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第2章 森の守り手
Ep6:森の掟
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奇妙な同居生活が始まってから、十日が過ぎた。
ヴァルはアシェルをいないものとして扱い続け、言葉を交わすことはほとんどない。
食事は、ヴァルが狩ってきた獲物や、彼がどこからか採ってくる木の実や根菜を、ただ黙って分け与えられるだけだった。
それでも、アシェルにとっては生まれて初めての、飢える心配のない安定した日々だった。
洞窟の暮らしにも少しずつ慣れてきた。
ヴァルは夜明け前に起き、夜が完全に訪れると眠りにつく。昼間のほとんどは洞窟の外で過ごしているようだった。
アシェルはヴァルの留守中に、洞窟の中を掃除したり、薪を集めたり、自分にできることを探して動いた。それはヴァルのためというより、何もしないでただ恵みを享受しているだけの自分が、たまらなく無力に感じられたからだ。
「……あの」
ある日の夕暮れ時、狩りから戻ってきたヴァルに、アシェルは意を決して声をかけた。
ヴァルは仕留めたばかりの雪ウサギを無造作に床に置き、訝しげな黄金の瞳をアシェルに向ける。
「俺にも、何か、できることはないですか。
火の番や薪拾いだけじゃなくて……自分の食べる分くらい、自分で獲れるようになりたい」
ヴァルはしばらく無言でアシェルを見つめていたが、やがてふいと顔をそむけ、短く答えた。
「……好きにしろ」
それは、あの日と同じ言葉だった。突き放しているようでいて、完全な拒絶ではない。アシェルは、その言葉を許可だと解釈することにした。
翌日から、アシェルの「学び」の日々が始まった。
ヴァルが何かを丁寧に教えてくれるわけではない。
彼はただ、いつも通り森を歩き回り、アシェルはその数歩後ろを必死についていくだけだ。
ヴァルは驚くほど静かに森を歩いた。ほとんど足音を立てず、まるで森の一部であるかのように、木々の間を滑るように進んでいく。
アシェルが息を切らし、何度も枝に服を引っかけているのとは対照的だった。
「気配を消せ。お前はやかましすぎる」
初めてヴァルから投げかけられた、指導らしい言葉だった。
やかましい、と言われたことには少し傷ついたが、同時に、ヴァルが自分を認識してくれているという事実に、アシェルの胸は小さく高鳴った。
それからアシェルは、ヴァルの歩き方を必死に真似た。雪の上に残る彼の足跡を正確に辿り、呼吸を殺し、風の音や木々のざわめきに意識を溶け込ませるように集中する。
森は、ただ歩くだけでも多くのことを教えてくれた。ヴァルは時折立ち止まり、雪の下に埋もれた特定の草の根を掘り出したり、木の幹に生えたキノコをナイフで削ぎ落したりした。
それは苦味があるが滋養のある食料になったり、傷に効く薬になったりした。
アシェルは必死にその形と場所を記憶に刻みつける。村ではただの雑草や毒キノコだと教えられていたものが、ここでは貴重な恵みだった。
狩りの仕方も、見て覚えるしかなかった。
ヴァルは罠を仕掛けた。それは、しなやかな若木と蔓を使った、驚くほど単純な作りの罠だった。
「なぜ、もっとたくさん仕掛けないんですか?そうすれば、もっと獲物が獲れるかもしれないのに」
ある時、アシェルがそう尋ねると、ヴァルは初めて、呆れたような、軽蔑するような目でアシェルを見た。
「なぜ、そんな必要がある」
「え……?」
「今日食べる分は、ウサギ一羽で足りる。罠は一つで十分だ」
「でも、もし獲れなかったら……」
「その時は、その時だ。
森が何も与えてくれぬ日もある。腹が減るだけだ」
そのことも、森の理(ことわり)だ、とヴァルの目は語っていた。
アシェルには、その考え方がすぐには理解できなかった。村では、人々は常に飢えを恐れ、少しでも多くの食料を蓄えようと躍起になっていた。
冬を越すために、奪い合い、騙し合うことさえあった。
だが、ヴァルは違う――。
彼は、明日を憂うことなく、ただ「今日」を生きるために必要な分だけを森から受け取っている。
その意味をアシェルが本当の意味で理解したのは、それから数日後のことだった。
その日、ヴァルが仕掛けた罠には、小柄な雪鹿がかかっていた。
アシェルにとっては、ウサギよりもずっと大きなご馳走に見えた。これで数日は食うに困らない、と喜んだアシェルに、ヴァルは氷のように冷たい声で言った。
「その鹿は、まだ小さい。乳の匂いがする」
ヴァルは躊躇なく罠を外し、怯えて震える子鹿を解放した。子鹿は一目散に森の奥へと駆けていく。
「なっ……!どうして……!」
アシェルは思わず叫んだ。信じられない光景だった。絶好の獲物を、なぜ。
「あれを殺せば、母親も死ぬ。親とはぐれた子は、長くは生きられない。
それに、まだ小さい個体を獲れば、次の年にはもう、この森に鹿はいなくなる」
ヴァルの静かな声が、アシェルの心を貫いた。
「森の掟は、一つだけだ」
ヴァルは、解放した子鹿が消えていった森の奥を見つめながら言った。
「――奪いすぎるな」
その言葉は、まるで雷のようにアシェルの全身を打ちのめした。
村人たちは、常に奪ってきた。森から、土地から、そして時には、人から。
冬を生き延びるためだと信じ、百年に一度、人の命さえも奪ってきた。それはすべて、自分たちが生きるためという大義名分のもとに行われてきた、際限のない略奪だった。
だが、森の主であるヴァルは、決して奪いすぎない。
必要な分だけを、感謝と共に受け取る。
未来のために、森が生き続けるために、今日の欲望を抑制する。それが、この厳しい自然の中で生きる者たちの、暗黙のルール。
アシェルはようやく理解した。自分は、この森で生きるということはどういうことなのか、その入り口にようやく立ったのだと。
その日、二人の夕食は、アシェルが必死になって見つけた香りの良い木の根と、雪の下から掘り出した凍った木の実だけだった。
決してご馳走ではなかったが、アシェルは、その食事が今までのどんな肉よりも温かく、滋味深いものに感じられた。
奪いすぎないこと。与えられたものだけで、足るを知ること。
それは、生贄としてすべてを奪われるはずだった少年が、森から教わった最初の、そして最も尊い掟だった。
ヴァルはアシェルをいないものとして扱い続け、言葉を交わすことはほとんどない。
食事は、ヴァルが狩ってきた獲物や、彼がどこからか採ってくる木の実や根菜を、ただ黙って分け与えられるだけだった。
それでも、アシェルにとっては生まれて初めての、飢える心配のない安定した日々だった。
洞窟の暮らしにも少しずつ慣れてきた。
ヴァルは夜明け前に起き、夜が完全に訪れると眠りにつく。昼間のほとんどは洞窟の外で過ごしているようだった。
アシェルはヴァルの留守中に、洞窟の中を掃除したり、薪を集めたり、自分にできることを探して動いた。それはヴァルのためというより、何もしないでただ恵みを享受しているだけの自分が、たまらなく無力に感じられたからだ。
「……あの」
ある日の夕暮れ時、狩りから戻ってきたヴァルに、アシェルは意を決して声をかけた。
ヴァルは仕留めたばかりの雪ウサギを無造作に床に置き、訝しげな黄金の瞳をアシェルに向ける。
「俺にも、何か、できることはないですか。
火の番や薪拾いだけじゃなくて……自分の食べる分くらい、自分で獲れるようになりたい」
ヴァルはしばらく無言でアシェルを見つめていたが、やがてふいと顔をそむけ、短く答えた。
「……好きにしろ」
それは、あの日と同じ言葉だった。突き放しているようでいて、完全な拒絶ではない。アシェルは、その言葉を許可だと解釈することにした。
翌日から、アシェルの「学び」の日々が始まった。
ヴァルが何かを丁寧に教えてくれるわけではない。
彼はただ、いつも通り森を歩き回り、アシェルはその数歩後ろを必死についていくだけだ。
ヴァルは驚くほど静かに森を歩いた。ほとんど足音を立てず、まるで森の一部であるかのように、木々の間を滑るように進んでいく。
アシェルが息を切らし、何度も枝に服を引っかけているのとは対照的だった。
「気配を消せ。お前はやかましすぎる」
初めてヴァルから投げかけられた、指導らしい言葉だった。
やかましい、と言われたことには少し傷ついたが、同時に、ヴァルが自分を認識してくれているという事実に、アシェルの胸は小さく高鳴った。
それからアシェルは、ヴァルの歩き方を必死に真似た。雪の上に残る彼の足跡を正確に辿り、呼吸を殺し、風の音や木々のざわめきに意識を溶け込ませるように集中する。
森は、ただ歩くだけでも多くのことを教えてくれた。ヴァルは時折立ち止まり、雪の下に埋もれた特定の草の根を掘り出したり、木の幹に生えたキノコをナイフで削ぎ落したりした。
それは苦味があるが滋養のある食料になったり、傷に効く薬になったりした。
アシェルは必死にその形と場所を記憶に刻みつける。村ではただの雑草や毒キノコだと教えられていたものが、ここでは貴重な恵みだった。
狩りの仕方も、見て覚えるしかなかった。
ヴァルは罠を仕掛けた。それは、しなやかな若木と蔓を使った、驚くほど単純な作りの罠だった。
「なぜ、もっとたくさん仕掛けないんですか?そうすれば、もっと獲物が獲れるかもしれないのに」
ある時、アシェルがそう尋ねると、ヴァルは初めて、呆れたような、軽蔑するような目でアシェルを見た。
「なぜ、そんな必要がある」
「え……?」
「今日食べる分は、ウサギ一羽で足りる。罠は一つで十分だ」
「でも、もし獲れなかったら……」
「その時は、その時だ。
森が何も与えてくれぬ日もある。腹が減るだけだ」
そのことも、森の理(ことわり)だ、とヴァルの目は語っていた。
アシェルには、その考え方がすぐには理解できなかった。村では、人々は常に飢えを恐れ、少しでも多くの食料を蓄えようと躍起になっていた。
冬を越すために、奪い合い、騙し合うことさえあった。
だが、ヴァルは違う――。
彼は、明日を憂うことなく、ただ「今日」を生きるために必要な分だけを森から受け取っている。
その意味をアシェルが本当の意味で理解したのは、それから数日後のことだった。
その日、ヴァルが仕掛けた罠には、小柄な雪鹿がかかっていた。
アシェルにとっては、ウサギよりもずっと大きなご馳走に見えた。これで数日は食うに困らない、と喜んだアシェルに、ヴァルは氷のように冷たい声で言った。
「その鹿は、まだ小さい。乳の匂いがする」
ヴァルは躊躇なく罠を外し、怯えて震える子鹿を解放した。子鹿は一目散に森の奥へと駆けていく。
「なっ……!どうして……!」
アシェルは思わず叫んだ。信じられない光景だった。絶好の獲物を、なぜ。
「あれを殺せば、母親も死ぬ。親とはぐれた子は、長くは生きられない。
それに、まだ小さい個体を獲れば、次の年にはもう、この森に鹿はいなくなる」
ヴァルの静かな声が、アシェルの心を貫いた。
「森の掟は、一つだけだ」
ヴァルは、解放した子鹿が消えていった森の奥を見つめながら言った。
「――奪いすぎるな」
その言葉は、まるで雷のようにアシェルの全身を打ちのめした。
村人たちは、常に奪ってきた。森から、土地から、そして時には、人から。
冬を生き延びるためだと信じ、百年に一度、人の命さえも奪ってきた。それはすべて、自分たちが生きるためという大義名分のもとに行われてきた、際限のない略奪だった。
だが、森の主であるヴァルは、決して奪いすぎない。
必要な分だけを、感謝と共に受け取る。
未来のために、森が生き続けるために、今日の欲望を抑制する。それが、この厳しい自然の中で生きる者たちの、暗黙のルール。
アシェルはようやく理解した。自分は、この森で生きるということはどういうことなのか、その入り口にようやく立ったのだと。
その日、二人の夕食は、アシェルが必死になって見つけた香りの良い木の根と、雪の下から掘り出した凍った木の実だけだった。
決してご馳走ではなかったが、アシェルは、その食事が今までのどんな肉よりも温かく、滋味深いものに感じられた。
奪いすぎないこと。与えられたものだけで、足るを知ること。
それは、生贄としてすべてを奪われるはずだった少年が、森から教わった最初の、そして最も尊い掟だった。
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