悪役令嬢は婚約破棄に歓喜!

夏乃みのり

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「……完成しましたね」


翌朝。

白々と夜が明ける頃、私とラシード様は執務室の机に突っ伏すことなく、達成感に満ちた顔で向かい合っていた。


私たちの目の前には、分厚い羊皮紙の束が積まれている。

タイトルは『王太子殿下および関連勢力に対する包括的制裁プログラム(通称:ざまぁ計画書)』。


「完璧だ……」


ラシード様が、血走った目(徹夜のせい)で、しかし満足げに頷く。


「経済、情報、心理……あらゆる角度からジェラルドを追い詰める、芸術的な包囲網だ。これを実行に移せば、一ヶ月後には彼は泣きながら修道院へ駆け込むことになるだろう」


「ええ。特に第3章の『王太子の浪費癖を国民に暴露し、税金不払い運動を誘発させる』という手口は、我ながら悪辣で効率的ですわ」


私たちは互いの労をねぎらい、ガッチリと握手を交わした。

徹夜明けのテンション(ランナーズハイ)も相まって、私たちの絆は最強のものとなっていた。


「さて、少し仮眠を取ろうか。……君もフラフラだぞ」


ラシード様が立ち上がろうとして、ふと眉を寄せた。


「ミリュー? 顔が赤いぞ」


「へ?」


言われてみれば、体が熱い。

頭がボーッとする。

視界が少し揺れているような……。


「徹夜による自律神経の乱れですね。カフェインの過剰摂取も原因かと」


私は冷静に自己診断を下し、立ち上がろうとした。


その瞬間。


グラリ。


世界が反転した。


「――ッ!?」


足の力が抜け、私の体は床へと崩れ落ち――なかった。


ガシッ!


強靭な腕が、私の腰を抱き止めていた。


「ミリュー!!」


耳元で、ラシード様の焦燥しきった声が響く。

私は彼の腕の中にすっぽりと収まり、その広い胸板に頬を押し付けていた。


近い。

あまりにも近い。


彼の心臓の音が、トクン、トクンと力強く聞こえてくる。

高級なコロンの香りと、彼自身の男らしい匂いが鼻腔をくすぐる。


「だ、大丈夫か!? 意識はあるか!?」


ラシード様が私を抱きしめたまま、覗き込んでくる。

その青い瞳には、昨日の「魔王」のような冷酷さは微塵もなく、ただただ私を案じる色だけが浮かんでいた。


「あ……は、はい。少し立ちくらみがしただけで……」


「馬鹿者! 無理をするなと言っただろう!」


ラシード様は私を叱りつけたが、その声は震えていた。


「君が倒れたら……私はどうすればいい。この国の経済が破綻しても、君の代わりはいないんだぞ!」


彼はそう言うと、なんと私をひょいと持ち上げた。

いわゆる「お姫様抱っこ」だ。


「きゃっ! ラ、ラシード様!?」


「医務室へ運ぶ。いや、私の寝室の方がベッドが広いか。とにかく安静だ!」


「自分で歩けます! これは非効率です! 重量物を運搬する際は台車を……」


「黙っていろ! 君は羽毛のように軽い!」


ラシード様は私の抗議を無視し、大股で廊下を歩き始めた。


揺れる視界。

私を支える太い腕。

真剣な横顔。


その時だった。


ドクン。


私の胸の奥で、何かが跳ねた。


(……え?)


ドクン、ドクン、ドクン。


心臓が。

私の心臓が、異常な速度で脈打ち始めたのだ。


(警告(アラート)。心拍数上昇。120……130……140!? 異常値です!)


私は慌てて自分の胸に手を当てた。

痛いほど脈打っている。

呼吸が浅くなる。

顔が熱い。


「……っ、うぅ」


「どうした!? 苦しいのか!?」


ラシード様がさらに強く私を抱きしめる。

すると、心拍数はさらに跳ね上がった。


(な、なんなのこれ……!?)


私は混乱した。


病気?

不整脈?

それとも、ジェラルド殿下が言っていた「呪い」が、時間差で発動したのか?


私は必死に脳内検索をかけた。


検索ワード:『動悸』『めまい』『顔面紅潮』『特定の異性に触れられた時の反応』。


検索結果:


『吊り橋効果』

『更年期障害(まだ17歳です!)』

『カフェイン中毒』


……そして、一番下に小さく表示された候補。


『恋』。


(――は?)


私は脳内でその検索結果をゴミ箱に叩き込んだ。


『恋』?

馬鹿な。

非論理的だ。

非効率極まりない感情バグだ。


私が? この私が?

あのジェラルド殿下との十年間で、恋愛感情などという不確定要素(リスク)は完全に排除したはずなのに?


「ラ、ラシード様……降ろしてください……」


「ならん。顔が真っ赤だ。熱中症か?」


ラシード様は歩みを止めず、あろうことか私のおでこに、自分のおでこをコツンと当ててきた。


「……熱いな」


至近距離。

彼のまつ毛が触れそうな距離で、青い瞳が私を射抜く。


ボンッ!!


私の脳内で、何かのヒューズが飛ぶ音がした。


心拍数は計測不能(エラー)。

思考回路はショート。

全身の血液が沸騰するような感覚。


(あ、あ、あ……)


認めざるを得ない。

これは病気ではない。

不整脈でもない。


私は、この不器用で、仕事中毒で、でも誰よりも私を大切にしてくれるこの男に――。


「……バグだわ」


「ん? 何か言ったか?」


「重大なシステムエラーが発生しました……。原因は……貴方です」


「私? 私が君に風邪をうつしたのか?」


「違います! もっとタチの悪いウイルスです!」


私は彼の胸に顔を埋めた。

もう、顔を見られたくない。

こんな、だらしなく緩んだ表情を、彼に見せるわけにはいかない。


(計算外……想定外です……!)


まさか、復讐劇のパートナーに、これほど心を乱されるなんて。


私の「スローライフ計画」は破綻した。

「業務委託契約」も形骸化した。


ここにあるのは、「ラシード様のそばにいたい」という、極めて非合理的で、生産性のない、しかしどうしようもなく甘美な欲求だけだ。


「……ミリュー?」


ラシード様が心配そうに私を呼ぶ。


私は彼のシャツをギュッと握りしめ、小さな声で呟いた。


「……責任、取ってくださいね」


「責任? もちろんだ。君を過労に追い込んだ責任は、私が一生かけて償う」


「違います……そういう意味じゃ……」


鈍感。

この男は、致命的に鈍感だ。

でも、今はその鈍感さに救われている。


もし今、「好きだ」なんて言われたら、私の心臓は間違いなく破裂してしまうから。


「……とにかく、寝かせてください。再起動(リブート)が必要です」


「ああ、分かった。すぐにベッドへ」


ラシード様は私を抱えたまま、寝室へと急いだ。


その背中で揺られながら、私は観念したように目を閉じた。


ジェラルド殿下への復讐?

領地の経営改革?

それも大事だ。


でも、今の私にとっての最優先事項(トップ・プライオリティ)は――。


この暴走する心臓の鼓動を、どうやって彼に隠し通すか。

あるいは、いつか彼に「感染」させるか。


その戦略を練ることになってしまったようだ。


(……効率が悪いわね、恋ってやつは)


私は心の中で悪態をつきながら、同時に、かつてないほどの幸福感に包まれていた。
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