なつのよるに弐 叢雨のあと

まへばらよし

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本編 雌花の章

第六話 臆病者

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 過去に、旗本、御家人と区分されていた武家は、現在ほとんどが世襲で警察官として治安維持に貢献している。徳川家を頭として、過去に城のあった場所は、現在警察庁となっている。
 大昔は男性のみが就けた職であったが、五代前の徳川将軍が、時代に合わないということで女性の登用も認めるようになった。
 それから、男女限らす、武家の血筋の者は警察官となっている。
 椎奈は、その「通例」から外れ一般職に就いたのだ。


 椎奈は帰宅して夕食を作った。奈月と香月は、どどいつの散歩に行っている。高校生の二人は体力が有り余っているのか、部活をしていようが、帰宅したら半着と短い袴、地下足袋という格好に着替え、ランニングがてらどどいつの散歩に行く。さらに暗くなってから、香月は単独でどどいつを連れ出すこともある。体力お化けだ。

 食事が出来上がる頃、双子の弟妹が帰ってきた。二人ともセンサーか何かを搭載しているのかと思うほどに、完成間際に帰ってくる。
「今日なに~」
 ただいまも言わずに台所に入ってきたのは香月だ。
「メインはトンカツ。蕗子伯母さんが作ってくれたやつよ」
「マジ? 伯母さんのトンカツ~」
 声を揃えて奈月と香月は万歳をしてそのままハイタッチをした。
「おねえのも悪くないんだけど、蕗子伯母さんのトンカツっておねえのよりなんか香ばしいんだよね~」
「パン粉かなあ」
 変わりのない日常だ。椎奈は壁掛け時計を確認した。
 あと数時間で、非日常に入れ替わる。

 三人で夕食を食べ始めたとき、郁が帰宅して、椎奈たちより遅れて食事についた。
 奈月と香月は夕食を終えるなり、どどいつを連れさっさとキッチンを出てしまった。いつもならお茶も飲んでいくのに、どうしたのか。
「何かあったのかな、あの子たち」
 独り言のつもりで椎奈は言ったが、郁は苦笑した。
「椎奈、あなたがこの後、離れに行くからよ。あの子たち、所在がないのよ」
 椎奈は目を瞬かせた。
「正直、私もなんだか不思議な気分よ。娘が敷地内で知らない男と会ってるなんて、ねえ」
 そうなのだ。郁はこの地の出身ではない。曰く、ほぼ勘当に近い形で母は故郷を出、単身この地にやってきた。父とは見合いではなく、恋愛結婚をしたのだ。だから、母はこの地の見合いの習慣に則って長子の椎奈を身ごもってはいないし、習慣に関する知識がほぼなく慣れていない。
「私も身の置き所がないのよ。署でさ、同い年くらいの娘さんがいる同僚に聞いてみたけど、そんなこと思ったこともないって。土地が変われば価値観も変わるでしょうけど、私からしたら驚くことばっかり」
 そんなもんかあ、と椎奈は相づちをうった。
「ここの地以外だったら、私より娘の父親の方が身の置き所がないって思ってそうだけど、お父さん……勝善かつよしさんが生きていたら、今の私みたいにオロオロしてなくて、逆に私のことおかしいって笑ったでしょうね」
 椎奈も緩く笑った。
「そうかも」
 母の視線が遠くなった。父を思い出しているのだ。
「肩、叩こうか?」
「え、いいの? ありがたいわあ」
 郁の背に周り、椎奈は母の肩をトントンと叩いた。
「きもちいい~」
「書類仕事多かった?」
「多かった。肩はガチガチでしょ」
 郁は気持ちよさげに「生き返った~」とのたまった。


 麦茶とグラスが入った籐籠を腕に下げ、椎奈は離れに向かった。約束の十分前だ。部屋を涼しくしておきたい。暗く、星はおろか月さえ確認できない夜空だ。ごくごく遠くで空が光った。
 雷だ。こちらに来るだろうか。雨も。
 雨に降られる前に、彼がここに到着できますように。

 見合い相手は、やってくるなり大雨が降りそうだと教えてくれた。招き入れると、彼は用意していた座布団の上に正座で腰掛けた。
「タオルいります? お茶もあるのでどうぞ」
「いや、そこまでじゃない……っと、ありがとう」
 麦茶の入ったグラスを手渡すと、彼は受け取って飲んだ。飲み干していないグラスを持ったまま左右を見渡すので、椎奈は手を出した。
「こっちに膳があります」
「悪いな」
 彼はニヤリと笑ったようだ。
「なんですか?」
「長年連れ添った夫婦みたいじゃないかって思った」
 椎奈は肩をすくめた。
「そうかしら」
「そうか、あなたにとってはこれが普通なのか」
 これ、とはなんだろう。椎奈は疑問に思ったが、質問せずに男の手を取った。
「こっちです」
 手を引いて、障子を経て、奥の小さな座敷へ男を導いた。
「今日はどうですか。布団でまず眠りたい?」
 ははと、彼は快活な笑い声を出した。
「今日は平気だ」
 男は敷かれた布団の横の、並べられた座布団の一つに座した。椎奈は膳を持ってきてグラスを置いた。横に魔法瓶も。
 椎奈は男に向き合って腰を落ち着かせた。
 今日は大丈夫だ。できるはずだ。
 椎奈は何度も自分に言い聞かせた。何も考えるんじゃない。考えるな。
 笑え。

「昨日、俺はここに避妊具を置いて帰ってなかったか?」
「ええ、そう」
 椎奈は今朝の、どどいつの行動を思い出してクスクスと笑った。ちょうどいい、笑ってもおかしくない話題がある。
「今朝、布団を片づけていたら出てきました。びっくりして、帯に挟んで母屋に帰ったんだけど、どどいつが、ふふ」
 笑い始めると、どこで止めればいいのかも、正しく笑えているのかも、分からなくなった。
「俺の避妊具に反応したのか?」
「そうなんです」
 椎奈はまだ笑い続けた。
「まず、私の首元に鼻をつっこんできて、匂いを嗅いだの。昨晩のあなたみたいだって笑っていたら、そこから同じ匂いを辿ったみたいで、帯に鼻を近付けてきて、見つかってしまいました」
 椎奈が笑っているあいだ、彼は一言も話さなかった。
「どどいつは、あまり私の練り香水が好きじゃないみたいで。だから私も、普段はつけないんですけど、昨晩はあなたが、私の頭を洗ったから、檸檬の匂いが消えたのだと思うんです。だから余計に、私の首に残ったあなたの匂いが気になったみたい」
 彼は話さない。どうして?
 暗闇で、彼が今、どういう表情をしているのかも分からない。
 さすがに、笑い続けるのには無理があった。椎奈は声を落とした。
「ごめんなさい。親馬鹿……というか、飼い主馬鹿でしたか」
 相づちさえ打ってくれない男を椎奈は上目で見た。
「そうじゃない。今日、何かあったのか?」
「……はい?」
 彼の声は静かだった。
「灯りが点いていたら、俺も分からなかったかもしれん。あなたの姿が、今はよく見えないからこそ違和感がある。今日のあなたは変にテンションが高い。無理をしているように感じる」
 膝の上に手を置いたまま、彼は動かないでいる。じっと椎奈の子細を観察しているようだ。
 どうして知られた?
 そのとき、天を割る音がした。
「ひっ」
 閃光が先触れとして見えず、音と当時に雷光が、天窓から一瞬見えた。
 椎奈は自分の肩を抱き、前のめりに縮こまった。その背から、男が椎奈を抱え込んだ。
 余韻のように空が鳴っている。雷が間近に落ちたのだ。
「大丈夫か?」
 椎奈は返事ができなかった。心臓がばくばく鳴っている。またも、巨音が空気を割いた。次もびくりとからだが反応したが、男がきつく抱きしめてくれた。
 何故か、それが椎奈の緊張を和らげてくれた。実際、安堵で体の力が抜けた。
 バラバラと大きな音がし始めた。彼の予想通り、大粒の雨が降り出してきた。
「あなた、かさ、持って、る?」
「俺のことが心配なのか。この雨だったら、すぐに雷と一緒に移動するだろう」
 そうかもしれない。
「あなたこそ、雷が苦手なのか?」
「大きな音だったからびっくりした……」
「そうか。車のクラクションも苦手なほうか?」
 椎奈は「え」と声を出し、もそもそと動いた。彼は腕を緩めてくれたが、椎奈を解放はしなかった。
「……ええ。間近でいきなり鳴らされるとびっくりしてしまう」
 彼は椎奈の膝裏に手を挿し入れ、軽い動作ですくい上げたかと思うと、布団へ横にさせた。彼は椎奈の隣に寝転び、椎奈を自分の胸元に引き寄せた。
「まだ心音が早いな」
 彼は椎奈の首元に手を添え、脈を確認していた。
「だいたいあなたのことが分かった」
 椎奈は目を伏せた。気弱だと言われるのだろう。
 何度思い知らされても辛い。
「穏やかな話し方をするし、動作もゆっくりで、せかせかともしていない。声も可愛らしくて、そういう人は顔立ちもあどけない」
 椎奈は瞼を上げた。
 話し方が穏やか?声が可愛い?──そんなこと、初めて言われた。何を言っているのかと、椎奈はまじまじと彼を見たが、男はそのまましたり声で続けている。
「立ち居振る舞いに余裕もあって、……おっとりさんって感じだ。あなたは多分、末っ子か独りっ子」
 すごい。何一つ合ってない。
 あまりに違いすぎて、椎奈は男の腕の中で、声を出さず笑ってしまった。
「合っているか間違っているかは言わないでくれ。あなたの身元が分かってしまう。俺はパーソナリティ診断が得意なんだ」
「そうね」
 笑いを堪えていると、彼は椎奈の背をぽんぽんと軽くたたいた。
「落ち着いてきたか?」
 男は、椎奈の首元に手を添えていた手を後頭部へ滑らせ、椎奈を彼の胸に押し当てた。
「心音、俺のと比べてみろ」
 椎奈は彼の背に手を回した。
 天窓から光が差し入った。二秒後、大きな落雷音がした。
「遠くなったな」
「先に光るのが見えると、予測がつくんです。だから遠いとさっきみたいに驚いたりしない」
「そうだな」
 椎奈の耳には、彼の規則正しい心音が聞こえる。心強い。
「いい音」
「俺の心音か?」
「そう」
「心音を褒められたのは初めてだな」
 彼は肩を揺らして笑っている。
「素敵な音よ」
「いいな。その調子でもっと俺のことを褒めてくれないか」
 椎奈は、彼の背に回していた手を首のうしろに動かした。
「ここ。手触りが好きです」
 彼の髪の感触が心地よい。
「そうなのか。なんだろうな。俺もあなたのここが好きだ」
 彼は椎奈と同じように、椎奈のうなじに手を入れた。あたたかな手が後頭部を軽く掴んでいる。
「私も、あなたにそこに触ってもらうのも好きです。嬉しい」
「今日も檸檬の香りがする」
 男は椎奈の方へからだを乗り上げ、耳の後ろに鼻を近付けた。椎奈は笑ってしまった。
「やっぱり、あなた、どどいつと行動が一緒だわ」
 雨は一層、強い音となって降り続けている。雷の音はだんだんと遠くなっているようだ。
 椎奈は男の胸元で、襟に鼻を近付けた。
「あなたは、あまり匂いがしない。ここに来る前に、着替えもシャワーも済ませてしまうのね」
 礼儀としてはそうだろう。適っている。昨晩も、睡眠時間を削ってそうしてくれたのだ。
「俺の匂いを知りたいのか?」
「うん。どどいつが羨ましい」
 彼はまた顔を上げた。椎奈の首元に鼻を触れさせるのだと思っていたが、違った。仰向けにされ、口付けを受けた。
 肉欲より、愛情がある、そんな気がする。
「嬉しい。慰めてくれてるみたい」
 彼はさらに額を撫でてくれた。
「今日、何があった?」
 どうしてだろう。親身になって聞いてくれている。本当に、私が落ち込んでいる理由を知りたいようだ。
「私は臆病なの」
 椎奈は長く嘆息した。
「大きな音が好きじゃない。びくっとしてしまう。音だけじゃなくて、大きな声で話をしているひとも怖い。自分が怒られていなくても、大声で怒られている人を見たり聞いたりしても、心音が早くなる。困っている人を見ても、助けてあげないといけないって思うのに、相手が男の人だと足が竦むの。何も見なかったフリをしてその場を後にしてしまう」
 椎奈が高校三年生になって、進路を決めるとき、母からも、父の兄である伯父からも、言われたのだ。
 ──警察官になれる自信がないなら、止めておけ。
「臆病なのは悪いことじゃないだろう」
 慰めてくれているのは分かるが、椎奈はそれに対する模範回答を聞き飽きている。猪突猛進より、慎重にことを進めるほうがリスクは低い。危機管理ができていることだと。
 そんな簡単に、自分に言い聞かせて納得できるなら、こんなふうには悩まない。
「俺はその方が安心する」
 椎奈は顎を上げ、彼の顔の、目の辺りに視線を合わせた。
「あなたが?」
 彼は椎奈のこめかみに顎を当てた。あたたかい。
「臆病でいてくれ。俺のために」
「あなたのため……?」
「そうだ」

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