婚約破棄、どう見ても私の理想なんですが?

夏乃みのり

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「そこ! 右です、レオニード様! その巨大なタンスを、部屋の隅まで移動させてください!」

「……ん」

「素晴らしい! なんと軽やかな足取り! 床が軋む音さえ、心地よいバスのように響きますわ!」

グライフェン邸の大広間に、私の指示と、重い家具が移動する地響きが交錯していた。

大改造計画が始まって数時間。

屋敷の中は、戦場のような……いや、祭り前夜のような熱気に包まれていた。

「ひぃぃっ! だ、旦那様がタンスを片手で……!」

「信じられない……あんな重い物を……」

集められた数少ない使用人たちが、部屋の隅で震えながら囁き合っている。

料理番の老婆と、まだ若いメイドが一人。

それに執事のギルバート。

たったこれだけの人員で、この広大な屋敷を維持していたのだから、荒れるのも無理はない。

彼らは最初、私が「掃除をする」と言い出した時、私が気まぐれで彼らを虐めるのだと思い込み、怯えきっていた。

だが、今の私は彼らに構っている暇はない。

「あなたたちは、そこの窓枠を拭いてください! 水拭きの後は、必ず乾拭きを! ガラスの曇りは心の曇りですわよ!」

「は、はいぃっ!」

使用人たちは、私の剣幕(とレオニード様の無言の圧力)に押され、必死に手を動かし始めた。

私は頭に三角巾(カーテンの切れ端)を巻き、自ら雑巾を手に床を磨いていた。

貴族の令嬢にあるまじき姿?

知ったことではない。

私は「快適な住環境」と「資産価値の向上」のためなら、ドレスで床を這いつくばることも厭わない女だ。

「……終わったぞ」

背後から、重低音が降ってくる。

振り返ると、レオニード様が仁王立ちしていた。

額には汗が滲み、まくったシャツの袖からは、パンプアップされた前腕が露わになっている。

「キャーーーーッ!」

私は思わず黄色い声を上げた。

レオニード様がビクリと身を引く。

「な、なんだ……? 虫でもいたか?」

「いいえ! その血管! 労働によって浮き出た血管が、あまりにもセクシーでしたので! ありがとうございます!」

「……?」

レオニード様は理解不能といった顔で首を傾げた。

だが、その表情もどこか満更でもなさそうだ。

これまで「怖い」「呪われている」と避けられてきた彼にとって、たとえ変な方向性であっても、真っ向から肯定されるのは初めての経験なのかもしれない。

「次はあちらのソファをお願いします! その上腕三頭筋の収縮を、私に見せつけてくださいませ!」

「……わかった(よくわからんが)」

レオニード様は黙々と次の家具へ向かう。

その背中は広く、頼もしい。

まさに『生ける重機』。

彼一人で、屈強な男十人分の働きをしている。

(本当に、なんて優良物件なのかしら……!)

私は雑巾がけのスピードを上げながら、ニヤニヤが止まらなかった。



数時間が経過し、日は完全に沈んでいた。

屋敷の半分ほどは見違えるように綺麗になり、空気も澄んでいる。

「ふぅ……本日はこれくらいにしておきましょうか」

私は腰を叩きながら立ち上がった。

さすがに疲れた。

空腹で目が回りそうだ。

「お、お疲れ様でございました……奥様……」

ギルバートが、よろよろと近づいてくる。

その目には、恐怖ではなく、畏敬の念が宿っていた。

「まさか、たった一日でここまで綺麗になるとは……。長年、薄汚れていた屋敷が、まるで生き返ったようです」

「これくらい当然ですわ。明日は庭の手入れをしますから、覚悟しておいてくださいね」

「は、はい……! 老骨に鞭打って頑張りますじゃ」

使用人たちも、疲労困憊だが、その表情は明るかった。

「達成感」というやつだろう。

みんなで汗を流して働いた後の連帯感が、この即席チームに芽生え始めていた。

「では、夕食の準備を……と言いたいところですが、食材はあるのかしら?」

私が厨房の方を見ると、料理番の老婆が申し訳なさそうに縮こまった。

「も、申し訳ございません……。旦那様がお一人でしたので、保存食の干し肉と、少しの野菜しか……」

「なるほど」

まあ、予想通りだ。

私は腕まくりをした。

「では、私が何か作りましょう。ある物でパパッと作るのも、主婦(仮)の腕の見せ所ですわ」

「ええっ!? お、奥様が料理を!?」

「厨房に入らせていただきます。レオニード様は、食堂でお待ちください」

私は唖然とする使用人たちを引き連れ、厨房へと消えた。



三十分後。

食堂のテーブルには、湯気を立てるスープと、炒め物が並んでいた。

干し肉を細かく刻んで戻し、野菜クズと一緒に煮込んだ特製スープ。

そして、庭に生えていた野草(食べられる種類を見分けた)と干し肉のガーリック炒めだ。

質素だが、今のこの屋敷で出せる最高のディナーである。

「……これを、お前が作ったのか?」

レオニード様が、皿を見つめて呟く。

「はい。お口に合うか分かりませんが」

「……いただきます」

彼は不器用にスプーンを握り、スープを一口飲んだ。

ゴクリ。

喉仏が動くのを、私はガン見する。

「…………」

無言。

長い沈黙。

やはり、貴族の舌には合わなかっただろうか?

ロベルト殿下なら、「こんな貧乏くさい料理が食えるか!」と皿をひっくり返していただろう。

レオニード様が、ゆっくりと顔を上げた。

その瞳が、わずかに揺れている。

「……美味い」

「え?」

「温かくて……味が、する」

その言葉は、とても重かった。

「いつも冷たい干し肉を齧るだけだった。……こんなに温かい食事は、久しぶりだ」

彼はそう言うと、猛烈な勢いでスープを飲み干し、炒め物を掻き込み始めた。

ガツガツと食べるその姿は、野性的でありながら、どこか子供のようでもあった。

(……この人、今までどんな孤独な食生活を送っていたの?)

「呪われた公爵」というレッテル。

誰も寄り付かない屋敷。

使用人たちとも距離を置き、一人で冷たい食事を摂る日々。

想像しただけで、胸が締め付けられる……ことはないが(私は現実主義なので)、義憤に駆られた。

「おかわり、ありますわよ」

私は鍋ごとテーブルにドンと置いた。

「もっと食べてください。その筋肉を維持するには、タンパク質とカロリーが必要です! 遠慮なく! さあ!」

「……あ、ああ」

レオニード様は驚きつつも、鍋に手を伸ばした。

使用人たちも、恐る恐るではあったが、私の勧めで一緒に食事を摂った。

奇妙な晩餐会。

けれど、そこには確かに温かい空気が流れていた。



食後。

私は一人、テラスに出て夜風に当たっていた。

さすがに動きすぎて、体が熱い。

「ふぅ……」

王都の夜会よりも、ずっと充実した一日だった。

あのバカ王子の顔を見なくて済むだけで、これほどストレスフリーだとは。

「……おい」

背後から声をかけられた。

振り返ると、レオニード様が立っていた。

その手には、湯気の立つマグカップが二つ握られている。

「……茶だ」

彼は短くそう言い、片方のカップを私に突き出した。

「え? レオニード様が、淹れてくださったのですか?」

「……ギルバートは片付けで忙しそうだったからな」

彼は視線を逸らしながら、ボソボソと言う。

「毒見はしてある。……安心しろ」

「毒なんて疑っていませんわ」

私は苦笑しながらカップを受け取った。

無骨な陶器のカップ。

中には、色の濃い紅茶が入っている。

一口飲むと、渋みが強烈に広がった。

蒸らしすぎだ。

茶葉の量も多すぎる。

王宮で出される最高級の紅茶とは比べるべくもない、失敗作の味。

けれど。

「……美味しいです」

私は嘘偽りなく言った。

「体が温まりますわ」

「……そうか」

レオニード様は、安堵したように息を吐いた。

そして、隣に来て、手すりに寄りかかる。

月明かりに照らされた彼の横顔は、昼間の「魔王」のような恐ろしさは消え、どこか穏やかに見えた。

彼は何も言わない。

ただ、隣で黙って茶を飲んでいる。

この沈黙が、不思議と心地よかった。

ロベルト殿下なら、自分の自慢話か、誰かの悪口を延々と喋り続けていただろう。

レオニード様は、無口だ。

けれど、その無言の中には、「私を気遣う気持ち」が含まれている気がした。

(意外と……いえ、かなり『良い男』なんじゃないかしら?)

私はカップを両手で包み込みながら、彼を見上げた。

その時、レオニード様が口を開いた。

「……あの」

「はい?」

「……茶、熱くないか?」

「ええ、少し」

「……そうか」

会話が続かない。

不器用すぎる。

でも、それが愛おしい。

私は、この不器用な魔公爵様を、心から「攻略」してあげたくなっていた。

「レオニード様」

「ん?」

「明日も、よろしくお願いしますね。私の『共犯者』として」

「……共犯者?」

「ええ。この屋敷を、世界一快適な場所にするための共犯者です」

私がニッと笑うと、レオニード様は一瞬ポカンとして、それから、本当に微かに、口の端を持ち上げた。

「……ああ。悪くない響きだ」

それは、彼が見せた初めての、本当の笑顔だった。

(……破壊力ッ!!)

私は心臓を抑えるのに必死だった。

筋肉だけじゃない。

笑顔まで国宝級だなんて、聞いてない!

これは、早急に契約書(婚姻届)を固めなければならない。

私は残りの渋い紅茶を飲み干し、決意を新たにしたのだった。
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