雪解けを待つ森で ―スヴェル森の鎮魂歌(レクイエム)―

なの

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第1章 月影の森へ

EP3:魔物との遭遇

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薄れゆく意識の片隅で捉えた「何か」は、幻ではなかった。

雪を踏む重い足音。
それはアシェル自身の頼りない足音とは明らかに違う、確かな存在感を伴って近づいてくる。
ゆっくりと顔を上げると、霧の向こうで揺らめいていた影が、徐々にその輪郭をあらわにした。

息を、のむ。
そこに立っていたのは、村の伝説で語られてきた「魔物」そのものだった。

人の倍はあろうかという巨大な体躯。全身を覆うのは、月光を吸い込んで鈍く艶めく、夜の色をした黒い毛皮。鋭く尖った耳がぴくりと動き、見る者を射抜くような黄金の瞳が、暗闇の中で爛々と輝いている。
それは紛れもなく、狼の姿をした獣だった。だが、ただの獣ではない。その佇まいには、永い時を生きてきた者だけが持つ、圧倒的な威厳と知性が宿っていた。

――これが、森の主。

自分は、この魔物に喰われるために、ここに送られてきたのだ。
アシェルは恐怖で身動き一つできなかった。心臓が凍りついたように止まり、呼吸さえも忘れる。
ああ、ここで死ぬのだ。村人たちが望んだ通りに。伝説の通りに。そう覚悟した瞬間、不思議と身体の震えが収まった。

魔物はゆっくりとアシェルに近づき、その巨大な顔を雪に埋もれた彼の目の前にまで寄せた。吐き出される息が白く凍り、アシェルの前髪を揺らす。
死の匂いがする、と本能が警鐘を鳴らした。しかし、それと同時に、なぜか懐かしいような、温かいような不思議な感覚が身体を包んだ。

(……森の声と、同じ気配い)

幼い頃から自分を呼び続けていた、あの声と同じ気配。まさか。そんなはずはない。混乱する思考の中で、アシェルはただ、目の前の黄金の瞳をじっと見つめ返した。その瞳の奥には、残酷さや飢えとは違う、もっと深い、底なしの孤独の色が揺らめいているように見えた。自分と同じ色だ、と直感的に思う。

どれくらいの時間が経っただろうか。
永遠にも思える沈黙の後、魔物はゆっくりと顔を上げた。そして、アシェルが予想だにしなかった、低く、けれど明瞭な声が、静寂な森に響き渡った。

「……なぜ、泣いている」

それは、疑いようもなく人の言葉だった。
アシェルは驚きに目を見開く。伝説では、魔物は言葉を話さない。
ただ叫び、獲物を引き裂くだけのはずだった。

「お前が、今年の『供物』か」

魔物は再び言った。
その声には感情がほとんど乗っていなかったが、どこかうんざりとした響きが含まれている。

「……はい」

かろうじて、凍える唇からかすれた声が漏れた。

「食われるために、来ました」

もうどうにでもなれ、という諦めの境地だった。
どうせ死ぬのなら、この美しい魔物に喰われるのも悪くない。アシェルはそっと目を閉じた。鋭い牙が首筋に突き立てられる瞬間を待つ。

しかし、いつまで経っても衝撃は訪れない。
恐る恐る目を開けると、魔物は少し離れた場所から、値踏みするようにアシェルを見下ろしていた。
そして、心底面倒くさそうに、ふっと息を吐いた。

「帰れ」

「……え?」

「聞こえなかったか。村へ帰れと言っている。
人間の子の肉など、とうに飽いた」

冷たく突き放すような言葉。しかし、その言葉はアシェルの心に、予期せぬ波紋を広げた。

帰れ?村へ?あの、自分を厄介払いした村へ?

「帰る場所なんて、ありません。俺は、生贄だから……」

「知るか。お前たちの都合など」

魔物はそう吐き捨てると、アシェルに興味を失ったかのように、くるりと背を向けた。その言葉は氷のように冷たいのに、なぜだろう。アシェルの胸の奥に、小さな、小さな灯火がともったような感覚があった。

「待って……!」

気づけば、声を発していた。雪の中から半身を起こし、去りゆく黒い背中に向かって叫ぶ。

「俺は、どうすればいいんですか……!」

魔物は足を止め、振り返らずに答えた。その声は、霧と雪に溶けていくようだった。

「好きにしろ」

一瞬の間。

「俺は、おまえを喰わない。だから……好きに生きろ、この森で」

それだけを言い残し、巨大な黒い影は再び霧の中へと歩き去っていく。
その威厳に満ちた背中は、孤独で、あまりにも寂しげに見えた。

アシェルは、その場に呆然と座り込んだまま、黒い影が完全に闇に溶けて見えなくなるまで、ただじっと見送っていた。

『好きに、生きろ』
生まれて初めて、誰かにかけられた言葉だった。
それは拒絶であり、無関心が生んだ言葉かもしれない。けれど、アシェルの耳には、まるで許しのように響いた。お前は生きていていいのだ、と。そう言われた気がした。

恐怖と、畏怖と、そしてほんのわずかな、不思議な安堵。
様々な感情が胸の中で渦巻き、涙が再びあふれ出す。しかし、今度の涙は、先ほどまでの絶望に満ちたものではなかった。
死ぬはずだった場所で、生きていいと言われた。
孤独の果てで、自分と同じ色をした瞳に出会った。
アシェルの心に、何かがはっきりと芽生えた瞬間だった。

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