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本編 雌花の章
第二話 檸檬の練り香水
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椎奈は男の、脱いだ袴を乱れ箱に入れた。彼がこの袴を脱いだとき、それを畳の上に放っておくだろうと、椎奈は予想していた。予想に反し、彼は素早くも整った形で袴を畳んでいた。案外、神経細やかな人物かも、と思いそうになった。神経細やかな人物は、会って初めての相手の私的空間で眠らせてくれとは言わない、おそらく。
時間通りにやってきたはいいが、いきなり眠らせてくれとはなかなかの蛮勇である。うるさいいびきをかけば即、見合い終了にしてもいいくらいだ。
彼は、椎奈の目の前で静かに眠っている。夏といえど、クーラーの効いた涼しい部屋の中だ。なんとなく気になって、椎奈は彼に薄手のガーゼケットを掛けた。
見合いの相手は、横になってから一分も経たないうちに眠ってしまった。何があったのか分からないが、この疲れようでは、時間通りにここに辿り着くこと自体、精一杯努力してくれたのが分かる。
何故か、これが椎奈に懐かしい気持ちを引き出してきた。でも、何が懐かしいのか思い出せない。
見合いの相手は十五分と言ったが、その十五分も闇の中では長い。灯りがないので、椎奈はほとんど何もできない。
だから椎奈は試しに、男と踵の位置を合わせて横になり、背丈を比べてみた。成人女性の平均身長よりちょっと高い椎奈より、さらに三、四寸ほど上背がある。六尺を超えていそうだ。
しかも胸板も厚い。体が資本の仕事をしているのだろうか。なら、疲れで短い睡眠を欲するのも分かる。
椎奈は畳の上で頬杖を突いて、横向きに伏しながら、眠っている男を観察していた。彼の胸が規則正しく上下している。
他人の寝息を近くでずっと聞くという経験は、椎奈にとってはかなり久しい。
驚いたことに、つられて眠気がやってきた。こんなことがあるのだ。他人が近くにいて、しかも誰だか分からない相手で、リラックスできるなんて。
同じ布団で誰かと一緒に眠るのは、自分が熟睡できなくなるので、椎奈は苦手なのだ。小さな頃、妹や弟と一緒に横になったときも、二人が眠ったら場所を移動していたものだ。
この人は平気……なのだろうか。考えていると、椎奈が見ている前で男はぱちりと目を開け、迷わず椎奈のいる方向に目を向けてきた。
どうして横にいるのが分かったのだろう。驚いた。
「……十五分経ちましたか?」
「ああ。あなたは何をやってるんだ」
「あなたの身長がどのくらいかと、私を基準にして測っていました」
「目算できたか?」
「六尺ありますよね」
「あるな……まどろっこしいから、敬語はいいぞ」
「ごめんなさい。私はそう言われて即タメ口になれるほど器用でないんです。でも、あなたは今のままでも私は気になりません」
男が笑ったような気配がした。
「了解した。ところで、どうして俺の身長なんぞ気になったんだ」
「あなたは私と結婚するかもしれない人だから、単純に興味がありました。あなたを起こさずに、あなたのことを知りたいから、とりあえずまず身長を確認しようかと思った次第です」
「なるほどなあ」
彼は手を突かず、腹筋だけで上体を起こし、椎奈が掛けたガーゼケットを手早く畳んで布団の脇に置いた。椎奈も起き上がり正座した。男も布団から降り、畳の上で椎奈に向かいあって正座した。
「済まなかった。こちらの我が儘を聞いてくれて感謝している。おかげで頭がすっきりした」
「それはよかったです。十五分でよかったですか?」
「ああ問題ない。でだ。ことを始めるにあたり、その前にいくつか質問したい。あなたも、俺に聞きたいことがあれば何でも聞いてくれ」
「はい」
椎奈は一応相手に合わせながらも、内心で「お見合いってこんなだっけ?」とまた思っている。椎奈は今回、人生初のお見合いだ。大まかな流れは頭に入っているが、個人差はあるのだろうと推するしかない。ただシステマティックに進むことに嫌悪はなかった。
「閨で、これはやってほしくないというのはあるか?」
NGプレイのことだろうか。それとも、彼自身が特殊な嗜好をしているのだろうか。いきなりヘンなことをされたらどうしよう。心積もりがいるだろうか。
「……ええと、それは、お尻の穴はやりたくないとかそういう?」
男は咳き込むように笑った。
「いきなりそんな特殊事項から擦り合わせを開始したら、今晩だけじゃ足りないな」
彼は面白かったのか、話しながら肩を揺らして笑っている。
「俺が聞きたいのは、もっと分かりやすいものだ。あなたが触れられたくない場所はあるかな?」
「触れられたくない場所?」
椎奈が彼の真意を汲めていないのが分かったらしい。男は補足してくれた。
「あなたが大丈夫ならいいんだ。例えば、胸が敏感すぎて、気持ちよく感じるどころか、触れられると痛い、という人もいるから。あとは怪我をしているとか、古傷とか。どうだ」
「ない……と思います」
「そうか。なら、実行時に不快だったら都度報告してもらうことにするか」
「あなたは? 触られていやなところはないです?」
「俺か?」
彼は意外なことを聞かれたかのような声を出した。
「そうだな。俺もないが、こちらも思ったことは正直に言おう」
「お願いします」
「それから、ここだけの話にしてほしいことがある」
椎奈は目をぱちくりとさせた。いきなり不穏な前フリではないか。男の声音も半トーン下がっている。
「今日は、ことを済ますにしても避妊したい」
予想外の提案だった。この地の見合いシステムの前提を覆している。椎奈は、はいともいいえとも返すことができず、固まってしまった。相手の真意が分からない。
「俺は、この習慣で、互いのことが気に入らなくて見合いを途中で終えたのに、子供ができたら連絡を取るというところが、どうにも好きになれなくてだな」
「ああ……」
この地の「見合い」は、初日で何にせよ合わないと感じたなら、すっぱりと終わらせるのがよいとされる。違和感を抱えながらずるずる会い続け、途中で合わないと判断し見合いを止めたとしても、女が身ごもってしまう可能性が高くなるからだ。
椎奈は、是非はともかく彼の言わんとするところを理解した。相手も、椎奈がそれを咀嚼したのを察したようだ。緊張を解いて首を動かした。
「だから、初回は避妊をして、お互い相性がいいことを確かめてから、二度目以降に及ぶ手順を提案したい。避妊具は俺が用意しているし、使用済みのモノも俺が持って帰る。ここには残さないので、あなたが誰かに話さない限り、俺たちだけの秘密になる」
馴染んだ習慣というのはなかなか重いもので、相手の提案は合理的かつ人道的だと理解したにも関わらず、椎奈には後ろめたい気分も存在している。とはいえ、彼の提案内容だと、椎奈さえ黙っていれば誰にも非難されないだろう。
「提案を受けます。そうしましょう」
男はうなずいた。
「俺に質問は?」
椎奈は目線を斜め上に向けた。
「沢山あります。でも、それを確認してたら、それこそ夜が明けてしまうかもしれませんね」
「そうだな、じゃあやるか」
彼は立ち上がり、帯を解いている。本当に唐突で、気分の切り替えが早い人なのだな、など感心していて、椎奈もはっとした。
「あ、着物はこちらに」
椎奈は彼の袴を入れた乱れ箱を差し出した。彼はありがたいと礼を言いながら、着物と角帯を畳んで収めた。
私も、自分で脱いだ方がいいのかしら。彼が全裸になったらこちらも倣おう。
椎奈が機会を覗っている前で、彼は畳の上で襦袢一枚になってから、椎奈へ手を差し出した。
ほんの少しだけ躊躇ってしまったが、椎奈は彼の手を握った。あたたかい。夏だからそんなものだろう。
強く手を引かれて、あっと思ったときには、男の腕のなかにいた。彼は椎奈の髪のあいだに鼻面を突っ込んだ。
うわ。こんな簡単に一抱えできちゃうんだ。
体躯がいいひとだとは思ったが、彼は、片手だけで苦にせず椎奈を抱えそうだ。
「……なんだったか、これは」
「はい?」
「いい匂いがする」
彼は椎奈のうなじに鼻をあてて、匂いを嗅いでいるのか。
うちの犬みたいだ。
「檸檬ですか?」
笑いそうになるのは堪えられたが、椎奈の問いの声は弾んでいた。
「あ、そうだ。そう、檸檬だなこれは……いい匂いだ」
椎奈が気に入っている練り香水を、彼も気に入ってくれたらしい。なんとなく嬉しい。
彼は椎奈の首に頬を当て滑らせた。男の乾いた、熱いほどにあたたかい肌の感触は、なかなかよかった。それに髭もそってくれている。
「女性の肌は、本当に気持ちいいな」
感慨深く囁いたあと、男は無言になった。椎奈の背を撫でている。堅い手が、色欲を感じさせない程度に動いている。
紳士であるのはよく分かったが、次に進める気配がない、気がする。
こちらが、先に進んでいいですよと声をかけるべきなのか。
とうとう彼は手を動かすことさえ止めた。部屋はしんとしている。間近で椎奈を抱きしめている男の呼吸音さえ聞こえない。
椎奈の同意を待ってくれているのだろうか。
椎奈の職場の同僚である萩原琴瑚は、婚約者となった大鷹と出会う前まで、誰とも寝たことがなかったそうだ。聞いたそのときは驚いたが、よくよく考えれば椎奈自身も経験が多いわけではない。この地方の男女で統計を取れば、ほぼ底辺の数に違いない。
場数が少ないので、先を進める手順が曖昧だ。椎奈はどう声をかければいいのかよく分からない。
「あの」
「どうした、嫌なのか?」
「違います。逆です。あたたかくていい感じです」
「それはなにより」
椎奈なりの先に進んでよいという意思表示のつもりだったが、全然伝わっていないようだ。
もしかして。
「私じゃ駄目っぽいです?」
男は「ん?」と疑問符を漏らした。
「私じゃ、その気にならないのかな?って、思いまして」
彼は「うーん」とごくごく軽く呻った。
「そういうわけじゃない。俺もな、こういう場面でいきなり押し倒すのもどうかと思っているんだ、これでも。あなたがその気になるような、気障な言葉を出せないものかと、さっきから考えていて」
そうなのか。
「思いつきそうです?」
「さっぱりだ。何も浮かばない。リクエストがあれば言ってほしいくらいだ」
「リクエスト……そうですねえ……」
「冗談だよ」
「もう一度、言ってほしいです。さっきの『女性の肌は、本当に気持ちいいな』って」
またも彼は呻った。
「悪い。改めて言われるとこっ恥ずかしい」
椎奈はふふと笑った。
「私も、あなたの肌の感触、好きです」
彼が言ったのは女性の肌であって、椎奈自身というより一般的な意見だったのかもしれない。たとえそうだとしても、椎奈は彼の言葉が嬉しかった。だから同じ言葉を返した。
不意に、部屋の空気の粘度が増したようになった。
「……そうか?」
言うやいなや、彼は腕を動かした。
実に素早く椎奈の帯は解かれた。浴衣の合わせは当然広がり、椎奈の体の正中が露わになった。
「えっ」
さすがに全身に緊張が走った。反射で足を引きそうになったが、男の手が椎奈の背にあった。力強く引かれ、男と素肌を重ねることになった。
いつの間にか、男も紐帯を解いていたのだ。
椎奈は目を細めた。さっきまで首に感じていたものとは違う。男の肌の感触、固さ、熱さが劇薬のように、椎奈の感覚の中枢を直撃してくる。
肌を合わせているのは、大人の男のからだなのだ。こんなにも、女とは違っているのか。
「すご……い」
男の動きが変わった。椎奈の開いた身頃に手を入れ、素肌の、脇から背に沿って指を這わせながら、うなじに手を添えた。急に色を滲ませた空気の変化に追いつけず、椎奈が思わず出してしまった、惑いの声を食べるように、男は椎奈の口を塞いだ。
唇を唇で食んでいる。気持ちいい。椎奈は目を閉じ、彼の口付けを受け入れた。
お互い、名残を惜しむように、ゆっくり唇は離れていった。椎奈は受けた感覚を味わい、微笑んだ。
「今の、いい。好き」
「そうか」
リクエストに応えたのだろうか、彼はまた同じ口付けを椎奈にしてきた。
「あなたもいい、とても」
彼は椎奈の手を引き、腰を下ろしながら敷き布団へと導いた。
彼はあぐらをかいた。下帯の中が盛り上がっているのが分かる。
どうしてだろう、無性に触れたい。口付けの続きを受けながら、椎奈も、彼に触れたいなら許可を得た方がいいのだろうかと考えている。
前回、男性とこうしたとき、どうだったか。椎奈は記憶を引き出そうとしてみた。相手は当時、付き合っていたクラスメイトだ。顔も名前も覚えているが、行為の記憶は曖昧だ。あのときは、相手も自分も「男性」「女性」とはっきり言ってしまっていいほど、成熟していなかった。
あのときは、高校二年生で。
「……あ」
ダメだ。
閉じた瞼に力が入った。
思い出したくないことまで、思い出してしまった。
最悪だ。
時間通りにやってきたはいいが、いきなり眠らせてくれとはなかなかの蛮勇である。うるさいいびきをかけば即、見合い終了にしてもいいくらいだ。
彼は、椎奈の目の前で静かに眠っている。夏といえど、クーラーの効いた涼しい部屋の中だ。なんとなく気になって、椎奈は彼に薄手のガーゼケットを掛けた。
見合いの相手は、横になってから一分も経たないうちに眠ってしまった。何があったのか分からないが、この疲れようでは、時間通りにここに辿り着くこと自体、精一杯努力してくれたのが分かる。
何故か、これが椎奈に懐かしい気持ちを引き出してきた。でも、何が懐かしいのか思い出せない。
見合いの相手は十五分と言ったが、その十五分も闇の中では長い。灯りがないので、椎奈はほとんど何もできない。
だから椎奈は試しに、男と踵の位置を合わせて横になり、背丈を比べてみた。成人女性の平均身長よりちょっと高い椎奈より、さらに三、四寸ほど上背がある。六尺を超えていそうだ。
しかも胸板も厚い。体が資本の仕事をしているのだろうか。なら、疲れで短い睡眠を欲するのも分かる。
椎奈は畳の上で頬杖を突いて、横向きに伏しながら、眠っている男を観察していた。彼の胸が規則正しく上下している。
他人の寝息を近くでずっと聞くという経験は、椎奈にとってはかなり久しい。
驚いたことに、つられて眠気がやってきた。こんなことがあるのだ。他人が近くにいて、しかも誰だか分からない相手で、リラックスできるなんて。
同じ布団で誰かと一緒に眠るのは、自分が熟睡できなくなるので、椎奈は苦手なのだ。小さな頃、妹や弟と一緒に横になったときも、二人が眠ったら場所を移動していたものだ。
この人は平気……なのだろうか。考えていると、椎奈が見ている前で男はぱちりと目を開け、迷わず椎奈のいる方向に目を向けてきた。
どうして横にいるのが分かったのだろう。驚いた。
「……十五分経ちましたか?」
「ああ。あなたは何をやってるんだ」
「あなたの身長がどのくらいかと、私を基準にして測っていました」
「目算できたか?」
「六尺ありますよね」
「あるな……まどろっこしいから、敬語はいいぞ」
「ごめんなさい。私はそう言われて即タメ口になれるほど器用でないんです。でも、あなたは今のままでも私は気になりません」
男が笑ったような気配がした。
「了解した。ところで、どうして俺の身長なんぞ気になったんだ」
「あなたは私と結婚するかもしれない人だから、単純に興味がありました。あなたを起こさずに、あなたのことを知りたいから、とりあえずまず身長を確認しようかと思った次第です」
「なるほどなあ」
彼は手を突かず、腹筋だけで上体を起こし、椎奈が掛けたガーゼケットを手早く畳んで布団の脇に置いた。椎奈も起き上がり正座した。男も布団から降り、畳の上で椎奈に向かいあって正座した。
「済まなかった。こちらの我が儘を聞いてくれて感謝している。おかげで頭がすっきりした」
「それはよかったです。十五分でよかったですか?」
「ああ問題ない。でだ。ことを始めるにあたり、その前にいくつか質問したい。あなたも、俺に聞きたいことがあれば何でも聞いてくれ」
「はい」
椎奈は一応相手に合わせながらも、内心で「お見合いってこんなだっけ?」とまた思っている。椎奈は今回、人生初のお見合いだ。大まかな流れは頭に入っているが、個人差はあるのだろうと推するしかない。ただシステマティックに進むことに嫌悪はなかった。
「閨で、これはやってほしくないというのはあるか?」
NGプレイのことだろうか。それとも、彼自身が特殊な嗜好をしているのだろうか。いきなりヘンなことをされたらどうしよう。心積もりがいるだろうか。
「……ええと、それは、お尻の穴はやりたくないとかそういう?」
男は咳き込むように笑った。
「いきなりそんな特殊事項から擦り合わせを開始したら、今晩だけじゃ足りないな」
彼は面白かったのか、話しながら肩を揺らして笑っている。
「俺が聞きたいのは、もっと分かりやすいものだ。あなたが触れられたくない場所はあるかな?」
「触れられたくない場所?」
椎奈が彼の真意を汲めていないのが分かったらしい。男は補足してくれた。
「あなたが大丈夫ならいいんだ。例えば、胸が敏感すぎて、気持ちよく感じるどころか、触れられると痛い、という人もいるから。あとは怪我をしているとか、古傷とか。どうだ」
「ない……と思います」
「そうか。なら、実行時に不快だったら都度報告してもらうことにするか」
「あなたは? 触られていやなところはないです?」
「俺か?」
彼は意外なことを聞かれたかのような声を出した。
「そうだな。俺もないが、こちらも思ったことは正直に言おう」
「お願いします」
「それから、ここだけの話にしてほしいことがある」
椎奈は目をぱちくりとさせた。いきなり不穏な前フリではないか。男の声音も半トーン下がっている。
「今日は、ことを済ますにしても避妊したい」
予想外の提案だった。この地の見合いシステムの前提を覆している。椎奈は、はいともいいえとも返すことができず、固まってしまった。相手の真意が分からない。
「俺は、この習慣で、互いのことが気に入らなくて見合いを途中で終えたのに、子供ができたら連絡を取るというところが、どうにも好きになれなくてだな」
「ああ……」
この地の「見合い」は、初日で何にせよ合わないと感じたなら、すっぱりと終わらせるのがよいとされる。違和感を抱えながらずるずる会い続け、途中で合わないと判断し見合いを止めたとしても、女が身ごもってしまう可能性が高くなるからだ。
椎奈は、是非はともかく彼の言わんとするところを理解した。相手も、椎奈がそれを咀嚼したのを察したようだ。緊張を解いて首を動かした。
「だから、初回は避妊をして、お互い相性がいいことを確かめてから、二度目以降に及ぶ手順を提案したい。避妊具は俺が用意しているし、使用済みのモノも俺が持って帰る。ここには残さないので、あなたが誰かに話さない限り、俺たちだけの秘密になる」
馴染んだ習慣というのはなかなか重いもので、相手の提案は合理的かつ人道的だと理解したにも関わらず、椎奈には後ろめたい気分も存在している。とはいえ、彼の提案内容だと、椎奈さえ黙っていれば誰にも非難されないだろう。
「提案を受けます。そうしましょう」
男はうなずいた。
「俺に質問は?」
椎奈は目線を斜め上に向けた。
「沢山あります。でも、それを確認してたら、それこそ夜が明けてしまうかもしれませんね」
「そうだな、じゃあやるか」
彼は立ち上がり、帯を解いている。本当に唐突で、気分の切り替えが早い人なのだな、など感心していて、椎奈もはっとした。
「あ、着物はこちらに」
椎奈は彼の袴を入れた乱れ箱を差し出した。彼はありがたいと礼を言いながら、着物と角帯を畳んで収めた。
私も、自分で脱いだ方がいいのかしら。彼が全裸になったらこちらも倣おう。
椎奈が機会を覗っている前で、彼は畳の上で襦袢一枚になってから、椎奈へ手を差し出した。
ほんの少しだけ躊躇ってしまったが、椎奈は彼の手を握った。あたたかい。夏だからそんなものだろう。
強く手を引かれて、あっと思ったときには、男の腕のなかにいた。彼は椎奈の髪のあいだに鼻面を突っ込んだ。
うわ。こんな簡単に一抱えできちゃうんだ。
体躯がいいひとだとは思ったが、彼は、片手だけで苦にせず椎奈を抱えそうだ。
「……なんだったか、これは」
「はい?」
「いい匂いがする」
彼は椎奈のうなじに鼻をあてて、匂いを嗅いでいるのか。
うちの犬みたいだ。
「檸檬ですか?」
笑いそうになるのは堪えられたが、椎奈の問いの声は弾んでいた。
「あ、そうだ。そう、檸檬だなこれは……いい匂いだ」
椎奈が気に入っている練り香水を、彼も気に入ってくれたらしい。なんとなく嬉しい。
彼は椎奈の首に頬を当て滑らせた。男の乾いた、熱いほどにあたたかい肌の感触は、なかなかよかった。それに髭もそってくれている。
「女性の肌は、本当に気持ちいいな」
感慨深く囁いたあと、男は無言になった。椎奈の背を撫でている。堅い手が、色欲を感じさせない程度に動いている。
紳士であるのはよく分かったが、次に進める気配がない、気がする。
こちらが、先に進んでいいですよと声をかけるべきなのか。
とうとう彼は手を動かすことさえ止めた。部屋はしんとしている。間近で椎奈を抱きしめている男の呼吸音さえ聞こえない。
椎奈の同意を待ってくれているのだろうか。
椎奈の職場の同僚である萩原琴瑚は、婚約者となった大鷹と出会う前まで、誰とも寝たことがなかったそうだ。聞いたそのときは驚いたが、よくよく考えれば椎奈自身も経験が多いわけではない。この地方の男女で統計を取れば、ほぼ底辺の数に違いない。
場数が少ないので、先を進める手順が曖昧だ。椎奈はどう声をかければいいのかよく分からない。
「あの」
「どうした、嫌なのか?」
「違います。逆です。あたたかくていい感じです」
「それはなにより」
椎奈なりの先に進んでよいという意思表示のつもりだったが、全然伝わっていないようだ。
もしかして。
「私じゃ駄目っぽいです?」
男は「ん?」と疑問符を漏らした。
「私じゃ、その気にならないのかな?って、思いまして」
彼は「うーん」とごくごく軽く呻った。
「そういうわけじゃない。俺もな、こういう場面でいきなり押し倒すのもどうかと思っているんだ、これでも。あなたがその気になるような、気障な言葉を出せないものかと、さっきから考えていて」
そうなのか。
「思いつきそうです?」
「さっぱりだ。何も浮かばない。リクエストがあれば言ってほしいくらいだ」
「リクエスト……そうですねえ……」
「冗談だよ」
「もう一度、言ってほしいです。さっきの『女性の肌は、本当に気持ちいいな』って」
またも彼は呻った。
「悪い。改めて言われるとこっ恥ずかしい」
椎奈はふふと笑った。
「私も、あなたの肌の感触、好きです」
彼が言ったのは女性の肌であって、椎奈自身というより一般的な意見だったのかもしれない。たとえそうだとしても、椎奈は彼の言葉が嬉しかった。だから同じ言葉を返した。
不意に、部屋の空気の粘度が増したようになった。
「……そうか?」
言うやいなや、彼は腕を動かした。
実に素早く椎奈の帯は解かれた。浴衣の合わせは当然広がり、椎奈の体の正中が露わになった。
「えっ」
さすがに全身に緊張が走った。反射で足を引きそうになったが、男の手が椎奈の背にあった。力強く引かれ、男と素肌を重ねることになった。
いつの間にか、男も紐帯を解いていたのだ。
椎奈は目を細めた。さっきまで首に感じていたものとは違う。男の肌の感触、固さ、熱さが劇薬のように、椎奈の感覚の中枢を直撃してくる。
肌を合わせているのは、大人の男のからだなのだ。こんなにも、女とは違っているのか。
「すご……い」
男の動きが変わった。椎奈の開いた身頃に手を入れ、素肌の、脇から背に沿って指を這わせながら、うなじに手を添えた。急に色を滲ませた空気の変化に追いつけず、椎奈が思わず出してしまった、惑いの声を食べるように、男は椎奈の口を塞いだ。
唇を唇で食んでいる。気持ちいい。椎奈は目を閉じ、彼の口付けを受け入れた。
お互い、名残を惜しむように、ゆっくり唇は離れていった。椎奈は受けた感覚を味わい、微笑んだ。
「今の、いい。好き」
「そうか」
リクエストに応えたのだろうか、彼はまた同じ口付けを椎奈にしてきた。
「あなたもいい、とても」
彼は椎奈の手を引き、腰を下ろしながら敷き布団へと導いた。
彼はあぐらをかいた。下帯の中が盛り上がっているのが分かる。
どうしてだろう、無性に触れたい。口付けの続きを受けながら、椎奈も、彼に触れたいなら許可を得た方がいいのだろうかと考えている。
前回、男性とこうしたとき、どうだったか。椎奈は記憶を引き出そうとしてみた。相手は当時、付き合っていたクラスメイトだ。顔も名前も覚えているが、行為の記憶は曖昧だ。あのときは、相手も自分も「男性」「女性」とはっきり言ってしまっていいほど、成熟していなかった。
あのときは、高校二年生で。
「……あ」
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思い出したくないことまで、思い出してしまった。
最悪だ。
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