雪に名を呼ばれず

藤原遊

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第4章:桜のつぼみ

 

三月の東京は、空気の中にかすかに湿り気を帯びていた。
駅前の植え込みに、小さな芽吹きが並んでいるのが見える。
まだ冷たい風が吹いているのに、草花はもう春の準備を始めている。

 

喫茶店〈サクラ通り〉では、いつもの常連たちがコーヒーをすすっていた。
編み物の彼女は春色の毛糸を手にしながら、「もう少しで桜、咲きますね」と言った。
その言葉が、季節のことだけでなく、自分自身のことのように感じられて、私は少し笑ってしまった。

 

ここに通うようになってから、私は少しずつ変わった。
焦りでいっぱいだった日々に、少しずつ隙間ができて、
その隙間に、小さな光が差し込んでいる。

 

マスターが、「店のチラシ作ってみないか」と声をかけてくれた。
昔、学校の文化祭でポスターを描いたことを覚えてくれていたらしい。

「上手かっただろ。今も描けるだろう」

そう言って手渡された画用紙と色鉛筆。
遠慮がちに引いた線は、思っていたより滑らかだった。

 

私は喫茶店のチラシを描き上げ、それが入口の掲示板に貼られたとき、
初めて“ここにいてもいい”という気持ちが、形になった気がした。

 

週末には、短期のアルバイトにも受かった。
小さな出版社の受付事務。
まだ“正社員”でも“本業”でもないけれど、
でも、私が自分で選んだ“仕事”だった。

 

母からの連絡は、あれから来ていない。
たぶん、私の返事に少し傷ついたのだと思う。
でも、ほんの少しだけ、静かに離れる時間が必要だった。

 

喫茶店を出ると、通りの桜並木の枝先に、
うっすらと赤みを帯びた小さなつぼみが並んでいた。

 

――あの木々が咲く頃、私はどんな私になっているだろう。

 

冷たい風が吹く中、私は胸元のマフラーをきゅっと締めて歩き出した。
春は、もうすぐそこにいる。
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