君を選ぶ理由 〜花の香りと幼なじみのΩ〜

なの

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花の香りのそばで

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桜庭凪のそばにいると、いつも、花が咲いたみたいな匂いがした。  
どんな花なのかはわからない。

ただ、胸の奥がふわっとゆるむような、甘くてあたたかい香りだった。

それに気づいたのは、たぶん、物心がつくより前だ。



「湊、こっち」

小さな声で名前を呼ばれて、桐生湊は振り返った。
庭の端で祖父が世話をしている植木の影に凪がしゃがみこんでいた。白い指先に、丸くなったダンゴムシを乗せていた。

「見て。丸まった」

「……触れるの、すごいな」

「動かないから平気だよ」

凪はそう言って、ちょこんと口角を上げた。  
笑っている、とは言えないくらい控えめな表情。それなのに湊は、その顔を見るたびに胸がくすぐったくなる。

「湊も触ってみる?」

「えー……つぶしたらどうしよう」

「つぶさないよ。優しくしたら大丈夫」

「優しくって、どんくらい?」

「これくらい」

凪は自分の指で、ダンゴムシをそっとなでて見せた。
ほんの少し触れただけで、またきゅっと丸くなる小さな背中。  
その真剣な指先に、湊まで息をひそめてしまう。

「はい」

凪が、ダンゴムシを乗せたままの手をそっと差し出してくる。  
湊も、おそるおそる指を伸ばした。

「……うわ、ちょっとこわい」

「大丈夫。落とさなければ平気」

「落としそう」

「じゃあ、ふたりで持つ?」

凪が、湊の指に自分の指をそっと重ねる。  
小さな手のひら同士がくっついて、そこでじっとしている丸いかたまり。  
ゆっくり息をすると、そのたびに、ふわりと花の匂いが鼻先をかすめた。

「……なんか、いい匂い」

思わずもれた湊の言葉に、凪はきょとんと目を丸くする。

「なにが?」

「わかんない。なんか、花っぽい匂い」

「花?」

凪は、自分の服の襟をつまんで、くん、と嗅いでみる。

「なにも匂わないよ」

「するって。ほら、こっち向いて」

ぐい、と凪の袖を引っ張って、顔を近づける。  
凪の髪が頬にふれてくすぐったい。そのすぐそばで、また、甘い匂いがふわっと広がった。

「……やっぱり、する」

「変なの。ぼく、なにもしてないのに」

「いいじゃん。いい匂いだから」

にっと笑うと、凪は少しだけ耳を赤くして、視線をそらした。

そのとき、庭の向こうから声が飛んできた。

「おーい、ちびども。ダンゴムシいじめてないか?」

「いじめてない!」

反射的に言い返すと、植木の間から、湊の兄・颯がひょいっと顔を出した。  
学校帰りらしく、肩にはランドセル。少し乱れた前髪の向こうで、いたずらっぽく笑っている。

「颯兄ちゃん、見て。丸まった」

凪が大事そうにダンゴムシを持ち上げる。

「お、ちゃんと手の上で転がしてるじゃん。湊、お前は?」

「……見る係」

「弱っ」

颯が笑いながら、二人のところまで歩いてくる。  
その足音に驚いたのか、ダンゴムシがするすると開いて、ちょろちょろと凪の手から逃げていった。

「あっ」

「行っちゃった」

「颯兄ちゃんのせいだ」

「えー、俺のせい?」

口では文句を言いながらも、湊はそれが楽しくてたまらない。  
凪も、ほんの少し唇を尖らせるだけで、すぐにいつもの落ち着いた顔に戻る。

「今日はなにして遊ぶ?」

颯がしゃがみこむと、視線の高さが三人で揃う。

「さっきまで虫探ししてた」

「じゃあ、次はなにしよっか。サッカー?」

「ここ、ボール蹴ったら怒られるよ」

凪が庭の奥にいる祖父たちをちらりと見る。  
剪定鋏の音と一緒に、「ボール禁止だぞー」という声が飛んできて、三人は同時に笑った。

「じゃあ、秘密基地とか」

「ひみつきち?」

凪が小さく首をかしげる。

「そう。ここらへんにあるもので、隠れ家つくるの。段ボールとかシートとかさ」

「楽しそう」

凪の目が、少しだけ輝いた。  
その様子が嬉しくて、湊も思わず胸を張る。

「じゃあさ、ここを秘密基地にしようよ」

湊は、今いる植木の影をぐるりと見回した。  
祖父たちからも家からも見えにくい、小さな空間。  
土の匂いと、葉っぱの匂いと、凪の花の匂いがまざりあっている場所。

「ここ?」

凪が足元を見下ろす。

「うん。ここ、凪がいつもいるし」

「颯兄ちゃんも来ていい?」

「もちろん。俺が隊長な」

「じゃあ、ぼくは?」

「な、凪は……なんだろ。副隊長?」

「じゃあ湊は?」

「湊は……」

颯がわざとらしく考えるふりをしてから、にっと笑う。

「凪の、いちばんの相棒でいいんじゃね?」

「えっ」

凪が瞬きをして、湊も思わず固まった。

「相棒?」

「そう。いちばん隣にいるやつ。秘密基地の場所も、合言葉も、ふたりしか知らないんだぞ」

「……合言葉とかあるの?」

「今から決めればいいだろ」

颯が笑いながら、ふたりの頭をぽん、と軽く叩いた。  
その手つきは少し乱暴だけど、あたたかい。

「なにがいいかな」

凪が小さく唇を動かす。

「じゃあさ」

湊は、ふわりとまた香った匂いに背中を押されるみたいに、口を開いた。

「花の匂いがしたら、集合、とか」

「……それ、わかるの湊だけじゃない?」

颯が吹き出す。凪も、ふ、と肩を揺らした。

「じゃあ、湊が凪を見つける係」

「うん。見つける」

即答すると、凪が驚いたように湊を見た。  
その目が、すぐに柔らかく細められる。

「じゃあ、ぼくはここにいる」

「どこ?」

「ここ。湊が見つけられるところ」

何気ないやりとりなのに、胸の奥がじんと熱くなる。  
意味なんて、まだよくわからない。  
ただ、凪がそう言ったことが嬉しくてたまらなかった。

風が吹いて、木の葉がさらさらと鳴る。  
その音に重なるように、また、花の香りがふわりと広がった。

――ずっと、こうして見つけられたらいい。

湊は、まだ言葉にならない願いを胸の中にぎゅっと握りしめながら、凪の隣に腰を下ろした。  
そのすぐそばで、颯も草をむしりながら座り込む。

三人分の影が、植木の影と重なって、ひとつになった。  


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