幼なじみの方が大事だと言われたので、私は婚約者を降ります

藤原遊

文字の大きさ
12 / 17
第一部 幼なじみの方が大事だと言われたので、私は婚約者を降ります

第12話 空いた隣席

観劇の日、リシェルは約束の時刻より少し早く侯爵家へ着いた。

馬車を降りると、玄関前にはすでに劇場へ向かうための馬車が用意されている。黒塗りの車体にはブライトン侯爵家の紋章が入り、扉の取っ手まで磨かれていた。

今夜の観劇は、王都でも評判の劇団による新作だった。侯爵家の桟敷席に招かれる形で、エドワードと並んで座る予定になっている。

リシェルは手袋の皺を整え、迎えに出た執事へ礼をした。

「エドワード様は?」

「ただいま、お支度を」

執事の返答は丁寧だったが、わずかに間があった。

リシェルはそれ以上尋ねず、控えの間へ案内される。

机の上には、劇場で配られる予定の演目表が置かれていた。主人公が婚約者と共に困難を乗り越える物語だと、事前に聞いている。社交の場では、観劇後の感想を求められることも多い。

リシェルが演目表へ目を通していると、廊下の向こうから急ぐ足音が聞こえた。

扉が開き、エドワードが姿を見せる。

礼装は整っていたが、表情は少し落ち着かない。

「リシェル、すまない」

その一言で、リシェルは演目表を閉じた。

「何かございましたか」

「フィオナが、今夜の観劇をとても楽しみにしていたんだ」

エドワードは言葉を選ぶように続ける。

「けれど、急に気分が悪くなったらしい。劇場のような人の多い場所は不安だと」

「では、フィオナ様はお休みになった方がよろしいのでは」

「そう言ったんだが、行けなくなるのはつらいと泣きそうになっていて」

リシェルは扇を持つ手を動かさなかった。

「……そうですか」

「だから今夜は、俺がフィオナに付き添う。君は先に劇場へ行っていてくれないか」

控えの間の外で、使用人が息を呑む気配がした。

侯爵家の桟敷席に、婚約者だけを先に向かわせる。しかも、エドワードはフィオナに付き添うと言っている。

その意味を、彼はどこまで分かっているのだろう。

「エドワード様。今夜は、侯爵家としてご挨拶なさる方も多いはずです」

「ああ。だから君が先にいてくれると助かる」

エドワードは穏やかに言った。

「君なら上手く対応できるだろう。フィオナを落ち着かせたら、すぐ向かう」

また、その言葉だった。

信頼の形をして、リシェルの側へ置かれるもの。

「承知いたしました」

リシェルが答えると、エドワードはほっとしたように笑った。

「ありがとう。君は本当に頼りになる」

そのまま彼は控えの間を出ていく。

扉が閉まる直前、廊下の奥からフィオナのか細い声が聞こえた。

「エドワード様……ごめんなさい。私のせいで」

「気にしなくていい。俺がついている」

扉が閉まった。

控えの間には、演目表と冷めていない紅茶だけが残る。

執事が静かに頭を下げた。

「リシェル様、劇場へ向かわれますか」

「ええ。遅れるわけにはまいりませんから」

リシェルは立ち上がり、外套を肩に掛ける。

侯爵家の馬車へ乗り込むと、向かいの座席が空いていた。そこは本来、エドワードが座る場所だった。

窓の外で、使用人たちが深く礼をしている。

馬車が動き出す。

石畳を進む音が、車内に規則正しく響いた。リシェルは膝の上に演目表を置き、端をそっと押さえる。紙の角が少しだけ折れていた。

劇場に着くと、案内係は当然のように二人分の席へリシェルを導いた。

「ブライトン侯爵家のご令息は、後ほど?」

「ええ。少し遅れて参ります」

リシェルは微笑んで答えた。

侯爵家の桟敷席には、隣り合う二つの椅子が用意されていた。片方にはリシェルが座り、もう片方は空いたまま残る。

幕が上がる前、いくつかの家の夫人たちが挨拶に訪れた。

「まあ、今夜はお一人で?」

「エドワード様は、少し遅れていらっしゃいます」

「そうでしたの」

夫人たちはそれ以上踏み込まない。

その代わり、視線だけが空席を確認してから離れていく。

リシェルは舞台へ目を向けた。

灯りが落ち、楽が始まる。

物語の中では、婚約者同士が同じ馬車に乗り、互いの手を取り合って劇場へ向かっていた。

隣の椅子は、幕が上がっても空いたままだった。

第一幕が終わる頃、劇場の扉の方に小さなざわめきが起きた。

エドワードが来たのかと、リシェルは一度だけ視線を向ける。

そこにいたのは、エドワードとフィオナだった。

フィオナは彼の腕に手を添え、少し疲れたように寄り添っている。エドワードは彼女の歩幅に合わせながら、こちらの桟敷席へ向かってきた。

リシェルの隣には、一つだけ空いた椅子がある。

案内係は困ったように立ち止まった。

劇場の灯りの下で、三人分の視線がその席へ落ちた。
感想 79

あなたにおすすめの小説

王妃は春を待たない〜夫が側妃を迎えました〜

羽生
恋愛
王妃シルヴィアは、完璧だった。 王であるレオンハルトの隣に立ち、誰よりも正しく、誰よりも美しく、誰よりも“王妃らしく”あろうとしてきた。 けれど、結婚から五年が経っても2人には子は授からず、ついに王は側妃を迎えることになる。 明るく無邪気な側妃ミリアに、少しずつ心を動かしていくレオンハルト。 その変化に気づきながらも、シルヴィアは何も言えなかった。 ――王妃だから。 けれど、シルヴィアの心は確実に壊れていく。 誰も悪くないのに。 それでも、誰もが何かを失う。 ◇全22話。一日二話投稿(投稿予約済み) ◇ コメント欄にて様々なご意見・ご感想をいただきありがとうございます。本作はすでに最後まで執筆済みのため、いただいたご意見によって今後の展開が変わることはございませんが、ひとつひとつ大切に拝読しております。それぞれ感じ方の分かれる物語かと思いますが、最後まで見守っていただけましたら嬉しいです。

見切りをつけたのは、私

ねこまんまときみどりのことり
恋愛
婚約者の私マイナリーより、義妹が好きだと言う婚約者ハーディー。陰で私の悪口さえ言う彼には、もう幻滅だ。  婚約者の生家、アルベローニ侯爵家は子爵位と男爵位も保有しているが、伯爵位が継げるならと、ハーディーが家に婿入りする話が進んでいた。 侯爵家は息子の爵位の為に、家(うち)は侯爵家の事業に絡む為にと互いに利がある政略だった。 二転三転しますが、最後はわりと幸せになっています。 (小説家になろうさんとカクヨムさんにも載せています)

婚約破棄され「彼女だけを守る」と告げられた伯爵令嬢~承りました、どうぞ末永くお幸せに! 婚約破棄を止める? いえ、お断りいたします!

なつの夕凪
恋愛
 伯爵令嬢イリアス・クローディアは、春の舞踏会の夜、婚約者の侯爵家子息ユリウス・アーデルハイドから一方的な婚約破棄を宣言される。 その場に響くのは、ユリウスを称える声とイリアスを非難する怒号──陰で囁かれる嘘があった。 だが、イリアスは微笑を崩さず、静かに空気を支配し、したたかな反撃を開始する。これは、婚約破棄を断絶として受け止めた令嬢が、空気を反転させ、制度の外で生きるための物語。 「爵位契約の破棄として、しかと受けとめました」──その一言が、今を、すべてを変える。 ♧完結までお付き合いいただければ幸いです。

愛される女と利用される女 ~すぐ怪我する義妹と心配する王子、私はお見合いで何を見せられているのでしょうか~

夢窓(ゆめまど)
恋愛
スミッシィ公爵家のひとり娘ハーミヤは、王太子のお見合い相手に選ばれた。 しかし何度会っても、会話は天気と花だけ。毎回、王子の義妹が怪我をして乱入してお見合いは、途中で終わる。 断ったはずのプロポーズ。サインしていない婚約書類。気づけば結婚式の準備だけが、勝手に進んでいた。 これは、思い込みの激しい王子と、巻き込まれた公爵令嬢の話。

「あなたの好きなひとを盗るつもりなんてなかった。どうか許して」と親友に謝られたけど、その男性は私の好きなひとではありません。まあいっか。

石河 翠
恋愛
真面目が取り柄のハリエットには、同い年の従姉妹エミリーがいる。母親同士の仲が悪く、二人は何かにつけ比較されてきた。 ある日招待されたお茶会にて、ハリエットは突然エミリーから謝られる。なんとエミリーは、ハリエットの好きなひとを盗ってしまったのだという。エミリーの母親は、ハリエットを出し抜けてご機嫌の様子。 ところが、紹介された男性はハリエットの好きなひととは全くの別人。しかもエミリーは勘違いしているわけではないらしい。そこでハリエットは伯母の誤解を解かないまま、エミリーの結婚式への出席を希望し……。 母親の束縛から逃れて初恋を叶えるしたたかなヒロインと恋人を溺愛する腹黒ヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。 この作品は他サイトにも投稿しております。 扉絵は写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID:23852097)をお借りしております。

「君は健康だから我慢できるだろう」と言われ続けたので離縁しました。――義妹の嘘が社交界で暴かれます

暖夢 由
恋愛
誕生日。久しぶりに夫と過ごせるはずだったその日も、また約束は消えた。 理由はいつも同じ――「病弱で可哀想な義妹」が倒れたから。 「君は健康なんだから我慢できるだろう?」 そう言われ続け、優しい妻を演じてきたマリア。 だがある日、ついに気づく。 いつまで我慢を続ける必要があるのかと。 静かに離縁を決意し家を出た彼女の前に現れたのは、冷静沈着な侯爵。 彼は告げる――義妹の過去と、隠された違和感を。 やがて明らかになるのは、“可哀想な少女”の裏の顔。 そして社交界という舞台で暴かれる、歪んだ関係と嘘の構図。 これは、我慢をやめた一人の女性が、真実を取り戻す物語。 その時、“守られる側”だったはずの少女は――何を選ぶのか。

“いらない婚約者”なので、消えました。もう遅いです。

あめとおと
恋愛
婚約者である王子から、静かに告げられた言葉。 ――「君は、もう必要ない」 感情をぶつけることもなく、彼女はただ頷いた。 すべては、予定通りだったから。 彼女が選んだのは、“自分の記憶を世界から消す魔法”。 代償は、自身という存在そのもの。 名前も、記憶も、誰の心にも残らない。 まるで最初からいなかったかのように。 そして彼女は、消えた。 残された人々は、何かが欠けていることに気づく。 埋まらない違和感、回らない日常。 それでも――誰一人、思い出せない。 遅すぎた後悔と、届かない想い。 すべてを失って、ようやく知る。 “いらない存在”など、どこにもいなかったのだと。 これは、ひとりの少女が消えたあとに、 世界がその価値に気づく物語。 そして――彼女だけが、静かに救われる物語。

あなたを守りたい……いまさらそれを言う?

たろ
恋愛
幼い頃に起きた事件がきっかけで実の父親に疎まれて暮らすファナ。  唯一の居場所は学校。 毎日、屋敷から学校まで歩いて通う侯爵令嬢を陰で笑う生徒達。 それでも、冷たい空気の中で過ごす屋敷にいるよりはまだマシだった。 ファナに優しくしてくれる教師のゼバウト先生。 嫌がらせをされてあまりにも制服が汚れるので、毎回洗って着替えを用意しておいてくれる保健室のエリーナ先生。 昼休みと放課後は、図書室で過ごすことが多いので、いつも何かと気にかけてくれる司書のマッカートニーさんと、図書委員の優しい先輩達。 妹のリリアンは、本人に悪気は無いのだけど、嫌なことや自分が怒られそうになると全て姉のファナに押し付ける。 嫌なことがあればメソメソと泣き姉に頼ってばかりだった。 いつも明るく甘えん坊のリリアンは顔もとても可愛らしく屋敷の中心で、使用人たちも父親も甘やかして育てられた。 一方、ファナはいずれ婿を取り侯爵家を継がなければならないため、父親に厳しく躾をされていた。 明るくて元気だったはずのファナの笑顔は、大きくなるにつれ失ってしまっていた。 使用人達もぞんざいな態度を隠そうともしない。ファナはもう諦めていた。 そんななか唯一、婚約者のジェームズだけはファナのことを優先してくれる優しい男の子だった。 そう思っていたのに……… ✴︎題名少し変更しました。