婚約破棄、どう見ても私の理想なんですが?

夏乃みのり

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「奥様! 王都の商会から、追加注文が入りました! 『フローズン・ティア』をあと五百個、至急送れとのことです!」

「南の貿易商が、面会を求めています! なんでも、魔石の独占販売権を契約したいと!」

「東の貴族から、コラボ商品の提案が……!」

グライフェン邸の執務室は、まるで戦場のような騒がしさだった。

王都での「夜会ジャック」と、レオニード様の「ポスター戦略」が功を奏し、我が領地の特産品『氷屑石(フローズン・ティア)』は、今や大陸中で爆発的なブームを巻き起こしていた。

夏を涼しく過ごすための必須アイテム。

貴婦人たちはネックレスとして身につけ、紳士たちはポケットに忍ばせる。

「クズ石」と呼ばれ、捨てられていた石が、今や「青いダイヤ」並みの価値を生み出しているのだ。

「……五百個? 無理よ、生産ラインが追いつかないわ。三百個で手を打って。その代わり、納期は二日早めると伝えて」

「はいっ!」

「独占販売権? お断りよ。うちは直販スタイルでブランド価値を守るの。丁重にお引き取り願って」

「承知しました!」

私は次々と指示を飛ばし、契約書にサインをしていく。

ペンのインクが乾く暇もない。

私の脳内では、チャリンチャリンという金貨の音が鳴り止まない。

(忙しい……けど、楽しい!)

経営者としての血が騒ぐ。

かつてロベルト殿下の尻拭いで鍛えられた事務処理能力が、今ここで最大限に活かされている。

だが。

その忙しさのあまり、私は一つ、重大なことを見落としていた。

「…………」

部屋の隅にあるソファ。

そこに、巨大な「置物」が鎮座していることに。

レオニード様だ。

彼は膝を抱えるようにして座り(巨体なので窮屈そうだ)、ジッと私を見つめている。

その背中からは、ドス黒いオーラ……ではなく、哀愁漂う紫色のオーラが立ち上っていた。

「……エーミール」

「はい、何でしょう?(サインをしながら)」

「……昼飯の時間だが」

「あら、もうそんな時間? ごめんなさい、後でサンドイッチをつまみますから、レオニード様はお先にどうぞ」

「……一緒に、食わないのか?」

「この契約書を片付けないと、商人が帰ってくれないのです。すぐ終わらせますから」

「……そうか」

レオニード様はまた黙り込んだ。

そして、手元にあったクッションを、ムギュゥ……と握り潰した。

可哀想なクッションからは、「ミシッ」という悲鳴が聞こえる。

(ごめんなさい、旦那様。でも今が稼ぎ時なのです!)

私は心を鬼にして、仕事に没頭した。



午後。

一人の商人が執務室に通された。

王都から来たという、新興商会の男だ。

派手な服を着て、髪をテカテカに撫で付けた、いかにも「やり手」を気取った男である。

「いやはや、噂のエーミール様にお会いできて光栄です! 実物は噂以上にお美しい!」

男は部屋に入るなり、大袈裟に手を広げた。

「単刀直入に申し上げます。御社の『フローズン・ティア』、我が商会で一括して扱わせていただきたい! 代金は弾みますよ?」

「一括管理ですか。……具体的には?」

「へへっ、簡単なことです。エーミール様は、ただ製造してくれればいい。販売、宣伝、価格設定は全て我々がやります。……楽でしょう?」

男はニヤニヤと笑いながら、机に身を乗り出した。

「それに、あなたのような美しい女性が、あくせく働く必要はありません。……僕と契約すれば、個人的にも『良い思い』をさせてあげますよ?」

男の手が、私の手に触れようと伸びてくる。

あからさまなセクハラ兼、乗っ取り提案だ。

私は冷ややかな笑みを浮かべ、扇子で彼の手を払おうとした。

その時だった。

ドォォォン!!

背後で、何かが爆発したような音がした。

「ひぃっ!?」

商人が飛び上がる。

振り返ると、ソファに座っていたはずのレオニード様が、いつの間にか私の背後に立っていた。

無言である。

しかし、そのアメジストの瞳は、絶対零度の冷気を放っている。

そして、彼の手には……ひしゃげた鉄の塊(元は頑丈な花瓶だったもの)が握られていた。

「……お前」

地獄の底から響くような低音。

「……今、俺の妻に、何をしようとした?」

「ひ、ひぃぃ……!? だ、誰だ貴様は!」

商人はレオニード様の顔を知らなかったらしい(ポスターは上半身裸の笑顔だったから、スーツ姿の真顔は別人に見えたのだろう)。

「俺はただのガードマンではないぞ! この屋敷の……!」

「……『良い思い』だと?」

レオニード様は商人の言葉を遮り、一歩踏み出した。

床の大理石に、ピキッ……と亀裂が入る。

「エーミールに『良い思い』をさせられるのは、世界でただ一人。……夫である俺だけだ」

「お、おっと……!? ま、まさか、あなたがグライフェン公爵!?」

商人の顔色が土色に変わる。

「あ、あの、これはビジネスの提案でして……決してやましい気持ちなど……!」

「黙れ」

レオニード様は、ひしゃげた鉄塊(元花瓶)を、商人の目の前に突き出した。

そして、それをさらに、粘土のように捏ね回した。

グシャ、メキョ、ベコン。

硬い金属が、飴細工のように形を変えていく。

「……次にその汚い手を俺の妻に伸ばしてみろ。……この花瓶と同じ形にしてやる」

「ヒィィィィッ!! ごめんなさいぃぃぃ!!」

商人は泡を吹いて気絶しそうになりながら、脱兎のごとく部屋から逃げ出した。

「二度と来るなぁぁぁ!」

廊下に商人の絶叫が遠ざかっていく。

静寂が戻った執務室。

レオニード様は、鉄屑と化した元花瓶をゴミ箱にポイッと捨て、私に向き直った。

その表情は、まだ怒っているようでもあり、拗ねているようでもあった。

「……レオニード様」

「……すまない。商談を、台無しにした」

彼はプイと顔を背けた。

「だが、我慢できなかった。……あんな男が、お前に触れようとするのが」

「ふふっ」

私は思わず吹き出した。

「あら、笑うところか?」

「ええ。だって、可愛いんですもの」

私は椅子から立ち上がり、彼の胸に飛び込んだ。

「レオニード様。それ、ヤキモチですか?」

「……違う。……警備だ」

「嘘おっしゃい。耳が赤いですわよ」

私は彼の耳たぶをツンと突いた。

「嬉しいです。あなたがそんなに独占欲を見せてくれるなんて」

「……独占欲、か」

レオニード様はため息をつき、私の背中に腕を回した。

今度は優しく、壊れ物を包むように。

「ああ、そうだ。俺は……お前を誰にも渡したくない。商売敵だろうが、客だろうが……お前の時間が、他人に奪われるのが気に入らないんだ」

彼は私の肩に顔を埋めた。

「……寂しかったんだ。この数日、お前はずっと書類ばかり見ていたから」

大型犬の甘えん坊モードだ。

このギャップ。

この破壊力。

商談の疲れなど、一瞬で吹き飛んでしまった。

「ごめんなさい。稼ぎ時だと思って、張り切りすぎました」

私は彼の頭を撫でた。

「今日はもう、店仕舞いにしましょう。……午後は、あなたのためだけに使います」

「……本当か?」

「ええ。何がしたいですか? 筋トレ? それとも畑仕事?」

レオニード様は顔を上げ、少し真剣な瞳で私を見た。

「……膝枕」

「はい?」

「膝枕で……耳かきをしてほしい」

「…………」

予想外のリクエストに、私は目を瞬いた。

「そんなことでいいのですか?」

「そんなことではない。……夫婦らしいことが、したいんだ」

彼はボソッと言った。

「本に書いてあった。夫婦のスキンシップの基本だと」

(旦那様、どんな本を読んでいるの……)

愛おしさが爆発しそうだ。

私は満面の笑みで頷いた。

「お安い御用ですわ! 私の膝は、最高級クッションより快適ですよ?」

「……期待している」

こうして。

大陸中に名を馳せる敏腕女社長(私)の午後のスケジュールは、『魔公爵様への膝枕&耳かきコース』に変更された。

執務室のソファで、私の膝に頭を乗せ、気持ちよさそうに目を閉じるレオニード様。

その無防備な寝顔を見下ろしながら、私は思った。

どんなに商売が成功しても、金貨が山積みになっても。

この「幸せな重み」に勝る財産など、この世にはないのだと。

(……でも、あの花瓶代は、今度のお小遣いから引かせてもらいますけどね)

私は心の中でこっそりと呟き、愛する夫の耳掃除に専念したのだった。
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