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第一部 幼なじみの方が大事だと言われたので、私は婚約者を降ります
第12話 空いた隣席
観劇の日、リシェルは約束の時刻より少し早く侯爵家へ着いた。
馬車を降りると、玄関前にはすでに劇場へ向かうための馬車が用意されている。黒塗りの車体にはブライトン侯爵家の紋章が入り、扉の取っ手まで磨かれていた。
今夜の観劇は、王都でも評判の劇団による新作だった。侯爵家の桟敷席に招かれる形で、エドワードと並んで座る予定になっている。
リシェルは手袋の皺を整え、迎えに出た執事へ礼をした。
「エドワード様は?」
「ただいま、お支度を」
執事の返答は丁寧だったが、わずかに間があった。
リシェルはそれ以上尋ねず、控えの間へ案内される。
机の上には、劇場で配られる予定の演目表が置かれていた。主人公が婚約者と共に困難を乗り越える物語だと、事前に聞いている。社交の場では、観劇後の感想を求められることも多い。
リシェルが演目表へ目を通していると、廊下の向こうから急ぐ足音が聞こえた。
扉が開き、エドワードが姿を見せる。
礼装は整っていたが、表情は少し落ち着かない。
「リシェル、すまない」
その一言で、リシェルは演目表を閉じた。
「何かございましたか」
「フィオナが、今夜の観劇をとても楽しみにしていたんだ」
エドワードは言葉を選ぶように続ける。
「けれど、急に気分が悪くなったらしい。劇場のような人の多い場所は不安だと」
「では、フィオナ様はお休みになった方がよろしいのでは」
「そう言ったんだが、行けなくなるのはつらいと泣きそうになっていて」
リシェルは扇を持つ手を動かさなかった。
「……そうですか」
「だから今夜は、俺がフィオナに付き添う。君は先に劇場へ行っていてくれないか」
控えの間の外で、使用人が息を呑む気配がした。
侯爵家の桟敷席に、婚約者だけを先に向かわせる。しかも、エドワードはフィオナに付き添うと言っている。
その意味を、彼はどこまで分かっているのだろう。
「エドワード様。今夜は、侯爵家としてご挨拶なさる方も多いはずです」
「ああ。だから君が先にいてくれると助かる」
エドワードは穏やかに言った。
「君なら上手く対応できるだろう。フィオナを落ち着かせたら、すぐ向かう」
また、その言葉だった。
信頼の形をして、リシェルの側へ置かれるもの。
「承知いたしました」
リシェルが答えると、エドワードはほっとしたように笑った。
「ありがとう。君は本当に頼りになる」
そのまま彼は控えの間を出ていく。
扉が閉まる直前、廊下の奥からフィオナのか細い声が聞こえた。
「エドワード様……ごめんなさい。私のせいで」
「気にしなくていい。俺がついている」
扉が閉まった。
控えの間には、演目表と冷めていない紅茶だけが残る。
執事が静かに頭を下げた。
「リシェル様、劇場へ向かわれますか」
「ええ。遅れるわけにはまいりませんから」
リシェルは立ち上がり、外套を肩に掛ける。
侯爵家の馬車へ乗り込むと、向かいの座席が空いていた。そこは本来、エドワードが座る場所だった。
窓の外で、使用人たちが深く礼をしている。
馬車が動き出す。
石畳を進む音が、車内に規則正しく響いた。リシェルは膝の上に演目表を置き、端をそっと押さえる。紙の角が少しだけ折れていた。
劇場に着くと、案内係は当然のように二人分の席へリシェルを導いた。
「ブライトン侯爵家のご令息は、後ほど?」
「ええ。少し遅れて参ります」
リシェルは微笑んで答えた。
侯爵家の桟敷席には、隣り合う二つの椅子が用意されていた。片方にはリシェルが座り、もう片方は空いたまま残る。
幕が上がる前、いくつかの家の夫人たちが挨拶に訪れた。
「まあ、今夜はお一人で?」
「エドワード様は、少し遅れていらっしゃいます」
「そうでしたの」
夫人たちはそれ以上踏み込まない。
その代わり、視線だけが空席を確認してから離れていく。
リシェルは舞台へ目を向けた。
灯りが落ち、楽が始まる。
物語の中では、婚約者同士が同じ馬車に乗り、互いの手を取り合って劇場へ向かっていた。
隣の椅子は、幕が上がっても空いたままだった。
第一幕が終わる頃、劇場の扉の方に小さなざわめきが起きた。
エドワードが来たのかと、リシェルは一度だけ視線を向ける。
そこにいたのは、エドワードとフィオナだった。
フィオナは彼の腕に手を添え、少し疲れたように寄り添っている。エドワードは彼女の歩幅に合わせながら、こちらの桟敷席へ向かってきた。
リシェルの隣には、一つだけ空いた椅子がある。
案内係は困ったように立ち止まった。
劇場の灯りの下で、三人分の視線がその席へ落ちた。
馬車を降りると、玄関前にはすでに劇場へ向かうための馬車が用意されている。黒塗りの車体にはブライトン侯爵家の紋章が入り、扉の取っ手まで磨かれていた。
今夜の観劇は、王都でも評判の劇団による新作だった。侯爵家の桟敷席に招かれる形で、エドワードと並んで座る予定になっている。
リシェルは手袋の皺を整え、迎えに出た執事へ礼をした。
「エドワード様は?」
「ただいま、お支度を」
執事の返答は丁寧だったが、わずかに間があった。
リシェルはそれ以上尋ねず、控えの間へ案内される。
机の上には、劇場で配られる予定の演目表が置かれていた。主人公が婚約者と共に困難を乗り越える物語だと、事前に聞いている。社交の場では、観劇後の感想を求められることも多い。
リシェルが演目表へ目を通していると、廊下の向こうから急ぐ足音が聞こえた。
扉が開き、エドワードが姿を見せる。
礼装は整っていたが、表情は少し落ち着かない。
「リシェル、すまない」
その一言で、リシェルは演目表を閉じた。
「何かございましたか」
「フィオナが、今夜の観劇をとても楽しみにしていたんだ」
エドワードは言葉を選ぶように続ける。
「けれど、急に気分が悪くなったらしい。劇場のような人の多い場所は不安だと」
「では、フィオナ様はお休みになった方がよろしいのでは」
「そう言ったんだが、行けなくなるのはつらいと泣きそうになっていて」
リシェルは扇を持つ手を動かさなかった。
「……そうですか」
「だから今夜は、俺がフィオナに付き添う。君は先に劇場へ行っていてくれないか」
控えの間の外で、使用人が息を呑む気配がした。
侯爵家の桟敷席に、婚約者だけを先に向かわせる。しかも、エドワードはフィオナに付き添うと言っている。
その意味を、彼はどこまで分かっているのだろう。
「エドワード様。今夜は、侯爵家としてご挨拶なさる方も多いはずです」
「ああ。だから君が先にいてくれると助かる」
エドワードは穏やかに言った。
「君なら上手く対応できるだろう。フィオナを落ち着かせたら、すぐ向かう」
また、その言葉だった。
信頼の形をして、リシェルの側へ置かれるもの。
「承知いたしました」
リシェルが答えると、エドワードはほっとしたように笑った。
「ありがとう。君は本当に頼りになる」
そのまま彼は控えの間を出ていく。
扉が閉まる直前、廊下の奥からフィオナのか細い声が聞こえた。
「エドワード様……ごめんなさい。私のせいで」
「気にしなくていい。俺がついている」
扉が閉まった。
控えの間には、演目表と冷めていない紅茶だけが残る。
執事が静かに頭を下げた。
「リシェル様、劇場へ向かわれますか」
「ええ。遅れるわけにはまいりませんから」
リシェルは立ち上がり、外套を肩に掛ける。
侯爵家の馬車へ乗り込むと、向かいの座席が空いていた。そこは本来、エドワードが座る場所だった。
窓の外で、使用人たちが深く礼をしている。
馬車が動き出す。
石畳を進む音が、車内に規則正しく響いた。リシェルは膝の上に演目表を置き、端をそっと押さえる。紙の角が少しだけ折れていた。
劇場に着くと、案内係は当然のように二人分の席へリシェルを導いた。
「ブライトン侯爵家のご令息は、後ほど?」
「ええ。少し遅れて参ります」
リシェルは微笑んで答えた。
侯爵家の桟敷席には、隣り合う二つの椅子が用意されていた。片方にはリシェルが座り、もう片方は空いたまま残る。
幕が上がる前、いくつかの家の夫人たちが挨拶に訪れた。
「まあ、今夜はお一人で?」
「エドワード様は、少し遅れていらっしゃいます」
「そうでしたの」
夫人たちはそれ以上踏み込まない。
その代わり、視線だけが空席を確認してから離れていく。
リシェルは舞台へ目を向けた。
灯りが落ち、楽が始まる。
物語の中では、婚約者同士が同じ馬車に乗り、互いの手を取り合って劇場へ向かっていた。
隣の椅子は、幕が上がっても空いたままだった。
第一幕が終わる頃、劇場の扉の方に小さなざわめきが起きた。
エドワードが来たのかと、リシェルは一度だけ視線を向ける。
そこにいたのは、エドワードとフィオナだった。
フィオナは彼の腕に手を添え、少し疲れたように寄り添っている。エドワードは彼女の歩幅に合わせながら、こちらの桟敷席へ向かってきた。
リシェルの隣には、一つだけ空いた椅子がある。
案内係は困ったように立ち止まった。
劇場の灯りの下で、三人分の視線がその席へ落ちた。
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