉澤と共に千穂に年寄として仕えているというわけだ。
代わりに、長尾が抜けた中年寄、その後任は川崎なる奥女中であった。
「年寄となりし今でも長尾は赤井越前を宿元と…」
「御意…、己は赤井の人間である、と…」
見上げたものだなと、家治は長尾のその殊勝なる態度に感心させられた。
「ときに…、玉澤と長尾に、さらにいまひとり、末の妹がいるとの話であったが…」
「されば、振なる妹にて…」
「その振もまた、大奥勤めを致しておるのか?」
「いえ、振は婚家にて幸せに暮らしておりますそうで…」
「と申すと、主は今でも健在とな?」
「いえ、主…、川崎市之進定盈は安永7(1778)年に身罷りましてござりまする…」
「何と…、振が婚家は川崎とな…」
「御意…、されば上様がご賢察の通り、私めに中年寄として仕えし川崎は、振が夫、川崎市之進定盈が妹にて…」
「然様であったか…、いや、待てよ…、川崎市之進と申さば、もしや、川崎平右衛門定孝が嫡子ではあるまいか?我が祖父、吉宗公が見出せし、川崎平右衛門定孝が…」
「御意…、如何にもその川崎にて…」
「されば川崎市之進は石見銀山支配を…」
「御意…、されば今は川崎市之進が嫡子、平右衛門定安が石見銀山支配を…、武蔵下野代官との兼務にて…」
「平右衛門定安が川崎家を…、されば振は我が子と共に川崎家にて暮らしておるわけか?」
「御意…、尤も平右衛門定安は振が実子ではありませぬが…」
「と申すと…」
「されば川崎平右衛門定安は、父・市之進定盈が先妻の辻六郎左衛門富守が娘にて…」
「されば振は後添いというわけか?」
「御意…」
「然様か…、ちなみにその先妻だが死別か?それとも…」
「死別だそうにて…、何でも産後の肥立ちが悪く…」
「平右衛門定安を産みし後、身罷ったと申すか?」
「御意…」
「然様であったか…、それでは振と平右衛門定安とは血がつながっておらぬのか…」
親子仲は大丈夫なのだろうか…、家治は他人事ながらそんなことに思いを寄せた。
するとそうと察した千穂が、「されば玉澤が申しますには実の親子のようだと…」とそう答えて家治をホッとさせたものである。
「それに平右衛門定安は玉澤とも縁があり…」
千穂が思わせぶりにそう告げたので、家治は「何と?」と首を傾げた。
「されば平右衛門定安が実母の妹…、叔母でござりまするが、何とこの叔母、駒井半蔵爲隣が妻女にて…」
千穂がそう告げるや、家治は目を剥いた。
「何と…、駒井半蔵爲隣と申さば、玉澤が実子ではあるまいか…」
「御意…」
何たる奇縁か…、家治はそう思わずにはいられなかった。
「されば千穂…、それに種よ…」
家治は種の方をも振り向いてそう改まった声をかけた。すると千穂も種姫も、それに|種姫《たねひめ附の年寄の向坂までもが威儀を正して、
「ははぁっ」
そう声を上げつつ叩頭した。
「そなたら、命を狙われておるぞえ…」
家治がそう告げたものだから、千穂にしろ種姫にしろ、困惑気な表情を浮かべた。唯一、御伽坊主の眞更より事情を打ち明けられていた向坂のみ、驚く素振りを見せなかった。
「いや、二人ばかりではない。余とて命を狙われておる…」
「一体、誰に…、誰に命を狙われておるのでござりまするかっ!?」
千穂は頓狂な声を上げた。至極真っ当な反応と言えよう。それでもあまり大きな声を上げられても困るので、「もそっと静かに…」と家治は千穂を宥めた。
家治はその上で、己らの命を狙っている者の名を告げた。即ち、
「一橋治済…」
その名を告げたのであった。
「何と…、我らのみならず、畏れ多くも上様のお命までも?一橋卿は…」
「然様…、いや、治済は既に、命を奪ったことがあるのだ…、それも家基の命を…」
「何ですとっ!?」
千穂は家治の注意にもかかわらず、最大限の声を張り上げた。無理もないと、家治は最早、注意することもしなかった。
それから家治は一橋治済が家基を毒殺したと思われる「トリック」を掻い摘んでだが、解説した。
「何と…、その遅効性なる毒キノコでもって…、シロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケでもって家基が命を…、のみならず、清水重好卿に罪を着せようとは何たる非道っ、卑劣っ」
千穂は治済に対する怒りをあらわにした。家治も同感であった。
「その上、砂野までが…」
大事な姪と想っていた砂野までが、家基の毒殺に関与していたと知り、千穂はショックを隠せない様子であった。無理もない。
「砂野がかつて、種姫の中年寄を勤めしは、そのため…、家基の命を奪うためだったとは…」
千穂は口惜しそうに唇を噛み締めた。
「されば治済めは、家基を害せし前、倫子や萬壽の命までも奪ったのだ。毒の効果を確かめるべく…」
「ああ、然様で…」
未だにショックをひきずっているためか、いや、違う、千穂は家治の本妻の倫子やその娘の萬壽姫までもが治済の手にかかったと、家治より聞かされても、家基の時程には反応しなかった。
家治は千穂の態度に内心、やれやれと失望しつつも、ともかく、倫子や萬壽姫の毒殺時の状況について、これまた掻い摘んで説明した。
「何と…、御台様に附属せし中年寄の岩田、いえ、富や、それに同じく萬壽姫様に中年寄として附属せし高橋がそれぞれ実行犯とは…」
千穂にとっては倫子や萬壽姫が毒殺されようとも、さして驚くことではなかったものの、しかし、中年寄が実行犯の一味だと知り、これには驚きを禁じ得なかったようだ。
「それにその当時の広敷番之頭もだ…、皆、一橋とかかわりがある者たちにて…」
「なれど…、今の広敷番之頭につきましては分かりかねまするが、なれど、少なくともこの私めに附属せし中年寄の川崎は一橋とは何のかかわりもなく…」
千穂は困惑気な表情でそう言った。つまり、己が毒殺されるとは考え難いというわけだ。
「然様…、確かに千穂に附属せし中年寄の川崎は一橋とは何の関わり合いもなく、そしてそのことは種についても同じことが…」
種姫に附属する中年寄の廣瀬もまた一橋家とは何の関わり合いもなかった。それどころか、田安邸にて向坂と共に種姫に仕えていた身である。
それが種姫が家基の婚約者として江戸城大奥入りを果たすに際して、向坂も廣瀬も種姫に従い、江戸城大奥入りを果たしたのだ。
それゆえ向坂も廣瀬も一橋家とは接点がない、それこそ、
「何の縁も所縁もない…」
というものであった。
そうであれば、千穂にしろ、種姫にしろ、一見、安泰のように思える。少なくとも千穂は楽観視していた。
「いや、それが此度はどうやら、中年寄や広敷番之頭…、毒見役である中年寄や広敷番之頭まで巻き添えにするつもりのようなのだ。治済めは…」
「何と…」
「されば最前、申した家基が命を奪いしシロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケは遅効性にて、されば毒見役が…、中年寄や広敷番之頭が毒見をせしところですぐにどうこうなるという話ではないゆえ、異常なしとしてそのまま、千穂や種姫の前にその膳が…、夕膳が運ばれてくる…」
家治がそう告げると、千穂は顔面蒼白となった。
家治は思い出したように尋ねた。
「御意…、されば玉澤の申すところによりますれば、赤井越前…、京都町奉行へと昇進せし赤井越前守忠皛の好意によるものとのこと…」
「越前の?」
「御意…、されば玉澤は最早、一介の奥女中に非ずして、歴とせし年寄なれば、宿元も己よりももそっと地位の高き…、所謂、権門勢家をと…」
「成程…、京都町奉行ともなれば、公家衆との付き合いもあるしの…、いや…、中納言に宿元を頼むともなれば、京都町奉行では些か、力不足かの…」
家治がそのことに気付くと、千穂も「御意…」と答えた上で、
「されば京都所司代の力を借りましたそうで…」
そう付け加えたのであった。
「京都所司代…、いかさま、京都所司代なれば、奥女中のためにと、中納言に宿元を頼むことも可能であろう…」
「御意…、されば京都所司代の土井大炊頭利里の力を借りましたそうで…」
「何と…、土井大炊だと?」
「御意…」
「土井大炊と申さば、確か安永…、安永6(1777)年の8月頃に身罷った筈…、老中を目前にして…」
家治の言う通りであった。京都所司代とは老中のいわば、
「待機ポスト…」
そのような意味合いの役職であり、ゆえに京都所司代にまで辿り着くことができればあとは老中職を待つばかりであった。
土井利里も勿論、そのつもりであっただろうし、家治とてそのつもりであった。
だが土井利里は結局、老中まであと一歩のところで病死してしまったのだ。もし病死していなければ、今頃は土井利里も老中に名を列ねていたに相違あるまい。
「さればそれはいつの話ぞ?」
「赤井越前守忠皛が京都町奉行へと昇進してすぐのことゆえ、安永3(1774)年のことではなかったかと…」
「安永4(1774)年、のう…」
家治の愛娘の萬壽姫が薨去…、一橋治済の毒牙…、正に字義通り、毒牙にかかってから1年後のことであった。家治はそのことに思いを馳せると胸が痛んだ。
家治はそれを振り払うべく、「されば…、安永3(1774)年の時点でも堤中納言殿は…」と、その時点でも今と同じく、
「正二位・権中納言…」
その位にあったのか…、家治がそう示唆すると、千穂も家治の胸中を察して、
「されば正二位でこそなきものの、従二位の権中納言にて…」
従二位・権中納言…、やはり京都町奉行では手に余る相手であろう。
「それで…、赤井越前は土井大炊を頼ったわけか…」
「御意…、玉澤自身は今まで通り、赤井越前守忠皛に宿元をと…、なれど赤井越前守忠皛は京都町奉行として京の都に赴任せしゆえ、権門勢家…、公家衆に頼んでみようぞと…、胸を叩きましたそうにて…」
「然様であった…、赤井越前が玉澤に好意を示したは京の都への赴任前であったか…」
家治は確かにその通りの話だなと合点がいった。これで電話などの通信機器が発達していれば、京都から江戸…、東京へとダイヤル1つで玉澤と意思疎通が出来るが、生憎、この時代はまだそのような便利な通信機器は発達しておらず、ゆえに玉澤に好意を示すとなれば、赴任前が一番タイミングが良い。
「御意…、されば京の都においては既に、土井大炊頭利里が…」
千穂がそう言うと、家治も頷いてみせた。
土井利里が京都所司代に就いたのはそれよりも前、明和6(1769)年の8月のことであったからだ。
それにしてもと、家治は赤井忠皛のその、
「目の付け所の良さ…」
それに心底、舌を巻いたものだった。
目の付け所の良さとは他でもない、赤井忠皛が土井利里に照準を合わせたこと、つまりは土井利里を頼ったことに、である。
土井利里は京都所司代ゆえ、赤井忠皛としては、土井利里をおいて外に頼るべき人物はおらず、ゆえに赤井忠皛が土井利里を頼ったところで、それは当たり前の選択であり、
「目の付け所の良さ…」
そうではないように思われる。
だが、赤井忠皛は京都町奉行に昇進するや、そして現地に赴任する前に、既に現地には京都所司代として土井利里が赴任していることを把握していればこそ、玉澤に対して宿元を己から権門勢家、つまりは公家に切り換えてやると、そう手形を切ったのではあるまいか。
どういうことかというと、土井利里が京都所司代ならば、
「お千穂の方様に年寄として附属せし玉澤のことなれば、土井大炊は必ずや力を貸してくれるに相違あるまい…」
その勝算が赤井忠皛にあったに違いない。
それというのも土井利里の遠縁に当たる者の中に旗本で中奥小姓の要職にある土井豊前守利國という者がいるのだが、この土井利國は他でもない、千穂の弟で将軍・家治の御側衆…、平御側というこれまた要職にある津田日向守信之の次男坊なのである。
つまり、土井利國は千穂の実の甥に当たる、
しかも利國の妻女の三保子は土井利里の孫娘なのである。
赤井忠皛ほどの男なれば勿論、それらの事情を把握していたに違いなく、そして瞬時に算盤を…、
「千穂の甥に大事な孫娘を嫁がせている土井利里ならば、その千穂に年寄として附属する玉澤のためとあらば動いてくれるに違いない…」
その算盤を弾いたに違いない。
一方、土井利里にしてみても、次期将軍たる家基の生母でもある千穂に年寄として附属する玉澤にここで恩を売っておくのも悪くはないと、やはりそんな算盤を弾いたに違いない。
ともあれ打算が絡み合い、玉澤の宿元を中納言の堤代長へと切り換えることに、のみならず、玉澤を堤代長の養女とすることにまで漕ぎ着けたということだろう。
「されば長尾は…、長尾の宿元は今でも?」
家治はやはり思い出したようにそう尋ねた。
「御意…、今でも赤井越前守忠皛にて…、されば中年寄たる己には中納言様を宿元などと、過ぎたることにてと、然様に峻拒致しましたる由…」
長尾のその奥ゆかしい態度は家治にとっては正に、
「一服の清涼剤…」
それであった。
「なれど長尾も今では年寄であろう…」
長尾も今では千穂附の年寄、つまりは姉・玉澤と共に千穂に年寄として仕えているというわけだ。
代わりに、長尾が抜けた中年寄、その後任は川崎なる奥女中であった。
「年寄となりし今でも長尾は赤井越前を宿元と…」
「御意…、己は赤井の人間である、と…」
見上げたものだなと、家治は長尾のその殊勝なる態度に感心させられた。
「ときに…、玉澤と長尾に、さらにいまひとり、末の妹がいるとの話であったが…」
「されば、振なる妹にて…」
「その振もまた、大奥勤めを致しておるのか?」
「いえ、振は婚家にて幸せに暮らしておりますそうで…」
「と申すと、主は今でも健在とな?」
「いえ、主…、川崎市之進定盈は安永7(1778)年に身罷りましてござりまする…」
「何と…、振が婚家は川崎とな…」
「御意…、されば上様がご賢察の通り、私めに中年寄として仕えし川崎は、振が夫、川崎市之進定盈が妹にて…」
「然様であったか…、いや、待てよ…、川崎市之進と申さば、もしや、川崎平右衛門定孝が嫡子ではあるまいか?我が祖父、吉宗公が見出せし、川崎平右衛門定孝が…」
「御意…、如何にもその川崎にて…」
「されば川崎市之進は石見銀山支配を…」
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「と申すと…」
「されば川崎平右衛門定安は、父・市之進定盈が先妻の辻六郎左衛門富守が娘にて…」
「されば振は後添いというわけか?」
「御意…」
「然様か…、ちなみにその先妻だが死別か?それとも…」
「死別だそうにて…、何でも産後の肥立ちが悪く…」
「平右衛門定安を産みし後、身罷ったと申すか?」
「御意…」
「然様であったか…、それでは振と平右衛門定安とは血がつながっておらぬのか…」
親子仲は大丈夫なのだろうか…、家治は他人事ながらそんなことに思いを寄せた。
するとそうと察した千穂が、「されば玉澤が申しますには実の親子のようだと…」とそう答えて家治をホッとさせたものである。
「それに平右衛門定安は玉澤とも縁があり…」
千穂が思わせぶりにそう告げたので、家治は「何と?」と首を傾げた。
「されば平右衛門定安が実母の妹…、叔母でござりまするが、何とこの叔母、駒井半蔵爲隣が妻女にて…」
千穂がそう告げるや、家治は目を剥いた。
「何と…、駒井半蔵爲隣と申さば、玉澤が実子ではあるまいか…」
「御意…」
何たる奇縁か…、家治はそう思わずにはいられなかった。
「されば千穂…、それに種よ…」
家治は種の方をも振り向いてそう改まった声をかけた。すると千穂も種姫も、それに|種姫《たねひめ附の年寄の向坂までもが威儀を正して、
「ははぁっ」
そう声を上げつつ叩頭した。
「そなたら、命を狙われておるぞえ…」
家治がそう告げたものだから、千穂にしろ種姫にしろ、困惑気な表情を浮かべた。唯一、御伽坊主の眞更より事情を打ち明けられていた向坂のみ、驚く素振りを見せなかった。
「いや、二人ばかりではない。余とて命を狙われておる…」
「一体、誰に…、誰に命を狙われておるのでござりまするかっ!?」
千穂は頓狂な声を上げた。至極真っ当な反応と言えよう。それでもあまり大きな声を上げられても困るので、「もそっと静かに…」と家治は千穂を宥めた。
家治はその上で、己らの命を狙っている者の名を告げた。即ち、
「一橋治済…」
その名を告げたのであった。
「何と…、我らのみならず、畏れ多くも上様のお命までも?一橋卿は…」
「然様…、いや、治済は既に、命を奪ったことがあるのだ…、それも家基の命を…」
「何ですとっ!?」
千穂は家治の注意にもかかわらず、最大限の声を張り上げた。無理もないと、家治は最早、注意することもしなかった。
それから家治は一橋治済が家基を毒殺したと思われる「トリック」を掻い摘んでだが、解説した。
「何と…、その遅効性なる毒キノコでもって…、シロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケでもって家基が命を…、のみならず、清水重好卿に罪を着せようとは何たる非道っ、卑劣っ」
千穂は治済に対する怒りをあらわにした。家治も同感であった。
「その上、砂野までが…」
大事な姪と想っていた砂野までが、家基の毒殺に関与していたと知り、千穂はショックを隠せない様子であった。無理もない。
「砂野がかつて、種姫の中年寄を勤めしは、そのため…、家基の命を奪うためだったとは…」
千穂は口惜しそうに唇を噛み締めた。
「されば治済めは、家基を害せし前、倫子や萬壽の命までも奪ったのだ。毒の効果を確かめるべく…」
「ああ、然様で…」
未だにショックをひきずっているためか、いや、違う、千穂は家治の本妻の倫子やその娘の萬壽姫までもが治済の手にかかったと、家治より聞かされても、家基の時程には反応しなかった。
家治は千穂の態度に内心、やれやれと失望しつつも、ともかく、倫子や萬壽姫の毒殺時の状況について、これまた掻い摘んで説明した。
「何と…、御台様に附属せし中年寄の岩田、いえ、富や、それに同じく萬壽姫様に中年寄として附属せし高橋がそれぞれ実行犯とは…」
千穂にとっては倫子や萬壽姫が毒殺されようとも、さして驚くことではなかったものの、しかし、中年寄が実行犯の一味だと知り、これには驚きを禁じ得なかったようだ。
「それにその当時の広敷番之頭もだ…、皆、一橋とかかわりがある者たちにて…」
「なれど…、今の広敷番之頭につきましては分かりかねまするが、なれど、少なくともこの私めに附属せし中年寄の川崎は一橋とは何のかかわりもなく…」
千穂は困惑気な表情でそう言った。つまり、己が毒殺されるとは考え難いというわけだ。
「然様…、確かに千穂に附属せし中年寄の川崎は一橋とは何の関わり合いもなく、そしてそのことは種についても同じことが…」
種姫に附属する中年寄の廣瀬もまた一橋家とは何の関わり合いもなかった。それどころか、田安邸にて向坂と共に種姫に仕えていた身である。
それが種姫が家基の婚約者として江戸城大奥入りを果たすに際して、向坂も廣瀬も種姫に従い、江戸城大奥入りを果たしたのだ。
それゆえ向坂も廣瀬も一橋家とは接点がない、それこそ、
「何の縁も所縁もない…」
というものであった。
そうであれば、千穂にしろ、種姫にしろ、一見、安泰のように思える。少なくとも千穂は楽観視していた。
「いや、それが此度はどうやら、中年寄や広敷番之頭…、毒見役である中年寄や広敷番之頭まで巻き添えにするつもりのようなのだ。治済めは…」
「何と…」
「されば最前、申した家基が命を奪いしシロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケは遅効性にて、されば毒見役が…、中年寄や広敷番之頭が毒見をせしところですぐにどうこうなるという話ではないゆえ、異常なしとしてそのまま、千穂や種姫の前にその膳が…、夕膳が運ばれてくる…」
家治がそう告げると、千穂は顔面蒼白となった。
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――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
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わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
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この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
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if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
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歴史・時代
1615年5月。
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堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
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西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
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