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第一部 幼なじみの方が大事だと言われたので、私は婚約者を降ります
第11話 線引き
午後の陽射しが侯爵家の応接室へ柔らかく差し込んでいた。
窓辺には薄紫の花が飾られ、香炉からは穏やかな香りが流れている。今日の茶会はごく内輪のものだった。
ヴィオレッタ侯爵夫人が主催し、招かれているのは親しい家同士だけ。形式ばらない集まりだからこそ、人の距離感や空気が隠れにくい。
「リシェルさん、この焼き菓子をどうぞ。王都で評判のお店から取り寄せたの」
「ありがとうございます、ヴィオレッタ様」
差し出された皿を受け取りながら、リシェルは静かに微笑む。
向かいではフィオナが窓の外を眺めていた。
今日は淡い黄色のドレスを着ている。柔らかな色合いは彼女によく似合っていた。
「お庭の薔薇、もう咲き始めているのですね。あとで見に行ってもいいですか?」
「ええ、もちろん」
ヴィオレッタ侯爵夫人は穏やかに答える。
「今年は庭師が特によく手入れしてくれているの。フィオナさんも気に入ると思いますよ」
「嬉しいです」
フィオナは明るく笑い、そのまま隣のエドワードへ顔を向けた。
「エドワード様、覚えていますか? 小さい頃、あそこの噴水で転んでしまったこと」
「ああ。君が泣き止まなくて大変だった」
「だって冷たかったんですもの」
二人は自然に笑い合う。
長い時間を共有してきた者同士の空気だった。
リシェルは紅茶へミルクを注ぎながら、その会話を聞いていた。
話へ入れないわけではない。
けれど、そこへ加わることが妙に場違いに思える瞬間が増えている。
「フィオナさんは、本当に昔から変わりませんね」
ヴィオレッタ侯爵夫人が口元へ扇を添えた。
「あなたのお母様が亡くなられたあと、この家へ引き取られてきた頃から、ずっと甘え上手でした」
フィオナの表情が少し和らぐ。
「ヴィオレッタ様には、本当に良くしていただきました」
「あなたのお母様には、私もずいぶん助けてもらったもの。エドワードの乳母として、長くこの家を支えてくださったわ」
侯爵夫人の声音には、静かな敬意が滲んでいた。
「だから私は、あなたを娘のように思っています」
フィオナは嬉しそうに笑う。
「私も、ヴィオレッタ様のことを本当のお母様みたいに思っています」
「ええ。そう言ってもらえるのは嬉しいわ」
そこでヴィオレッタ侯爵夫人は、一度だけ言葉を切った。
閉じた扇の先が、静かにテーブルへ置かれる。
「ですが」
空気が少し変わる。
エドワードが視線を上げた。
「侯爵夫人になれるのは、リシェルさんだけです」
部屋が静まった。
フィオナは瞬きをし、それから小さく笑う。
「もちろんです。そんなこと、私だって分かっています」
軽やかな返事だった。
けれど、エドワードはどこか居心地悪そうにカップへ手を伸ばしている。
ヴィオレッタ侯爵夫人は続けた。
「あなたを大切に思っていることと、立場を混同することは別問題です」
「……はい」
「この家を支え、社交を預かり、人との繋がりを築く。その役目を担う方を、軽んじてはなりません」
穏やかな声だった。
怒鳴り声ではない。
それでも、言葉は静かに重かった。
リシェルはそっと視線を落とす。
自分のために言われた言葉なのに、なぜか落ち着かない。
フィオナを責めたいわけではないからだ。
彼女は本当に悪意なく笑っている。
「リシェル様はすごいですものね」
フィオナが素直に言った。
「私には到底できません。招待客のお名前も全部覚えていらっしゃいますし、皆様へのお手紙も完璧で……エドワード様が頼りたくなるのも分かります」
「君はまたそうやって全部人任せにする」
ヴィオレッタ侯爵夫人が静かに返す。
「甘えることが悪いとは言いません。ですが、それを当然と思うようになってはいけませんよ」
フィオナは少しだけ困ったように笑った。
「……気をつけます」
その時だった。
「母上は少し厳しすぎる」
エドワードが口を開く。
「フィオナは昔から家族みたいなものだ。そんなふうに線を引かなくてもいいだろう」
ヴィオレッタ侯爵夫人の視線が息子へ向く。
「だからこそ、線を引かなければならないのです」
「ですが――」
「あなたは次期侯爵です」
言葉は短かった。
それ以上強い口調にならないまま、空気だけが張り詰める。
エドワードは不満そうに黙り込んだ。
フィオナも気まずそうにカップへ視線を落としている。
その場を和らげるように、リシェルは静かに口を開いた。
「薔薇園、今日は風が気持ち良さそうですね」
フィオナがすぐ顔を上げる。
「はい、きっと綺麗です」
「あとでご一緒しましょうか」
「本当ですか?」
ぱっと明るくなる表情に、リシェルは微笑み返した。
ヴィオレッタ侯爵夫人だけが、その様子を静かに見つめていた。
まるで、“優しすぎる”と言いたげな目で。
窓辺には薄紫の花が飾られ、香炉からは穏やかな香りが流れている。今日の茶会はごく内輪のものだった。
ヴィオレッタ侯爵夫人が主催し、招かれているのは親しい家同士だけ。形式ばらない集まりだからこそ、人の距離感や空気が隠れにくい。
「リシェルさん、この焼き菓子をどうぞ。王都で評判のお店から取り寄せたの」
「ありがとうございます、ヴィオレッタ様」
差し出された皿を受け取りながら、リシェルは静かに微笑む。
向かいではフィオナが窓の外を眺めていた。
今日は淡い黄色のドレスを着ている。柔らかな色合いは彼女によく似合っていた。
「お庭の薔薇、もう咲き始めているのですね。あとで見に行ってもいいですか?」
「ええ、もちろん」
ヴィオレッタ侯爵夫人は穏やかに答える。
「今年は庭師が特によく手入れしてくれているの。フィオナさんも気に入ると思いますよ」
「嬉しいです」
フィオナは明るく笑い、そのまま隣のエドワードへ顔を向けた。
「エドワード様、覚えていますか? 小さい頃、あそこの噴水で転んでしまったこと」
「ああ。君が泣き止まなくて大変だった」
「だって冷たかったんですもの」
二人は自然に笑い合う。
長い時間を共有してきた者同士の空気だった。
リシェルは紅茶へミルクを注ぎながら、その会話を聞いていた。
話へ入れないわけではない。
けれど、そこへ加わることが妙に場違いに思える瞬間が増えている。
「フィオナさんは、本当に昔から変わりませんね」
ヴィオレッタ侯爵夫人が口元へ扇を添えた。
「あなたのお母様が亡くなられたあと、この家へ引き取られてきた頃から、ずっと甘え上手でした」
フィオナの表情が少し和らぐ。
「ヴィオレッタ様には、本当に良くしていただきました」
「あなたのお母様には、私もずいぶん助けてもらったもの。エドワードの乳母として、長くこの家を支えてくださったわ」
侯爵夫人の声音には、静かな敬意が滲んでいた。
「だから私は、あなたを娘のように思っています」
フィオナは嬉しそうに笑う。
「私も、ヴィオレッタ様のことを本当のお母様みたいに思っています」
「ええ。そう言ってもらえるのは嬉しいわ」
そこでヴィオレッタ侯爵夫人は、一度だけ言葉を切った。
閉じた扇の先が、静かにテーブルへ置かれる。
「ですが」
空気が少し変わる。
エドワードが視線を上げた。
「侯爵夫人になれるのは、リシェルさんだけです」
部屋が静まった。
フィオナは瞬きをし、それから小さく笑う。
「もちろんです。そんなこと、私だって分かっています」
軽やかな返事だった。
けれど、エドワードはどこか居心地悪そうにカップへ手を伸ばしている。
ヴィオレッタ侯爵夫人は続けた。
「あなたを大切に思っていることと、立場を混同することは別問題です」
「……はい」
「この家を支え、社交を預かり、人との繋がりを築く。その役目を担う方を、軽んじてはなりません」
穏やかな声だった。
怒鳴り声ではない。
それでも、言葉は静かに重かった。
リシェルはそっと視線を落とす。
自分のために言われた言葉なのに、なぜか落ち着かない。
フィオナを責めたいわけではないからだ。
彼女は本当に悪意なく笑っている。
「リシェル様はすごいですものね」
フィオナが素直に言った。
「私には到底できません。招待客のお名前も全部覚えていらっしゃいますし、皆様へのお手紙も完璧で……エドワード様が頼りたくなるのも分かります」
「君はまたそうやって全部人任せにする」
ヴィオレッタ侯爵夫人が静かに返す。
「甘えることが悪いとは言いません。ですが、それを当然と思うようになってはいけませんよ」
フィオナは少しだけ困ったように笑った。
「……気をつけます」
その時だった。
「母上は少し厳しすぎる」
エドワードが口を開く。
「フィオナは昔から家族みたいなものだ。そんなふうに線を引かなくてもいいだろう」
ヴィオレッタ侯爵夫人の視線が息子へ向く。
「だからこそ、線を引かなければならないのです」
「ですが――」
「あなたは次期侯爵です」
言葉は短かった。
それ以上強い口調にならないまま、空気だけが張り詰める。
エドワードは不満そうに黙り込んだ。
フィオナも気まずそうにカップへ視線を落としている。
その場を和らげるように、リシェルは静かに口を開いた。
「薔薇園、今日は風が気持ち良さそうですね」
フィオナがすぐ顔を上げる。
「はい、きっと綺麗です」
「あとでご一緒しましょうか」
「本当ですか?」
ぱっと明るくなる表情に、リシェルは微笑み返した。
ヴィオレッタ侯爵夫人だけが、その様子を静かに見つめていた。
まるで、“優しすぎる”と言いたげな目で。
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