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第3章 氷と火の夜
Ep12:火の揺らめき
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「グルルル……ァ……」
ヴァルの喉から、獣の唸り声と人の呻き声が混じったようなくぐもった音が漏れる。赤く染まった黄金の瞳は、もうアシェルの姿を捉えていなかった。
憎しみの対象である「人間」という記号だけを映し、百年の時を超えた憤怒と悲しみに燃えている。鋭く伸びた爪が、洞窟の硬い岩肌をがり、と引っ掻き、耳障りな音を立てた。
目の前にいるのは、もはやアシェルが知るヴァルではなかった。憎悪と過去のトラウマに支配された、一匹の傷ついた獣。その圧倒的な殺気を前に、アシェルの身体は本能的な恐怖で凍りついていた。
逃げろ、と全身の細胞が叫んでいる。
しかし、アシェルの足は、まるで地面に根を生やしたかのように動かなかった。
(俺が、逃げたら……?)
ここで自分が背を向ければ、ヴァルはまた一人になる。
彼が抱く「人間は裏切る」という絶望を、この身をもって証明してしまうことになる。それは、死ぬことよりも恐ろしいことのように思えた。
この人は、百年間、たった一人でこの森を守ってきたのだ。仲間を奪われ、家族を殺され、それでもなお、この場所を守り続けてきた。その永い孤独を、ほんの少しでも知ってしまった今、どうして彼を見捨てることができようか。
「……ヴァル」
震える声で、彼の名前を呼んだ。
ヴァルの動きが、ぴたりと止まる。焦点の合っていなかった瞳が、わずかにアシェルの方を向いた。
「俺は、ここにいる」
アシェルは、一歩、また一歩と、ゆっくりヴァルに近づいていく。まるで、怯えた動物を刺激しないように。
「俺は、あんたの仲間を殺した人間じゃない。
あんたの森を焼いた人間でもない」
ヴァルの喉が、再び低く唸る。その瞳には、激しい葛藤の色が浮かんでいた。理性と本能が、彼の中で激しくせめぎ合っているのが分かる。
「俺は、アシェルだ。あんたが、喰わずに生かしてくれた、ただのアシェルだ」
あと、三歩。二人の間には、もう手を伸ばせば届くほどの距離しかない。ヴァルの荒い息が、アシェルの顔にかかる。血と、獣の匂い。
「……信じて、ほしい」
その言葉が、最後の引き金になったのかもしれない。
あるいは、アシェルが恐怖を乗り越えて近づいてきたという事実そのものが、彼の心の何かを揺さぶったのかもしれない。
「グ……アアアアアッ!」
ヴァルは絶叫すると、自らの頭を抱えるようにして、その場に崩れ落ちた。黒い靄が嵐のように彼の身体を取り巻き、そして、徐々に薄れていく。鋭く伸びていた爪は人の指の形に戻り、赤く染まっていた瞳は、元の美しい黄金色を取り戻していた。
「はぁ……っ、はぁ……」
獣化が解けたヴァルは、まるで長い悪夢から覚めたかのように、荒い呼吸を繰り返していた。その額には、びっしりと汗が浮かんでいる。
「……なぜ、逃げなかった」
かろうじて、ヴァルが絞り出した声は、ひどくかすれていた。
「……お前も、人間だろう。俺が、何をするか……」
「怖かった」
アシェルは、正直に答えた。
「すごく、怖かった。
でも……あんたを一人にして、逃げる方が、もっと怖かった」
その答えを聞いたヴァルの瞳が、大きく見開かれた。そこには、驚きと、信じられないものを見るような戸惑い、そして、ほんのわずかな救いの光が宿っていた。
アシェルは、吸い寄せられるようにヴァルの前に膝をつくと、そっと、ためらいがちに、その震える手を彼の頬に伸ばした。
ヴァルの肩がびくりと揺れ、反射的に身を引こうとする。アシェルは、その動きに怯むことなく、さらにゆっくりと手を近づけた。
そして、アシェルの指先が、初めてヴァルの肌に触れた。
ざらりとした、男らしい肌の感触。少しだけ伸びた髭の、硬い感触。そして、彼の体温。
「……温かい」
思わず、言葉が漏れた。
ヴァルは、まるで生まれて初めて何かに触れられたかのように、身体を硬直させていた。だが、アシェルが逃げないと分かると、その身体から少しずつ力が抜けていく。
アシェルは、壊れやすい宝物に触れるように、その頬をそっと撫でた。
村にいた頃、誰にも触れられず、誰にも触れることのなかったこの手が、今、誰かの温もりに触れている。その事実が、信じられないほど愛おしかった。
ヴァルは、何も言わなかった。
ただ、その黄金の瞳で、じっとアシェルのことを見つめている。百年の孤独を宿した瞳が、今、目の前の小さな温もりだけを、確かに映していた。
やがて、ヴァルがおずおずと、その大きな手を上げた。
そして、アシェルの頬に触れる、その寸前で、ためらうように動きを止める。まるで、触れ方が分からない、といったように。
アシェルは、そのためらいがたまらなく愛おしくて、自らその手に頬を寄せた。
ごつごつとして、傷だらけの手。氷狼との戦いで、自分を守ってくれた手。その無骨な手のひらが、アシェルの頬を包み込む。
言葉は、もう必要なかった。
炉の火が揺らめき、二人の影を一つに結ぶ。
互いの孤独に触れ、その温もりを知ってしまった二人の魂は、もう二度と、離れることはできないだろう。
永い冬の夜が、ようやく、明けようとしていた。
ヴァルの喉から、獣の唸り声と人の呻き声が混じったようなくぐもった音が漏れる。赤く染まった黄金の瞳は、もうアシェルの姿を捉えていなかった。
憎しみの対象である「人間」という記号だけを映し、百年の時を超えた憤怒と悲しみに燃えている。鋭く伸びた爪が、洞窟の硬い岩肌をがり、と引っ掻き、耳障りな音を立てた。
目の前にいるのは、もはやアシェルが知るヴァルではなかった。憎悪と過去のトラウマに支配された、一匹の傷ついた獣。その圧倒的な殺気を前に、アシェルの身体は本能的な恐怖で凍りついていた。
逃げろ、と全身の細胞が叫んでいる。
しかし、アシェルの足は、まるで地面に根を生やしたかのように動かなかった。
(俺が、逃げたら……?)
ここで自分が背を向ければ、ヴァルはまた一人になる。
彼が抱く「人間は裏切る」という絶望を、この身をもって証明してしまうことになる。それは、死ぬことよりも恐ろしいことのように思えた。
この人は、百年間、たった一人でこの森を守ってきたのだ。仲間を奪われ、家族を殺され、それでもなお、この場所を守り続けてきた。その永い孤独を、ほんの少しでも知ってしまった今、どうして彼を見捨てることができようか。
「……ヴァル」
震える声で、彼の名前を呼んだ。
ヴァルの動きが、ぴたりと止まる。焦点の合っていなかった瞳が、わずかにアシェルの方を向いた。
「俺は、ここにいる」
アシェルは、一歩、また一歩と、ゆっくりヴァルに近づいていく。まるで、怯えた動物を刺激しないように。
「俺は、あんたの仲間を殺した人間じゃない。
あんたの森を焼いた人間でもない」
ヴァルの喉が、再び低く唸る。その瞳には、激しい葛藤の色が浮かんでいた。理性と本能が、彼の中で激しくせめぎ合っているのが分かる。
「俺は、アシェルだ。あんたが、喰わずに生かしてくれた、ただのアシェルだ」
あと、三歩。二人の間には、もう手を伸ばせば届くほどの距離しかない。ヴァルの荒い息が、アシェルの顔にかかる。血と、獣の匂い。
「……信じて、ほしい」
その言葉が、最後の引き金になったのかもしれない。
あるいは、アシェルが恐怖を乗り越えて近づいてきたという事実そのものが、彼の心の何かを揺さぶったのかもしれない。
「グ……アアアアアッ!」
ヴァルは絶叫すると、自らの頭を抱えるようにして、その場に崩れ落ちた。黒い靄が嵐のように彼の身体を取り巻き、そして、徐々に薄れていく。鋭く伸びていた爪は人の指の形に戻り、赤く染まっていた瞳は、元の美しい黄金色を取り戻していた。
「はぁ……っ、はぁ……」
獣化が解けたヴァルは、まるで長い悪夢から覚めたかのように、荒い呼吸を繰り返していた。その額には、びっしりと汗が浮かんでいる。
「……なぜ、逃げなかった」
かろうじて、ヴァルが絞り出した声は、ひどくかすれていた。
「……お前も、人間だろう。俺が、何をするか……」
「怖かった」
アシェルは、正直に答えた。
「すごく、怖かった。
でも……あんたを一人にして、逃げる方が、もっと怖かった」
その答えを聞いたヴァルの瞳が、大きく見開かれた。そこには、驚きと、信じられないものを見るような戸惑い、そして、ほんのわずかな救いの光が宿っていた。
アシェルは、吸い寄せられるようにヴァルの前に膝をつくと、そっと、ためらいがちに、その震える手を彼の頬に伸ばした。
ヴァルの肩がびくりと揺れ、反射的に身を引こうとする。アシェルは、その動きに怯むことなく、さらにゆっくりと手を近づけた。
そして、アシェルの指先が、初めてヴァルの肌に触れた。
ざらりとした、男らしい肌の感触。少しだけ伸びた髭の、硬い感触。そして、彼の体温。
「……温かい」
思わず、言葉が漏れた。
ヴァルは、まるで生まれて初めて何かに触れられたかのように、身体を硬直させていた。だが、アシェルが逃げないと分かると、その身体から少しずつ力が抜けていく。
アシェルは、壊れやすい宝物に触れるように、その頬をそっと撫でた。
村にいた頃、誰にも触れられず、誰にも触れることのなかったこの手が、今、誰かの温もりに触れている。その事実が、信じられないほど愛おしかった。
ヴァルは、何も言わなかった。
ただ、その黄金の瞳で、じっとアシェルのことを見つめている。百年の孤独を宿した瞳が、今、目の前の小さな温もりだけを、確かに映していた。
やがて、ヴァルがおずおずと、その大きな手を上げた。
そして、アシェルの頬に触れる、その寸前で、ためらうように動きを止める。まるで、触れ方が分からない、といったように。
アシェルは、そのためらいがたまらなく愛おしくて、自らその手に頬を寄せた。
ごつごつとして、傷だらけの手。氷狼との戦いで、自分を守ってくれた手。その無骨な手のひらが、アシェルの頬を包み込む。
言葉は、もう必要なかった。
炉の火が揺らめき、二人の影を一つに結ぶ。
互いの孤独に触れ、その温もりを知ってしまった二人の魂は、もう二度と、離れることはできないだろう。
永い冬の夜が、ようやく、明けようとしていた。
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