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大詰め ~今夜の打ち合わせ、そして将軍・家治は田沼意致の一橋家老を辞めたいとの辞表を受け取る~
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「一橋卿は…、中年寄や広敷番之頭を犠姓にしてまで姫…、種姫や、のみならず、お千穂の方様のお命を狙うておられると?」
向坂は恐る恐るといった調子で家治に聞き返した。
「左様…、されば最早、逃れ難いとそう思うてのことであろうぞ…」
「逃れ難いとは…」
向坂がまたしても聞き返した。
「されば治済め、余が家基のみならず、倫子や萬壽の死の真相…、己がシロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケを用いて毒殺せしこと…、それに余が気付いたとそうと察して、いよいよ容易ならざる事態と…」
「それゆえ畏れ多くも上様の口まで封じられようと?」
向坂がそう合いの手を入れると、家治はまずは「左様…」と答えた上で、
「いや…、余のみならず、千穂や種までも、まとめて始末せし腹積もりであろうぞ…、その方が己が一子、豊千代が次期将軍として西之丸入りを果たせし折には何ら気兼ねがないと申すものにて…」
そう付け加え、向坂を唸らせた。
「それにしても…、私めの姪の砂野めが家基が毒殺に関与していたなどと…、未だに信じられませぬ…」
千穂は繰言のようにそう言った。
「最前申した通り、大奥での出世を約束されたのであろうぞ。それに祖父の出世をも、な…」
家治がそう答えるや、千穂は「杉山嘉兵衛の?」と聞き返した。
「左様…」
砂野の祖父・杉山嘉兵衛美成は今は一橋邸にて用人として治済に仕えており、御三卿の用人は従六位の布衣役であった。
それを…、恐らくだが、杉山嘉兵衛をゆくゆくは従五位下の諸大夫役にしてやるとでも、治済は大奥に渡った折に砂野にそう囁いたのではあるまいかと、家治は千穂に示唆した。
「それで砂野は己の大奥での出世と相俟って、治済めに協力を誓ったと…」
「恐らくはな…、無論、確たる証はないがの…」
家治はそう答えたものの、千穂は「いいえ、そうに決まっておりまする」と言い切った。
「して…、我らは一体、如何に…」
千穂は憤懣やるかたなしといった表情でそう尋ねた。それは玉澤や向坂、種姫らその場にいた皆の気持ちを代弁する表情と言えた。
「さればそこで皆に相談があるのだ…」
家治はそう切り出すと、今後の「打ち合わせ」を行った。
それから家治が大奥から中奥の、それも御休息之間へと戻ると、御側御用取次の横田準松が待ち受けており、意知が目通りを願っていることを伝えられた。
家治は直ちに意知に会うこととし、その旨、準松に伝えると、準松は下段に面した入側…、廊下にて控えていた時斗之間の肝煎坊主に対して意知を連れて来るよう命じた。
それから間もなくして肝煎坊主は意知を連れて再び、入側に姿を見せた。
意知は入側…、廊下に着座するなり下段にて鎮座する将軍・家治に対して平伏しようとして、それを家治が制した。今は虚礼を排したかったからだ。
「して、如何致した?」
家治は早速、本題に入るよう意知を促した。
すると意知も家治の真意を汲み取り、新番士・佐野善左衛門政言よりの聴取の結果を家治に伝えたのであった。
「…さればこれにていよいよもって、一橋治済による暗殺計画…、その確度が高まったやに思えまする…」
意知はそう自分の意見を付け加えると、家治を頷かせた。
「されば…、急に今宵の宿直をそれら…、今、意知が名を挙げし新番士…、一橋家と関わり合いのありし新番士で固めし…、それも急に変更せし、やはり同じく一橋家と関わり合いのありし駒木根某とやらも暗殺計画の一味と看做して良いのであろうな?」
家治よりそう確かめるように問われた意知はしかし、すぐには「御意」と答えることはできなかった。
「さぁ、そこまでは…」
意知としては首を傾げるより他になかった。
「されば…、駒木根某は暗殺計画とは無関係と申すか?今宵の宿直をそれら…、己と同じく一橋家と関わり合いのありし者たちに差し替えたと申すに?」
「されば上様のご疑問も尤もではござりまするが…、何しろ新番頭の駒木根某…、駒木根肥後は最前、申し上げましたる通り、組頭の春田長兵衛に反対にもかかわらず、今宵の宿直を己と同じく一橋家と縁のあり申す者たちに差し替えましたは、恐らくは駒木根肥後、一橋治済の意を受けてのことに相違なく…」
意知がそう言うと、家治はその通りだと言わんばかりに深く頷いた。
「なれど…、駒木根肥後はまさかに今宵、畏れ多くも上様の、いえ、上様のみならず、お千穂の方様や種姫様までもの暗殺計画が、それも一橋治済がその暗殺計画を企んでいようと思いもよらずと…、ただ一橋治済より今宵の宿直を一橋家と縁のある者たちに差し替えて欲しいと頼まれ申しただけにてと…、斯様に駒木根肥後は申し立てまするに違いなく、さればこちらにはそれを覆す証は持ち合わせてはおり申さず…」
「治済めが駒木根肥後めも余の暗殺計画を存じていた…、斯様に自白せし場合はどうだ?」
家治も意知も治済が「逮捕」されたことを前提に会話していた。
「さればその場合にも…、やはり駒木根肥後は知らぬ存ぜぬを押し通すに違いなく…、さすれば言った言わないの水掛け論にて…」
意知にそう言われてしまうとその通りだなと、家治も納得した。
「それよりも今は目の前のこと…、畏れ多くも上様のお命を守り抜くこと、その一事に専念すべきやに…」
意知が議論を引き取るようにそう言い、それに対して家治も頷くと同時に、
「意知たちがおれば大丈夫ぞ…」
微笑みを浮かべてそう答えたので、意知や、それに準松も「勿体なきお言葉…」とそう声を揃えて平伏した。
するとそこへ今度は小納戸が姿を見せ、大番頭の本堂親房が目通りを願っていることを告げたのであった。
家治はやはりこの御休息之間にて会うこととし、本堂親房をここ御休息之間に連れて来るようその小納戸に命じたのであった。
小納戸はいったんその場より立ち去ると、暫くしてから本堂親房を連れて戻って来た。
本堂親房は中奥の中でも奥に位置するここ御休息之間へと招かれて些か気後れしている様子が窺えた。
本堂親房はかつては次期将軍であった家基の御側衆として西之丸の中奥に詰めており、そして今は先日もこの御休息之間に招かれたばかりであるが、それでも大番頭は重職とは言え、あくまで表向の役人であり、中奥役人ではないので、それゆえ今は表向の人間である己が中奥に出入りすることについて本堂親房はどうやら気後れしている様子が窺えた。
いや、本堂親房が気後れしていたのはそれだけが理由ではなかった。それと言うのも田沼意致の辞表、即ち、
「一橋家老を辞職したい…」
その辞表を預かっていたからだ。
それゆえ家治が鎮座する御休息之間のそれも下段に面した入側…、廊下に意知の姿があったので、親房は大いに狼狽した。言うまでもなく、意致と意知は同族…、同じ田沼一族だからだ。
ともあれ本堂親房は意知の隣に着座するなり平伏しようとして、やはりそれを家治が制すると、家治は親房に対しても早く本題に入るようにと促したのであった。
「されば…、これを…」
親房は意致の辞表を懐中より取り出すと、それを御側御用取次の横田準松へと託した。準松は家治と同じく、下段に控えており、それゆえ下段と入側…、廊下側の閾越しに親房よりその辞表を受け取ると、そのまま家治へと奉呈したのであった。
家治は書状を準松の手より受け取ると、包みを解くなり、一読すると、
「ほう…、これは意致が書状…、一橋家老より退きたいとの書状ではあるまいか…」
家治は意知に聞かせるようにそう告げた。
これに対して意知は勿論のこと、準松も驚いた様子を浮かべた。何しろ準松は親房より将軍・家治宛の書状を託された折には中身までは分からなかったからだ。現代のドラマのように、「辞表」と書かれていたわけでもないからだ。
ともあれ意致よりの一橋家老を辞めたいとの辞表だと知らされた意知と準松は大いに驚いたものである。
家治はそんな二人の様子を楽しむかのような表情を浮かべると、
「はてさて…、如何に取り計らうべきかの…」
目を細めてそう呟いた。
意致の意図は明らかであった。即ち、一橋家を、いや、治済を、
「難破船…」
そう看做したからこそ、一刻も早くに難破船から降りるべく、将軍・家治に宛てて辞表を、一橋邸を監視している大番頭の本堂親房に託したに違いなかった。
「さればそれがしが配下…、組頭の三田善次郎に託されましたるものにて…」
親房はそう註釈を加えた。成程、実際に一橋邸を監視、包囲しているのは親房の直属の部下である組頭…、大番組頭とその組下の番士や、御家人である与力や同心たちであり、意致はその中でも事実上、指揮を執る組頭の、それも三田善次郎に辞表を託したということであった。
「然様か…」
家治はそう応ずるや、
「されば意致め、どうやら治済を難破船と看做したようだの…」
そう呟いたかと思うと、クックッと笑みを洩らした。
「畏れながら…、田沼能登のそれなる辞表、上様は如何にお取り計らいになられるご所存にて…」
準松がそう尋ねたので、家治は逆に準松に対して、
「準松は如何に取り計らうべきやに思う?」
そう尋ねて準松を困惑させた。何しろ目の前には同じ田沼一族の意知が控えていたからだ。これではさしもの準松も困惑、いや、答えに窮するというものである。
するとそうと察した意知が、「さればそれがしには何ら遠慮は無用にて…」と準松に告げたのであった。
だがそうは言っても準松はやはり遠慮してしまい、結局、
「上様の御心のままに…」
そう答えて、家治に丸投げしたのであった。
家治は準松のこの態度には流石に苦笑を禁じ得なかったものの、それでも準松をそれ以上、追及することはせずに、今度は意知に尋ねた。
それに対して意知もまた、準松同様、家治の判断に丸投げするとの答えを返した上で、
「されば田沼能登めは一橋家老であるにもかかわらず、己が仕えし一橋家の当主の治済の姦計を諫めるでもなく、これを黙認…、その罪は重く、何卒、存分の…、厳正なるお裁きの程を…」
意知は身内である筈の意致を突き放すかのようにそう言った。いや、身内なればこそであった。ここで身内である意致を擁護すれば意知の良識が家治から疑われるからである。意知としては如何に意致が身内とは言え、家治から良識を疑われるようなリスクまで冒して意致を守ってやる義理などさらさらなかった。
すると家治はそんな意知の胸中を察してか、「やれやれ…」とやはり苦笑を禁じ得ず、それでも、「余としてはこの辞表、受け取ろうと思う…」とそう答えて意知をホッとさせたものである。
一橋家老を辞めたいとの意致のその辞表を受け取るということは、それはとりもなおさず、
「意致については構いなし…」
要するに意致の責任…、一橋家老としてその職責を十分に果たしえなかったその責任を追及するつもりはないと、将軍・家治はそう宣言したも同然だからだ。
いや、全くの無罪放免というわけにもいくまい。恐らくは小普請入りは避けられまい…、誰もがそう思っていたところ、家治はさらに驚くべきことを口にした。
「されば意致は暫くの間は寄合にて静かに待たせようぞ…」
寄合にて待つということは「次がある」ということであった。噛み砕いて言えば、
「再就職が可能…」
ということであった。無論、小普請にいても可能であったが、しかし、寄合にて待つ方が再就職できる可能性は高かった。
これには意知も準松も、そして親房も、その場にいた誰もが驚かされたものである。
「いや…、意致のためではない。意知のためぞ…」
家治はその理由を告げ、意知を平伏させた。
上様は己のことをそこまで慮っていて下さるとは…、意知は感激の余り平伏したのであった。
ともあれこうして意致は一足早く、一連の事件から、そしてこの先、待ち受けている「粛清」の嵐から退場、いや、避難したのであった。
向坂は恐る恐るといった調子で家治に聞き返した。
「左様…、されば最早、逃れ難いとそう思うてのことであろうぞ…」
「逃れ難いとは…」
向坂がまたしても聞き返した。
「されば治済め、余が家基のみならず、倫子や萬壽の死の真相…、己がシロタマゴテングタケ、或いはドクツルタケを用いて毒殺せしこと…、それに余が気付いたとそうと察して、いよいよ容易ならざる事態と…」
「それゆえ畏れ多くも上様の口まで封じられようと?」
向坂がそう合いの手を入れると、家治はまずは「左様…」と答えた上で、
「いや…、余のみならず、千穂や種までも、まとめて始末せし腹積もりであろうぞ…、その方が己が一子、豊千代が次期将軍として西之丸入りを果たせし折には何ら気兼ねがないと申すものにて…」
そう付け加え、向坂を唸らせた。
「それにしても…、私めの姪の砂野めが家基が毒殺に関与していたなどと…、未だに信じられませぬ…」
千穂は繰言のようにそう言った。
「最前申した通り、大奥での出世を約束されたのであろうぞ。それに祖父の出世をも、な…」
家治がそう答えるや、千穂は「杉山嘉兵衛の?」と聞き返した。
「左様…」
砂野の祖父・杉山嘉兵衛美成は今は一橋邸にて用人として治済に仕えており、御三卿の用人は従六位の布衣役であった。
それを…、恐らくだが、杉山嘉兵衛をゆくゆくは従五位下の諸大夫役にしてやるとでも、治済は大奥に渡った折に砂野にそう囁いたのではあるまいかと、家治は千穂に示唆した。
「それで砂野は己の大奥での出世と相俟って、治済めに協力を誓ったと…」
「恐らくはな…、無論、確たる証はないがの…」
家治はそう答えたものの、千穂は「いいえ、そうに決まっておりまする」と言い切った。
「して…、我らは一体、如何に…」
千穂は憤懣やるかたなしといった表情でそう尋ねた。それは玉澤や向坂、種姫らその場にいた皆の気持ちを代弁する表情と言えた。
「さればそこで皆に相談があるのだ…」
家治はそう切り出すと、今後の「打ち合わせ」を行った。
それから家治が大奥から中奥の、それも御休息之間へと戻ると、御側御用取次の横田準松が待ち受けており、意知が目通りを願っていることを伝えられた。
家治は直ちに意知に会うこととし、その旨、準松に伝えると、準松は下段に面した入側…、廊下にて控えていた時斗之間の肝煎坊主に対して意知を連れて来るよう命じた。
それから間もなくして肝煎坊主は意知を連れて再び、入側に姿を見せた。
意知は入側…、廊下に着座するなり下段にて鎮座する将軍・家治に対して平伏しようとして、それを家治が制した。今は虚礼を排したかったからだ。
「して、如何致した?」
家治は早速、本題に入るよう意知を促した。
すると意知も家治の真意を汲み取り、新番士・佐野善左衛門政言よりの聴取の結果を家治に伝えたのであった。
「…さればこれにていよいよもって、一橋治済による暗殺計画…、その確度が高まったやに思えまする…」
意知はそう自分の意見を付け加えると、家治を頷かせた。
「されば…、急に今宵の宿直をそれら…、今、意知が名を挙げし新番士…、一橋家と関わり合いのありし新番士で固めし…、それも急に変更せし、やはり同じく一橋家と関わり合いのありし駒木根某とやらも暗殺計画の一味と看做して良いのであろうな?」
家治よりそう確かめるように問われた意知はしかし、すぐには「御意」と答えることはできなかった。
「さぁ、そこまでは…」
意知としては首を傾げるより他になかった。
「されば…、駒木根某は暗殺計画とは無関係と申すか?今宵の宿直をそれら…、己と同じく一橋家と関わり合いのありし者たちに差し替えたと申すに?」
「されば上様のご疑問も尤もではござりまするが…、何しろ新番頭の駒木根某…、駒木根肥後は最前、申し上げましたる通り、組頭の春田長兵衛に反対にもかかわらず、今宵の宿直を己と同じく一橋家と縁のあり申す者たちに差し替えましたは、恐らくは駒木根肥後、一橋治済の意を受けてのことに相違なく…」
意知がそう言うと、家治はその通りだと言わんばかりに深く頷いた。
「なれど…、駒木根肥後はまさかに今宵、畏れ多くも上様の、いえ、上様のみならず、お千穂の方様や種姫様までもの暗殺計画が、それも一橋治済がその暗殺計画を企んでいようと思いもよらずと…、ただ一橋治済より今宵の宿直を一橋家と縁のある者たちに差し替えて欲しいと頼まれ申しただけにてと…、斯様に駒木根肥後は申し立てまするに違いなく、さればこちらにはそれを覆す証は持ち合わせてはおり申さず…」
「治済めが駒木根肥後めも余の暗殺計画を存じていた…、斯様に自白せし場合はどうだ?」
家治も意知も治済が「逮捕」されたことを前提に会話していた。
「さればその場合にも…、やはり駒木根肥後は知らぬ存ぜぬを押し通すに違いなく…、さすれば言った言わないの水掛け論にて…」
意知にそう言われてしまうとその通りだなと、家治も納得した。
「それよりも今は目の前のこと…、畏れ多くも上様のお命を守り抜くこと、その一事に専念すべきやに…」
意知が議論を引き取るようにそう言い、それに対して家治も頷くと同時に、
「意知たちがおれば大丈夫ぞ…」
微笑みを浮かべてそう答えたので、意知や、それに準松も「勿体なきお言葉…」とそう声を揃えて平伏した。
するとそこへ今度は小納戸が姿を見せ、大番頭の本堂親房が目通りを願っていることを告げたのであった。
家治はやはりこの御休息之間にて会うこととし、本堂親房をここ御休息之間に連れて来るようその小納戸に命じたのであった。
小納戸はいったんその場より立ち去ると、暫くしてから本堂親房を連れて戻って来た。
本堂親房は中奥の中でも奥に位置するここ御休息之間へと招かれて些か気後れしている様子が窺えた。
本堂親房はかつては次期将軍であった家基の御側衆として西之丸の中奥に詰めており、そして今は先日もこの御休息之間に招かれたばかりであるが、それでも大番頭は重職とは言え、あくまで表向の役人であり、中奥役人ではないので、それゆえ今は表向の人間である己が中奥に出入りすることについて本堂親房はどうやら気後れしている様子が窺えた。
いや、本堂親房が気後れしていたのはそれだけが理由ではなかった。それと言うのも田沼意致の辞表、即ち、
「一橋家老を辞職したい…」
その辞表を預かっていたからだ。
それゆえ家治が鎮座する御休息之間のそれも下段に面した入側…、廊下に意知の姿があったので、親房は大いに狼狽した。言うまでもなく、意致と意知は同族…、同じ田沼一族だからだ。
ともあれ本堂親房は意知の隣に着座するなり平伏しようとして、やはりそれを家治が制すると、家治は親房に対しても早く本題に入るようにと促したのであった。
「されば…、これを…」
親房は意致の辞表を懐中より取り出すと、それを御側御用取次の横田準松へと託した。準松は家治と同じく、下段に控えており、それゆえ下段と入側…、廊下側の閾越しに親房よりその辞表を受け取ると、そのまま家治へと奉呈したのであった。
家治は書状を準松の手より受け取ると、包みを解くなり、一読すると、
「ほう…、これは意致が書状…、一橋家老より退きたいとの書状ではあるまいか…」
家治は意知に聞かせるようにそう告げた。
これに対して意知は勿論のこと、準松も驚いた様子を浮かべた。何しろ準松は親房より将軍・家治宛の書状を託された折には中身までは分からなかったからだ。現代のドラマのように、「辞表」と書かれていたわけでもないからだ。
ともあれ意致よりの一橋家老を辞めたいとの辞表だと知らされた意知と準松は大いに驚いたものである。
家治はそんな二人の様子を楽しむかのような表情を浮かべると、
「はてさて…、如何に取り計らうべきかの…」
目を細めてそう呟いた。
意致の意図は明らかであった。即ち、一橋家を、いや、治済を、
「難破船…」
そう看做したからこそ、一刻も早くに難破船から降りるべく、将軍・家治に宛てて辞表を、一橋邸を監視している大番頭の本堂親房に託したに違いなかった。
「さればそれがしが配下…、組頭の三田善次郎に託されましたるものにて…」
親房はそう註釈を加えた。成程、実際に一橋邸を監視、包囲しているのは親房の直属の部下である組頭…、大番組頭とその組下の番士や、御家人である与力や同心たちであり、意致はその中でも事実上、指揮を執る組頭の、それも三田善次郎に辞表を託したということであった。
「然様か…」
家治はそう応ずるや、
「されば意致め、どうやら治済を難破船と看做したようだの…」
そう呟いたかと思うと、クックッと笑みを洩らした。
「畏れながら…、田沼能登のそれなる辞表、上様は如何にお取り計らいになられるご所存にて…」
準松がそう尋ねたので、家治は逆に準松に対して、
「準松は如何に取り計らうべきやに思う?」
そう尋ねて準松を困惑させた。何しろ目の前には同じ田沼一族の意知が控えていたからだ。これではさしもの準松も困惑、いや、答えに窮するというものである。
するとそうと察した意知が、「さればそれがしには何ら遠慮は無用にて…」と準松に告げたのであった。
だがそうは言っても準松はやはり遠慮してしまい、結局、
「上様の御心のままに…」
そう答えて、家治に丸投げしたのであった。
家治は準松のこの態度には流石に苦笑を禁じ得なかったものの、それでも準松をそれ以上、追及することはせずに、今度は意知に尋ねた。
それに対して意知もまた、準松同様、家治の判断に丸投げするとの答えを返した上で、
「されば田沼能登めは一橋家老であるにもかかわらず、己が仕えし一橋家の当主の治済の姦計を諫めるでもなく、これを黙認…、その罪は重く、何卒、存分の…、厳正なるお裁きの程を…」
意知は身内である筈の意致を突き放すかのようにそう言った。いや、身内なればこそであった。ここで身内である意致を擁護すれば意知の良識が家治から疑われるからである。意知としては如何に意致が身内とは言え、家治から良識を疑われるようなリスクまで冒して意致を守ってやる義理などさらさらなかった。
すると家治はそんな意知の胸中を察してか、「やれやれ…」とやはり苦笑を禁じ得ず、それでも、「余としてはこの辞表、受け取ろうと思う…」とそう答えて意知をホッとさせたものである。
一橋家老を辞めたいとの意致のその辞表を受け取るということは、それはとりもなおさず、
「意致については構いなし…」
要するに意致の責任…、一橋家老としてその職責を十分に果たしえなかったその責任を追及するつもりはないと、将軍・家治はそう宣言したも同然だからだ。
いや、全くの無罪放免というわけにもいくまい。恐らくは小普請入りは避けられまい…、誰もがそう思っていたところ、家治はさらに驚くべきことを口にした。
「されば意致は暫くの間は寄合にて静かに待たせようぞ…」
寄合にて待つということは「次がある」ということであった。噛み砕いて言えば、
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ということであった。無論、小普請にいても可能であったが、しかし、寄合にて待つ方が再就職できる可能性は高かった。
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「いや…、意致のためではない。意知のためぞ…」
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