婚約破棄、どう見ても私の理想なんですが?

夏乃みのり

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小鳥のさえずりで目を覚ます。

そんな優雅な朝を迎えたのは、いつぶりだろうか。

王都の屋敷では、毎朝のようにロベルト殿下からの「呼び出し状(という名のワガママ要請)」を持った使いの者が鐘を鳴らしていたし、学院時代は取り巻き令嬢たちの甲高い笑い声で起こされていた。

それに比べて、この辺境のなんと静かなことか。

「……ふあぁ」

私は硬いベッドの上で大きく伸びをした。

昨日の大掃除のせいで、全身が悲鳴を上げている。

筋肉痛だ。

だが、この痛みさえも心地よい。

「労働の喜び」というやつだろうか。

いや、単に昨日拝んだレオニード様の筋肉の残像が、鎮痛剤代わりになっているだけかもしれない。

私はカーテン(昨日洗濯して干しておいたもの)を開け、窓の外を見た。

東の空が白み始めている。

冷たく澄んだ空気が、火照った頬を撫でる。

そして。

私の視界に、とんでもない『絶景』が飛び込んできた。

「…………ッ!!」

私は無言で窓枠を掴み、身を乗り出した。

庭の開けた場所で、レオニード様が剣を振っていたのだ。

上半身は裸である。

繰り返す。

上半身は、裸である。

「神よ……感謝します」

私は思わず胸の前で手を組んだ。

朝露に濡れた芝生の上。

朝日を浴びて輝く汗。

巨大な鉄塊のような大剣を、まるで指揮棒のように軽々と振り回す姿。

広背筋が動くたびに、背中に鬼の顔のような凹凸が浮かび上がる。

振り下ろす瞬間の、上腕三頭筋の鋭い収縮。

引き上げる時の、上腕二頭筋の盛り上がり。

そして何より、腹斜筋から腹直筋にかけての、完璧なシックスパック……いや、エイトパックか?

芸術だ。

ルーブル美術館に展示すべきだ。

いや、国宝に指定して、拝観料を取るべきだ。

「はっ……! いけない、涎が」

私は慌てて口元を拭った。

これはタダで見ている場合ではない。

特等席で見なければ。

私は寝間着の上にショールを羽織り、音を立てないように部屋を飛び出した。



「……ふぅッ!」

レオニード様が、鋭い呼気と共に剣を振り下ろす。

ブンッ! という風切り音が、数メートル離れた私の場所まで届く。

私は庭の木の影から、その様子を観察していた。

(素晴らしい集中力……。私が近づいたことに気づいていない?)

いや、気づいていないフリをしているだけかもしれない。

彼の一挙手一投足が、教科書のように洗練されている。

無駄な力が入っていないのに、インパクトの瞬間に爆発的なパワーが生まれているのだ。

あれなら、ドラゴンだって一撃で叩き斬れるだろう。

一通りの素振りを終えたのか、レオニード様が動きを止め、深く息を吐いた。

そして、手近な布で汗を拭う。

その無防備な仕草に、私の心拍数が跳ね上がる。

「……そこにいるのは、誰だ」

不意に、低い声が飛んできた。

背中を向けたまま、彼は気づいていたのだ。

「申し訳ございません。覗き見するつもりはなかったのですが」

私は木の影から姿を現した。

レオニード様が振り返る。

私だと認識した瞬間、彼の顔が一瞬強張った。

そして、慌てて落ちていたシャツを拾い、隠すように体に当てた。

「……エ、エーミールか。……すまない、見苦しいものを」

「見苦しい!? とんでもない!」

私は食い気味に否定した。

一歩踏み出し、熱弁を振るう。

「先ほどの剣舞、感動いたしました! 大胸筋の動きと連動した肩甲骨の可動域! そして広背筋の美しい広がり! 朝から眼福でございます!」

「……眼福……?」

「はい! 拝観料をお支払いしたいくらいですわ!」

「…………」

レオニード様は、理解が追いつかないという顔でフリーズした。

そして、徐々に耳が赤くなっていく。

「……お前は、本当に……変わっているな」

「よく言われます」

「普通の令嬢なら、俺のような『呪われた男』が剣を振っているのを見たら、悲鳴を上げて逃げ出すだろう」

彼は自嘲気味に笑い、シャツに袖を通した。

(ああ、筋肉が隠れてしまう……残念)

私は心の中で舌打ちをしつつ、首を傾げた。

「呪われた男、ですか。……昨日も仰っていましたが、具体的にどのような呪いですの?」

「……俺に近づく者は、皆不幸になる」

彼は視線を落とした。

「俺と目が合っただけで、子供は泣き出し、女は卒倒し、男は逃げ出す。……言葉を交わせば、さらに酷い。俺の声を聞いた者は、恐怖で震え上がるんだ」

「ふむ」

私は顎に手を当てて考えた。

子供が泣く?

女が卒倒する?

それは呪いではない。

「レオニード様、少し笑ってみていただけますか?」

「え? わ、笑う……?」

「はい。ニコッと」

「……こうか?」

彼はぎこちなく口角を上げようとした。

その瞬間。

彼の顔面の筋肉が引き攣り、眉間に深い皺が刻まれ、目は鋭く細められ、口元からは白い歯がギラリと覗いた。

どう見ても、『獲物を前に舌なめずりをする捕食者』の顔である。

「ひっ……!」

たまたま通りかかった庭師(昨日雇ったばかりの老人)が、悲鳴を上げて尻餅をついた。

「だ、旦那様がお怒りじゃぁぁ! 命だけはお助けをぉぉ!」

庭師は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

レオニード様がショックを受けた顔で立ち尽くす。

「……ほらな。笑っただけで、これだ」

「なるほど。原因が分かりました」

私はポンと手を打った。

「呪いではありません。単に『顔面偏差値が高すぎて、笑顔の使い方が間違っている』だけです」

「……は?」

「あなたは顔立ちが整いすぎていて、威圧感が強いのです。その上、普段笑い慣れていないせいで、表情筋が硬直している。無理に笑おうとすると、威嚇しているように見えてしまうのです」

「……威嚇……」

「それに、その低音ボイス! 素敵ですが、ボソボソと喋ると、呪文を唱えているように聞こえなくもありません」

私は彼の前に立ち、ビシッと指を差した。

「つまり、誤解されているだけです! あなたは呪われてなどいません。ただの『コミュ障』で『強面』なだけです!」

「……コミュショウ……?」

聞き慣れない単語に、彼は首を傾げる。

「コミュニケーションに障害がある、という意味ではありませんわ。ただ少し、不器用なだけということです」

私は彼の腕(シャツの上からだが)に手を置いた。

「安心してください。私がその誤解、解いてみせますから」

「……お前が?」

「ええ。私には見えます。あなたが領民に愛され、笑顔で野菜を受け取る未来が!」

(そして、その横で私が帳簿を管理し、莫大な利益を上げる未来も!)

レオニード様は、呆気に取られたように私を見つめていた。

やがて、彼は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。

「……お前には、敵わないな」

その時、彼がふと見せた表情は、無理に作った笑顔ではなく、自然と緩んだものだった。

それは破壊的なまでに優しく、そして甘い。

ドキンッ。

私の心臓が、変な音を立てた。

(……今の、反則じゃない?)

筋肉だけが目当てだったはずだ。

資産と、安定した老後が目的だったはずだ。

なのに、なぜか顔が熱い。

「……腹が減ったな。戻ろうか」

彼が歩き出す。

私は慌ててその後を追った。

「そ、そうですね! 朝食にしましょう! 今日は私がオムレツを作りますわ!」

「オムレツか。……楽しみだ」

その低音ボイスが、鼓膜をくすぐる。

私は自分の頬をパシッと叩いた。

しっかりしろ、エーミール。

絆されてどうする。

相手は『物件』だ。

超優良な『投資対象』だ。

ここで恋愛感情に流されては、交渉(これからの計画)において不利になる。

(そうよ、今日は大事な話があるの)

昨日の掃除中に見つけた、領地の帳簿。

あれを見て、私は確信したのだ。

この領地は宝の山だが、経営がズタボロであると。

レオニード様は武人としては最強だが、経営者としては素人だ。

ここを立て直すには、私が全権を握る必要がある。

そのためには、曖昧な「婚約者」という立場では弱い。

もっと強固な、ビジネスライクな契約が必要なのだ。

私はレオニード様の広い背中を見つめながら、決意を固めた。

食事が終わったら、切り出そう。

私の人生を賭けた、一大プレゼンテーションを。
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