十五年分のただいま

なの

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第7話: 十五年目の「ただいま」

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記憶が戻ってから、二人の間の空気はまるで雪解け水のように柔らかく、澄んだものになった。  

光希は、時折照れながらも一楓を「一楓兄ちゃん」と呼んだが、一楓が「もう『兄ちゃん』じゃなくて、恋人だろ?だったら、名前で呼んでほしい」と懇願したため、今では「一楓さん」と呼んでいる。そのたびに一楓は、子どものように顔を真っ赤にして、隠しきれない喜びを全身で表現するのだった。

長年の片想いがようやく報われた男は、以前にも増して光希を甘やかし、そして相変わらず盛大にドジを踏んでいた。

「光希、見てくれ!お前の好きなデパートのプリン、全種類買ってきたぞ!」  

「そんなに食べきれるわけないでしょ。また計画性がないんだから」  

「いいんだ!お前が笑顔で食べてくれるなら、俺の財布と胃袋は犠牲になっても構わない!」  

そんな騒がしいやり取りが日常になったある晴れた朝、光希は少し緊張した面持ちで、キッチンで朝食を作る一楓に声をかけた。

「あのさ、一楓さん」  

「ん?どうした、光希?」  

ウインナーを炒める手を一瞬止めて、一楓が恋する少年のように優しく振り返る。  

「俺、やっぱり働きたい。何か、自分でできることを見つけたいんだ」  

以前の一楓なら「俺が養う」と即答しただろう。けれど今は違う。  

「……そうか。光希がやりたいことなら、俺は応援する。どんなことがしたい?」  

「まだ、具体的じゃないけど……この家にいるだけじゃなくて、自分の足で立ちたい。一楓さんと、これからも一緒にいたいから」  

まっすぐな瞳が、一楓の胸を打つ。守るべき幼子だった面影は残しつつ、そこに凛とした強さが宿っている。  
一楓は少しだけ考え、火を少しだけ弱めて言った。  

「じゃあ、俺の会社は?いきなり正社員は負荷が大きいだろ?まずは事務という形でやってみないか?」  

光希は短く息を吸い、静かに頷く。  

「……いいの?でも、一つだけ『恋人』って会社の人には言わないでほしい」  

一楓は、大きくため息をついた。

「わかった約束する。じゃあ肩書は、臨時の事務補助にするか……面接を受けてみるか?配属は総務に任せる。俺は口出ししないから――それでも、いいか?」  

「うん。ありがとう」

結局、朝食は少し焦げたウインナーになったが、食卓はこれまでで一番幸せな笑い声に包まれた。

面接の前夜。履歴書を見直す光希の横で、一楓が腕を組む。  

「なあ、言っとくけど」  

「なに?」  

「もし落とすなんてことがあったら、俺は社長権限を総動員する。根こそぎだ」  

「ダメだよ、それは」  

「知ってる。だから言うだけ。俺の暴走は家の中だけで許してくれ」  

困ったように笑う光希に、一楓は小さく付け足した。  

「権力は使わない。けど……祈るくらいはさせろ。俺の全部で」  

「……わかった」

翌日。
面接室で光希は、卒業してから仕事につかなかった理由と今の状態を簡潔に語った。

「卒業後は家庭の事情と体調面の理由で、継続的な就業には至っていませんでした」

「業務では、集中力を要する事務・整理・チェック作業が得意です。一方で、初対面の対外対応は慣れが必要なため、段階的に取り組めると助かります」

できる範囲と難しい範囲を線引きし、誇張はしない。ただ、自分の足で立ちたいという意志だけが、はっきり残った。  

*** 

数日後、総務から連絡が入った。

「試用二週間でお願いします」

廊下で結果を聞いた光希がほっと息を吐くと、角で待ち構えていた一楓が抑えきれずに笑った。  

「……流石、俺の光希」  

「会社では、それ言わないで」  

「分かってる。家に帰ったら、百回言う」  

こうして光希は、臨時の事務補助として働き始めた。

正式採用ではなく、まずは二週間の試用が決まった。

それと、社内では関係を明かさない――それが二人の約束だ。  

初日は誰もが距離を測っていた。「社長の知り合い」という曖昧な紹介は、要らぬ勘繰りを生む。だからこそ光希は、黙々と積み重ねた。  

書庫のラベリングを規格化し、共有フォルダの命名を統一し、抜け落ちやすい伝票のチェックリストを作る。言い訳はしない、誇張もしない。ただ淡々と。  

三日目、経理主任が小さく礼を言った。

「このリスト、助かる。ミスが半分になった」  

一週間後、総務から他部署へ依頼が回る。

「その整理、光希くんにも共有してほしい」  

二週間の終わり、延長の話が自然に出た。そこで初めて総務責任者が一楓に報告する。

「高卒で、社会人経験もないため、即戦力とまでは言いませんが、現場の信頼を得ています」

その夜、光希は一楓に伝えた。

「ねえ、一楓さん。もう少し、ここでやってもいいかな?」  

「もちろんだ。ただし無理はしない」  

「うん。わかった」  

社内では臨時補助。
帰宅すれば、かけがえのない人。二つの名を行き来しながら、光希は自分の足で立つ感覚を確かめていく。隠す選択は逃げではない。実力で扉を開けるための、静かな構えだった。

やがて仕事は自然と身につき、外の世界と繋がる手応えが光希の表情を日に日に明るくしていった。

一楓もまた、その変化を誇らしく見守る。内心には「全部俺がやってやりたい」という気持ちが残っていても、それ以上に「光希の羽を折りたくない」という思いが勝っていた。

そんな穏やかな日々が過ぎた、ある日の夜。

仕事を終えた光希がドアを開けると、高級スーツの一楓が玄関のたたきで正座していた。まるで重大な罪を犯して許しを請うているみたいだ。  

「何、してるの?」  

「お、おかえり、光希」  

緊張でこわばった顔のまま、一楓は居住まいを正し、手のひらの小さなベルベットの箱を震えながら差し出した。  

「光希。俺と、家族になってください」  

「……え?」  

「いや、もうとっくに家族みたいなもんだけど、そういう法的なことじゃなくて!いや、法的なこともいずれそうしたいんだけど!とにかく――これからの人生、ずっと隣で笑ったり、泣いたり、俺がドジしたりするのを、一番近くで見ていてほしい!」  

しどろもどろの告白は少し滑稽で、最高に愛おしい。

箱がパカリと開く。そこにはシンプルなペアリングが、優しい光を放っていた。  
光希は、驚きと嬉しさ、そして少しの呆れを混ぜて長いため息をつく。  

「しょうがないなあ」  

「えっ、だめ、なの?」  

本気で泣きそうになる顔に、光希はたまらず吹き出した。  

「一生、面倒見てあげるよ。一楓さんのヘタレっぷりは、俺がいないとダメみたいだからね」  

いたずらっぽい笑みに、一楓の表情がぱあっと輝く。  

「本当か!?やったあ!」  

一楓は光希に飛びつき、子どものように力いっぱい抱きしめた。  

「愛してるぞ、光希!」  

「はいはい、俺もだよ」  

二人はそのまま玄関に腰を下ろした。外は吐く息が白くなる寒さなのに、指先で触れた輪は驚くほど温かい。  

「サイズ、ぴったり」  

「何度も寝てる間に指測ったからな」  

「ちょっと怖いこと言わないで」  

「努力の結晶だ」  

一楓の左手に光る輪と、光希の指におさまった輪は、同じ質感で同じ幅。触れ合えば、カチリと音もなく噛み合うみたいに馴染む。

十五年越しの約束が、ようやく触れられる形になったのだと、光希は静かに実感する。  

「…ねえ、一楓さん」  

「ん?」  

「明日も、会社では臨時補助のままでいようね」  

一楓は少し目を伏せ、そして真っ直ぐに頷いた。  

「分かった。俺は、家で何度でも言う。恋人だって」   

「うん。家でなら、いくらでも」  

十五年前、あの雨の中「迎えに行く」という約束。  

それは今、形を変えて、二人の未来を永遠に誓う新しい約束になった。  

玄関で、光希がそっと呟く。  

「ただいま、一楓さん」  

世界で一番幸せな顔で、一楓が答える。  

「おかえり、光希」  

約束の続きの物語は、まだ始まったばかりだ。



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