悪役令嬢は婚約破棄に歓喜!

夏乃みのり

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「……婚姻……届……?」


ラシード様は、私が差し出したピンク色の用紙を、まるで未知の古代魔法のスクロールでも解読するかのように凝視していた。


手が震えている。

小刻みに、プルプルと。

あの「氷の公爵」が、紙一枚の重さに耐えかねているようだ。


「ミリュー……これは、本気か?」


彼が恐る恐る顔を上げる。

その表情は、期待と不安、そして爆発寸前の歓喜が入り混じった、非常に人間臭いものだった。


「本気です。偽造文書ではありません」


私は努めて事務的に答えた。

そうしないと、私の方こそ心臓がオーバーヒートして倒れてしまいそうだったからだ。


「先ほど申し上げた通り、現在の契約は破棄します。その代わり……」


私は深呼吸をして、彼の目を真っ直ぐに見つめた。


「この『終身雇用契約(結婚)』への切り替えを提案します。……これなら、貴方が心配していた『別れ』のリスクもゼロになりますし、私も貴方の傍で、堂々と領地経営(家計管理)に口出しできます」


「……リスクゼロ」


「はい。さらに、夫婦共有財産となることで、貴方の資産運用効率も上がりますし、精神的安定による生産性向上も見込めます。メリットしかありません」


私は必死にメリットを羅列した。

好きだから結婚したい、というシンプルな感情を、ロジックで武装しないと伝えられない。

それが私の、精一杯の不器用な愛の伝え方だった。


ラシード様は、しばらく呆然としていたが、やがて――。


「……ははっ」


乾いた笑い声を漏らし、そして片手で顔を覆った。


「……敵わないな」


「え?」


「君には敵わない。……まさか、こんなに論理的で、こんなに色気のない、そして……こんなに嬉しいプロポーズを受けるなんて」


彼は顔を覆った指の隙間から、私を見ていた。

その瞳は、熱い涙で潤んでいた。


「ミリュー。……君は本当に、私でいいのか?」


「今さら何を仰るのですか」


「私は仕事中毒で、不器用で、君に『道具』だと言い放った男(ジェラルド)の親族だぞ? 君をもっと、普通の幸せで包んでやれる男がいるんじゃないか?」


ネガティブ思考が発動している。

私は溜め息をつき、テーブルを回り込んで彼の前に立った。


そして、彼の頬を両手で挟み、上を向かせた。


「ラシード様。私の『普通の幸せ』の定義を修正してください」


「修正?」


「はい。私の幸せは、ただ着飾ってお茶を飲むことではありません。……貴方と一緒に、難解な書類と格闘し、無茶なスケジュールをこなし、そして……一日の終わりに『お疲れ様』と言って、同じベッドで眠ることです」


私は顔を近づけた。


「貴方以上の『優良物件』なんて、この世に存在しません。……私が計算済みです」


その言葉が、決定打(トリガー)となった。


「……ミリューッ!!」


ラシード様は私を抱き寄せ、椅子ごと回転するかのような勢いで立ち上がった。


「採用だ! 即時採用だ! 試用期間もなし! 一生、いや来世まで私のものだ!」


「き、苦しいですラシード様! 圧力が強すぎます!」


「離さない! もう二度と、契約解除なんて言わせないぞ!」


彼は子供のように私を抱きしめ、私の首筋に顔を埋めた。


「愛してる……。愛してるよ、ミリュー。私の最高のパートナー。私の可愛い奥さん」


「……はい。私もです、旦那様」


私は彼の背中に手を回し、そっと囁いた。


「永久就職、させていただきますね」





その後の執務室は、甘い空気に包まれて……いる暇はなかった。


「さて、ラシード様。感傷に浸る時間は終了です」


私はラシード様の腕から抜け出し、パンパンと手を叩いた。


「えっ? もう終わり? もう少し余韻を……」


「書類(これ)を提出しないと、契約は発効しません」


私はペンを彼に握らせた。


「さあ、サインを。署名捺印、漏れなくお願いします」


「き、君は本当にムードがないな……」


ラシード様は苦笑しながらも、幸せそうにペンを走らせた。


『ラシード・ヴァン・クライシス』


力強い文字が、夫の欄に刻まれる。

続いて、私が妻の欄にサインをする。


『ミリュー・ヴァン・クライシス(旧姓:アークライト)』


書き終えた瞬間、紙が淡い光を放った。

受理の魔法だ。

これで、私たちは法的にも、魔術的にも、正式な夫婦となった。


「……これで、本当にミリュー・ヴァン・クライシスか」


ラシード様が私の名前を指でなぞる。


「なんか、強そうだな」


「ええ。最強の響きですわ」


私は満足げに頷いた。


「さて、身辺整理も済んだことですし……次はいよいよ、残っている『負債(ゴミ)』の最終処分を行いましょうか」


私の目が、キラーンと光った。


「負債?」


「ジェラルド元殿下と、リリナ元嬢です」


私はホワイトボードの裏側をひっくり返した。

そこには、『ザマァ計画・最終章~完膚なきまでの社会的制裁~』という、恐ろしいフローチャートが描かれていた。


「彼らを野放しにしておいては、私たちの新婚生活(ハネムーン)に支障が出ます。……徹底的に、掃除しましょう」


ラシード様は、そんな私を見て、深く、深く頷いた。


「ああ。やろう。……私の妻を傷つけた代償、たっぷりと払わせよう」


彼は私の肩を抱き、悪魔的な笑みを浮かべた。


「私たちがタッグを組めば、神でも殺せる気がするな」


「神殺しは非効率なのでパスですが、バカ王子と悪女くらいなら、朝飯前です」


私たちは顔を見合わせて笑った。


愛の誓いを立てた直後に、復讐の相談をする。

なんてロマンチックで、なんて効率的な新婚夫婦だろうか。


「では、参りましょうか。……断罪のステージへ」


私たちは手を取り合い、執務室を出た。

その足取りは、バージンロードを歩くときのように軽やかで、そして処刑台に向かう死神のように冷徹だった。
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