十五年分のただいま

なの

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プロローグ:夏の夕暮れと、はじまりの約束

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夏の夕暮れ。

西の空は大きな炎を抱えたように赤々と燃え、家々の屋根を茜色に染め上げていた。学校からの帰り道、公園に近い路地裏には、甲高い子どもたちの笑い声と、それを追いかけるように鳴り響くヒグラシの声が満ちている。

「みつきー!ただいまー!」

十歳の一楓(いぶき)の声が、夕焼け雲の間へ吸い込まれていく。その声に応えるように、隣の家から小さな影が勢いよく飛び出した。光希(みつき)三歳。

ふわりとした猫っ毛は夕光を透かし、大きな瞳は吸い込まれそうなほど澄んでいた。短い足で一生懸命に走る姿は、飼い主を追う子犬のようで、見ているだけで胸の奥がきゅっと熱くなる。全力で駆ける分、何もないアスファルトにつまずいて盛大に転びそうになることもしょっちゅうだ。

「あっ、危ない!気をつけて!」

予測していたように傾いだ小さな体を、駆け寄った一楓が慌てて抱きとめる。腕の中にすっぽり収まるその身体は驚くほど軽く、温かく、そして儚い。一瞬でも目を離せば、ふっと消えてしまいそうな危うさがあった。

「わーん!こわかったー!」

転ばなかったにもかかわらず、驚いた光希は大声で泣き出す。一楓は慣れた様子で背中をさすり、「よしよし、大丈夫。俺がちゃんと見てるからな」と必死にあやした。

周りで見守っていた近所の大人たちは、「いぶきちゃんは光希くんのお兄ちゃんだからね」と困ったように、それでも温かく笑う。

やがて光希は、目尻に涙の粒を残したまま、顔をくしゃりとほころばせた。その笑顔を見た瞬間、一楓の胸はふいに熱を帯びる。

――やっぱり、お前は笑顔がいちばんだ。

幼い心に芽生えたその想いは、いつしか「守りたい」という確かな感情になっていた。今に始まったことではない。そもそも光希の誕生を、一楓はこの世の何よりも心待ちにしていたのだから。

七歳のころ、母が嬉しそうに言った。

「お隣の佳奈ちゃんのお腹にね、赤ちゃんがいるのよ」

その言葉に、一楓の胸はこれ以上ないほど高鳴った。小さな心臓が早鐘を打ち、胸いっぱいに期待が広がっていく。

「早く会いたいな」

「どんな子かな、男の子かな、女の子かな」

まだ見ぬ存在に夢を見て、母の膝の上で何度もつぶやいた。

やがて産声と共にこの世に生まれた光希。
その小さくて赤い顔に、一楓は運命を感じた。その瞬間から、一楓の生活の中心には、いつも光希がいた。

「おむつ替えは僕にやらせて!」

「ミルクも僕があげたい!」

「泣いたら誰よりも早く抱っこしてあげる!」

隣家の母親も最初は戸惑いながらも、その熱意に根負けして「じゃあ、お願いしようかしら」と笑ってくれた。一楓はオムツ替えも哺乳瓶の角度も、誰より上手になろうと必死で練習した。

それからの日々は、一楓にとって宝物だった。
光希は泣き虫で、甘えん坊で、ときにはとんでもないいたずらもする。けれど、眠ると小さな寝息を立てて腕に沈み込み、笑うと世界が一気に明るくなった。

公園に連れて行けば、よちよち歩く手を固く握り、砂場では小さな手にスコップを握らせる。少しでも膝を擦りむいて泣き出そうものなら、世界が終わったかのように慌てふためき、絆創膏を手に駆けつけた。

母親や隣家の大人たちは、そんな甲斐甲斐しい姿を微笑ましく見守る。

「一楓くんは、光希くんを守る騎士みたい」

――笑われるたびに、一楓は少し照れながらも誇らしかった。

光希の存在は、一楓にとって当たり前で、かけがえのない日常そのものだった。太陽が昇り、沈むのと同じように、永遠に続いていくのだと信じて疑わなかった。

けれど、その永遠は、一瞬で壊れた。

――


ある蒸し暑い夜だった。

光希と両親が乗った車が、もうすぐで家に着く間際、居眠り運転のトラックと正面衝突した。

知らせを運んできた近所の人の声を、一楓は寝ぼけ眼で、ぼんやりと聞いていた。夜更けに響く父の強張った声が何か良くないことが起きたのだと告げている。

知らせを受けた時、まだ十歳の一楓には「死」という言葉の重みすら本当の意味では理解できなかった。ただ胸をよぎったのは、たった一つの、突き刺すような疑問だった。

――みつきは?
みつきは、どうなったの?

息を呑む中、父の背中越しに、母が静かに告げる。

「光希くんは……奇跡的に……生きていたの。
でも……お隣のご夫婦は……」

その意味を悟った瞬間、一楓の胸は内側から音を立てて裂かれた気がした。

数日後、家の応接間には重苦しい空気が漂う。
大人たちの会話は難しい言葉ばかり――「施設」「手続き」「親族の確認」

聞き慣れない単語の断片か
ら、十歳の一楓にも、ただ一つだけ残酷な事実が分かった。光希はもう、この隣の家には戻ってこない、と。

「……いやだ」

声が震えた。今まで両親に逆らったことなどほとんどなかった一楓が、二人の前に仁王立ちで立ちはだかる。

「父さん、母さん……光希を、うちで育てちゃダメなの?ここで一緒に暮らせないの?」

必死にしがみつく声に、母は涙を滲ませながら首を振った。

「いぶき……あなたの気持ちは痛いほど分かるの。本当に。でもね、人の子を育てるっていうのは、私たちには簡単にできることじゃないのよ」

「でも!僕が全部やるから!ご飯だって、遊ぶのだって、今まで通り、泣いたら僕が泣き止ませる!だから一緒にいようよ!」

涙でぐしょぐしょになりながら叫ぶ。しかし父は静かに、諭すように言った。

「いぶき。それは『好きだから』という気持ちだけじゃできないんだ。大人でも、本当に難しいことなんだ。……しかも、お前はまだ十歳だ」

「どうして!どうして一緒にいられないの!」

幼い理屈では到底受け入れられない現実に、一楓はただ泣き叫ぶしかなかった。母はそんな息子をぎゅっと抱き寄せ、耳元でささやく。

「光希くんは、きっと分かってる。あなたがそばにいたいって思ってること。
今は無理でも……その気持ちは、きっと届くわ」

引き裂かれるような痛みの中にある幼い胸に、その言葉は慰めにしか聞こえない。

――


そして、出発の日が来た。

施設の職員だという優しい女性に手を引かれ、光希は迎えに来た車の後部座席で、訳も分からず泣いている。その小さな手には、一楓が誕生日に贈った、くたくたのクマのぬいぐるみが握られていた。

「みつき!」

母の制止を振り切り、雨の中、傘も差さずに一楓は必死に車へ駆け寄る。

「みつき!約束だよ!大きくなったら、絶対、光希のこと迎えに行くから!!」

ガラスを叩き、全身で叫ぶ。

「だから、僕のこと、絶対に忘れないで!!」

小さな手が窓越しに震え、ぎゅっと伸ばされた。三歳の光希が言葉の意味を完全に理解できたわけではないだろう。
だが、その悲痛な声だけは、確かに光希の胸に深く、深く刻まれた。

無情にも車は発進し、ゆっくりと遠ざかっていく。夕焼けの中に、十歳の少年の小さな背中だけが、ぽつんと取り残された。

――大きくなったら、必ず迎えに行く。

どんな手を使ってでも。どれだけ時間がかかっても。
笑顔も泣き顔も、全部ひっくるめて、もう一度この腕の中に抱きしめて、隣に立つ未来を掴むんだ。

空の朱色は、やがてすべてを包み込む夜の闇に飲まれていった。
それでも、少年の心に灯った決意の炎だけは、その日から一度も揺らぐことなく、いつまでもあざやかに燃え続けていた。

だが、そのときの一楓はまだ知らなかった……

十五年後、もう一度「ただいま」を言うその日――
あの笑顔は、自分のことをすっかり忘れているかもしれないということを。


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