3 / 22
第1章 月影の森へ
EP3:魔物との遭遇
しおりを挟む
薄れゆく意識の片隅で捉えた「何か」は、幻ではなかった。
雪を踏む重い足音。
それはアシェル自身の頼りない足音とは明らかに違う、確かな存在感を伴って近づいてくる。
ゆっくりと顔を上げると、霧の向こうで揺らめいていた影が、徐々にその輪郭をあらわにした。
息を、のむ。
そこに立っていたのは、村の伝説で語られてきた「魔物」そのものだった。
人の倍はあろうかという巨大な体躯。全身を覆うのは、月光を吸い込んで鈍く艶めく、夜の色をした黒い毛皮。鋭く尖った耳がぴくりと動き、見る者を射抜くような黄金の瞳が、暗闇の中で爛々と輝いている。
それは紛れもなく、狼の姿をした獣だった。だが、ただの獣ではない。その佇まいには、永い時を生きてきた者だけが持つ、圧倒的な威厳と知性が宿っていた。
――これが、森の主。
自分は、この魔物に喰われるために、ここに送られてきたのだ。
アシェルは恐怖で身動き一つできなかった。心臓が凍りついたように止まり、呼吸さえも忘れる。
ああ、ここで死ぬのだ。村人たちが望んだ通りに。伝説の通りに。そう覚悟した瞬間、不思議と身体の震えが収まった。
魔物はゆっくりとアシェルに近づき、その巨大な顔を雪に埋もれた彼の目の前にまで寄せた。吐き出される息が白く凍り、アシェルの前髪を揺らす。
死の匂いがする、と本能が警鐘を鳴らした。しかし、それと同時に、なぜか懐かしいような、温かいような不思議な感覚が身体を包んだ。
(……森の声と、同じ気配い)
幼い頃から自分を呼び続けていた、あの声と同じ気配。まさか。そんなはずはない。混乱する思考の中で、アシェルはただ、目の前の黄金の瞳をじっと見つめ返した。その瞳の奥には、残酷さや飢えとは違う、もっと深い、底なしの孤独の色が揺らめいているように見えた。自分と同じ色だ、と直感的に思う。
どれくらいの時間が経っただろうか。
永遠にも思える沈黙の後、魔物はゆっくりと顔を上げた。そして、アシェルが予想だにしなかった、低く、けれど明瞭な声が、静寂な森に響き渡った。
「……なぜ、泣いている」
それは、疑いようもなく人の言葉だった。
アシェルは驚きに目を見開く。伝説では、魔物は言葉を話さない。
ただ叫び、獲物を引き裂くだけのはずだった。
「お前が、今年の『供物』か」
魔物は再び言った。
その声には感情がほとんど乗っていなかったが、どこかうんざりとした響きが含まれている。
「……はい」
かろうじて、凍える唇からかすれた声が漏れた。
「食われるために、来ました」
もうどうにでもなれ、という諦めの境地だった。
どうせ死ぬのなら、この美しい魔物に喰われるのも悪くない。アシェルはそっと目を閉じた。鋭い牙が首筋に突き立てられる瞬間を待つ。
しかし、いつまで経っても衝撃は訪れない。
恐る恐る目を開けると、魔物は少し離れた場所から、値踏みするようにアシェルを見下ろしていた。
そして、心底面倒くさそうに、ふっと息を吐いた。
「帰れ」
「……え?」
「聞こえなかったか。村へ帰れと言っている。
人間の子の肉など、とうに飽いた」
冷たく突き放すような言葉。しかし、その言葉はアシェルの心に、予期せぬ波紋を広げた。
帰れ?村へ?あの、自分を厄介払いした村へ?
「帰る場所なんて、ありません。俺は、生贄だから……」
「知るか。お前たちの都合など」
魔物はそう吐き捨てると、アシェルに興味を失ったかのように、くるりと背を向けた。その言葉は氷のように冷たいのに、なぜだろう。アシェルの胸の奥に、小さな、小さな灯火がともったような感覚があった。
「待って……!」
気づけば、声を発していた。雪の中から半身を起こし、去りゆく黒い背中に向かって叫ぶ。
「俺は、どうすればいいんですか……!」
魔物は足を止め、振り返らずに答えた。その声は、霧と雪に溶けていくようだった。
「好きにしろ」
一瞬の間。
「俺は、おまえを喰わない。だから……好きに生きろ、この森で」
それだけを言い残し、巨大な黒い影は再び霧の中へと歩き去っていく。
その威厳に満ちた背中は、孤独で、あまりにも寂しげに見えた。
アシェルは、その場に呆然と座り込んだまま、黒い影が完全に闇に溶けて見えなくなるまで、ただじっと見送っていた。
『好きに、生きろ』
生まれて初めて、誰かにかけられた言葉だった。
それは拒絶であり、無関心が生んだ言葉かもしれない。けれど、アシェルの耳には、まるで許しのように響いた。お前は生きていていいのだ、と。そう言われた気がした。
恐怖と、畏怖と、そしてほんのわずかな、不思議な安堵。
様々な感情が胸の中で渦巻き、涙が再びあふれ出す。しかし、今度の涙は、先ほどまでの絶望に満ちたものではなかった。
死ぬはずだった場所で、生きていいと言われた。
孤独の果てで、自分と同じ色をした瞳に出会った。
アシェルの心に、何かがはっきりと芽生えた瞬間だった。
雪を踏む重い足音。
それはアシェル自身の頼りない足音とは明らかに違う、確かな存在感を伴って近づいてくる。
ゆっくりと顔を上げると、霧の向こうで揺らめいていた影が、徐々にその輪郭をあらわにした。
息を、のむ。
そこに立っていたのは、村の伝説で語られてきた「魔物」そのものだった。
人の倍はあろうかという巨大な体躯。全身を覆うのは、月光を吸い込んで鈍く艶めく、夜の色をした黒い毛皮。鋭く尖った耳がぴくりと動き、見る者を射抜くような黄金の瞳が、暗闇の中で爛々と輝いている。
それは紛れもなく、狼の姿をした獣だった。だが、ただの獣ではない。その佇まいには、永い時を生きてきた者だけが持つ、圧倒的な威厳と知性が宿っていた。
――これが、森の主。
自分は、この魔物に喰われるために、ここに送られてきたのだ。
アシェルは恐怖で身動き一つできなかった。心臓が凍りついたように止まり、呼吸さえも忘れる。
ああ、ここで死ぬのだ。村人たちが望んだ通りに。伝説の通りに。そう覚悟した瞬間、不思議と身体の震えが収まった。
魔物はゆっくりとアシェルに近づき、その巨大な顔を雪に埋もれた彼の目の前にまで寄せた。吐き出される息が白く凍り、アシェルの前髪を揺らす。
死の匂いがする、と本能が警鐘を鳴らした。しかし、それと同時に、なぜか懐かしいような、温かいような不思議な感覚が身体を包んだ。
(……森の声と、同じ気配い)
幼い頃から自分を呼び続けていた、あの声と同じ気配。まさか。そんなはずはない。混乱する思考の中で、アシェルはただ、目の前の黄金の瞳をじっと見つめ返した。その瞳の奥には、残酷さや飢えとは違う、もっと深い、底なしの孤独の色が揺らめいているように見えた。自分と同じ色だ、と直感的に思う。
どれくらいの時間が経っただろうか。
永遠にも思える沈黙の後、魔物はゆっくりと顔を上げた。そして、アシェルが予想だにしなかった、低く、けれど明瞭な声が、静寂な森に響き渡った。
「……なぜ、泣いている」
それは、疑いようもなく人の言葉だった。
アシェルは驚きに目を見開く。伝説では、魔物は言葉を話さない。
ただ叫び、獲物を引き裂くだけのはずだった。
「お前が、今年の『供物』か」
魔物は再び言った。
その声には感情がほとんど乗っていなかったが、どこかうんざりとした響きが含まれている。
「……はい」
かろうじて、凍える唇からかすれた声が漏れた。
「食われるために、来ました」
もうどうにでもなれ、という諦めの境地だった。
どうせ死ぬのなら、この美しい魔物に喰われるのも悪くない。アシェルはそっと目を閉じた。鋭い牙が首筋に突き立てられる瞬間を待つ。
しかし、いつまで経っても衝撃は訪れない。
恐る恐る目を開けると、魔物は少し離れた場所から、値踏みするようにアシェルを見下ろしていた。
そして、心底面倒くさそうに、ふっと息を吐いた。
「帰れ」
「……え?」
「聞こえなかったか。村へ帰れと言っている。
人間の子の肉など、とうに飽いた」
冷たく突き放すような言葉。しかし、その言葉はアシェルの心に、予期せぬ波紋を広げた。
帰れ?村へ?あの、自分を厄介払いした村へ?
「帰る場所なんて、ありません。俺は、生贄だから……」
「知るか。お前たちの都合など」
魔物はそう吐き捨てると、アシェルに興味を失ったかのように、くるりと背を向けた。その言葉は氷のように冷たいのに、なぜだろう。アシェルの胸の奥に、小さな、小さな灯火がともったような感覚があった。
「待って……!」
気づけば、声を発していた。雪の中から半身を起こし、去りゆく黒い背中に向かって叫ぶ。
「俺は、どうすればいいんですか……!」
魔物は足を止め、振り返らずに答えた。その声は、霧と雪に溶けていくようだった。
「好きにしろ」
一瞬の間。
「俺は、おまえを喰わない。だから……好きに生きろ、この森で」
それだけを言い残し、巨大な黒い影は再び霧の中へと歩き去っていく。
その威厳に満ちた背中は、孤独で、あまりにも寂しげに見えた。
アシェルは、その場に呆然と座り込んだまま、黒い影が完全に闇に溶けて見えなくなるまで、ただじっと見送っていた。
『好きに、生きろ』
生まれて初めて、誰かにかけられた言葉だった。
それは拒絶であり、無関心が生んだ言葉かもしれない。けれど、アシェルの耳には、まるで許しのように響いた。お前は生きていていいのだ、と。そう言われた気がした。
恐怖と、畏怖と、そしてほんのわずかな、不思議な安堵。
様々な感情が胸の中で渦巻き、涙が再びあふれ出す。しかし、今度の涙は、先ほどまでの絶望に満ちたものではなかった。
死ぬはずだった場所で、生きていいと言われた。
孤独の果てで、自分と同じ色をした瞳に出会った。
アシェルの心に、何かがはっきりと芽生えた瞬間だった。
12
あなたにおすすめの小説
完結·氷の宰相の寝かしつけ係に任命されました
禅
BL
幼い頃から心に穴が空いたような虚無感があった亮。
その穴を埋めた子を探しながら、寂しさから逃げるようにボイス配信をする日々。
そんなある日、亮は突然異世界に召喚された。
その目的は――――――
異世界召喚された青年が美貌の宰相の寝かしつけをする話
※小説家になろうにも掲載中
2度目の異世界移転。あの時の少年がいい歳になっていて殺気立って睨んでくるんだけど。
ありま氷炎
BL
高校一年の時、道路陥没の事故に巻き込まれ、三日間記憶がない。
異世界転移した記憶はあるんだけど、夢だと思っていた。
二年後、どうやら異世界転移してしまったらしい。
しかもこれは二度目で、あれは夢ではなかったようだった。
再会した少年はすっかりいい歳になっていて、殺気立って睨んでくるんだけど。
筋肉質な人間湯たんぽを召喚した魔術師の話
陽花紫
BL
ある冬の日のこと、寒さに耐えかねた魔術師ユウは湯たんぽになるような自分好み(筋肉質)の男ゴウを召喚した。
私利私欲に塗れた召喚であったが、無事に成功した。引きこもりで筋肉フェチなユウと呑気なマッチョ、ゴウが過ごす春までの日々。
小説家になろうにも掲載しています。
【完結】父を探して異世界転生したら男なのに歌姫になってしまったっぽい
御堂あゆこ
BL
超人気芸能人として活躍していた男主人公が、痴情のもつれで、女性に刺され、死んでしまう。
生前の行いから、地獄行き確定と思われたが、閻魔様の気まぐれで、異世界転生することになる。
地獄行き回避の条件は、同じ世界に転生した父親を探し出し、罪を償うことだった。
転生した主人公は、仲間の助けを得ながら、父を探して旅をし、成長していく。
※含まれる要素
異世界転生、男主人公、ファンタジー、ブロマンス、BL的な表現、恋愛
※小説家になろうに重複投稿しています
炎の精霊王の愛に満ちて
陽花紫
BL
異世界転移してしまったミヤは、森の中で寒さに震えていた。暖をとるために焚火をすれば、そこから精霊王フレアが姿を現す。
悪しき魔術師によって封印されていたフレアはその礼として「願いをひとつ叶えてやろう」とミヤ告げる。しかし無欲なミヤには、願いなど浮かばなかった。フレアはミヤに欲望を与え、いまいちど願いを尋ねる。
ミヤは答えた。「俺を、愛して」
小説家になろうにも掲載中です。
魔力ゼロのポーション屋手伝い
書鈴 夏(ショベルカー)
BL
15歳で測定する魔力の量によって、人生の大部分が左右されてしまう世界。
そんな世界で、運命の日を迎えたひとりの平凡な少年──リクは、抱いた淡い期待を大きく裏切られる。魔力が前代未聞のゼロと言い渡されたのだ。
深い絶望とともに頭を抱えていたとき、森でポーション屋を営んでいるというくたびれた男が声をかける。路頭に迷っていたリクは、店で手伝いをしてはどうかという彼の誘いを受けることにする。
捨てかけた夢を拾ってもらった少年と、拾った男。ふたりが絆を深めていく、ポーション屋でのお話です。
一人称おじさんくたびれ男性×魔力ゼロ以外平凡青年のBLです。
カクヨムにも載せています。(完結済み)
魔王を倒した勇者の凱旋に、親友の俺だけが行かなかった理由
スノウマン(ユッキー)
BL
スラム育ちの二人は、スキルを得た事で魔王討伐に旅立つ勇者と彼の帰還を待つだけのただの親友となる。
勇者と親友の無自覚両片想いのじれったい恋愛の物語。
精霊の港 飛ばされたリーマン、体格のいい男たちに囲まれる
風見鶏ーKazamidoriー
BL
秋津ミナトは、うだつのあがらないサラリーマン。これといった特徴もなく、体力の衰えを感じてスポーツジムへ通うお年ごろ。
ある日帰り道で奇妙な精霊と出会い、追いかけた先は見たこともない場所。湊(ミナト)の前へ現れたのは黄金色にかがやく瞳をした美しい男だった。ロマス帝国という古代ローマに似た巨大な国が支配する世界で妖精に出会い、帝国の片鱗に触れてさらにはドラゴンまで、サラリーマンだった湊の人生は激変し異なる世界の動乱へ巻きこまれてゆく物語。
※この物語に登場する人物、名、団体、場所はすべてフィクションです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる