【完結】20-1(ナインティーン)

木村竜史

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Case5【竹房征樹】憤然と燃え上がる

後編

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 夏の太陽が雲一つもない晴天の上で燦燦と輝き、樹木もないのに蝉達が多方向から不細工なオーケストラが聴こえていた。法則性すらない様々な鳴き声は、不協和音になる半歩手前ではあるが確かな調和を成していたが、それすらも憎らしく思えている。

 預金通帳に刻まれていた残高は自分が思った以上に残っていた。根無し草のような生活をしていても、理性的に使っていれば終焉までは好きなものを食べて飲める分は余裕であるだろう。少しだけ安心するが、胸の奥の炎は少しも燻る気配はなかった。むしろ、時間が経てば経つほどに炎は勢いを増してきている。

 もう二度と、自宅という名の箱庭に戻るつもりは無い。当然、これまで育ててくれた両親に少なくない恩は確かにある。約六千三百日もの間、どんなに殴られても蹴られても毎晩寝るための場所があったし、暴言を吐かれても罵られても飢えることはなかった。僕の海馬の奥に暖かな記憶が全く刻まれていなかったと言えば嘘になる。幾ら辛くても、どんな事があろうとも、そこは確かに僕の居場所だった。

 だが感謝以上に、世界の終わりによって裏切られた失望と将来に対する絶望が憤怒の炎に焚かれていき、火の勢いが加速度的に増えていくのだ。燃えれば燃えるほど僕の脳の中で塗りつぶされていく怒りが、大規模な山火事のようにじわじわと怒りの面積が増えていく。最後にはきっと僕の心は燃え尽きて、そこには燃え滓すらも残らないだろう。頭の中を燃やし尽くすまで、この怒りは消えることはない。その怒りが消える時こそが、恐らく世界の終わるときだ。

 最寄りの銀行に立ち寄り、残高の一部を引き出して財布の中に乱雑に詰め込む。世界が終わるときでも、受付の窓口では預金の引き出しだけではなく預かりもしているようであった。実際、年老いた老婆が振込の手続きを慣れた手つきでこなしていて、それを銀行員の女性が笑顔で対応していた。老婆が振り込む先は、自分の口座か、他人の口座か。どちらに振り込むかはわからないのだが。通帳の中身を見るに、全ての終わりまではそれなりの品質のホテルでも問題なく過ごせると思うが、そこまで浪費するような気にならなかった。理由など特にはないが、強いて言うならば慣れないことはしたくない――その程度のことだ。

 とにかく、ネットカフェなどで夜を明かすことが出来れば十分だ。ホテルの柔らかい布団が敷かれたベッドよりも、ネットカフェの硬いチェアと薄い毛布の方が僕には性に合っていると自虐的になってしまう。そして、こんな時にまで頭によぎるのは箱庭の苦い記憶。産まれてから気づいていなかった箱庭の異様さに気づいてしまった自分自身にすら、激しい怒りと若干の失望が同時にやってくる。

 せめてこの脳の奥にある大脳辺縁系の奥底で燃え続ける感情を、ほんの一時でも、一瞬ですらいいので心の中で棚を作って置いておくことが出来れば楽なのにと、ちょうど目に入ったコンビニエンスストアに入り、飲料コーナーの隅に大量に陳列されている百二十円の安い缶チューハイを一本、買い物カゴの中に入れてみた。

 未成年がアルコールを買い、あまつさえ摂取することなどあってはならないことだと認識しているが、もうどうにでもなれとレジのカウンターまで持っていくと、奥で気だるそうに立っていた大学生ぐらいの歳の若い男はバーコードをスキャンし、レジのウィンドウに表示された年齢確認ボタンを押せと小声で呟く。

 無言でそれをタッチする僕を見て、店員は少し眉を顰めたが何も言わずに会計まで通してくれた。この状況下だから仕方ないとでも思ってくれたのだろうか。それとも、事務的に行っているだけなのか。少しだけ拍子抜けしながらも表情を変えずに会計をし、店を出た。機械音で奏でられた無機質な旋律と店員の抑揚のなく消えそうな小さな声の退廃的なハーモニーが、僕の背中を少しだけ押してくれた気がした。

 缶チューハイが入ったビニール袋を持って町を歩く。行く宛など何もないが、兎にも角にも自宅から少しでも離れたかった。自宅の面影がないところまで、出来るだけ早く行きたかった。

 感情のままに道を歩いていく。ここから徒歩で一時間ほど歩けば、県で一番大きな銀城駅がある。そこは僕が産まれたときからずっと拡張や改装の工事をしている未完成の駅で、『現代のサグラダ・ファミリア』とも言われるほどに変な意味での有名な駅だ。

 その未完成がずっと続いている駅は、やはり世界が終わるというのに今も駅の一部が改装をしている真っ最中らしい。僕達が大人になっても、年老いてもずっと工事をしているんじゃないかと同級生達が冗談めいた下らない世間話をしていたことを思い出す。尤も、いくら急ピッチで工事を行ったとしても完成することなく終わってしまいそうだが。

 そうやって思考を別の方向にずらしてみても、胸の中で燃え続ける怒りが和らぐ気配すらない。箱庭の薄い壁をぶち抜いた右の拳がまだじんじんと痛みを発している。袋の中で揺れるアルコールを摂取すれば、怒りも痛みも幾らかは和らぐかもしれない。

 ビニール袋の中の安物の缶チューハイとは全く違うが、酒自体は箱庭で父親がよく飲んでいた印象がとても強い。飲むといつも以上に感情の起伏が激しくなる父親には、アルコールを摂取した瞬間にはもう言葉を選んで話す必要があった。些細な連絡事項であろうが、少しでも気に障った瞬間には一瞬で脳が沸騰したかのように暴れだして、僕や母親に対して罵倒や暴力を振りまいていた。

 幼いころから、アルコールというものの存在を知る前の僕にとっては酒を飲むという行為はとても恐ろしいモノを呼び出してしまうことだと漠然と思っていた。そしてもうすぐ、これを飲んだ瞬間に暴れまわる父親という下衆の中の下衆と同類に堕ちてしまうかもしれないという不安も確かに存在していた。

 それでも、飲まないとやっていられない――という言葉がある。この怒りが少しでもどうにかなればとビニール袋から缶チューハイを取り出し、缶自身に備え付けてあるパーシャルオープンエンドを使って開口する。子気味のいい音とともに開かれた缶を歩きながら見つめる。実はこれが人生で初めての一杯だ。

しかし乾杯など、する気も更々なかった。頭の中に浮かぶ父親を怒りに任せて殴りつけるようなイメージで、勢いのままに一気に缶の中身を喉に流し込んだ。

 アルコール独特の香りだろうか、独特の風味が柑橘系の酸味とともに口の中を駆け巡っていく。安いものがいけなかったのだろうか。全く美味しく感じない。アルコール度が五パーセントだと缶のパッケージに記載されていたが、五パーセントでこれか。食道が少し熱くなり、眉間の少し下がずきりと痛む不快感に、少しは消えると思っていた怒りの念に若干の燃料が追加された気がした。

 殆ど減らずに残された缶の中身を歩道の隅に敷設してあるグレーチングに流し込みながら歩き続ける。こんなものを飲んで感情を昂らせていた父親の神経が、もっとわからなくなった。この眉間に広がる不快感を楽しんでいたとでもいうのか。もしくはその不快感を他人にぶつけることでストレスを発散していたとでもいうのか。どちらにしろ、下衆の中の下衆以下の考えだ。醜悪さすら感じる。

 僕自身が父親に嫌悪感を抱いている間にも、相変わらず太陽は燦燦と照り続けている。地球から遥か遠くで燃え盛る灼熱の星の光と熱波が、一億四千九百六十万キロメートルもの果てしなく長い距離を漂い、今この場に降り注いでいく。今、僕が歩いているここから駅まではおよそ四キロメートル。その距離の三百七十四万倍だ。歩いて一時間程度で着くことの、なんと短いことか。

 ゆっくり歩いて行こう。ここではない何処かへと。 

 消さないならば、棚を作って置けないならば、せめて怒りを隠さずに行こう。下衆の下衆でいい。狭くて辛い箱庭の中にいるよりは、遥かにマシだ。

 世界が終わるまで、あと七日。全てが終わるまでに、自分がやりたいことをやろう。まるで、地中から出てきて一週間でその命を終わらせる蝉のように、怒りの咆哮を命が尽きるまで高々に叫び続けよう。自分が産まれたことが間違いじゃないと証明するかのように。命の続く限り、胸の炎が消えるまで自分の怒りを恥じることなく進んでいこう。

 踏みしめる足で、世界を踏みつぶしていく。一歩一歩足を動かしていく。世界を数ミクロンずつ削り落としていく。世界を射殺すように睨みつけていく。眼に見えるものを憎む。青い空も、輝く太陽も、歩いている途中で見える電柱やコンクリート製の車止めを止まり木にしている小鳥達も、アスファルトの上を歩いていく蟻の行列も。飲食店の窓から流れるボサノバのメロディも。総てに怒りの矛先を向けよう。痛む右の拳に大きく振りながら歩みを進め、あらゆるものに怒りを向けているうちに駅がかなり近づいてきたことを交通標識が示していた。

 胸の中で何もかも焼き尽くそうと燃え続ける炎は、僕が僕である証だ。

 向き合って開き直ると、この怒りはとても愛おしい。
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