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第二章 副官の補佐官
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濡れ衣の騒動から数日が経った。
表向きには何事もなかったかのように執務室の日々は流れている。
だが、セラフィーナの胸の奥にはまだ苦い痕跡が残っていた。
視線を感じるたびに、あのときの疑念と侮蔑が蘇る。
それでも仕事を続けられているのは、あの場で彼が支えてくれたからだった。
夕刻。
窓から射す西日が机の書類を黄金色に染める頃、セラフィーナは羽根ペンを置き、小さく息を吐いた。
胸の奥に抱えていた言葉をようやく口にすべきときだと感じた。
「副官殿、少しお時間をいただけますか」
声をかけると、クリストファーは顔を上げた。
穏やかな笑みを浮かべたまま「ええ」と頷き、机の端に積んだ書類を片づける。
その仕草はいつも通り整然としていて、柔らかな光に包まれた横顔は絵画のようだった。
「書類整理はお済みですか?」
「はい。今日の分は一通り……ただ、報告書の言い回しで悩んでいて」
「なるほど。外交文は一語で意味が変わりますからね」
自然な会話が続く。
緊張はしていたが、彼がさりげなく問い返してくれることで、セラフィーナは少し肩の力を抜くことができた。
話題は当たり障りのない業務のこと、翻訳の細かい解釈のこと。
けれど、そのやり取りのひとつひとつが、あの事件以来初めての「穏やかな会話」だった。
やがて言葉が途切れ、短い沈黙が訪れた。
セラフィーナは膝の上で拳を握りしめ、意を決した。
「……あの、先日の件、本当にありがとうございました」
深く頭を下げると、クリストファーはいつもの笑みを保ったまま首を横に振った。
「私は事実を述べただけです。感謝されるようなことではありませんよ」
穏やかな声色。
それは柔らかく響いたが、セラフィーナにはどこか突き放すようにも聞こえた。
「それでも、助けられました。私の言葉では誰も信じてくれなかった……でも、副官殿のおかげで、私は立っていられる」
胸の奥からこぼれるように言葉が続く。
だが、彼はなお笑みを崩さなかった。
セラフィーナは視線を落とし、息を吸った。
言わずにいれば、この思いはずっと胸の中で燻り続ける。
勇気を振り絞り、彼女は顔を上げた。
「……けれど、私にまでそんなに気を使わなくて良いのですよ」
その瞬間、青い瞳がわずかに揺れた。
「え……?」と、小さな吐息のような声が漏れる。
穏やかな笑みはそのままだったが、彼の中に確かな動揺が走ったのが分かった。
セラフィーナは苦しそうに笑った。
「だって……その笑顔、少しだけ辛そうに見えるのです」
静かな告白のような一言が落ちる。
沈黙。
夕暮れの光が差し込み、二人の間を黄金に染める。
クリストファーは言葉を失ったまま、微笑を崩さずに彼女を見つめていた。
誰にも悟らせないはずの自分の顔を、彼女だけが見抜いた。
その事実が胸をざわめかせる。
――なぜ、この娘には見えてしまったのだろう。
胸の奥に芽生えた小さな動揺は、冷徹に整えられた日常にひびを入れていった。
彼は初めてセラフィーナを、ただの補佐官ではなく「意識せざるを得ない存在」として見つめ始めていた。
表向きには何事もなかったかのように執務室の日々は流れている。
だが、セラフィーナの胸の奥にはまだ苦い痕跡が残っていた。
視線を感じるたびに、あのときの疑念と侮蔑が蘇る。
それでも仕事を続けられているのは、あの場で彼が支えてくれたからだった。
夕刻。
窓から射す西日が机の書類を黄金色に染める頃、セラフィーナは羽根ペンを置き、小さく息を吐いた。
胸の奥に抱えていた言葉をようやく口にすべきときだと感じた。
「副官殿、少しお時間をいただけますか」
声をかけると、クリストファーは顔を上げた。
穏やかな笑みを浮かべたまま「ええ」と頷き、机の端に積んだ書類を片づける。
その仕草はいつも通り整然としていて、柔らかな光に包まれた横顔は絵画のようだった。
「書類整理はお済みですか?」
「はい。今日の分は一通り……ただ、報告書の言い回しで悩んでいて」
「なるほど。外交文は一語で意味が変わりますからね」
自然な会話が続く。
緊張はしていたが、彼がさりげなく問い返してくれることで、セラフィーナは少し肩の力を抜くことができた。
話題は当たり障りのない業務のこと、翻訳の細かい解釈のこと。
けれど、そのやり取りのひとつひとつが、あの事件以来初めての「穏やかな会話」だった。
やがて言葉が途切れ、短い沈黙が訪れた。
セラフィーナは膝の上で拳を握りしめ、意を決した。
「……あの、先日の件、本当にありがとうございました」
深く頭を下げると、クリストファーはいつもの笑みを保ったまま首を横に振った。
「私は事実を述べただけです。感謝されるようなことではありませんよ」
穏やかな声色。
それは柔らかく響いたが、セラフィーナにはどこか突き放すようにも聞こえた。
「それでも、助けられました。私の言葉では誰も信じてくれなかった……でも、副官殿のおかげで、私は立っていられる」
胸の奥からこぼれるように言葉が続く。
だが、彼はなお笑みを崩さなかった。
セラフィーナは視線を落とし、息を吸った。
言わずにいれば、この思いはずっと胸の中で燻り続ける。
勇気を振り絞り、彼女は顔を上げた。
「……けれど、私にまでそんなに気を使わなくて良いのですよ」
その瞬間、青い瞳がわずかに揺れた。
「え……?」と、小さな吐息のような声が漏れる。
穏やかな笑みはそのままだったが、彼の中に確かな動揺が走ったのが分かった。
セラフィーナは苦しそうに笑った。
「だって……その笑顔、少しだけ辛そうに見えるのです」
静かな告白のような一言が落ちる。
沈黙。
夕暮れの光が差し込み、二人の間を黄金に染める。
クリストファーは言葉を失ったまま、微笑を崩さずに彼女を見つめていた。
誰にも悟らせないはずの自分の顔を、彼女だけが見抜いた。
その事実が胸をざわめかせる。
――なぜ、この娘には見えてしまったのだろう。
胸の奥に芽生えた小さな動揺は、冷徹に整えられた日常にひびを入れていった。
彼は初めてセラフィーナを、ただの補佐官ではなく「意識せざるを得ない存在」として見つめ始めていた。
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