天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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大詰め ~家治の愛妾の千穂に年寄として仕える玉澤とその妹の長尾の真の経歴、その5~

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「ところで…、玉澤たまざわの今の宿元やどもとは確か…、ようつつみ代長しろなが中納言ちゅうなごん殿ではなかったか…」

 家治は思い出したように尋ねた。

御意ぎょい…、されば玉澤たまざわの申すところによりますれば、赤井あかい越前えちぜん…、京都町奉行へと昇進せし赤井あかい越前守えちぜんのかみ忠皛ただあきらこうによるものとのこと…」

越前えちぜんの?」

御意ぎょい…、されば玉澤たまざわはや一介いっかいおくじょちゅうあらずして、れきとせし年寄としよりなれば、宿元やどもとも己よりももそっと地位の高き…、所謂いわゆる権門けんもんせいをと…」

成程なるほど…、京都町奉行ともなれば、公家くげ衆との付き合いもあるしの…、いや…、中納言ちゅうなごん宿元やどもとを頼むともなれば、京都町奉行ではいささか、力不足かの…」

 家治がそのことに気付くと、千穂ちほも「御意ぎょい…」と答えた上で、

「されば京都所司代の力を借りましたそうで…」

 そう付け加えたのであった。

「京都所司代…、いかさま、京都所司代なれば、おくじょちゅうのためにと、中納言ちゅうなごん宿元やどもとを頼むことも可能であろう…」

御意ぎょい…、されば京都所司代の土井どい大炊頭おおいのかみ利里としさとの力を借りましたそうで…」

「何と…、土井どい大炊おおいだと?」

御意ぎょい…」

土井どい大炊おおいもうさば、確か安永…、安永6(1777)年の8月頃にまかったはず…、老中を目前もくぜんにして…」

 家治の言う通りであった。京都所司代とは老中のいわば、

たいポスト…」

 そのような意味合いの役職であり、ゆえに京都所司代にまで辿たどり着くことができればあとは老中職を待つばかりであった。

 土井どい利里としさと勿論もちろん、そのつもりであっただろうし、家治とてそのつもりであった。

 だが土井どい利里としさとは結局、老中まであと一歩のところで病死してしまったのだ。もし病死していなければ、今頃は土井どい利里としさとも老中に名をつらねていたにそうあるまい。

「さればそれはいつの話ぞ?」

赤井あかい越前守えちぜんのかみ忠皛ただあきらが京都町奉行へと昇進してすぐのことゆえ、安永3(1774)年のことではなかったかと…」

「安永4(1774)年、のう…」

 家治のまなむすめ萬壽ますひめ薨去こうきょ…、一橋ひとつばし治済はるさだどく…、まさ字義じぎ通り、どくにかかってから1年後のことであった。家治はそのことに思いをせると胸が痛んだ。

 家治はそれを振り払うべく、「されば…、安永3(1774)年の時点でもつつみ中納言ちゅうなごん殿は…」と、その時点でも今と同じく、

正二位しょうにいごん中納言ちゅうなごん…」

 その位にあったのか…、家治がそう示唆しさすると、千穂ちほも家治の胸中きょうちゅうを察して、

「されば正二位しょうにいでこそなきものの、従二位じゅにいごん中納言ちゅうなごんにて…」

 従二位じゅにいごん中納言ちゅうなごん…、やはり京都町奉行では手に余る相手であろう。

「それで…、赤井あかい越前えちぜん土井どい大炊おおいを頼ったわけか…」

御意ぎょい…、玉澤たまざわ自身は今まで通り、赤井あかい越前守えちぜんのかみ忠皛ただあきら宿元やどもとをと…、なれど赤井あかい越前守えちぜんのかみ忠皛ただあきらは京都町奉行として京の都ににんせしゆえ、権門けんもんせい…、公家くげ衆に頼んでみようぞと…、胸を叩きましたそうにて…」

然様さようであった…、赤井あかい越前えちぜん玉澤たまざわこうを示したは京の都へのにん前であったか…」

 家治は確かにその通りの話だなと合点がてんがいった。これで電話などの通信機器が発達していれば、京都から江戸…、東京へとダイヤル1つで玉澤たまざわ意思いしつうが出来るが、生憎あいにく、この時代はまだそのような便利な通信機器は発達しておらず、ゆえに玉澤たまざわこうを示すとなれば、にん前が一番タイミングが良い。

御意ぎょい…、されば京の都においてはすでに、土井どい大炊頭おおいのかみ利里としさとが…」

 千穂ちほがそう言うと、家治もうなずいてみせた。

 土井どい利里としさとが京都所司代にいたのはそれよりも前、明和6(1769)年の8月のことであったからだ。

 それにしてもと、家治は赤井あかい忠皛ただあきらのその、

「目の付け所の良さ…」

 それに心底しんそこ、舌を巻いたものだった。

 目の付け所の良さとは他でもない、赤井あかい忠皛ただあきら土井どい利里としさと照準しょうじゅんを合わせたこと、つまりは土井どい利里としさとを頼ったことに、である。

 土井どい利里としさとは京都所司代ゆえ、赤井あかい忠皛ただあきらとしては、土井どい利里としさとをおいてほかに頼るべき人物はおらず、ゆえに赤井あかい忠皛ただあきら土井どい利里としさとを頼ったところで、それは当たり前の選択であり、

「目の付け所の良さ…」

 そうではないように思われる。

 だが、赤井あかい忠皛ただあきらは京都町奉行に昇進するや、そして現地ににんする前に、すでに現地には京都所司代として土井どい利里としさとにんしていることをあくしていればこそ、玉澤たまざわに対して宿元やどもとを己から権門けんもんせい、つまりは公家くげに切り換えてやると、そう手形を切ったのではあるまいか。

 どういうことかというと、土井どい利里としさとが京都所司代ならば、

「お千穂ちほかた様に年寄としよりとしてぞくせし玉澤たまざわのことなれば、土井どい大炊おおいは必ずや力を貸してくれるに相違あるまい…」

 そのしょうさん赤井あかい忠皛ただあきらにあったに違いない。

 それというのも土井どい利里としさと遠縁とおえんに当たる者の中に旗本で中奥なかおくしょうの要職にある土井どい豊前守ぶぜんのかみ利國としくにという者がいるのだが、この土井どい利國としくには他でもない、千穂ちほの弟で将軍・家治のそばしゅう…、ひらそばというこれまた要職にある津田つだ日向守ひゅうがのかみ信之のぶゆきの次男坊なのである。

 つまり、土井どい利國としくに千穂ちほの実のおいに当たる、

 しかも利國としくにの妻女の三保子みほこ土井どい利里としさとの孫娘なのである。

 赤井あかい忠皛ただあきらほどの男なれば勿論もちろん、それらの事情をあくしていたに違いなく、そしてしゅん算盤そろばんを…、

千穂ちほおいに大事な孫娘をとつがせている土井どい利里としさとならば、その千穂ちほ年寄としよりとしてぞくする玉澤たまざわのためとあらば動いてくれるに違いない…」

 その算盤そろばんはじいたに違いない。

 一方、土井どい利里としさとにしてみても、次期将軍たる家基いえもとの生母でもある千穂ちほ年寄としよりとしてぞくする玉澤たまざわにここで恩を売っておくのも悪くはないと、やはりそんな算盤そろばんはじいたに違いない。

 ともあれさんからみ合い、玉澤たまざわ宿元やどもと中納言ちゅうなごんつつみ代長しろながへと切り換えることに、のみならず、玉澤たまざわつつみ代長しろなが養女ようじょとすることにまでぎ着けたということだろう。

「されば長尾ながおは…、長尾ながお宿元やどもとは今でも?」

 家治はやはり思い出したようにそう尋ねた。

御意ぎょい…、今でも赤井あかい越前守えちぜんのかみ忠皛ただあきらにて…、さればちゅう年寄どしよりたる己には中納言ちゅうなごん様を宿元やどもとなどと、過ぎたることにてと、然様さよう峻拒しゅんきょいたしましたるよし…」

 長尾ながおのその奥ゆかしい態度は家治にとってはまさに、

一服いっぷくせいりょうざい…」

 それであった。

「なれど長尾ながおも今では年寄としよりであろう…」

 長尾ながおも今では千穂ちほづき年寄としより、つまりは姉・玉澤たまざわと共に千穂ちほ年寄としよりとしてつかえているというわけだ。

 代わりに、長尾ながおけたちゅう年寄どしより、その後任は川崎かわさきなるおくじょちゅうであった。

年寄としよりとなりし今でも長尾ながお赤井あかい越前えちぜん宿元やどもとと…」

御意ぎょい…、己は赤井あかいの人間である、と…」

 見上げたものだなと、家治は長尾ながおのそのしゅしょうなる態度に感心させられた。

「ときに…、玉澤たまざわ長尾ながおに、さらにいまひとり、すえの妹がいるとの話であったが…」

「されば、ふりなる妹にて…」

「そのふりもまた、大奥勤めをいたしておるのか?」

「いえ、ふりこんにて幸せに暮らしておりますそうで…」

「と申すと、主は今でも健在けんざいとな?」

「いえ、あるじ…、川崎かわさき市之進いちのしん定盈さだみつは安永7(1778)年にまかりましてござりまする…」

「何と…、ふりこん川崎かわさきとな…」

御意ぎょい…、されば上様うえさまがご賢察けんさつの通り、私めにちゅう年寄どしよりとしてつかえし川崎かわさきは、ふりが夫、川崎かわさき市之進いちのしん定盈さだみつが妹にて…」

然様さようであったか…、いや、待てよ…、川崎かわさき市之進いちのしんもうさば、もしや、川崎かわさき平右衛門へいえもん定孝さだたかちゃくではあるまいか?我が祖父、吉宗公がみいせし、川崎かわさき平右衛門へいえもん定孝さだたかが…」

御意ぎょい…、如何いかにもその川崎かわさきにて…」

「されば川崎かわさき市之進いちのしん石見いわみ銀山ぎんざん支配を…」

御意ぎょい…、されば今は川崎かわさき市之進いちのしんちゃく平右衛門へいえもん定安さだやす石見いわみ銀山ぎんざん支配を…、武蔵むさし下野しもつけ代官とのけんにて…」

平右衛門へいえもん定安さだやす川崎かわさき家を…、さればふりは我が子と共に川崎かわさき家にて暮らしておるわけか?」

御意ぎょい…、もっと平右衛門へいえもん定安さだやすふりが実子ではありませぬが…」

「と申すと…」

「されば川崎かわさき平右衛門へいえもん定安さだやすは、父・市之進いちのしん定盈さだみつ先妻せんさいつじ六郎左衛門ろくろうざえもん富守よしもりが娘にて…」

「さればふりのちいというわけか?」

御意ぎょい…」

然様さようか…、ちなみにその先妻せんさいだがべつか?それとも…」

べつだそうにて…、何でもさんちが悪く…」

平右衛門へいえもん定安さだやすを産みし後、まかったと申すか?」

御意ぎょい…」

然様さようであったか…、それではふり平右衛門へいえもん定安さだやすとは血がつながっておらぬのか…」

 親子仲は大丈夫なのだろうか…、家治は他人事ながらそんなことに思いを寄せた。

 するとそうと察した千穂ちほが、「されば玉澤たまざわが申しますには実の親子のようだと…」とそう答えて家治をホッとさせたものである。

「それに平右衛門へいえもん定安さだやす玉澤たまざわともえにしがあり…」

 千穂ちほが思わせぶりにそう告げたので、家治は「何と?」と首をかしげた。

「されば平右衛門へいえもん定安さだやすが実母の妹…、叔母おばでござりまするが、何とこの叔母おば駒井こまい半蔵はんぞう爲隣ためちか妻女さいじょにて…」

 千穂ちほがそう告げるや、家治は目をいた。

「何と…、駒井こまい半蔵はんぞう爲隣ためちかもうさば、玉澤たまざわが実子ではあるまいか…」

御意ぎょい…」

 何たるえんか…、家治はそう思わずにはいられなかった。

「されば千穂ちほ…、それにたねよ…」

 家治はたねの方をも振り向いてそう改まった声をかけた。すると千穂ちほたねひめも、それに|種姫《たねひめづき年寄としより向坂さきさかまでもが威儀いぎただして、

「ははぁっ」

 そう声を上げつつ叩頭こうとうした。

「そなたら、命を狙われておるぞえ…」

 家治がそう告げたものだから、千穂ちほにしろ種姫たねひめにしろ、困惑こんわくな表情を浮かべた。唯一ゆいいつとぎ坊主ぼうずさらより事情を打ち明けられていた向坂さきさかのみ、驚く素振そぶりを見せなかった。

「いや、二人ばかりではない。とて命を狙われておる…」

「一体、誰に…、誰に命を狙われておるのでござりまするかっ!?」

 千穂ちほ頓狂とんきょうな声を上げた。至極しごくとうな反応と言えよう。それでもあまり大きな声を上げられても困るので、「もそっと静かに…」と家治は千穂ちほなだめた。

 家治はその上で、己らの命を狙っている者の名を告げた。すなわち、

一橋ひとつばし治済はるさだ…」

 その名を告げたのであった。

「何と…、我らのみならず、おそれ多くも上様のお命までも?一橋ひとつばし卿は…」

然様さよう…、いや、治済はるさだすでに、命を奪ったことがあるのだ…、それも家基いえもとの命を…」

「何ですとっ!?」

 千穂ちほは家治の注意にもかかわらず、最大限の声を張り上げた。無理もないと、家治ははや、注意することもしなかった。

 それから家治は一橋ひとつばし治済はるさだ家基いえもと毒殺どくさつしたと思われる「トリック」をつまんでだが、解説した。

「何と…、そのこう性なる毒キノコでもって…、シロタマゴテングタケ、あるいはドクツルタケでもって家基いえもとが命を…、のみならず、清水しみず重好しげよし卿に罪を着せようとは何たる非道ひどうっ、卑劣ひれつっ」

 千穂ちほ治済はるさだに対する怒りをあらわにした。家治も同感であった。

「その上、いさまでが…」

 大事なめいと想っていたいさまでが、家基いえもと毒殺どくさつに関与していたと知り、千穂ちほはショックを隠せない様子であった。無理もない。

いさがかつて、種姫たねひめちゅう年寄どしよりを勤めしは、そのため…、家基いえもとの命を奪うためだったとは…」

 千穂ちほくちしそうにくちびるめた。

「されば治済はるさだめは、家基いえもとを害せし前、倫子ともこ萬壽ますの命までも奪ったのだ。毒の効果を確かめるべく…」

「ああ、然様さようで…」

 いまだにショックをひきずっているためか、いや、違う、千穂ちほは家治の本妻ほんさい倫子ともこやその娘の萬壽ます姫までもが治済はるさだの手にかかったと、家治より聞かされても、家基いえもとの時ほどには反応しなかった。

 家治は千穂ちほの態度に内心、やれやれと失望しつつも、ともかく、倫子ともこ萬壽ます姫の毒殺どくさつ時の状況について、これまたつまんで説明した。

「何と…、だい様にぞくせしちゅう年寄どしより岩田いわた、いえ、とみや、それに同じく萬壽ます姫様にちゅう年寄どしよりとしてぞくせし高橋たかはしがそれぞれ実行犯とは…」

 千穂ちほにとっては倫子ともこ萬壽ます姫が毒殺どくさつされようとも、さして驚くことではなかったものの、しかし、ちゅう年寄どしよりが実行犯の一味だと知り、これには驚きを禁じ得なかったようだ。

「それにその当時の広敷ひろしきばんかしらもだ…、皆、一橋ひとつばしとかかわりがある者たちにて…」

「なれど…、今の広敷ひろしきばんかしらにつきましては分かりかねまするが、なれど、少なくともこの私めにぞくせしちゅう年寄どしより川崎かわさき一橋ひとつばしとは何のかかわりもなく…」

 千穂ちほ困惑こんわくな表情でそう言った。つまり、己が毒殺どくさつされるとは考えにくいというわけだ。

然様さよう…、確かに千穂ちほぞくせしちゅう年寄どしより川崎かわさき一橋ひとつばしとは何の関わり合いもなく、そしてそのことはたねについても同じことが…」

 種姫たねひめぞくするちゅう年寄どしより廣瀬ひろせもまた一橋ひとつばし家とは何の関わり合いもなかった。それどころか、やす邸にて向坂さきさかと共に種姫たねひめつかえていた身である。

 それが種姫たねひめ家基いえもとの婚約者として江戸城大奥入りを果たすに際して、向坂さきさか廣瀬ひろせ種姫たねひめに従い、江戸城大奥入りを果たしたのだ。

 それゆえ向坂さきさか廣瀬ひろせ一橋ひとつばし家とは接点せってんがない、それこそ、

「何の縁も所縁ゆかりもない…」

 というものであった。

 そうであれば、千穂ちほにしろ、種姫たねひめにしろ、一見いっけん安泰あんたいのように思える。少なくとも千穂ちほ楽観らっかんしていた。

「いや、それがたびはどうやら、ちゅう年寄どしより広敷ひろしきばんかしら…、どく役であるちゅう年寄どしより広敷ひろしきばんかしらまで巻きえにするつもりのようなのだ。治済はるさだめは…」

「何と…」

「されば最前さいぜん、申した家基いえもとが命を奪いしシロタマゴテングタケ、あるいはドクツルタケはこう性にて、さればどく役が…、ちゅう年寄どしより広敷ひろしきばんかしらどくをせしところですぐにどうこうなるという話ではないゆえ、異常なしとしてそのまま、千穂ちほ種姫たねひめの前にそのぜんが…、夕膳ゆうぜんが運ばれてくる…」

 家治がそう告げると、千穂ちほ顔面がんめん蒼白そうはくとなった。
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