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第2話 優先順位
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公の場で、アルベルトはいつもと変わらない穏やかな顔をしていた。
リーシェの隣に立ち、婚約者として紹介し、必要な会話を交わす。その振る舞いに、非の打ちどころはない。
ただ一つだけ、決定的に足りないものがあるとしたら。
それは、彼が「誰を優先するか」という一点だった。
この日は、侯爵家主催の夜会だった。
格式ばった場ではあるが、顔ぶれは気心の知れた者が多く、婚約者同士で並んで過ごす時間も自然と増えるはずだった。
少なくとも、リーシェはそう思っていた。
「アルベルト様、こちらへ」
控えめに、しかし迷いのない声が彼を呼び止める。
先日、茶会でも見かけたあの女性だった。
アルベルトは一瞬だけリーシェに視線を向けた。
まるで、確認するように。
「少しだけ、行ってくる」
そう言って、彼は断ることなく歩き出す。
リーシェは反射的に微笑み、頷いていた。
行ってらっしゃい、と口にする前に、彼の背中はもう遠ざかっている。
音楽が流れ、周囲では談笑の輪ができていく。
婚約者同士で寄り添う姿も多い中、リーシェは一人、壁際に立っていた。
不思議と、胸がざわつくことはなかった。
その代わり、何かを当然のこととして受け入れてしまった自分に、かすかな違和感を覚える。
――まただ。
そう思った瞬間、心の奥がわずかに冷えた。
アルベルトは、あの女性と楽しげに会話をしている。
笑顔で、時折身振りを交えながら。
その様子は、婚約者である自分と話すときよりも、ずっと自然に見えた。
リーシェは視線を逸らした。
見てはいけないわけではない。
けれど、見続ける理由もなかった。
「お一人ですか?」
声をかけられ、振り返る。
知人の令嬢が、気遣わしげにこちらを見ていた。
「ええ。少しだけ」
そう答えると、相手は一瞬、視線を巡らせてから、何も言わずに微笑んだ。
その沈黙が、妙に胸に刺さる。
――皆、分かっているのだろうか。
私が、今、ここで一人でいる理由を。
アルベルトは、悪気がない。
誰かを傷つけようとしているわけでもない。
ただ、優先順位を深く考えないだけだ。
そして私は、その「考えなくていい存在」に、いつの間にかなっていた。
遠くで、彼がこちらを見る。
目が合うと、安心したように微笑んで、小さく手を振った。
大丈夫だろう?
君なら、分かってくれるだろう?
言葉にしなくても、その意味は伝わってくる。
リーシェは、その微笑みに応えるように、同じように手を振り返した。
婚約者として、完璧な振る舞いだった。
けれどその瞬間、胸の奥で何かが、はっきりと形を持ち始める。
――私は、ここにいても、いなくても同じなのではないか。
その考えを、まだ口に出すつもりはない。
けれど、否定することもできなかった。
音楽が一段と華やかになる中、リーシェは静かに息を吐いた。
この夜会が、ただの社交の場ではなくなったことを、彼女はもう理解していた。
リーシェの隣に立ち、婚約者として紹介し、必要な会話を交わす。その振る舞いに、非の打ちどころはない。
ただ一つだけ、決定的に足りないものがあるとしたら。
それは、彼が「誰を優先するか」という一点だった。
この日は、侯爵家主催の夜会だった。
格式ばった場ではあるが、顔ぶれは気心の知れた者が多く、婚約者同士で並んで過ごす時間も自然と増えるはずだった。
少なくとも、リーシェはそう思っていた。
「アルベルト様、こちらへ」
控えめに、しかし迷いのない声が彼を呼び止める。
先日、茶会でも見かけたあの女性だった。
アルベルトは一瞬だけリーシェに視線を向けた。
まるで、確認するように。
「少しだけ、行ってくる」
そう言って、彼は断ることなく歩き出す。
リーシェは反射的に微笑み、頷いていた。
行ってらっしゃい、と口にする前に、彼の背中はもう遠ざかっている。
音楽が流れ、周囲では談笑の輪ができていく。
婚約者同士で寄り添う姿も多い中、リーシェは一人、壁際に立っていた。
不思議と、胸がざわつくことはなかった。
その代わり、何かを当然のこととして受け入れてしまった自分に、かすかな違和感を覚える。
――まただ。
そう思った瞬間、心の奥がわずかに冷えた。
アルベルトは、あの女性と楽しげに会話をしている。
笑顔で、時折身振りを交えながら。
その様子は、婚約者である自分と話すときよりも、ずっと自然に見えた。
リーシェは視線を逸らした。
見てはいけないわけではない。
けれど、見続ける理由もなかった。
「お一人ですか?」
声をかけられ、振り返る。
知人の令嬢が、気遣わしげにこちらを見ていた。
「ええ。少しだけ」
そう答えると、相手は一瞬、視線を巡らせてから、何も言わずに微笑んだ。
その沈黙が、妙に胸に刺さる。
――皆、分かっているのだろうか。
私が、今、ここで一人でいる理由を。
アルベルトは、悪気がない。
誰かを傷つけようとしているわけでもない。
ただ、優先順位を深く考えないだけだ。
そして私は、その「考えなくていい存在」に、いつの間にかなっていた。
遠くで、彼がこちらを見る。
目が合うと、安心したように微笑んで、小さく手を振った。
大丈夫だろう?
君なら、分かってくれるだろう?
言葉にしなくても、その意味は伝わってくる。
リーシェは、その微笑みに応えるように、同じように手を振り返した。
婚約者として、完璧な振る舞いだった。
けれどその瞬間、胸の奥で何かが、はっきりと形を持ち始める。
――私は、ここにいても、いなくても同じなのではないか。
その考えを、まだ口に出すつもりはない。
けれど、否定することもできなかった。
音楽が一段と華やかになる中、リーシェは静かに息を吐いた。
この夜会が、ただの社交の場ではなくなったことを、彼女はもう理解していた。
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