愛を選んだ夫と離縁しましたが、私はもう振り返りません

藤原遊

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第25話 理解

ロイドがその宿を見たのは、偶然だった。

本当に、偶然だったのだと思う。

昼過ぎ、仕入れのことで町外れまで足を延ばした帰りだった。いつもの肉屋に顔を出しても、欲しい量は揃わず、野菜の方も思うように回してもらえない。話をしても、どこかよそよそしい。前とは違う空気があることを認めたくなくて、余計に遠回りしてしまっただけだった。

その道の先に、小さな二階建ての宿が見えた。

古びた看板。大きすぎない入口。表に停められた荷馬車。ぱっと見ただけなら、目立つ宿ではない。

けれど、その前に立った瞬間に分かる。

客がいる。

扉が開くたびに空気が動き、人の出入りが絶えない。外に積まれた荷の置き方も雑ではなく、通りを塞いでいない。裏手には、冒険者のものらしい大きな荷袋がきちんと並べられていた。

ロイドは足を止めた。

まさか、と思ったのは最初だけだった。

次の瞬間には、もう分かっている。

ルークの宿だ。

そして、エレナのいる宿でもある。

扉が開いて、二人組の冒険者が出てきた。片方が笑いながら言う。

「やっぱ飯がちゃんとしてると違うな」

「部屋も静かだったしな。次もここでいい」

その会話が、まるで何でもないことみたいに耳へ入る。

ロイドは通りの端に寄ったまま、動けなかった。

少しして、今度は別の客が中へ入っていく。

入口のところでルークが迎え、何か短くやり取りをしている。表情は落ち着いていて、宿の主人の顔をしていた。見慣れているはずの息子なのに、妙に遠く見える。

その奥で、エレナが食堂から皿を運んでいた。

手つきは変わらない。

いや、変わらないからこそ、よく分かる。

前の宿で何年も見てきた動きだ。客の流れを邪魔せず、食堂と厨房の間を無駄なく行き来し、誰が次に何を必要とするのかを先に見て動く。そのひとつひとつを、自分はきちんと見ていなかったのだと、こんなところで思い知らされる。

「いい宿だぞ」

背後から声がして、ロイドは振り返った。

見覚えのある顔だった。前にも酒や荷を運んできたことのある男だ。名前までは思い出せないが、冒険者の一人だと分かる。

ロイドはすぐには答えなかった。

男は視線だけで宿の方を示す。

「飯はうまいし、遅く帰ってもちゃんと食わせてくれる。荷物の扱いも丁寧だし、無駄に騒がしくない。最近はこっち使うやつ増えてる」

ロイドは黙る。

男は少しだけ間を置いてから、続けた。

「息子の方もよくやってるけど、やっぱりあの人がいるのが大きいんだろうな」

あの人。

その言い方が、やけに自然に聞こえる。

奥さんでも、女将でもない。ただ「あの人」。

それが一番しっくりくる呼び方だった。

「……そうか」

やっとそれだけ言うと、男は肩をすくめた。

「まあ、見りゃ分かるだろ」

言い返せなかった。

見れば分かる。

たしかに、その通りだったからだ。

食堂の中では、客が増えても空気が荒れない。誰かが待たされて苛立つ様子もなく、声が重なってもうるさくならない。厨房からは湯気が立ち、皿の音がして、そのすべてがちゃんと繋がっている。

前の宿では、もう失われてしまったものだった。

ロイドは無意識に、通りの端に停められた荷車へ目をやった。仕入れたばかりらしい野菜が積まれている。量は多すぎず少なすぎず、使い切れる分だけが揃っていた。

これも、エレナだ。

客の入りを読み、必要な分だけを持たせ、余らせないように回す。前の宿では当たり前だったそれが、今はどれだけ難しいか、ロイドはもう知っている。

扉がまた開いた。

エレナが空になった皿を下げに出てくる。

その横を、小さな荷袋を抱えた若い冒険者が通り抜ける。

「また来ます」

そう言われて、エレナが少しだけ笑う。

その笑い方まで、前と変わらない。

変わらないのに、もう自分の方を向いていない。

ロイドはようやく、自分が何を見せつけられているのか理解した。

エレナがいれば、ではない。

エレナとルークがいれば、ああして宿は回るのだ。

自分のところで失われたものが、そっくりそのまま別の場所で形になっている。

そして、客はそれを選んでいる。

腹の底が、じわじわと冷えていく。

悔しいのか、焦っているのか、自分でも分からない。ただ一つだけはっきりしていることがあった。

このままでは、もう戻らない。

客も、仕入れも、評判も、前の宿の空気も。全部が少しずつ、あちらへ流れていく。

「あいつがいれば」

気づけば、また同じ言葉が口をついていた。

男がちらりとロイドを見る。

「親子だから、引き抜きは難しいと思うぞ」

それだけ言って、荷を担いだまま宿の裏手へ回っていく。

今さら、まったくその通りだった。

ロイドはその場に立ったまま、もう一度だけ宿の入口を見た。

ルークが帳場に戻る。エレナが食堂へ入る。客が笑う。扉が開いて閉じる。

その一つひとつが、前の宿では噛み合わなくなってしまったものばかりだった。

ロイドはゆっくり息を吐く。

ここへ来たのが偶然だったとしても、見てしまった以上、もう知らなかったことにはできなかった。
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