悪役令嬢は婚約破棄に歓喜!

夏乃みのり

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「……トマス」


ジェラルド殿下が嵐のように去った後。

静寂を取り戻した玄関ホールに、地獄の底から響くような声が落ちた。


「は、はい! 旦那様!」


執事のトマスが、直立不動で震え上がる。

私、ミリューは隣で首を傾げた。

先ほどまで、私と一緒に「ジェラルド撃退記念」の祝杯(お茶)をあげようと笑っていたラシード様が、急に「魔王モード」に戻っているからだ。


「警備隊長を呼べ。……いや、騎士団全員を中庭に集合させろ。今すぐにだ」


「は、はいっ! ただちに!」


トマスが転がるように走っていく。


「ラシード様? どうされたのですか? 業務は終了しましたよ?」


私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。

その瞳は、いつもの冷静沈着な氷の色ではない。

燃え盛る青い炎――制御不能な怒りが渦巻いていた。


「……終わっていない」


彼はギリリと奥歯を噛み締めた。


「あの男が、この屋敷の敷地内に入り、あまつさえ君に触れようとした。……その事実が、私にはどうしても許せない」


「でも、未遂で終わりましたし、実害はありませんわ。むしろ慰謝料請求のネタが増えて……」


「そういう問題ではない!」


ドンッ!


ラシード様が壁を拳で叩いた。

壁に亀裂が入る。

(あ、修繕費が……)と私が計算するより早く、彼は叫んだ。


「君は……君は、自分の価値を分かっていない! 君は国宝だ! いや、私の命よりも重い『心臓』だ! それを、あんな薄汚い羽虫(ジェラルド)に無防備に晒した私の危機管理能力(セキュリティ)の甘さが、許せないのだ!」


「は、はあ……」


私は瞬きをした。

どうやら、怒りの矛先はジェラルドだけでなく、自分自身にも向いているらしい。

面倒くさい……いや、責任感の強い人だ。





十分後。中庭。


そこには、公爵家の私兵団五十名が整列していた。

全員、顔面蒼白である。

彼らの前で、ラシード様が仁王立ちしていた。


「貴様ら」


ラシード様の声が、冬の突風のように吹き荒れる。


「給料泥棒になりたいのか? それとも、全員まとめて北の極寒の地へ左遷されたいのか?」


「ひぃっ……! お、お許しください閣下!」


警備隊長が土下座する。


「王太子殿下が強行突破されたため、手出しができず……」


「言い訳は不要だ! 相手が王太子だろうが国王だろうが、私の許可なくミリューに近づく者はすべて『敵』だ! 斬り捨てても構わんと言ったはずだ!」


「そ、それは流石に国家反逆罪に……」


「私が法だ!」


無茶苦茶である。

完全に論理が破綻している。

独裁スイッチが入ってしまっている。


私は溜め息をつき、トコトコとラシード様の元へ歩み寄った。


「ラシード様、ストップ。パワハラです」


私は彼の上着の裾を引っ張った。


「彼らに罪はありません。相手は王族、止められないのが通例です。ここで彼らを処罰しても、組織の士気が下がるだけで非効率です」


「しかしミリュー! もし私が駆けつけるのが一秒遅れていたら、君は連れ去られていたかもしれないんだぞ!」


ラシード様が私の肩を掴む。

その手は震えていた。


「君がいなくなると思ったら……私は……思考回路が焼き切れそうになった。こんな恐怖は初めてだ」


彼の瞳には、怒りだけでなく、深い怯えが見えた。


(……この人、本気で心配しているのね)


私は少し胸が痛んだ。

私は自分の身を守ることには長けているつもりだったが、彼にとっては「守られるべき儚い存在」に見えているらしい。

大きな誤解だが、悪い気はしない。


「分かりました。では、再発防止策(ソリューション)を提案します」


私は手帳を開いた。


「人的リソースに頼る警備は限界があります。システムで解決しましょう。……屋敷の周囲に『対人結界』を張りましょう。登録者以外が侵入すると、自動的に電撃が走るやつを」


「……電撃か。生ぬるいな。爆破魔法にしよう」


「死体処理が面倒なので却下です。麻痺レベルで十分。それと、玄関ゲートを『生体認証式』に変更します。ラシード様と私の魔力パターン以外は拒絶する設定に」


「よし、採用だ。予算は無制限でいい。今すぐ魔導師団を呼べ!」


ラシード様が即決する。


こうして、公爵邸は一夜にして「要塞」へと改造されることになった。


しかし、ラシード様の怒りはそれだけでは収まらなかった。





その夜。執務室。


「……潰す」


ラシード様は、羊皮紙に向かって何やら恐ろしい計画書を書いていた。

ペンの筆圧が強すぎて、紙が破れそうだ。


「ジェラルドめ……。ただで済むと思うなよ」


「ラシード様? 何を書いていらっしゃるのですか?」


私が覗き込むと、そこには『ジェラルド王太子・完全包囲網』という物騒なタイトルが。


「経済制裁だ」


ラシード様は冷たく笑った。


「先ほど宣言した通りだ。王家への資金提供を凍結する。さらに、ジェラルドが懇意にしている商会への融資を引き上げ、彼が投資している事業の株を空売りして暴落させる」


「うわぁ、えげつない」


私は感心した。


「それ、実行したら王太子の個人資産は三日で消滅しますね」


「当然だ。私のミリューに手を出した代償だ。身ぐるみ剥がして、路頭に迷わせてやる」


「でも、やりすぎると国王陛下のご機嫌を損ねて、外交問題になりませんか?」


「構わん。国王陛下には、ジェラルドの無能さと横領の証拠(君が作った資料)をセットで送りつける。陛下も馬鹿ではない。国の財布を握っている私と、無能な息子のどちらを取るか……答えは明白だ」


ラシード様は完全に「冷徹な政治家」の顔になっていた。


私のためなら、国政すら盤面(ゲーム)の駒として動かす。

その徹底した合理性と、その根底にある非合理なほどの情熱。


(……やっぱり、この人は面白い)


私は彼の横顔を見つめ、不覚にもドキリとしてしまった。


怒っている彼もまた、機能美に溢れていて美しいと思ってしまったのだ。


「お手伝いしますわ、ラシード様」


私は自分の椅子を引き寄せ、彼の隣に座った。


「経済制裁だけでは甘いです。情報戦も仕掛けましょう。ジェラルド殿下の悪評……いえ、『真実』を社交界にリークします。リリナ様との散財の実態、執務室での奇行、そして私への未練がましいストーカー行為……」


「……フッ、君も性格が悪いな」


「貴方ほどではありません」


私たちは顔を見合わせて、黒い笑みを浮かべた。


「よし、ミリュー。今夜は徹夜だ。この『ジェラルド破滅計画』を、朝までに完璧なものに仕上げるぞ」


「望むところです。最高の復讐(プロジェクト)にしましょう」


インクと紙の匂い。

そして、隣に座る彼の体温。


私たちは深夜まで、二人三脚で「ざまぁ」のシナリオを練り上げた。

それは、私にとってどんな愛の言葉よりも甘く、充実した時間だった。


しかし。


私は気づいていなかった。

ラシード様が時折、ペンを止めて私の顔をじっと見つめ、苦しげに胸を押さえていることに。


そして私自身もまた、彼と手が触れ合うたびに、心臓が異常な速さで脈打っていることに。


「……変ですね。部屋の温度設定は適正なはずなのに、なんだか暑いです」


「……ああ。私もだ。熱があるのかもしれん」


二人の「熱」は、怒りによるものだけではなかった。

それに気づくのは、もう少し先の話。


翌朝、王城に届けられた『公爵家からの最後通牒』によって、王国の歴史が大きく動くことになる。
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