君を選ぶ理由 〜花の香りと幼なじみのΩ〜

なの

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番外編 あの頃と、今と――正人視点

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縁側に腰を下ろし、湯呑みを手に取った。
春の柔らかい風が、庭の桜をそっと揺らしていった。

「……静かになったな」

ぽつりと呟くと、隣で恒一が鼻を鳴らす。

「若いのがおらんと、家は急に広く感じるもんだな」

さっきまで、湊と凪がここにいた。  
並んで座って、照れくさそうに笑いながら「また来るね」と頭を下げて帰っていったばかりだ。

その背中を見送って、ようやく胸の奥が落ち着いた。  
ずっと引っかかっていた何かが、静かに溶けていくような気がした。

「のう、恒一」

「なんだ」

湯呑みの湯気を眺めながら、ゆっくり切り出す。

「わしら、余計なことをしすぎたかもしれんな」

恒一は、少しだけ湯呑みを置いて黙った。  
遠い目をして、若い頃の記憶をたどるように。

「……そうだな」

あの頃を思い出す。


わしらは幼馴染だった。  
互いに想い合う相手もいた。  
手を伸ばせば届いたはずの純粋な未来があった。

それでも、家や立場や役目を優先した。  
「αだから」「家のためだから」と理由を並べて愛よりも責任を選んだ世代だった。

「後悔、しておらんか?」

正人が聞くと、恒一は苦く笑った。

「してないと言えば、嘘になるな。夜中に目が覚めて、ふと思うことはあった」

「わしもだよ」

湯呑みを置いて、縁側の板に手を置く。  
木の温もりが、掌にじんわりと染みてくる。

「だから、孫には同じ思いをさせたくなかった。  
湊と凪には、迷いなく未来を歩いてほしくてな」

「αとΩが揃えば完璧だ。  
家同士も納得だ。迷う余地なんぞないはずじゃと」

恒一が続ける。

「理由を並べてやれば、あの子らは幸せになれると、勝手に思い込んでおった」

正人は、目を細めて庭を見る。  
桜の花びらが、一枚、風に舞って縁側に落ちてきた。

「だがな」

小さく笑う。

「選ぶってのは、誰かに決めてもらうもんじゃなかった。  
自分で選び取るもんじゃったな」

恒一は、静かに頷いた。

「凪が倒れた夜のことを、今でも覚えておるよ」

ぽつりと、恒一が語り出す。

「熱でうなされながら、呼んだ名前が湊じゃった。  
抑制剤も救急車も頭になく、ただ一つの名前を繰り返してな」

正人は目を閉じた。

「そのとき、ようやくわかった。あの子らが欲しかったのは、  
わしらが用意した『完璧な未来』なんぞじゃなかった。  
ただ、“選ばれる言葉”だったんじゃな」

庭の桜が、また一枚花びらを散らす。  
春風に運ばれて、二人の膝元に落ちてくる。

しばらく、心地よい沈黙が流れた。  
遠くで、子どもたちの笑い声が聞こえる。  
近所のガキどもが、いつものように遊んでおるのだろう。

「あいつら、幸せになるかな」

正人がふと聞くと、恒一は即座に答えた。

「なるさ」

迷いがなかった。

「迷って、ぶつかって、傷ついて、それでも一緒におると決めたんじゃ。  
そんなやつらは、ちゃんと幸せになるもんじゃ」

正人は、ふっと笑った。

「……負けたな、わしら」

「若さには、勝てんよ」

恒一も笑う。皺が深く刻まれた顔が珍しく無邪気な少年のようだった。

「だがまあ」

恒一が立ち上がり、家の中へ戻りながら言う。

「大満足じゃのう。見届けて、これで」

正人も、ゆっくり腰を上げた。  
少し軋む膝をさすりながら、縁側を後にする。

「まったくだ。思い残すことは、もうないわい」

二人が家の中に入ると、縁側は静かになった。  
ただ、桜の花びらが一枚、風に舞ってそこに残った。

あの頃、手放してしまった純粋な温度と、今になってようやく見届けられた孫たちの未来が、確かに、そこに重なっていた。

「次は曾孫の顔が見たいな」

「気が早いぞ、正人」

「早くない。楽しみじゃ」

そんな他愛ない会話を交わしながら、二人の老人は、並んで台所へ向かった。

湯呑みを片付けながら、恒一がぽつりと言った。

「湊と凪の子どもは、きっと花の香りがするじゃろうな」

正人は、笑って肩を叩いた。

「それなら、わしらの分まで溺愛してやらんとな」

春の午後の陽射しが、家の中まで差し込んでくる。  
そこには、もう何の影もなかった。






 
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