雪解けを待つ森で ―スヴェル森の鎮魂歌(レクイエム)―

なの

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第1章 月影の森へ

EP2:森への道

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村の最後の松明の光が、背後で完全に闇に飲み込まれた時、アシェルは本当の意味で一人になった。

森は、村人が恐れるだけあって、異様なほどの静寂に包まれていた。

自分の足が、新雪を踏みしめるたびに「きゅっ」という小さな音だけが、まるで心臓の鼓動のように規則正しく響く。
それ以外の音は、分厚い雪の層がすべて吸い込んでしまっているようだった。

先ほどまで激しく降っていた雪はいつの間にか止み、代わりに深い霧が立ち込めていた。霧は音もなくあたりを支配し、木々の輪郭をぼやけさせ、現実と夢の境界を曖昧にする。
まるで世界が、アシェルという存在だけを残して、すべて溶けてしまったかのようだ。

ふと空を見上げると、雲の切れ間から、冷たい月が顔をのぞかせていた。
月光は霧に乱反射し、まるで乳白色のヴェールのように森全体を淡く、そして幻想的に照らし出す。雪をまとった枝々は、月の光を受けて銀色にきらめき、まるでガラス細工の森に迷い込んだような錯覚に陥った。
それは恐ろしいほどに美しく、死に向かう道行きにはあまりにも不釣り合いな光景だった。

「……きれいだ」

凍える唇から、思わず吐息のような言葉が漏れる。
村では決して見ることのできない、清浄で、神聖さすら感じる景色。死ぬ前にこんなものを見られるのなら、それも悪くないのかもしれない。そんな諦めに似た感傷が、胸の奥を静かに満たしていく。

どれくらい歩いただろうか。身体の感覚はとうに失せ、ただ前に進むという思考だけが、かろうじてアシェルを動かしていた。寒さと疲労で意識が朦朧としてくる。すると、閉ざしていたはずの記憶の扉が、不意に軋みを立てて開き始めた。

『―――こっちへ、おいで』

それは、声とも音ともつかない、不思議な響きだった。

幼い頃、ひとりぼっちで膝を抱えていた夜に、よく聞いた声。
村の大人たちからは気味悪がられ、「呪われている」と石を投げつけられる原因にもなった、謎の呼び声。風の音か、木々のざわめきか、それとも自分の心が作り出した幻聴か。
確かめようもなかったが、その響きは不思議と温かく、アシェルの孤独を慰めてくれる唯一のものだった。

(森の声だ……)

大人になるにつれて聞こえなくなっていたその声が、今、死を目前にして、再び聞こえてくる。
まるで、迷子の子供を迎えに来てくれたかのように……。

記憶の断片が、次々と脳裏に浮かび上がる。
物心ついた時から、自分には親がいなかった。誰から生まれたのかも知らない。村の片隅にある、物置同然の小屋で、村人たちの気まぐれな施しだけで生きてきた。

雪のような白い髪と灰色の瞳は、この村では異質だった。
子供たちは「雪おばけ」と囃し立て、大人たちは忌み嫌うように目を逸らした。誰も、アシェルの名前を呼ばなかった。誰も、アシェルに触れようとはしなかった。

たった一度だけ、夢を見たことがある。
まだ本当に幼かった頃、熱を出して何日も寝込んだ夜。朦朧とする意識の中で、誰かが優しく自分の髪を撫でてくれた。
とても温かくて、大きな手だった。
そして、あの「森の声」に似た、柔らかな声で子守唄を歌ってくれた気がする。

『大丈夫、お前は一人じゃない』

それは母親だったのだろうか。それとも、ただの熱に浮かされた幻だったのか。今となっては確かめようもない、甘く、そして切ない記憶。

その記憶が蘇った瞬間、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
これまで一度も、人前で流したことのなかった涙が、頬を伝う。
凍てつく空気の中で、涙はすぐに凍りつき、まるで宝石のかけらのように頬に張り付いた。

ああ、自分は、ただ。
ただ、誰かに名前を呼んでほしかった。
ただ、誰かに「大丈夫だ」と、頭を撫でてほしかった。
ただ、温かい腕の中で、眠ってみたかった。
それだけだったのに――。

その願いが何一つ叶わぬまま、自分の人生は終わっていく。
その事実が、死の恐怖よりもずっと、アシェルの心を締め付けた。

足がもつれ、雪の中に前のめりに倒れ込む。顔に触れる雪の冷たさが、なぜか心地よかった。
もう、いいか。このまま、この冷たい雪に抱かれて眠ってしまおうか。そうすれば、もう何も感じなくて済む。孤独も、悲しみも、寒さも。

意識が遠のき始める。月明かりに照らされた霧が、まるで自分を天に迎えに来た使いのように見えた。
その、薄れゆく視界の先。
霧の向こうに、何かが動いた、気がした。

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