なつのよるに弐 叢雨のあと

まへばらよし

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本編 雌花の章

第五話 最初の転機

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 椎奈は布団の上で伸びをし、時間を確認した。平日の起床時間より早い。枕だけ普段に使っているものを持ってきたが、眠りは浅かった気がする。
 昨夜、いろいろあって遅くまで起きていたので、いつもと同じ時間に起きることはできないだろうと予想していたが、体は覚えていたらしい。布団を上げようと立って、ガーゼケットの端を持ち上げたとき、カサリと音を立てて何かが落ちた。
「……え? ……あっ」
 避妊具だ。どうしてと身構えたが、思い至った。昨晩の見合い相手が持参したものだ。彼は椎奈に彼曰く「粗相」を仕出かしたときに、まず椎奈の顔を拭ってくれたが、持参の懐紙を使ったのだろう。そこに避妊具も入れていたのだ、多分。それが落ちたが、暗くて分からなかったのだろう。それに焦ってもいたし。
 誰も見ていないが、椎奈は気まずさに左右を見渡してからそれを掴んだ。


 離れを出たとき、外は明るかった。
 椎奈の住んでいる家屋は、見合い用の離れより南西にある。南東側は伯父の家だ。塀を囲んだ同じ領域内にある。
 椎奈は南西側の自宅、裏口の戸を開けた。中に入ると軽快な足音が、だんだん近寄ってくる。
「ただいま」
 ジャーマン・シェパードの、どどいつが椎奈を出迎えた。草履を脱いで上がり、首と背中を撫でると、どどいつは椎奈のうなじに鼻面を突っ込んできた。
 椎奈は声を出して笑ってしまった。どどいつは、くんくんと何かを嗅いでいる。本当に、昨晩に会った見合いの相手と同じ行動をしている。
「あ」
 どどいつは、椎奈から見知らぬ人間の匂いを嗅ぎ取ったのだ。昨晩、見合いの男が帰る前、彼は椎奈のうなじをしっかりと掴んでいた。
 どどいつは元警察犬で、子供、認知症患者等の迷子や、災害で不明になった人を探索する訓練がなされている。二年前に引退して、菊野家が引き取ったのだ。
 そういった「プロ」のどどいつが椎奈の首を熱心に嗅いでいる。気恥ずかしさに止めさせようとしたとき
「あれ、おねえ?」
 椎奈はぎくっと肩を動かした。現在高校生の、妹の奈月なつきが、廊下からやってきた。
「おはよ。早いじゃん……なんかあった?」
「え、いや……別に」
 情事(未満)の翌朝に平然と妹と話ができるほど、椎奈は場慣れていない。奈月と双子の、弟の香月かつきでなくてよかった。弟妹たちと仲は悪くないが、異性だとより気まずい。
 奈月の方も目を泳がせたが、どどいつの動きを見て首を傾げた。
「おねえ。帯になにか入れてんの?」
「え?」
 どどいつは椎奈の首から帯にターゲットを移していた。帯には避妊具がある。ここにもかの男の匂いが残っているのだ。
「……っあー……なんでもない」
「おねえ嘘つくの下手すぎなんだけど」
 どどいつへ停止の命を出す前に、任務を遂行されてしまった。椎奈の帯から押し出されたものが床に落ち、どどいつはそれの匂いを嗅いで軽く一声吠えた。
「えらい!」
 奈月はどどいつの背をわしわし撫でたが、椎奈が慌てて手に隠したものにもしっかりと目を留めていた。
「おねえ……なんでコンドーム?」
「お母さんには、黙っててくれる?」
 奈月はどどいつの肩を組みながら、生意気な半笑いを見せた。


 椎奈は早朝をいいことに、散歩と称してどどいつと家から逃げ出てきた。大体一時間で帰ることができるくらいのコースを脳裏に描き、その道順を歩いている。
 盛夏は過ぎ、今の時間は外を歩いても涼しい。風はなかったが、ゆっくりと散歩をしている分には大汗もかかなかった。川辺の桜の木は、青々と茂っている。春では人気になる散歩コースで、葉の時期も、向きによって木陰にもなるので、歩く人はそれなりにいる。
 時々止まるどどいつの生理現象に合わせ、椎奈も風景を眺め楽しんだ。
 終盤で公園の前を通るルートに入ったとき、椎奈は公園のベンチで誰かが横になっているのを見つけた。
 鼓動が早くなった。
 具合が悪いのだろうか。そうであるなら救急車を呼ぶ必要があるのか、確認もするべきなのだが。
 年寄りではない。浮浪者でもなさそうだ。小柄に見えるが、男性であることは間違いない。
 声をかけるか迷い、足がすくんだ。
 具合が悪いのなら助けたいと思うが、そうでなければ、こちらに対し何をしてくるのか分からない。
 携帯電話は持っているが、相手の状況を知る前に、救急や警察に電話をするわけにはいかない。

 そのとき、どどいつが一声、ワンと鳴いた。
 ベンチに横になっていた人物が体を起こした。
 少年だった。中学生くらいと、椎奈は目算をつけた。
「すげえ……かっこいい」
 彼はどどいつに目を留め笑った。

 今は朝の六時十分ほどだろう。時計を見ていないが、散歩の出発と歩いたルートでだいたいの時間経過は把握している。未成年者を保護すべき時間帯ではない。
 彼はここで夜を明かしたのだろうか。それとも、単なる朝の散歩の途中休憩か。
 思っていたより幼く感じる。ちょっと体の大きな小学生かもしれない。座ったままで、危害を加えてくる気はなさそうだった。椎奈は少し警戒を解いた。
 そもそも彼は椎奈の存在を無視して、ずっとどどいつを観察していた。
「警察犬っぽい」
「いいセンいってる。警察犬だった子よ。名前は、どどいつって言うの」
 少年は眉根を寄せた。
「どどい……なに?」
「ジャーマン・シェパードだから」
 彼は怪訝な顔をしたままだ。話しかけられたことに不快さを示しているのではなく、椎奈の言葉の意味が分からないようだ。
 初歩的な英語しか習っていない、もしくは英語そのものを習っていない年齢か……それとも、学校に登校していないのか。
 浴衣に下駄という格好だ。祭りでもないのに浴衣のまま外出するのは、珍しくはあるが、なくはない。ただ下駄は背格好の割に大きすぎる。
 浴衣の裾から先の、手足や顔に痣や傷はない。
 素人の椎奈に、事件性など分かるわけがないが、少なくとも今、警察や救急に連絡をする必要はなさそうだ。
 しかし、放置していいのか。

 ──何か困ったことはない?

 その一言を、出すべきか迷っていたとき、どどいつがリードを引いた。どどいつに引かれ、足を踏み出しながら、ベンチの少年を振り返って見たが、彼はベンチに寝転んでいた。
 椎奈は結局、どどいつに促されたかたちで、その場を後にした。

 椎奈は帰宅し、勝手口でまずどどいつの足を拭いた。どどいつは部屋に上がると椎奈に背を向けお座りの格好をした。間もなく、廊下から椎奈の母、いくが顔を覗かせた。
「おはよう。奈月から聞いたけど、起きたのが早かったそうね。離れだと眠れなかった?」
「おはよう。そんなことはないわ。多分、体内時計で起きちゃった」
 椎奈は母へ、ゆるく笑顔を見せた。郁はそんな椎奈を見て首を傾げた。
「お見合いで何かあったの?」
「ううん。どうして?」
「なんだか気落ちしてるみたいだから」
 いつも通り振る舞っているつもりでも、郁は椎奈が落ち込むとそれを察する。
「それともどどいつの散歩で何かあったの?」
「中学生くらいの男の子が、ベンチで横になってて」
 椎奈は少年の特徴と、場所とおおまかな時間を郁に告げた。郁は考え込むような仕草を見せた。
「椎奈、私たちが何度も言ってることだけど。あなたも懲りないというか」
 母の言うことは分かっている。
「あなたは何の訓練も勉強もしていない一般の、しかも若い女性なんだから。相手が困っていそうというあなたの自己判断だけで、誰彼構わず声をかけるのは止めなさい」
「……はい」
 椎奈は目を伏せた。


 母の言うことが正しいのだろう。同じ年頃の友人が、自分と同じことをしたと聞いたら、椎奈だって眉をひそめる。例えば、目の前にいる仲のいい同僚が、ベンチで眠っている見知らぬ男性に声をかけにいこうとしたら、椎奈は迷わず止める。現に椎奈は、彼女の夫となった男性が怖くて、大丈夫なのかと面と向かって聞いたほどだ。
 ただ、郁は、椎奈の母親という理由だけでなく、職業柄、椎奈を諫めたのだ。
 椎奈が自分の思考の奥から我に返ると、仲のいい同僚──大鷹琴瑚、旧姓萩原である彼女は、曖昧な笑顔を浮かべていた。
「しいちゃん、大丈夫?」
 しまった。琴瑚を見つめながら黙ってしまっていた。
 慌てて取り繕ったが、琴瑚はなお椎奈を観察している。心配されているのかと思ったが、琴瑚の視線はせわしない。
 あ、そうか。琴瑚はお見合い初日のことを聞きたいのだ。
 思い至ると、椎奈も落ち着かなくなってきた。昨晩はいろいろあったが、そのどれもこれも、昼間から口に出すのが憚られる。
 そのとき、はたと思い出した。琴瑚は旧家の娘だ。今回の見合いに関しても、いろんなしがらみがあったのではないだろうか。聞いてみたい。
「ことちゃんは、親族のひとにいろいろ言われることある?」
 琴瑚は、椎奈の真剣さを帯びた問いを聞き、表情を引き締めた。
「うん。伯母さんからいくつか。父方の伯母なんだけど、今回のこと叱られた」
 琴瑚は、この地の風習に沿った形式の見合をしたが、通常の、子供ができるまで連絡をとってはならないという決まり事を破った。身内から非難されるのもありそうな話だ。
「わたしは甘ったれで、そもそも伯母さんからよく思われてなかったんだけど」
「昔の人って頭固いから。先輩も言ってたけど、このご時勢、完全に秘匿なんて難しいのに、別にいいじゃないよねえ」
 そうよねと琴瑚も同調している。
「しいちゃんも何かあったの?」
 椎奈は後ろ手について、顔を天井に向けた。
「うち、武家の家系なのよ」
 椎奈は視線を上に向けていたが、琴瑚のえっという驚きの声は聞こえた。顔を向けると、琴瑚は予想通りの驚いた顔をしていた。
「両親も、伯父も伯父の子供、従兄弟も全員警察官」
「……そう、なんだ」
 琴瑚は察したのだ。何をどう返せばいいのか分からないのだろう。琴瑚は大抵、聞き役に徹している。他人に気持ちよく話をさせることができる、いい長所を持っている。
「私も警察官に就くべきなのか何度か思ったんだけど、結局、試験さえ受けなかった」
 母にも伯父にも言われた。
 迷っているなら、止めておいた方がいい、別の職にしなさいと。
「それで、何か言われるの?」
 琴瑚は心配そうな顔をしていた。椎奈は首を左右に振った。
「誰も何も」
 どちらがよかっただろう。武家の出のくせに警察官になれなかったと非難されるのと、何もなかったかのように、最初からそんな問題などなかったかのように流されてしまうのと。
「あ……え」
 椎奈が顔を向けると、琴瑚は口元に手を宛てていた。
「菊野……しいちゃんの、お父さんって、……あの?」
 椎奈の方が驚いた。確かに大きな事件だったが、七年も前の出来事なのに。
「うん。七年前のあの事件の被害者の一人。無差別殺人を犯した犯人の、暴走した車を止めようとして殉職した警官だった」

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