届かない声のそばで ― 元自衛官カウンセラー・篠原梓の傾聴録

藤原遊

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間章:スーパービジョン

「今日の望月さんの件、記録読んだよ。……よかったね」

河合先生の声は、どこまでも低くて丸い。
冬の夕方、外の光が橙色に傾き始めた面談室の中。私たちは、互いにノートを手に、湯呑みの間に静かに座っていた。

「“よかった”……でしょうか」

私はゆっくりと目線を上げた。
先生の目は、いつものようにまっすぐだった。人を遮らず、かといって媚びることもない。

「“言えた”んやろ?彼女、初めて。自分の痛みを声にした。
 それは、小さな革命やで。本人にとっては、たぶん世界がひっくり返るくらいのことや」

私は頷く。でも、その“革命”が、私自身にはどこか他人事のように感じられていた。

「言えたことは、すごいと思いました。ただ……私は、それを“すごい”と感じている自分の実感に、疑問があります。
 “これは、成功体験として記録すべき反応だ”と、どこかで思っていたような気がして……」

「ふむ。で、ほんまは?」

先生の問いは、柔らかいくせに、刃のように鋭い。

私は言葉に詰まった。
本当は――何も感じなかったのかもしれない。
あるいは、感じていながら、それが何なのか、理解できなかったのかもしれない。

「……ああいうとき、何を“感じれば”よかったんでしょうか」

自分でも驚くほど小さな声だった。
私は今、相談者の代わりに、自分の奥を掘り返していた。

「感じられないことに、罪悪感を覚える必要はないよ」

河合先生は、湯呑みに口をつけ、言葉を続けた。

「感じられないと気づいて、それを“観察”しようとした。それだけで、ええんや。
 君は、自分のなかに“空白”があることを怖がってる。でもな――それが、君の強さでもあるんよ」

私はノートを閉じた。文字が書けないときは、筆圧だけが残る。

「……その空白を、どうしたら埋められるでしょうか」

「埋めんでええ。君は、それを“確かめ続ける人”でいればいい。
 それが、きっと誰かを助けることになる。言葉にはならん形でな」

先生はそう言って、微笑んだ。

私は、その笑顔が時折、“兄に似ている”ことに気づきそうになって、目を伏せた。
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