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ラシード様が倒れてから三日後。
公爵邸の執務室には、かつてないほど爽やかな風が吹いていた。
「……おはよう、トマス。今日の紅茶は素晴らしい香りだ」
「は、はい……ありがとうございます、旦那様」
「庭の小鳥たちのさえずりも、今日は一段と美しく聞こえるな。まるで私を祝福しているようだ」
「さ、左様でございますか……(旦那様が……笑っていらっしゃる……!?)」
トマスをはじめとする使用人たちは、戦々恐々としていた。
あの「氷の公爵」が、朝から花の散るような笑顔を振りまいているのだ。
しかも、鼻歌交じりに書類を片付けている。
「不気味です……」
「熱の後遺症でしょうか……」
使用人たちがヒソヒソと囁き合う中、私はいつものように冷静な顔で(ただし耳だけは赤い)、自分のデスクに向かっていた。
(……浮かれすぎです、ラシード様)
私は咳払いをした。
あの「ベッドサイドの告白」以来、ラシード様は完全に「恋する乙女」ならぬ「恋する宰相」モードに入ってしまっている。
視線が合うたびに微笑みかけ、隙あらば私の手ニギニギしようとする。
業務効率が落ちるどころか、彼の処理能力はなぜか倍増していた。
「早く終わらせてミリューとイチャイチャする」という不純かつ強力な動機(モチベーション)のおかげだ。
だが、私には一つ、どうしても片付けておかなければならない「案件」があった。
「……ラシード様。少し、お時間をいただけますか」
「なんだい、ミリュー? 愛の言葉ならいつでも大歓迎だよ」
「業務連絡です。真面目な顔をしてください」
私がピシャリと言うと、ラシード様はシュンとして居住まいを正した。
私は一枚の書類を、デスクの上に滑らせた。
「これについて、ご相談があります」
ラシード様がその書類を手に取る。
タイトルを見た瞬間、彼の表情が凍りついた。
『雇用契約解除通知書』
「……ミ、ミリュー……?」
ラシード様の声が震える。
顔からサーッと血の気が引いていくのが見えた。
「これは……どういう意味だ?」
「読んで字のごとくです。私とクライシス公爵家との間で結ばれている、現在の『業務委託契約』および『婚約者代行契約』を、本日付けで破棄(キャンセル)したいという申し出です」
私は淡々と説明した。
「な、なぜだ!?」
ラシード様が立ち上がり、椅子をガタッと倒した。
「嫌になったのか!? 私が重いからか!? それとも、先日キスをしたのが……手順として早すぎたのか!?」
「違います。落ち着いてください」
「落ち着けるわけがないだろう! 君が……君がいなくなるなんて!」
ラシード様は絶望的な顔で頭を抱えた。
「やはり、私はただの『クライアント』でしかなかったのか……? あの夜の言葉も、君にとってはただの……リップサービスだったのか!?」
「違います!」
私は声を張り上げた。
まったく、この人は優秀なくせに、恋愛に関してはネガティブ思考が過ぎる。
「ラシード様。論理的に考えてください」
私はホワイトボードの前に立ち、ペンを取った。
「現在の私たちの契約内容は、『ラシード様がミリューを雇用し、対価として全財産と権限を与える』というものです。これはあくまで『雇用主』と『従業員』の関係に基づいています」
私は図解を書き始めた。
「しかし、先日、私たちの関係性(ステータス)に重大な変更が発生しました」
私は『雇用主⇔従業員』という矢印を消し、代わりに『恋人⇔恋人』と書き、その周りにハートマークを散らした(真顔で)。
「……っ!」
ラシード様が顔を赤くして口元を押さえる。
「関係性が変化した以上、旧来の契約内容は実態にそぐわない。……いえ、もっとはっきり言えば『不適切(コンプライアンス違反)』です」
「ふ、不適切?」
「ええ。雇用主が従業員に手を出すのは、パワハラやセクハラのリスクがあります。公私混同は組織運営の癌です」
私はバン! とホワイトボードを叩いた。
「したがって、健全な関係を維持するためには、一度現在の『雇用契約』を白紙に戻す必要があるのです。……理解できましたか?」
私の完璧なロジック。
これなら納得してくれるはずだ。
しかし、ラシード様の反応は予想外だった。
「……つまり、君は『従業員』を辞めたいと?」
「はい、そうです」
「私の元で働くのは、もう嫌だと……?」
「えっ? いえ、そういう意味では……」
「わかった……」
ラシード様はがっくりと肩を落とし、まるで雨に打たれた捨て犬のような目をした。
「私の束縛が厳しすぎたんだな……。君の自由を奪っていた……」
「ラシード様?」
「いいだろう……。契約解除、認めよう」
「あ、ご理解いただけて何よりです。では……」
私が次の書類(本命)を取り出そうとした時、ラシード様は悲壮な決意を込めて言った。
「だが! 私は諦めない!」
「はい?」
「君が従業員として働くのが嫌なら、ただの『居候』でもいい! ニートでもいい! 仕事を一切しなくてもいいから、この屋敷にいてくれ!」
ラシード様は必死にまくし立てた。
「給料は倍出す! いや、三倍だ! マロングラッセも食べ放題にする! 私が毎日君の靴を磨いてもいい! だから……だから、私を見捨てないでくれぇぇぇ!」
最後はもはや泣き落としだった。
氷の公爵、崩壊である。
私はポカンとして、その姿を見つめた。
(……話が噛み合っていませんね)
私は「雇用契約」を終わらせて、次の「ステップ」に進みたかっただけなのだが、彼は「契約終了=サヨナラ」だと完全に誤解している。
「あの、ラシード様。聞いてください」
「聞きたくない! 別れの言葉など聞きたくない!」
彼は耳を塞いで首を振っている。
子供か。
「……はぁ」
私は深い溜め息をついた。
論理で説明しようとしたのが間違いだった。
このバグだらけの恋愛脳には、もっと直接的な「衝撃療法」が必要らしい。
私はスタスタと彼の前に歩み寄り、彼の手を強引に引き剥がした。
「ラシード様。黙ってください」
「うっ……」
「私は、貴方の元を去るつもりはありません。給料アップも結構です。ニートになるつもりもありません」
「じゃ、じゃあ、なぜ契約解除なんて……?」
「今の契約(スペック)では、不十分だからです」
私は真っ直ぐに彼の目を見つめた。
「私は欲張りなんです、ラシード様。ただの『従業員』や『偽の婚約者』という肩書きでは、もう満足できないのです」
「……満足できない?」
「ええ。貴方の隣に立つための、もっと強固で、もっと永続的で、そして……法的拘束力のある『最強の契約』を結びたいのです」
私は懐から、先ほど取り出し損ねた「もう一枚の書類」を取り出した。
それは、契約書ではない。
市役所から取り寄せてきた、ピンク色の用紙だ。
「これに見覚えはありますか?」
ラシード様がその紙を見る。
文字を読み、目を瞬かせ、そして……ゆっくりと口を開いた。
「こ、これは……」
「はい。これなら、更新手続きも不要。福利厚生も充実。そして何より……『死が二人を分かつまで』有効な契約です」
私は顔が熱くなるのを感じながら、精一杯の「営業スマイル」を作った。
「ラシード様。……私を、貴方の『永久就職先』として採用していただけませんか?」
公爵邸の執務室には、かつてないほど爽やかな風が吹いていた。
「……おはよう、トマス。今日の紅茶は素晴らしい香りだ」
「は、はい……ありがとうございます、旦那様」
「庭の小鳥たちのさえずりも、今日は一段と美しく聞こえるな。まるで私を祝福しているようだ」
「さ、左様でございますか……(旦那様が……笑っていらっしゃる……!?)」
トマスをはじめとする使用人たちは、戦々恐々としていた。
あの「氷の公爵」が、朝から花の散るような笑顔を振りまいているのだ。
しかも、鼻歌交じりに書類を片付けている。
「不気味です……」
「熱の後遺症でしょうか……」
使用人たちがヒソヒソと囁き合う中、私はいつものように冷静な顔で(ただし耳だけは赤い)、自分のデスクに向かっていた。
(……浮かれすぎです、ラシード様)
私は咳払いをした。
あの「ベッドサイドの告白」以来、ラシード様は完全に「恋する乙女」ならぬ「恋する宰相」モードに入ってしまっている。
視線が合うたびに微笑みかけ、隙あらば私の手ニギニギしようとする。
業務効率が落ちるどころか、彼の処理能力はなぜか倍増していた。
「早く終わらせてミリューとイチャイチャする」という不純かつ強力な動機(モチベーション)のおかげだ。
だが、私には一つ、どうしても片付けておかなければならない「案件」があった。
「……ラシード様。少し、お時間をいただけますか」
「なんだい、ミリュー? 愛の言葉ならいつでも大歓迎だよ」
「業務連絡です。真面目な顔をしてください」
私がピシャリと言うと、ラシード様はシュンとして居住まいを正した。
私は一枚の書類を、デスクの上に滑らせた。
「これについて、ご相談があります」
ラシード様がその書類を手に取る。
タイトルを見た瞬間、彼の表情が凍りついた。
『雇用契約解除通知書』
「……ミ、ミリュー……?」
ラシード様の声が震える。
顔からサーッと血の気が引いていくのが見えた。
「これは……どういう意味だ?」
「読んで字のごとくです。私とクライシス公爵家との間で結ばれている、現在の『業務委託契約』および『婚約者代行契約』を、本日付けで破棄(キャンセル)したいという申し出です」
私は淡々と説明した。
「な、なぜだ!?」
ラシード様が立ち上がり、椅子をガタッと倒した。
「嫌になったのか!? 私が重いからか!? それとも、先日キスをしたのが……手順として早すぎたのか!?」
「違います。落ち着いてください」
「落ち着けるわけがないだろう! 君が……君がいなくなるなんて!」
ラシード様は絶望的な顔で頭を抱えた。
「やはり、私はただの『クライアント』でしかなかったのか……? あの夜の言葉も、君にとってはただの……リップサービスだったのか!?」
「違います!」
私は声を張り上げた。
まったく、この人は優秀なくせに、恋愛に関してはネガティブ思考が過ぎる。
「ラシード様。論理的に考えてください」
私はホワイトボードの前に立ち、ペンを取った。
「現在の私たちの契約内容は、『ラシード様がミリューを雇用し、対価として全財産と権限を与える』というものです。これはあくまで『雇用主』と『従業員』の関係に基づいています」
私は図解を書き始めた。
「しかし、先日、私たちの関係性(ステータス)に重大な変更が発生しました」
私は『雇用主⇔従業員』という矢印を消し、代わりに『恋人⇔恋人』と書き、その周りにハートマークを散らした(真顔で)。
「……っ!」
ラシード様が顔を赤くして口元を押さえる。
「関係性が変化した以上、旧来の契約内容は実態にそぐわない。……いえ、もっとはっきり言えば『不適切(コンプライアンス違反)』です」
「ふ、不適切?」
「ええ。雇用主が従業員に手を出すのは、パワハラやセクハラのリスクがあります。公私混同は組織運営の癌です」
私はバン! とホワイトボードを叩いた。
「したがって、健全な関係を維持するためには、一度現在の『雇用契約』を白紙に戻す必要があるのです。……理解できましたか?」
私の完璧なロジック。
これなら納得してくれるはずだ。
しかし、ラシード様の反応は予想外だった。
「……つまり、君は『従業員』を辞めたいと?」
「はい、そうです」
「私の元で働くのは、もう嫌だと……?」
「えっ? いえ、そういう意味では……」
「わかった……」
ラシード様はがっくりと肩を落とし、まるで雨に打たれた捨て犬のような目をした。
「私の束縛が厳しすぎたんだな……。君の自由を奪っていた……」
「ラシード様?」
「いいだろう……。契約解除、認めよう」
「あ、ご理解いただけて何よりです。では……」
私が次の書類(本命)を取り出そうとした時、ラシード様は悲壮な決意を込めて言った。
「だが! 私は諦めない!」
「はい?」
「君が従業員として働くのが嫌なら、ただの『居候』でもいい! ニートでもいい! 仕事を一切しなくてもいいから、この屋敷にいてくれ!」
ラシード様は必死にまくし立てた。
「給料は倍出す! いや、三倍だ! マロングラッセも食べ放題にする! 私が毎日君の靴を磨いてもいい! だから……だから、私を見捨てないでくれぇぇぇ!」
最後はもはや泣き落としだった。
氷の公爵、崩壊である。
私はポカンとして、その姿を見つめた。
(……話が噛み合っていませんね)
私は「雇用契約」を終わらせて、次の「ステップ」に進みたかっただけなのだが、彼は「契約終了=サヨナラ」だと完全に誤解している。
「あの、ラシード様。聞いてください」
「聞きたくない! 別れの言葉など聞きたくない!」
彼は耳を塞いで首を振っている。
子供か。
「……はぁ」
私は深い溜め息をついた。
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私はスタスタと彼の前に歩み寄り、彼の手を強引に引き剥がした。
「ラシード様。黙ってください」
「うっ……」
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「じゃ、じゃあ、なぜ契約解除なんて……?」
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「私は欲張りなんです、ラシード様。ただの『従業員』や『偽の婚約者』という肩書きでは、もう満足できないのです」
「……満足できない?」
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それは、契約書ではない。
市役所から取り寄せてきた、ピンク色の用紙だ。
「これに見覚えはありますか?」
ラシード様がその紙を見る。
文字を読み、目を瞬かせ、そして……ゆっくりと口を開いた。
「こ、これは……」
「はい。これなら、更新手続きも不要。福利厚生も充実。そして何より……『死が二人を分かつまで』有効な契約です」
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