7 / 10
7
しおりを挟む
第2章:喫茶店〈サクラ通り〉
その喫茶店は、偶然のように、でも今の私に必要だったみたいに、
ぽつんと現れた。
公園からの帰り道。
冷たい風に吹かれて歩いているうちに、私は見慣れない通りに迷い込んでいた。
「サクラ通り」と書かれた、少し色あせたプレート。
通りの名前にしては、季節外れだった。
その角に、小さな喫茶店があった。
木の引き戸と、すりガラスの窓。
暖色の灯りが、曇ったガラス越しにぼんやりと見える。
無意識のまま、私は戸を引いていた。
「いらっしゃい」
中から出てきたのは、年配の男性。
白髪まじりの髪に、茶色のエプロン。
目元に深く刻まれた皺が、やわらかな人柄をにじませていた。
「寒かったでしょう。コート、ここにかけて」
言われるがままにコートを脱ぎ、席に腰を下ろす。
木のテーブルには、小さな花瓶に一輪のドライフラワー。
店内にはジャズが流れていて、時間の流れがほんの少し緩やかになった気がした。
「ブレンドでいいかな?」
「…はい」
答える声が、自分でも驚くほど弱々しかった。
でもマスターは気にする様子もなく、黙ってカップを用意してくれる。
やがて運ばれてきたコーヒーは、少し苦くて、やさしい味がした。
何も話さなくても、ただそこにいられる空気が嬉しかった。
ふと、カウンター席に座っていた女性がこちらを見てにこりと笑った。
小さな編み物をしていた彼女は、ひとことだけこう言った。
「ここは、そういう人がたどり着く場所なんですよ」
「そういう…?」と問い返すと、彼女はくすっと笑った。
「ちょっと疲れちゃった人とか、何者かになりたいけど、なれてない人とか。
でも、そんな人がいてもいいのが、ここなんです」
私は何も言えなかった。
でもその言葉に、思わず目が熱くなった。
「名前も、肩書きも、ここではいらないよ」
マスターの声が、背中をそっとなでるように響いた。
気づけば、カップの中身は空になっていた。
それでも私は、もう少しだけここにいたいと思った。
“いてもいい”と思える場所。
“何者でもなくても、いられる”時間。
そんなものが、東京にもあるなんて思わなかった。
外に出ると、空がほんの少し明るくなっていた。
コートの襟を立てて、私は歩き出す。
春は、まだ遠い。
でも、ほんのすこしだけ、心があたたかかった。
その喫茶店は、偶然のように、でも今の私に必要だったみたいに、
ぽつんと現れた。
公園からの帰り道。
冷たい風に吹かれて歩いているうちに、私は見慣れない通りに迷い込んでいた。
「サクラ通り」と書かれた、少し色あせたプレート。
通りの名前にしては、季節外れだった。
その角に、小さな喫茶店があった。
木の引き戸と、すりガラスの窓。
暖色の灯りが、曇ったガラス越しにぼんやりと見える。
無意識のまま、私は戸を引いていた。
「いらっしゃい」
中から出てきたのは、年配の男性。
白髪まじりの髪に、茶色のエプロン。
目元に深く刻まれた皺が、やわらかな人柄をにじませていた。
「寒かったでしょう。コート、ここにかけて」
言われるがままにコートを脱ぎ、席に腰を下ろす。
木のテーブルには、小さな花瓶に一輪のドライフラワー。
店内にはジャズが流れていて、時間の流れがほんの少し緩やかになった気がした。
「ブレンドでいいかな?」
「…はい」
答える声が、自分でも驚くほど弱々しかった。
でもマスターは気にする様子もなく、黙ってカップを用意してくれる。
やがて運ばれてきたコーヒーは、少し苦くて、やさしい味がした。
何も話さなくても、ただそこにいられる空気が嬉しかった。
ふと、カウンター席に座っていた女性がこちらを見てにこりと笑った。
小さな編み物をしていた彼女は、ひとことだけこう言った。
「ここは、そういう人がたどり着く場所なんですよ」
「そういう…?」と問い返すと、彼女はくすっと笑った。
「ちょっと疲れちゃった人とか、何者かになりたいけど、なれてない人とか。
でも、そんな人がいてもいいのが、ここなんです」
私は何も言えなかった。
でもその言葉に、思わず目が熱くなった。
「名前も、肩書きも、ここではいらないよ」
マスターの声が、背中をそっとなでるように響いた。
気づけば、カップの中身は空になっていた。
それでも私は、もう少しだけここにいたいと思った。
“いてもいい”と思える場所。
“何者でもなくても、いられる”時間。
そんなものが、東京にもあるなんて思わなかった。
外に出ると、空がほんの少し明るくなっていた。
コートの襟を立てて、私は歩き出す。
春は、まだ遠い。
でも、ほんのすこしだけ、心があたたかかった。
0
あなたにおすすめの小説
異国妃の宮廷漂流記
花雨宮琵
キャラ文芸
唯一の身内である祖母を失った公爵令嬢・ヘレナに持ち上がったのは、元敵国の皇太子・アルフォンスとの縁談。
夫となる人には、愛する女性と皇子がいるという。
いずれ離縁される“お飾りの皇太子妃”――そう冷笑されながら、ヘレナは宮廷という伏魔殿に足を踏み入れる。 冷徹と噂される皇太子とのすれ違い、宮中に渦巻く陰謀、そして胸の奥に残る初恋の記憶。
これは、居場所を持たないお転婆な花嫁が自ら絆を紡ぎ、愛と仲間を得て”自分の居場所”を創りあげるまでの、ときに騒がしく、とびきり愛おしい――笑って泣ける、ハッピーエンドのサバイバル譚です。
※本作は2年前にカクヨム、エブリスタに掲載していた物語『元敵国に嫁いだ皇太子妃は、初恋の彼に想いを馳せる』を大幅に改稿し、別作品として仕上げたものです。
© 花雨宮琵 2025 All Rights Reserved. 無断転載・無断翻訳を固く禁じます。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
✿ 私は彼のことが好きなのに、彼は私なんかよりずっと若くてきれいでスタイルの良い女が好きらしい
設楽理沙
ライト文芸
累計ポイント110万ポイント超えました。皆さま、ありがとうございます。❀
結婚後、2か月足らずで夫の心変わりを知ることに。
結婚前から他の女性と付き合っていたんだって。
それならそうと、ちゃんと話してくれていれば、結婚なんて
しなかった。
呆れた私はすぐに家を出て自立の道を探すことにした。
それなのに、私と別れたくないなんて信じられない
世迷言を言ってくる夫。
だめだめ、信用できないからね~。
さようなら。
*******.✿..✿.*******
◇|日比野滉星《ひびのこうせい》32才 会社員
◇ 日比野ひまり 32才
◇ 石田唯 29才 滉星の同僚
◇新堂冬也 25才 ひまりの転職先の先輩(鉄道会社)
2025.4.11 完結 25649字
俺と結婚してくれ〜若き御曹司の真実の愛
ラヴ KAZU
恋愛
村藤潤一郎
潤一郎は村藤コーポレーションの社長を就任したばかりの二十五歳。
大学卒業後、海外に留学した。
過去の恋愛にトラウマを抱えていた。
そんな時、気になる女性社員と巡り会う。
八神あやか
村藤コーポレーション社員の四十歳。
過去の恋愛にトラウマを抱えて、男性の言葉を信じられない。
恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。
そんな時、バッグを取られ、怪我をして潤一郎のマンションでお世話になる羽目に......
八神あやかは元恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。そんな矢先あやかの勤める村藤コーポレーション社長村藤潤一郎と巡り会う。ある日あやかはバッグを取られ、怪我をする。あやかを放っておけない潤一郎は自分のマンションへ誘った。あやかは優しい潤一郎に惹かれて行くが、会社が倒産の危機にあり、合併先のお嬢さんと婚約すると知る。潤一郎はあやかへの愛を貫こうとするが、あやかは潤一郎の前から姿を消すのであった。
Husband's secret (夫の秘密)
設楽理沙
ライト文芸
果たして・・
秘密などあったのだろうか!
むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ
10秒~30秒?
何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。
❦ イラストはAI生成画像 自作
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる