5 / 16
第一部 幼なじみの方が大事だと言われたので、私は婚約者を降ります
第5話 王城茶会
王城の庭園に設けられた茶会の席は、侯爵家の夜会とは違う緊張を含んでいた。
王妃主催の小規模な集まりとはいえ、招かれているのは王家に近い貴族ばかりである。白い天幕の下には季節の花が飾られ、卓上には薄い金縁の茶器が並んでいた。楽の音はなく、代わりに噴水の水音と、時折交わされる控えめな笑い声が聞こえる。
リシェルはエドワードの隣に立ち、招待客の顔ぶれを確認していた。
「エドワード様。右手の席にいらっしゃるのが、先日侯爵夫人へ新茶を贈ってくださったローレン伯爵夫人です。ご挨拶の際に、その話をなさるとよろしいかと」
「ああ、分かった」
エドワードは頷いたが、視線は庭園の入口へ向いている。
リシェルはその先を追わなかった。
見なくても分かる。フィオナがまだ来ていないのだろう。
王城の茶会に、子爵令嬢であるフィオナが招かれること自体は不自然ではない。彼女は侯爵家で育ち、ヴィオレッタ侯爵夫人の庇護を受けている。けれど、今日この場でエドワードが気にかけるべき相手は、招待客であり、王家であり、そして隣に立つ婚約者のはずだった。
「リシェル」
「はい」
「フィオナの席は、どこだったかな」
「向こうの藤棚の近くです。若い令嬢方のお席に」
「少し遠いな」
エドワードはそう言って、眉を寄せた。
リシェルは扇を持つ手に力を入れないよう気をつける。
「王城側のご手配ですから、こちらで動かすわけにはまいりません」
「分かっている。ただ、あの子は慣れない場所だと緊張するから」
その時、入口付近に小さなざわめきが起きた。
フィオナが侍女に付き添われて現れたのだ。淡い薄紫のドレスは彼女によく似合っていたが、王城の庭園では少し可憐すぎる。本人もそれを分かっているのか、きょろきょろと周囲を見回し、すぐにエドワードの姿を見つけた。
「エドワード様」
声は大きくない。けれど、近くにいた令嬢たちは自然とそちらを向いた。
エドワードはリシェルの隣を離れ、フィオナへ歩み寄る。
「大丈夫か。顔色が少し悪い」
「緊張してしまって……王城のお茶会なんて、私には場違いではないかと」
「そんなことはない。君は侯爵家の大切な客人だ」
リシェルは一歩遅れて近づいた。
フィオナはリシェルに気づくと、申し訳なさそうに笑う。
「リシェル様、すみません。私、またエドワード様を呼んでしまって」
「初めての場所は緊張しますもの。お席までご案内いたします」
「ありがとうございます。でも、少しだけエドワード様に一緒にいていただいてもよろしいですか?」
フィオナの言葉に、周囲の空気がわずかに変わった。
若い令嬢の一人が、扇を開く。別の夫人が、茶器へ手を伸ばすふりをして視線を外した。
リシェルは微笑みを保つ。
「エドワード様は、このあとローレン伯爵夫人へご挨拶をなさる予定です」
「あ……そうなのですね」
フィオナはすぐに手を引いた。けれど、その表情が曇るより早く、エドワードが口を開く。
「挨拶は少しあとでも構わない。フィオナを席まで送ってくる」
「エドワード様」
リシェルが呼ぶと、彼は困ったように笑った。
「すぐ戻る。君なら上手くつないでおいてくれるだろう」
その言葉を聞いた近くの夫人が、扇の陰で目だけを動かした。
リシェルは深く頷かず、浅く礼をするにとどめた。
「承知いたしました」
エドワードはフィオナを伴って、藤棚の方へ向かった。二人の背中が並ぶと、まるで最初からそういう組み合わせで招かれたように見える。
残されたリシェルの前に、ローレン伯爵夫人が近づいてきた。
「リシェル様。ごきげんよう」
「ごきげんよう、伯爵夫人。先日はヴィオレッタ様へ素晴らしい新茶をお贈りくださったとか。とても香りがよいと、夫人も喜んでいらっしゃいました」
「あら、覚えていてくださったのね」
「もちろんです。本日のお茶も、春摘みのものと伺っております。伯爵夫人なら、きっとお好みに合うかと」
伯爵夫人の表情が和らぐ。
隣にいた令嬢も会話に加わり、リシェルは自然に話題を広げた。茶葉の産地、春の慈善市、王妃が支援している孤児院の刺繍品。相手が話しやすいところへ少しずつ道を作る。
その間、エドワードは戻ってこなかった。
藤棚の近くで、フィオナが何かを話している。エドワードはその隣に立ち、彼女の手元の茶器を受け取って侍女へ渡していた。
「リシェル嬢」
低く落ち着いた声がした。
振り返ると、深い青の上着をまとった青年が立っていた。王族特有の金の飾り紐が胸元に見える。
第二王子アルヴィン殿下だった。
リシェルはすぐに礼を取る。
「アルヴィン殿下にご挨拶申し上げます」
「堅くならずともよい。先ほどから、あなたが随分と場を整えているように見えた」
「恐れ入ります。私は、皆様が心地よく過ごせるようお手伝いしているだけです」
「それを、自然にできる者は多くない」
アルヴィンはそう言って、卓上の茶器へ視線を移した。
「ローレン伯爵夫人は、王城の茶をあまり好まれない。だが今日は楽しそうにされている」
リシェルは少しだけ目を上げる。
「伯爵夫人は新茶に詳しい方ですので、話題が合ったのだと思います」
「話題を合わせたのは、あなたではないのか」
問い詰める響きではなかった。
静かに、見たものをそのまま口にしている声だった。
リシェルは返答に迷い、扇を閉じる。
「差し出がましいことをしていなければよいのですが」
「少なくとも、私にはそうは見えなかった」
アルヴィンの視線が、藤棚の方へ一度だけ向く。
エドワードはまだフィオナの隣にいた。フィオナは安心したように笑い、彼の袖に指を添えている。
リシェルはその光景を追いすぎないよう、すぐに顔を戻した。
「殿下、お茶をお持ちいたしましょうか。今でしたら、南庭の蜂蜜を添えたものがございます」
「では、いただこう」
アルヴィンは穏やかに頷いた。
リシェルが侍女へ目配せすると、すぐに新しい茶器が用意される。乱れかけた会話の輪は、少しずつ形を取り戻していった。
やがてエドワードが戻ってきた時、リシェルの隣にはアルヴィンがいた。
エドワードは一瞬足を止める。
フィオナもまた、藤棚の下からこちらを見ていた。
リシェルは二人の視線に気づきながら、殿下の前へ茶を置く。
「お待たせいたしました。香りが立つうちに、どうぞ」
アルヴィンはカップを受け取り、リシェルへ静かに礼を返した。
王妃主催の小規模な集まりとはいえ、招かれているのは王家に近い貴族ばかりである。白い天幕の下には季節の花が飾られ、卓上には薄い金縁の茶器が並んでいた。楽の音はなく、代わりに噴水の水音と、時折交わされる控えめな笑い声が聞こえる。
リシェルはエドワードの隣に立ち、招待客の顔ぶれを確認していた。
「エドワード様。右手の席にいらっしゃるのが、先日侯爵夫人へ新茶を贈ってくださったローレン伯爵夫人です。ご挨拶の際に、その話をなさるとよろしいかと」
「ああ、分かった」
エドワードは頷いたが、視線は庭園の入口へ向いている。
リシェルはその先を追わなかった。
見なくても分かる。フィオナがまだ来ていないのだろう。
王城の茶会に、子爵令嬢であるフィオナが招かれること自体は不自然ではない。彼女は侯爵家で育ち、ヴィオレッタ侯爵夫人の庇護を受けている。けれど、今日この場でエドワードが気にかけるべき相手は、招待客であり、王家であり、そして隣に立つ婚約者のはずだった。
「リシェル」
「はい」
「フィオナの席は、どこだったかな」
「向こうの藤棚の近くです。若い令嬢方のお席に」
「少し遠いな」
エドワードはそう言って、眉を寄せた。
リシェルは扇を持つ手に力を入れないよう気をつける。
「王城側のご手配ですから、こちらで動かすわけにはまいりません」
「分かっている。ただ、あの子は慣れない場所だと緊張するから」
その時、入口付近に小さなざわめきが起きた。
フィオナが侍女に付き添われて現れたのだ。淡い薄紫のドレスは彼女によく似合っていたが、王城の庭園では少し可憐すぎる。本人もそれを分かっているのか、きょろきょろと周囲を見回し、すぐにエドワードの姿を見つけた。
「エドワード様」
声は大きくない。けれど、近くにいた令嬢たちは自然とそちらを向いた。
エドワードはリシェルの隣を離れ、フィオナへ歩み寄る。
「大丈夫か。顔色が少し悪い」
「緊張してしまって……王城のお茶会なんて、私には場違いではないかと」
「そんなことはない。君は侯爵家の大切な客人だ」
リシェルは一歩遅れて近づいた。
フィオナはリシェルに気づくと、申し訳なさそうに笑う。
「リシェル様、すみません。私、またエドワード様を呼んでしまって」
「初めての場所は緊張しますもの。お席までご案内いたします」
「ありがとうございます。でも、少しだけエドワード様に一緒にいていただいてもよろしいですか?」
フィオナの言葉に、周囲の空気がわずかに変わった。
若い令嬢の一人が、扇を開く。別の夫人が、茶器へ手を伸ばすふりをして視線を外した。
リシェルは微笑みを保つ。
「エドワード様は、このあとローレン伯爵夫人へご挨拶をなさる予定です」
「あ……そうなのですね」
フィオナはすぐに手を引いた。けれど、その表情が曇るより早く、エドワードが口を開く。
「挨拶は少しあとでも構わない。フィオナを席まで送ってくる」
「エドワード様」
リシェルが呼ぶと、彼は困ったように笑った。
「すぐ戻る。君なら上手くつないでおいてくれるだろう」
その言葉を聞いた近くの夫人が、扇の陰で目だけを動かした。
リシェルは深く頷かず、浅く礼をするにとどめた。
「承知いたしました」
エドワードはフィオナを伴って、藤棚の方へ向かった。二人の背中が並ぶと、まるで最初からそういう組み合わせで招かれたように見える。
残されたリシェルの前に、ローレン伯爵夫人が近づいてきた。
「リシェル様。ごきげんよう」
「ごきげんよう、伯爵夫人。先日はヴィオレッタ様へ素晴らしい新茶をお贈りくださったとか。とても香りがよいと、夫人も喜んでいらっしゃいました」
「あら、覚えていてくださったのね」
「もちろんです。本日のお茶も、春摘みのものと伺っております。伯爵夫人なら、きっとお好みに合うかと」
伯爵夫人の表情が和らぐ。
隣にいた令嬢も会話に加わり、リシェルは自然に話題を広げた。茶葉の産地、春の慈善市、王妃が支援している孤児院の刺繍品。相手が話しやすいところへ少しずつ道を作る。
その間、エドワードは戻ってこなかった。
藤棚の近くで、フィオナが何かを話している。エドワードはその隣に立ち、彼女の手元の茶器を受け取って侍女へ渡していた。
「リシェル嬢」
低く落ち着いた声がした。
振り返ると、深い青の上着をまとった青年が立っていた。王族特有の金の飾り紐が胸元に見える。
第二王子アルヴィン殿下だった。
リシェルはすぐに礼を取る。
「アルヴィン殿下にご挨拶申し上げます」
「堅くならずともよい。先ほどから、あなたが随分と場を整えているように見えた」
「恐れ入ります。私は、皆様が心地よく過ごせるようお手伝いしているだけです」
「それを、自然にできる者は多くない」
アルヴィンはそう言って、卓上の茶器へ視線を移した。
「ローレン伯爵夫人は、王城の茶をあまり好まれない。だが今日は楽しそうにされている」
リシェルは少しだけ目を上げる。
「伯爵夫人は新茶に詳しい方ですので、話題が合ったのだと思います」
「話題を合わせたのは、あなたではないのか」
問い詰める響きではなかった。
静かに、見たものをそのまま口にしている声だった。
リシェルは返答に迷い、扇を閉じる。
「差し出がましいことをしていなければよいのですが」
「少なくとも、私にはそうは見えなかった」
アルヴィンの視線が、藤棚の方へ一度だけ向く。
エドワードはまだフィオナの隣にいた。フィオナは安心したように笑い、彼の袖に指を添えている。
リシェルはその光景を追いすぎないよう、すぐに顔を戻した。
「殿下、お茶をお持ちいたしましょうか。今でしたら、南庭の蜂蜜を添えたものがございます」
「では、いただこう」
アルヴィンは穏やかに頷いた。
リシェルが侍女へ目配せすると、すぐに新しい茶器が用意される。乱れかけた会話の輪は、少しずつ形を取り戻していった。
やがてエドワードが戻ってきた時、リシェルの隣にはアルヴィンがいた。
エドワードは一瞬足を止める。
フィオナもまた、藤棚の下からこちらを見ていた。
リシェルは二人の視線に気づきながら、殿下の前へ茶を置く。
「お待たせいたしました。香りが立つうちに、どうぞ」
アルヴィンはカップを受け取り、リシェルへ静かに礼を返した。
あなたにおすすめの小説
王妃は春を待たない〜夫が側妃を迎えました〜
羽生
恋愛
王妃シルヴィアは、完璧だった。
王であるレオンハルトの隣に立ち、誰よりも正しく、誰よりも美しく、誰よりも“王妃らしく”あろうとしてきた。
けれど、結婚から五年が経っても2人には子は授からず、ついに王は側妃を迎えることになる。
明るく無邪気な側妃ミリアに、少しずつ心を動かしていくレオンハルト。
その変化に気づきながらも、シルヴィアは何も言えなかった。
――王妃だから。
けれど、シルヴィアの心は確実に壊れていく。
誰も悪くないのに。
それでも、誰もが何かを失う。
◇全22話。一日二話投稿(投稿予約済み)
◇ コメント欄にて様々なご意見・ご感想をいただきありがとうございます。本作はすでに最後まで執筆済みのため、いただいたご意見によって今後の展開が変わることはございませんが、ひとつひとつ大切に拝読しております。それぞれ感じ方の分かれる物語かと思いますが、最後まで見守っていただけましたら嬉しいです。
見切りをつけたのは、私
ねこまんまときみどりのことり
恋愛
婚約者の私マイナリーより、義妹が好きだと言う婚約者ハーディー。陰で私の悪口さえ言う彼には、もう幻滅だ。
婚約者の生家、アルベローニ侯爵家は子爵位と男爵位も保有しているが、伯爵位が継げるならと、ハーディーが家に婿入りする話が進んでいた。
侯爵家は息子の爵位の為に、家(うち)は侯爵家の事業に絡む為にと互いに利がある政略だった。
二転三転しますが、最後はわりと幸せになっています。
(小説家になろうさんとカクヨムさんにも載せています)
あなたを守りたい……いまさらそれを言う?
たろ
恋愛
幼い頃に起きた事件がきっかけで実の父親に疎まれて暮らすファナ。
唯一の居場所は学校。
毎日、屋敷から学校まで歩いて通う侯爵令嬢を陰で笑う生徒達。
それでも、冷たい空気の中で過ごす屋敷にいるよりはまだマシだった。
ファナに優しくしてくれる教師のゼバウト先生。
嫌がらせをされてあまりにも制服が汚れるので、毎回洗って着替えを用意しておいてくれる保健室のエリーナ先生。
昼休みと放課後は、図書室で過ごすことが多いので、いつも何かと気にかけてくれる司書のマッカートニーさんと、図書委員の優しい先輩達。
妹のリリアンは、本人に悪気は無いのだけど、嫌なことや自分が怒られそうになると全て姉のファナに押し付ける。
嫌なことがあればメソメソと泣き姉に頼ってばかりだった。
いつも明るく甘えん坊のリリアンは顔もとても可愛らしく屋敷の中心で、使用人たちも父親も甘やかして育てられた。
一方、ファナはいずれ婿を取り侯爵家を継がなければならないため、父親に厳しく躾をされていた。
明るくて元気だったはずのファナの笑顔は、大きくなるにつれ失ってしまっていた。
使用人達もぞんざいな態度を隠そうともしない。ファナはもう諦めていた。
そんななか唯一、婚約者のジェームズだけはファナのことを優先してくれる優しい男の子だった。
そう思っていたのに………
✴︎題名少し変更しました。
婚約継続は構いませんが、今さら私を信じると言われても誓いの制約がありますので、もう遅いです
野良うさぎ(うさこ)
恋愛
婚約者は私を信じてくれなかったです。
妹に乗り換えようとした婚約者は、体裁のために期限付きで婚約継続を申し出ました。
色々限界に達した私は、ブチ切れました。
「……君を心から愛しているとわかったんだ」
と言われても、もう遅いです。
溺愛手遅れざまぁです。
君を幸せにする、そんな言葉を信じた私が馬鹿だった
白羽天使
恋愛
学園生活も残りわずかとなったある日、アリスは婚約者のフロイドに中庭へと呼び出される。そこで彼が告げたのは、「君に愛はないんだ」という残酷な一言だった。幼いころから将来を約束されていた二人。家同士の結びつきの中で育まれたその関係は、アリスにとって大切な生きる希望だった。フロイドもまた、「君を幸せにする」と繰り返し口にしてくれていたはずだったのに――。
幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。
たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。
彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。
『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』
「……『愛している』、ですか」
いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。
“いらない婚約者”なので、消えました。もう遅いです。
あめとおと
恋愛
婚約者である王子から、静かに告げられた言葉。
――「君は、もう必要ない」
感情をぶつけることもなく、彼女はただ頷いた。
すべては、予定通りだったから。
彼女が選んだのは、“自分の記憶を世界から消す魔法”。
代償は、自身という存在そのもの。
名前も、記憶も、誰の心にも残らない。
まるで最初からいなかったかのように。
そして彼女は、消えた。
残された人々は、何かが欠けていることに気づく。
埋まらない違和感、回らない日常。
それでも――誰一人、思い出せない。
遅すぎた後悔と、届かない想い。
すべてを失って、ようやく知る。
“いらない存在”など、どこにもいなかったのだと。
これは、ひとりの少女が消えたあとに、
世界がその価値に気づく物語。
そして――彼女だけが、静かに救われる物語。