十五年分のただいま

なの

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第8話:王子様と指輪と、僕の知らないあなた

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一楓の会社で事務を始めて、数ヶ月が経った。

光希の仕事は、契約書の整理やデータ入力といった単純作業が中心だったが、社会との繋がりを実感できる毎日は、彼の心を穏やかに満たしていた。

その日の昼下がりも、光希は静かなオフィスの一角で、黙々とパソコンに向かっていた。フロアに響くのは、キーボードを叩くリズミカルな音と、時折混じる社員たちのひそやかな会話だけ。そんな中、女性社員たちの楽しげな声が、ふと光希の耳に届いた。

「ねえ、見た?社長の左手の薬指」
「見た見た!超シンプルだけど、絶対お高いやつだよね!」
「お相手、やっぱり白鳥コンツェルンのご令嬢なのかな?先月のパーティーでも、すごく親しげだったって話じゃない?海外の大学を首席で卒業した才媛で、モデルみたいな美人だって」
「政略結婚ってやつ?でも、あんな王子様と結婚できるなら、どんな令嬢でも幸せよねえ…」

無邪気な好奇心と少しの羨望が混じった会話。
光希は、キーボードを打つ手を止めた。心臓が、嫌な音を立てて軋む。噂の中の令嬢は、まるで物語のお姫様のように完璧で、自分とはあまりにもかけ離れていた。

胸元の下で、鎖がひやりと肌に触れる。そこに通しているのは、あの日、一楓がプロポーズで渡してくれたペアリングだ。まだ恋人と宣言していないのにペアリングを付けるのはハードルが高すぎた。でもそれは、二人だけの世界の、ささやかで、けれど絶対的な証のはずだった。しかし今、その輝きが、自分の場違いさを証明しているように思えてくる。

――白鳥コンツェルンのご令嬢。
その言葉が、鉛のように重く光希の胸にのしかかる。

施設で育ち、身寄りも、学歴も、社会的地位も何もない自分。それに比べて、一楓は若くして成功したIT企業の社長で、その隣に立つ女性は、誰もが納得するような、輝かしい経歴の持ち主なのだろう。

俺は、本当に一楓さんの隣にいて、いいんだろうか……あの人の輝かしい未来の、足枷になっているんじゃないか。

一度芽生えた不安は、毒草のように心を蝕んでいく。家で見せるヘタレな姿も、もしかしたら、自分に合わせて無理をしているだけなのかもしれない。本当の彼は、自分の知らない、手の届かない場所にいるのではないか。

その時、フロア全体にピリリとした緊張が走った。

「お客様、大会議室にご到着されました!」
「最終確認急げ!プロジェクターの接続は!?」

今日は、会社の未来を左右する、大手通信会社との大型プロジェクトの最終プレゼンの日だった。社員たちが慌ただしく動き回る中、奥の社長室から、一楓が姿を現した。

その瞬間、オフィスの空気が変わった。
家で見るような気の抜けた表情はどこにもない。そこにいたのは、冷徹なまでの知性と、揺ぎない自信を全身にまとった、支配者の顔だった。

「慌てるな。準備は完璧だ。全員、自分の役割を全うしろ」

低く、よく通る声で発せられたその一言で、フロアの喧騒がぴたりと静まる。社員たちの顔に、安堵と信頼の色が浮かんだ。

「光希くん」

不意に名前を呼ばれ、光希はびくりと顔を上げた。

「すまないが、この追加資料を30部コピーして大会議室まで持ってきてくれるか」

「……は、はい!」

一楓から渡された数枚の資料を急いでコピーし、大会議室へと向かった。そっとドアを開け、中のスタッフに資料を渡す。すぐに踵を返そうとしたのに、なぜか足が動かなかった。

ドアの隙間から見えたのは、光希が今まで一度も見たことのない一楓の姿だった。

ずらりと並んだ相手方の重役たちを前に、彼は一切物怖じすることなく、流暢なプレゼンテーションを繰り広げている。プロジェクトの革新性、将来性、そして市場に与えるインパクト。その言葉の一つ一つには確かなデータと情熱が宿り、聞く者すべてを惹きつけていた。

クライアントからの鋭い質問にも、間髪入れずに、的確かつユーモアを交えて切り返す。その姿は、家でのヘタレな男とは、まったくの別人だった。

……すごい。
これが、一楓さんの本当の姿なんだ。
たった数人で会社を立ち上げ、多くの社員の生活を背負うまでに大きくし、業界のトップを走る男の顔。
眩しくて、目がくらみそうだった。そして同時に、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。

やっぱり――この人が、好きだ。

家でドジを踏む情けない姿も、こうして誰よりも輝いている姿も、全部含めて、どうしようもなく好きなのだ。
令嬢がなんだ。家柄がなんだ。
このすごい人が、数ある選択肢の中から自分を選んでくれた。それ以上の事実が、どこにあるというのだろう。

プレゼンが最高潮に達し、会議室が万雷の拍手に包まれた瞬間、ドアの隙間に立つ光希に気づいた一楓が、ほんの一瞬だけ、ふっと口元を緩めた。それは、他の誰にも見せない、光希だけが知っている、少し気の抜けた優しい笑顔だった。

その笑顔を見た瞬間、光希の心にあった黒い霧は少しずつ晴れていった。
自信なんて、まだない。
でも、この人の隣にいたい。この人の隣にふさわしい自分になりたい。
そう、強く思った。

その日の帰り道。二人並んで夜道を歩いていると、一楓がふにゃりとした顔で言った。

「つ、疲れた……。光希、今日の俺、かっこよかった、だろ?」

「……うん。すごく、かっこよかった」

素直な言葉に、一楓は「えっ」と固まり、次の瞬間、顔を真っ赤にした。

「そ、そうか!?やっぱり!?もっと言ってくれていいんだぞ!」

いつもの調子に戻った一楓を見て、光希は堪えきれずに笑った。
この人のヘタレな姿を知っているのは、世界中で自分だけだ。それって、結構すごいことなんじゃないだろうか。

光希は、隣で喜ぶ愛しい人の手を、少しだけ強く握りしめた。この温かい手も、仕事で見せる厳しい顔も、そして誰にも見せない弱い姿も、全部自分のものだ。そう思うだけで、世界で一番の幸せ者になれた気がした。


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