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名前をつけられる日
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花の香りに慣れたまま、時間だけが勝手に進んでいった。
中学に上がって、背が伸びて、声が低くなっても、湊と凪の距離は見た目ほどは変わらなかった。
隣にいるのが当たり前で、わざわざ連絡先を聞く必要もない。
気づけば、帰り道も休日も、だいたい一緒にいた。
変わったといえば――
「今日は、先に帰るね」
「え、部活は?」
「……ちょっと」
そんなふうに、凪がふいに距離を取るようになったことぐらいだ。
「体調悪い?」
「ううん。大丈夫」
そう言って視線を逸らすことが増えた。
肩が触れそうになると、一瞬だけ、ふっと間をあけるみたいに離れる。
気づかないふりをしようと思えば、できなくもなかった。
昔から、凪にはそういうところがある。
線を引くときは、静かに、誰にも何も言わずに壁を作る。
だから、この日も、きっとその延長だと思っていた。
第二性の検査。
学校指定の日程で、決められた年齢になった生徒が全員まとめて受けるやつだ。
「緊張する?」
検査会場へ向かう廊下で、なんとなくそう聞いてみる。
凪は、一拍おいてから、首を横に振った。
「別に」
声はいつも通り落ち着いている。
でも、歩幅がさっきより少しだけ狭くなっているのに、湊は気づいていた。
結果は、思ったより早く出た。
桐生湊――α。
画面に表示された文字を見た瞬間、頭の中がすっと冷えるような感覚が走る。
「やっぱりな」とも「意外」とも思わない。
ただ、どこか遠くで誰かが勝手に決めた名前を、そのまま押しつけられたみたいな気がした。
廊下に出ると、凪が壁にもたれて立っていた。
少し俯いていた顔が、湊に気づいて上がる。
「……終わった?」
「ああ」
「結果は?」
一瞬だけ、言うかどうか迷う。
けれど、隠すほどのことでもない。
「αだった」
そう答えた途端、凪の指先がぴくりと動いた。
白い指が、ぎゅっと制服の裾をつまむ。
「……そっか」
それだけ言って、凪は視線を落とす。
「凪は?」
問い返した瞬間、ふわりと香りが鼻をかすめた。
昔より、ずっとはっきりわかる。
甘いのに、どこかきゅっと胸を締めつけるみたいな匂い。
その奥に、かすかな不安が混じっているのが、なぜか肌でわかる。
凪は、目を伏せたまま、小さく言った。
「Ω」
たった一文字。
その一言が、やけに大きく響いた。
おめでとうとも、かわいそうとも言えない沈黙が、二人のあいだに落ちる。
なにか言おうとしても、喉の奥で言葉が絡まって出てこない。
そのときだった。
「おい、桐生!αだって?マジかよ」
教室の方から、野太い声が飛んでくる。
同じクラスの男子数人が、にやにやしながら近づいてきた。
「すげえな、お前αか。やっぱリーダーっぽいわ」
「で、桜庭は?」
誰かが凪の方をちらりと見て、鼻で笑う。
「お前、Ωだろ?匂うもん」
「やめろよ」
湊が思わず割って入ると、男子たちは肩をすくめて笑った。
「なんだよ、守ってんのかよー。もう明日から別教室だし、しょうがねえだろ」
「え、マジ?Ωって即分けるの?」
「当たり前だろ。ヒート来たら面倒くせえし。特別教室行きだよ」
ざわざわと、そんな声が廊下に広がっていく。
他のクラスからも、同じような会話が聞こえてくる。
湊は、思わず凪を見る。
凪は俯いたまま、じっと唇を噛んでいた。
「……そんな、急に」
誰かが同情するような声で言う。
「仕方ねえよ。ルールだから。αは普通の教室、Ωは隔離教室。昔から決まってんだろ」
「桜庭、明日から会えねえなー。寂しくなっちゃうぜ?」
下品な笑い声。
湊の胸が、急に熱くなった。
「うるせえよ。ほっとけ」
低い声で言い返すと、男子たちは「はいはい」と手を振って去っていく。
静かになった廊下で、凪がようやく顔を上げた。
その目は、少し赤くなっていた。
「……明日から、別か」
ぽつりと、湊にも聞こえるように呟く。
「そんなの、おかしいだろ」
湊は、思わず声を荒げる。
ルールなんて知っていた。頭ではわかっていた。
でも、いざ現実になると、急に腹が立ってくる。
凪は、かすかに笑った。
無理をしているのが、すぐわかった。
「大丈夫だよ。慣れるって」
「慣れるってなんだよ」
言葉がうまく出てこない。
いつも隣にいた凪が、明日からいなくなる。
そんなの、想像しただけで胸が苦しくなる。
香りが、また揺れた。
さっきより、ずっと強く、不安に震えている。
湊は、思わず凪の手首をつかんだ。
細くて、白くて、少し冷たい指先。
「放課後、待ってるから。一緒に帰るぞ」
「……うん」
小さく頷く凪の手を、ぎゅっと握り返す。
まだ、一日くらいは、この距離を守れる。
でも、どこかでわかっていた。
名前がついた瞬間から、世界は少しずつ変わっていくんだ。
花の香りは、もう、ただ優しく包んでくれるだけの匂いじゃなかった。
不安に震えながら、それでも必死に湊を求めているような――
そんな、切ない匂いだった。
中学に上がって、背が伸びて、声が低くなっても、湊と凪の距離は見た目ほどは変わらなかった。
隣にいるのが当たり前で、わざわざ連絡先を聞く必要もない。
気づけば、帰り道も休日も、だいたい一緒にいた。
変わったといえば――
「今日は、先に帰るね」
「え、部活は?」
「……ちょっと」
そんなふうに、凪がふいに距離を取るようになったことぐらいだ。
「体調悪い?」
「ううん。大丈夫」
そう言って視線を逸らすことが増えた。
肩が触れそうになると、一瞬だけ、ふっと間をあけるみたいに離れる。
気づかないふりをしようと思えば、できなくもなかった。
昔から、凪にはそういうところがある。
線を引くときは、静かに、誰にも何も言わずに壁を作る。
だから、この日も、きっとその延長だと思っていた。
第二性の検査。
学校指定の日程で、決められた年齢になった生徒が全員まとめて受けるやつだ。
「緊張する?」
検査会場へ向かう廊下で、なんとなくそう聞いてみる。
凪は、一拍おいてから、首を横に振った。
「別に」
声はいつも通り落ち着いている。
でも、歩幅がさっきより少しだけ狭くなっているのに、湊は気づいていた。
結果は、思ったより早く出た。
桐生湊――α。
画面に表示された文字を見た瞬間、頭の中がすっと冷えるような感覚が走る。
「やっぱりな」とも「意外」とも思わない。
ただ、どこか遠くで誰かが勝手に決めた名前を、そのまま押しつけられたみたいな気がした。
廊下に出ると、凪が壁にもたれて立っていた。
少し俯いていた顔が、湊に気づいて上がる。
「……終わった?」
「ああ」
「結果は?」
一瞬だけ、言うかどうか迷う。
けれど、隠すほどのことでもない。
「αだった」
そう答えた途端、凪の指先がぴくりと動いた。
白い指が、ぎゅっと制服の裾をつまむ。
「……そっか」
それだけ言って、凪は視線を落とす。
「凪は?」
問い返した瞬間、ふわりと香りが鼻をかすめた。
昔より、ずっとはっきりわかる。
甘いのに、どこかきゅっと胸を締めつけるみたいな匂い。
その奥に、かすかな不安が混じっているのが、なぜか肌でわかる。
凪は、目を伏せたまま、小さく言った。
「Ω」
たった一文字。
その一言が、やけに大きく響いた。
おめでとうとも、かわいそうとも言えない沈黙が、二人のあいだに落ちる。
なにか言おうとしても、喉の奥で言葉が絡まって出てこない。
そのときだった。
「おい、桐生!αだって?マジかよ」
教室の方から、野太い声が飛んでくる。
同じクラスの男子数人が、にやにやしながら近づいてきた。
「すげえな、お前αか。やっぱリーダーっぽいわ」
「で、桜庭は?」
誰かが凪の方をちらりと見て、鼻で笑う。
「お前、Ωだろ?匂うもん」
「やめろよ」
湊が思わず割って入ると、男子たちは肩をすくめて笑った。
「なんだよ、守ってんのかよー。もう明日から別教室だし、しょうがねえだろ」
「え、マジ?Ωって即分けるの?」
「当たり前だろ。ヒート来たら面倒くせえし。特別教室行きだよ」
ざわざわと、そんな声が廊下に広がっていく。
他のクラスからも、同じような会話が聞こえてくる。
湊は、思わず凪を見る。
凪は俯いたまま、じっと唇を噛んでいた。
「……そんな、急に」
誰かが同情するような声で言う。
「仕方ねえよ。ルールだから。αは普通の教室、Ωは隔離教室。昔から決まってんだろ」
「桜庭、明日から会えねえなー。寂しくなっちゃうぜ?」
下品な笑い声。
湊の胸が、急に熱くなった。
「うるせえよ。ほっとけ」
低い声で言い返すと、男子たちは「はいはい」と手を振って去っていく。
静かになった廊下で、凪がようやく顔を上げた。
その目は、少し赤くなっていた。
「……明日から、別か」
ぽつりと、湊にも聞こえるように呟く。
「そんなの、おかしいだろ」
湊は、思わず声を荒げる。
ルールなんて知っていた。頭ではわかっていた。
でも、いざ現実になると、急に腹が立ってくる。
凪は、かすかに笑った。
無理をしているのが、すぐわかった。
「大丈夫だよ。慣れるって」
「慣れるってなんだよ」
言葉がうまく出てこない。
いつも隣にいた凪が、明日からいなくなる。
そんなの、想像しただけで胸が苦しくなる。
香りが、また揺れた。
さっきより、ずっと強く、不安に震えている。
湊は、思わず凪の手首をつかんだ。
細くて、白くて、少し冷たい指先。
「放課後、待ってるから。一緒に帰るぞ」
「……うん」
小さく頷く凪の手を、ぎゅっと握り返す。
まだ、一日くらいは、この距離を守れる。
でも、どこかでわかっていた。
名前がついた瞬間から、世界は少しずつ変わっていくんだ。
花の香りは、もう、ただ優しく包んでくれるだけの匂いじゃなかった。
不安に震えながら、それでも必死に湊を求めているような――
そんな、切ない匂いだった。
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