雪解けを待つ森で ―スヴェル森の鎮魂歌(レクイエム)―

なの

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第2章 森の守り手

Ep5:氷の棲家

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生きると決めたものの、現実はあまりにも過酷だった。

あの日、美しい夜明けを目にしてから、すでに三日が過ぎていた。
アシェルを支えているのは、雪を丸めて口に含んで得るわずかな水分と、あの黒い獣に「生きろ」と言われた、という事実だけだった。
空腹はとっくに感覚がなくなり、ただ胃のあたりが鈍く痛む。寒さは容赦なく体力を奪い、一歩進むごとに意識が遠のくのを感じた。

森は、夜の幻想的な貌とは裏腹に、昼間は厳しい沈黙を守っていた。
時折、枝から雪が落ちる音や、遠くで鳥が鳴く声がするくらいで、生き物の気配はほとんどない。
雪の上には、小さな獣の足跡が点々と続いているが、それが何なのかアシェルには見当もつかなかった。
ただ、自分と同じように、この厳しい冬を必死に生き抜こうとしている命がある。その事実だけが、アシェルの孤独をわずかに和らげてくれた。 

(あの獣は、どこにいるんだろう)

朦朧とする意識の中で、アシェルはあの黒い獣のことばかりを考えていた。

森の主。ヴァル、と名乗っただろうか……。
いや、あれは名前ではないのかもしれない。
このままでは死ぬ。助けを求めなければ。
だが、誰に?

村に戻るという選択肢は、もはやアシェルの頭にはなかった。ならば、頼れるのは――。

「……っ」

ついに足がもつれ、アシェルは雪の中に深く倒れ込んだ。もう起き上がる気力もない。冷たい雪が、今度こそ優しい眠りへと誘っているようだった。

――ああ、ここまでか。
生きると決めたのに、無様だな。自嘲の笑みが浮かび、そのまま意識を手放しかけた、その時。
ふと、鼻腔をくすぐる微かな匂いに気づいた。
それは、燻された木の匂い。そして、何かを焼く、香ばしい匂いだった。

「……!」

最後の力を振り絞り、アシェルは顔を上げた。
匂いのする方へ、這うようにして進む。数メートル進んだところで、木々の合間にそれを見つけた。

巨大な岩壁をくり抜くようにして作られた、大きな洞窟。その入り口からは、たしかに煙が立ち上っている。

誰かがいる。人が住んでいるのか?それとも、あの獣の……。

どちらにせよ、このままここで凍え死ぬよりはましだ。アシェルは震える足で立ち上がり、よろよろと洞窟の入り口へと向かった。

洞窟の中は、外の凍てつく空気とは別世界だった。
中央に設えられた石組みの炉で、ぱちぱちと音を立てて火が燃えている。
その暖かさに、思わずほう、と安堵のため息が漏れた。壁際には、干し肉や薬草らしきものが吊るされ、奥には乾いた毛皮が山と積まれている。明らかに、誰かがここで生活している証だった。

「……誰か、いますか」

かすれた声で呼びかけるが、返事はない。

その時、炉のそばに置かれた石の皿に、アシェルの目は釘付けになった。
皿の上には、こんがりと焼かれた肉が一切れ、湯気を立てている。

ごくり、と喉が鳴った。 

三日ぶりの、本物の食べ物。
理性が悲鳴を上げるより早く、アシェルの体は勝手に動いていた。
震える手でその肉を掴み、夢中でかぶりつく。獣の肉だろうか、少し硬いが、塩味が効いていて、信じられないほど美味しかった。
火傷しそうなほど熱い肉を、涙を流しながら貪り食う。生きている、という実感が、熱い肉と共に腹の底から湧き上がってきた。

どれくらいそうしていただろうか。肉を半分ほど食べ終えた時、背後で静かな足音がした。

振り返ると、そこに立っていたのは、月夜に見たあの黒い獣――ではなかった。

そこにいたのは、一人の男だった。

アシェルより少し年上に見える、青年と言っていいだろう。
黒曜石のような艶やかな黒髪が、無造さにごろりとした肩にかかっている。
彫りの深い顔立ちは驚くほど整っていたが、その表情は凍りついた湖面のように静かで、何も映していない。そして何より、アシェルの視線を奪ったのは、その瞳の色だった。

夜の闇の中で爛々と輝いていた、あの黄金の瞳。
間違いなかった。

「……おまえか」

男――ヴァルが、低い声で言った。感情の読めない声だったが、その瞳には明らかな不快感が浮かんでいる。

「なぜ、ここにいる。帰れと言ったはずだ」

「か、帰る場所は……」

「俺の知ったことではない。それに、人の子を住まわせる場所はここにはない」

ヴァルはじろり、とアシェルが食べていた肉に視線を落とした。
その視線に、アシェルはびくりと肩を震わせる。そうだ、自分は、彼の食べ物を盗んだのだ。

「す、すみません……!あまりにもお腹が空いていて……」

「……それも、どうでもいい」

ヴァルはそう吐き捨てると、アシェルのことなど意にも介さない様子で、炉のそばに腰を下ろし、火の番を始めた。
その横顔は、まるで精巧な氷の彫刻のようだ。アシェルは、どうすればいいのか分からず、その場に立ち尽くすしかなかった。

追い出される。そう思った。
しかし、ヴァルは「出て行け」とは言わなかった。

ただ、そこにいない者として扱っているだけだ。

無視、というよりは、無関心。アシェルという存在が、彼の世界には映っていないかのようだった。

その沈黙が、アシェルにはかえって好都合だった。
追い出されないのなら、ここにいられる。
炉のそばにいれば、凍え死ぬことはない。アシェルは、ヴァルから少し離れた壁際にそっと身を寄せ、膝を抱えた。

「…………」

ヴァルは何も言わない。
時折、薪をくべる乾いた音がするだけだ。
アシェルは、燃え盛る炎をじっと見つめた。村では、火は暖を取るためのものであり、食事を作るためのものであり、そして時には、魔物を追い払うためのものだった。

だが、今、この洞窟で揺らめく炎は、ただ静かに、二人の間に存在している。
外では、再び雪が降り始めたようだった。風の唸る音が、洞窟の入り口で低く響く。

ヴァルはアシェルに背を向けたまま、壁際に積まれた毛皮の一枚を、無造作に放り投げた。それはアシェルの足元に、音もなく落ちる。

「……!」

アシェルは驚いてヴァルの背中を見た。彼は相変わらず、こちらを見ようともしない。
その無言の行いが、何を意味するのか。施しか、気まぐれか。

それとも、ただ邪魔なものをどかしただけか。
分からなかった。

けれど、アシェルはその毛皮を拾い上げ、そっと身体に巻き付けた。
ごわごわとした硬い毛皮だったが、信じられないほど温かかった。

それは、ヴァルの匂いがした。月夜に感じた、あの懐かしい匂い。

拒絶されながら、拒絶しきられない、奇妙な同居生活。
それは、恐れから理解へと至る、長い日々の始まりだった。

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