Al-Harara fi Ramad

ナタ=デ=ココ

文字の大きさ
3 / 4

あたたかな光

しおりを挟む
 夜を破って飛び出した瞬間、世界が反転した。聖都の光が遠ざかっていく。空は星を失い、風だけが残った。
 氷の足場は夜気を受けてきしみ、冷気と熱が混ざり合いながら、砂原の上を滑っていった。ザイードの体は腕の中で重い。焼け焦げた皮膚の下で、まだ微かに赤が灯っている。その熱が、氷の足場をじりじりと溶かしていった。
 どれだけ進んだのか分からない。祈りを棄てたあの瞬間から、時間の感覚が崩れていた。神の沈黙だけが、背後に残っている。砂の大地が広がり、空が白みはじめた頃、氷は音を立てて砕けた。
 重力が戻る。ザイードの体が崩れ落ち、僕は咄嗟に抱き留める。砂が焼けるように熱い。夜明け前の光がまだ弱いのに、地面の温度はすでに皮膚を刺していた。
 氷を作ろうとしても、何も生まれない。空気が乾きすぎている。水も、蒸気も、祈りも、もう何もない。
「……ザイード」
 そう呼んでも、彼は目を開けない。
 彼の唇から白い息が出た。けれど、それは冷気ではなく、体の内側から漏れる炎の名残。
 このままでは、燃え尽きてしまう。
 熱を引き留めるように抱きしめると、腕が焼けるように熱い皮膚が焦げる匂いがした。
 それでも、離せなかった。せめてこの灯が消えないうちに。そう思って、砂の上を歩いた。
 どこまでも、砂が続き、風の音すら、遠い。足跡はすぐに崩れ、何も残さない。背負った身体の重みが、だんだんと遠のいていく。
 僕の視界の端で、光が歪む。太陽が昇り、砂が燃える。氷を作ろうとしても、指先が動かない。
「……っは」
 呟いた声が、熱に溶けた。膝が折れる。
 世界が滲んで、空が裏返る。最後に見えたのは、地平線の向こうの光。それが蜃気楼なのか、命の灯なのか、もう区別もできなかった。
 音が消え、光がゆっくりと、赤に変わった。

 ***

 光が、揺れていた。
 まぶたの裏に、やわらかな赤が差し込む。熱ではなく、皮膚を透かして落ちる日の光。それが朝だと気が付くのに、しばらく時間がかかった。
 重たいまぶたを上げると、天幕の天井が見えた。干した薬草が吊るされ、かすかに煙の匂いが漂っている。喉が渇いて痛む。指先は冷たく、腕は鉛のように重い。
 そのとき、低い男の声が耳に届いた。
「……悪かったって」
 ザイードの声だ。
 すぐ傍、寝台の脇の椅子に腰かけ、包帯を巻かれているらしい。
 彼の隣には、もうひとり誰かがいた。
 女性の声。落ち着いた調子で、けれど芯のある響き。
「皆さん、心配していたんですよ。もちろん私も。彼のおかげで助かったんですから」
 皆さん。その言葉に、知らない世界の匂いを感じた。
 僕達以外に、誰かがいる。
 この場所は、聖都ではない。
 声の方を見ようとして、体を起こすと、乾いた布の擦れる音がした。二人の視線がこちらを向く。
 女性が、微笑んだ。光の中で、その髪が黒曜石のように輝いていた。巻かれた髪が肩でほどけ、彼女の頬に影を作っている。緩やかな衣服をまとってはいるが、腕も顔もあらわで、思わず目をそらした。
 肌を、隠していない。
 それは、聖都では禁忌だった。女性が人前に肌を晒すことは、神の法に背くこと。
 だが彼女は、そのことを気にも留めていないようだった。その穏やかな表情が、かえって僕を混乱させる。
「おはようございます」
 女は、静かに言った。
「もう大丈夫ですよ。体調はいかがですか?」
 その声は、柔らかくて、まるで寄り添うように響く。祈りの声ではない。人に向けられた、声だった。
 何かを言おうとして、喉が詰まった。代わりに掠れた音だけが漏れた。
「……ここは」
 女は少しだけ首を傾げ、微笑んだ。
「ここは反政府組織〈アルミナ〉の拠点です。砂漠で倒れていたあなた方を、仲間が見つけてくれたんですよ」
「安心しろ。殺したりはしないさ。お前のことは話してある」
 その言葉を聞き、女性は小さく息をついて、包帯を整える。
「あなたが、彼を守ってくださったのでしょう。ありがとうございます。私達の大切な仲間を救ってくれて」
 彼女の手が、僕の額に触れた。驚くほど、あたたかかった。その温度に、一瞬だけ体の力が抜ける。彼女の指先に宿る熱が、あの夜の炎よりも穏やかに、胸の奥を焼いた。
 天幕の外では、風の音がした。布の隙間から、光が差し込む。誰かの笑い声と、焚火の爆ぜる音が混ざっていた。
 ――祈りのない朝。
 世界が、少しだけ違って見えた。

 天幕の布を押し開けると、光が溢れた。
 乾いた風が顔を撫で、焼きたての香ばしい香りがして、声をあげて笑い合う柔らかな声が聞こえる。
 外には焚火の跡がいくつもあり、そのひとつの傍で女性と子供達がピタパンを焼いていた。
 丸めた小麦の生地を平たく伸ばし、熱した鉄板の上に置くと、ゆっくりと膨らむ。火の上で弾ける油の音、立ち上る煙。焼き上がった生地をひっくり返すたびに、空気の層が中で膨らみ、薄い膜が黄金色に色づく。それを紙で包み、香草を混ぜた肉とともに巻く。初めて見たわけではない。だが、その素朴な香りは、これまで見てきた何よりも豊かに思えた。
「よお」
 背後からザイードの声がした。振り返ると、彼は焚火の傍に立ち、膨らんだピタパンを片手に持っていた。顔にはまだ包帯が残っているが、表情は穏やかだ。
「食ってみろ。焼きたてだぜ」
 彼が差し出したのは、薄切りにした羊肉を野菜と共にピタパンで挟んだもの。肉は香草と香辛料で味つけされ、良い香りが鼻をくすぐる。熱で滲んだ脂がパンの内側に染み込み、指先に温度が伝わる。
「……これは」
「シャワルマ。知らないか」
 軽い口調で言いながら、ザイードは肩をすくめた。
「知っている。聖都では、あまり食されないだけだ」
 馬鹿にされたように感じて、僕が少し強い口調で返す。
 すると、彼の背後から男が現れた。彼は、豪快に笑いながら話す。
「そうか、ならたくさん食べろ! こいつらの作るシャワルマはうまいぞ!」
 見上げるような体格の男だった。片方の袖が空を切るように垂れ下がり、陽に焼けた肌が光を返している。その笑い声は、大地の揺れる音のように深かった。
「こいつはアミール。俺達のボスだよ。あんたからすれば、敵かな」
 ザイードがそう紹介すると、男は歯を見せて笑った。
「そんなこと言うな、ザイード。オレにとっては誰だって愛すべき人間さ」
 そう言って、片腕で僕の肩を軽く叩く。重くて、温かい掌だった。
「しばらくはここで休め。オレ達は誰も拒まない」
 その言葉が、胸の奥に染みた。
 拒まないという言葉を、聞いたのはいつ以来だろう。聖都ではいつだって、許される者と排除される者に分けられていた。だが、ここにはその線がなかった。彼らはただ、生きているという事実だけで並んでいた。
 アミールが笑いながら、子供達に呼びかける。
「おい、焦げるぞ!」
 子供達が慌てて鉄板を持ち上げ、声が上がる。パンが焼ける匂いと笑い声が交錯する。その音が、どうしようもなく心地よかった。
 ザイードが僕の隣に立ち、少しだけ声を落とす。
「ここじゃ、みんな笑って、生きてる。それで十分だろ」
 何も言えなかった。けれど、その空気が何だか心地が良かった。
 風が吹いて、布が揺れる。遠くで焚火の煙がたなびき、太陽の光が砂の粒を白く照らしていた。

 昼になると、空は白く霞み、空気が震えていた。天幕のそばに腰を下ろすと、子供達の声が近くから聞こえてきた。
 あの黒髪の女性、僕を診てくれた人が、子供達に何かを教えている。乾いた木の机に薬草を広げ、香りを嗅がせながら話していた。
「これはミルラ。これはケシ。どちらも鎮痛剤として使われます」
 子供達が真似をして、薬草をすり潰す。手のひらの上から、青い香りが広がっていく。
 僕はその様子を遠くから見つめていた。
「あなたは、授業に加わらないのですか」
 背後から、静かな声がした。振り返ると、浅い金髪を後ろで束ねた男が立っている。片目は眼帯に覆われていた。その残る片方の瞳は、湖のように深く澄んでいる。
「……授業?」
 僕がそう聞くと、男は小さく笑んだ。
「ええ。ジャスミンが子供達に薬草の知識を教えているのですよ。彼女は私の助手であり、医者でもありますから」
「あなたは……」
「申し遅れました。私は、アスラン。まあ、ただの学者です」
 彼の口調は、とても穏やかで、その姿は、どこか懐かしいようにも、知らないもののようにも見えた。
 彼は天幕の陰に目をやりながら、穏やかに続けた。
「見たところ、あなたも子供でしょう。授業に加わると良い。あなたが何者であれ、ここでは、誰でも学ぶ権利があります」
 その言葉が、胸の奥に刺さった。
 学ぶこと。それは僕にとって、許されないことだった。法学者達は、僕が何かを知ることを恐れていた。疑問を抱くことは罪であり、考えることは背徳だった。
 でも、いま、薬草の香りが漂うの中で、その禁を覆す言葉が、あまりにも自然に口にされた。
 アスランの声は、風のように柔らかかった。
「学びなさい。人の時間は限られているのですから」
 その言葉に促されて顔を上げると、ジャスミンがこちらを見て手を振っていた。子供達が笑いながら草の汁をこぼし、指先を緑に染めている。その笑い声が、あたたかな陽の光に溶けていった。
 僕は立ち上がり、彼女のもとへ歩みを進める。
「学びは、あなたの生きる糧となります」
 アスランの声が風に乗って届いたとき、胸の奥で、氷のように固まっていたものが、音もなく融けていった。
 それは祈りではなかったけれど、確かに、救いのように思えた。

 ***

 朝の光は柔らかく、砂漠の端に淡く降り注いでいた。
 この地に来てから、どれほどの朝を迎えただろう。冷たい夜気にも、焚火の匂いにも、少しずつ身体が慣れてきた。祈りの声が聞こえない朝にも、心がざわつかなくなっている自分に気が付く。それが怖くもあり、どこか、ほっとするようでもあった。
 僕は水の入っていない桶を抱えながら、オアシスへ向かう人々の列の中にいた。
 前を歩くのはアミール。背中は広く、片腕しかないのに、その足取りは誰よりも力強い。その後ろに、子供達が三人程。小さな体で、木の桶を抱えながら、笑い合っている。彼らの笑い声が、砂漠の照り返しと一緒に空へ吸い込まれていった。
「どうしてこいつらも行くんだ。僕の力を使えば――」
 言いかけた僕の声を、アミールの笑いが遮った。
「オアシスを凍らせて持ち帰るってか。それは駄目だ」
「なんで。効率が悪いよ。僕なら、すぐに終わらせられる」
「でも駄目だ。みんなで行くことに意味があるんだからな」
 アミールの言葉は、いつも太陽の熱をそのまま閉じ込めたようだった。その熱が、胸の奥の冷たい部分に触れて、じんわりと溶かしていく。
 彼の言うことは、まだよく分からない。けれどその言葉の響きは、なぜか耳に残った。
 やがて、緑の影が見えてくる。シュロの葉が風に揺れ、陽光がその隙間から水面に落ちている。
 そこには、鏡のような水が広がっていた。空を映す青が眩しく、砂漠の光景とは思えないほど静かだった。
「さあ、仕事だ!」
 アミールが片腕で桶を構え、水面に身を屈める。
 瞬間、僕は息を呑んだ。片腕の彼が、まるで何の不自由もないように動く。腰と足の力で水を引き上げ、器を巧みに立て直す。桶の中で水が陽光をはね返し、きらきらと光った。
「器用なもんだろ」
 アミールが得意げに笑う。その笑みは、どこまでも朗らかで、戦や苦しみの痕跡を微塵も感じさせなかった。
 子供達が次々に桶を沈める。水が重く、二人がかりで引き上げると、勢い余って一人が倒れそうになる。そのとき、アミールが器用に足を使って、子供を支えてあげた。
「ありがと! アミール!」
「おう。気をつけろよ」
 子供達が歓声を上げ、笑い声が響いた。
 その笑いを見つめるうちに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
 僕のなかで、何かが揺れた。こんな光景は、見たことがなかった。聖都では、不用意に笑うことも許されず、常に正しい顔を求められた。
 なのに今、この人達は、誰の命令もなしに笑っている。それは、あまりにも眩しかった。
 気づけば、口元が緩んでいた。自分の頬がわずかに熱くなるのを感じて、思わず視線を逸らす。その様子を見たアミールが、にやりと笑った。
「お、楽しいか」
「……別に」
「楽しいのが一番さ。お前の氷が、ちょっとでも融けたなら良かった」
 その言葉に、胸の奥がわずかに震えた。
 融けた。アミールは冗談のつもりで言ったのだろう。だが、僕にはその一言があまりにも正確に聞こえた。
 自分の中の何かが融けている。それが何なのかは分からないけれど、人の確かなあたたかさは感じていた。
 太陽がさらに高く昇り、光が水面を焼くように照らす。アミールが桶を担いで歩き出し、子供達が笑いながらその後を追う。
 僕はふと、オアシスの縁にしゃがみ、水に手を浸した。冷たいはずの水が、なぜか柔らかく感じられた。そのぬくもりが、指先から胸に伝わる。こんなにも静かな温度の中で、生きている。祈りの声がなくても。神の名を呼ばなくても。
 水面が揺れ、太陽の反射がアミールの頬を照らす。その光は、淡雪に射し込んだ春の光のようだった。

 夜の砂漠の空気は冷たく、心臓まで沁みるようだった。昼のあの明るい熱が、嘘のように静まり返っている。
 焚火の周りでは、人々が唄を歌っていた。低い笛の音と打楽器の響きが、夜空に溶けていく。
 赤い火が人々の頬を照らし、笑い声がひとつ、またひとつ上がる。子供達が輪になって踊り、誰もが幸せそうにしていた。その光景を少し離れたところから見ていると、胸の奥がざわついた。
 神のいない夜に、どうして人はこんなにも笑えるのだろう。
 焚火の火が揺らめくたびに、記憶の奥が疼いた。
 あの夜のこと。「おいで」と優しく呼んだ声。その声に逆らえず、ただ従うことが信仰だと教えられてきた。
「……ナジム様」
 思わず彼の名を口にしていた。火の揺れが、あの彼の衣の裾のように見えた。あの夜の温もりは、祈りの形をした支配だった。それでも、彼の笑みを思い出すと、心臓が軋む。
「ナジム=アル=ディーンですか」
 低く落ち着いた声が、背後から聞こえた。
 振り返ると、火の明かりを背後に添えたアスランがいた。金糸のような髪が淡く光り、左目の黒い眼帯が闇に溶ける。右目だけが、火の赤を映していた。
「彼、しぶとく生きていたのですね」
 穏やかで、どこか達観したような声だった。
「何故、ナジム様の名を――」
「かつて、私も法学者でした。神を信じ、神に裏切られた、一人の信徒だったのですよ」
 アスランは微笑んで、僕の隣に腰を下ろした。火が彼の顔を照らし、影が長く地面に落ちる。
「あなたを愛し、育んでくれたのがナジムだったように、私を愛し、育んでくれたのは、姉でした」
 その声は静かで、火の音に溶けていく。
「彼女が病に伏したとき、私は神に祈りました。彼女に祝福を与えてくれ。彼女を救ってくれと」
 アスランは一度言葉を止め、焚火を見つめた。火がはぜて、赤い火の粉が宙に舞う。
「しかし、神は沈黙しました。結局、姉は死んでいきました。姉の死は必然だった。神も祈りもこの世界にはないのだと、そのとき、初めて知ったのです」
 その言葉に、僕は顔を上げた。
「……神がいないなら、僕は何を信じればいい」
「自分です」
 アスランは迷いなく言った。
「あなたの見たもの、感じたもの、それが世界の真実です。神が与える意味ではなく、あなたが選んだ意味を信じればいい」
 火がぱちんと音を立てた。その音が、不思議と心に沁みた。
 橙の光が砂を照らし、風が通るたびに炎の輪郭が揺らめく。アスランはその光の中に目を落とし、低い声で言った。
「神の存在なんて、誰も証明できませんし、分かりません。しかし、我々人間が今を生き、そして死んでいくことは、紛れもない現実であり、真実なのですよ」
 言葉が空気に溶けるようにして、夜の静寂が戻ってくる。その響きは不思議とやさしく、胸の奥をゆっくり満たしていった。
 神の存在は分からない。
 それは、これまで最も恐れてきた言葉だった。神の名のもとにすべてを律し、意味を与えられてきた僕にとって、それを失うことは、世界を失うことと同じだった。
 けれど今、その言葉が、なぜか救いのように感じられた。分からないということが、こんなにも静かで、広いものだったとは思わなかった。
 僕は焚火を見つめた。火はただ燃えている。誰の意志もなく、誰のためでもなく。それでも確かに、そこにあった。
 息を吸い込む。熱い空気が肺に満ち、胸の奥で鼓動が跳ねる。それは、生きている音だった。
 神の沈黙の中で、初めて、自分の呼吸を意識した。それは祈りの形をしていなかったけれど、確かに、今、僕は生きていた。

 宴が終わったあと、焚火はほとんど燃え尽きていた。灰の中に埋もれた赤い火が、かすかに脈を打っている。まるで、死にかけた心臓のように。その光が消えてしまえば、もう何も残らない気がして、僕はじっとそれを見つめていた。
 この数日間、笑う人々を見た。
 祈らずに、手を動かし、言葉を交わし、パンを焼いていた。彼らの声は穏やかで、どこかあたたかかった。けれど、僕の中ではまだ何かが凍ったままだった。それは恐らく、祈りを失った心の奥に残る空洞。
「祈りは済んだか」
 背後から声がした。
 驚くほど自然で、まるで夜の中に溶け込むような声だった。振り返ると、ザイードが立っていた。赤い残り火が彼の頬を照らし、蒼色の瞳がかすかに光っている。
 その姿を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
「もう、祈ることはできない。ここの人々は神に縋ることなく、自らの力で生きている。僕も――」
 言葉を吐き出すたびに、胸の奥が軋んだ。かつて僕のすべてだった祈りが、今はもう届かない。あれほど神の光を求めていたのに、今はその光を求める感情すらも思い出せなかった。
「神に祈るのも、生きることだと思うぜ」
 隣に座ったザイードの声は、静かで、それでいて確かな温度を持っていた。その声が、夜気を震わせる。
「え」
 僕は顔を上げた。問いというより、思わず漏れた息に近かった。
「神に縋らなきゃ生きられない奴もいる。偶々、俺らは神じゃなくて、自分と仲間を信じていただけで、お前の場合、それが神だった。それだけだろ」
 その言葉が、真っすぐ胸の奥に落ちてきた。音もなく、けれど確かな重さで。
 彼の言葉は、焚火の火のようだった。ゆっくりと、凍りついた心の奥に染み込んでいく。
 僕は、今まで神に縋ることでしか生の意味を知らなかった。けれど、この場所で、神のいない人々が穏やかに呼吸しているのを見てきた。
 それでも、僕にはまだ怖さが残っている。祈りを手放したあと、何を拠りどころにすればいいのか分からないから。
 ザイードの言葉は、その迷いを包み込むようだった。否定ではなく、理解だった。
 お前の場合、それが神だった。
 そう言われた瞬間、ようやく自分が、誰かに、許されたような気がした。
 胸の奥がじんわりと熱くなる。その熱は火のせいではなく、自分の内側から滲み出してくるものだった。
「……あなたも、自分と仲間を信じているの」
 声が震えていた。問いながら、僕は恐れていた。彼の答えが、自分を遠くへ突き放すものになるのではないかと。
 しかし、ザイードはただ微笑んで言った。
「そうさ、俺は俺と、仲間と――俺を救ってくれたお前を、信じてるぜ」
 その瞬間、時間が止まった。言葉が風に溶けていくのを、息を呑んで見送るしかなかった。胸の奥に広がる熱が、痛いほどに優しい。信仰の炎ではない。もっと人間的で、確かに触れられるあたたかさ。
 僕は何も言えなかった。それでも、その沈黙が心地よかった。消えかけた焚火がふっと揺れ、赤い光が二人の影を砂の上に重ねた。
 星々が煌めく夜空は、どこまでも静かで、どこまでも深かった。神の沈黙が満ちるその空の下で、僕は初めて、人を信じることを知った。

 ***

 いくつもの朝を越えた。
 いつのまにか、焚火の匂いにも、焼きたてのパンの香りにも慣れていた。この地に来たばかりの頃、夜の静けさが怖くて眠れなかったのに、今はその静けさが心地よく感じられる。
 風の音に、誰かの笑い声が混じり、それが遠くから微かに届く。そんな暮らしが、ずっと続くような気がしていた。
 夕暮れが近づくと、天幕の間に赤い光が流れ込む。焚火では豆が煮え、香辛料と胡麻の匂いが混ざって、あたたかな香りを立てていた。
 僕は子供達と一緒にピタパンの生地を伸ばしていた。手のひらで押すと、やわらかい生地の感触が伝わって心地良い。鉄板にのせると、内側の空気が膨らみ、金色の斑が浮かんでいく。その様子を見て子供たちが歓声を上げる。笑い声が風に流れ、空に溶けていく。
 オアシスの方から水を運ぶ声も聞こえた。アミールが大鍋を抱え、ザイードがそれを支えている。
 フムスを煮る音、肉を焼く音、香草の匂い。夕食の支度が進むたびに、集落の中に穏やかな息づかいが広がっていく。それは、祈りよりも静かで、確かな生活の音だった。
 そんな中で、ふと遠くを見た。
 陽が傾く砂の地平に、二つの影が見えた。それは最初、風に舞う砂煙のように見えたけれど、やがて人の形をとった。影はゆっくりとこちらへ向かってきて、橙の光の中でその輪郭がはっきりしていく。
「……帰ってきた」
 子供の一人が呟いた。
 帰ってきたのは、アルミナの偵察班だった。昼過ぎに出発していった彼らが、日が沈む頃になって戻ってきたのだ。彼らの衣は砂にまみれ、額には汗が滲んでいた。
 けれど、疲れだけではない。
 その目の奥に、何か強いものが宿っていた。喜びでも、安堵でもなく、もっと冷たい何か。
 アミールがすぐに彼らのもとへ歩み寄る。ザイードも顔をしかめ、後に続いた。
 焚火のそばにいた人々が次第に静かになり、子供たちも焼きかけのパンを手にしたまま動きを止める。沈む太陽の光が、赤い布を照らし、風が重たくなったように感じた。
 偵察隊はアミールたちと軽く話すと、そのまま共に天幕へと入っていった。
 僕は思わずその背を目で追った。胸の奥で、小さな痛みが走った。彼らの表情を見た瞬間、何かが変わると本能的に分かった。
 焼きかけのピタを置いて、僕は天幕の方へと向かった。布の隙間から、低い声が漏れている。アミールの声、その次に偵察隊の掠れた報告。風の音と混ざり合って、言葉の輪郭が曖昧になる。
「……彼らが、動いています」
 その言葉だけがはっきりと聞こえた。
「捜索隊が、もう付近まで……時間の問題でしょう」
 声色からもわかるくらいに、天幕の中の空気は張り詰めていた。息をするたびに、焚火の煙が胸に刺さるように感じた。アミールの短い返答が聞こえ、続けて、もう一人の偵察員が言った。
「……氷の少年。おそらく、彼のことでしょう」
 その瞬間、鼓動が一度止まった。風の音が遠のき、世界が凍ったように静まり返る。
 僕を、探している。
 法学者達。あの白い衣、微笑み、そして「おいで」という声。まるで遠い昔の夢の中の光景のように、鮮明に蘇った。彼らの笑顔の裏にあるものを、僕はもう知っている。それでも、あの声の響きが、今も胸の奥にこびりついていた。
『お前は選ばれた人間なのだよ』
『戻っておいで』
 あの優しい声が、再び僕を呼んでいる気がした。背筋を伝う冷気とともに、記憶がよみがえる。祈りの間の灯火、鉄の匂い、鎖の音。あの日の光景が、鮮明によみがえる。
 中でアミールが深く息を吐いた。
「……そうか」
 低いその声が、天幕の布を震わせた。
「分かった。詳細は後で聞く。休め」
 短い命令。それだけで、偵察員たちは深く頭を下げ、天幕を出ていった。
 僕は慌てて、天幕の物陰に隠れる。彼らの足音が遠ざかっていく。その一歩ごとに、集落のざわめきが少しずつ戻ってくる。けれど、さっきまでの笑い声は、もうなかった。
 僕は天幕の陰に立ったまま、動けなかった。胸の奥が、静かに冷えていく。
 法学者達の影が、また僕の世界に戻ってきた。ここに来て、ようやく見つけた祈りのない穏やかな朝が、音もなく、崩れ始めていた。

 夜が完全に降りた。星の光が砂漠を照らし、風が冷たく吹いていた。
 天幕の間には焚火が並び、火の赤が人々の顔を照らしている。笑い声は消え、代わりに低いざわめきが流れていた。炎の音と、布が揺れる音。それだけが夜を満たしていた。
 アミールが中央に立っていた。その背には焚火の光が映り、片腕の影が地面に長く伸びている。彼の声が、静かに夜気を裂いた。
「聞いてくれ。神権政府の捜索隊が、近くまで来ている。まだ俺たちの居場所は割れていないが、時間の問題だろう」
 ざわめきが一瞬、強くなる。
 子供の声が遠くで上がり、誰かが抱き寄せる気配がした。しかし、誰一人、取り乱す者はいなかった。この場所にいる人々は、もう何度も、こうした夜を越えてきたのだろうと感じる。
 アミールは周囲を見渡し、深く息を吸う。
「朝になったら、非戦闘員は東の支脈の方へ退避。三日の食糧を持っていき、次の拠点を探せ」
 炎が揺れ、光が彼の横顔を照らす。その声には恐れよりも、決意の響きがあった。
「戦える者はここに残れ。神権政府に見つかるまでは戦闘準備を。発見され次第、全て焼き払う」
 焚火が、パチッと音を立てた。火の明かりに照らされた人々の顔は、恐怖よりもむしろ、強さに満ちていた。
 アルミナはこうして生き延びてきた。祈りも旗もなく、ただ互いを信じ、次の夜明けを迎えるために。
 アスランが地面に地図を広げる。細い指が、火に照らされて線を描いた。
「ここから北へ半日程の距離にオアシスがあります。東の支脈を抜け、そちらへ向かってください。詳細な道筋は私が指示します。戦闘班は、西側の遺跡に陣を敷きましょう」
 落ち着いた声。それが不思議と人々の呼吸を整え、ざわめきが徐々に沈まっていく。
 僕はその輪の外にいた。焚火の光の端、影の中で立ち尽くしていた。火の熱は届くのに、身体が冷たい。胸の奥で、心臓がゆっくりと沈んでいく。
 僕のことは、言わなかった。
 神権政府の捜索隊が来る理由は、僕なのに。僕の力を追って、彼らは砂漠を越えてくるというのに。それをアミールもアスランも分かっている。それなのに、誰も口にしない。
 なぜ、黙っているんだ。僕ひとりがいなくなれば、それで済むはずなのに。僕がここにいるせいで、誰かが傷つく。
 アスランが地図を示し、ザイードが火の傍に立っている。
 誰も僕を見ない。彼らの沈黙が、かえって重かった。この穏やかな集落が、もうすぐ炎に包まれるかもしれないのに。それでも彼らは、何も責めず、何も問わなかった。
『お前は選ばれた人間なのだよ』
『戻っておいで』
 記憶の底から、あの声が浮かんだ。法学者の笑み。白い指。やさしさの形をした、支配の声。
 胸の奥が凍る。焚火の赤がぼやけ、息が詰まる。あの声が再び耳の奥で囁いた気がした。
『お前がいれば、皆が救われる』
 その言葉が、まるで呪いのように響く。
 僕のせいで、また誰かが死ぬかもしれない。そう思うと、胸の奥が締めつけられた。このまま、ここにいてはいけない。
 アミールの声が再び響く。
「戦闘終了と同時に合図を送る。それに従い、新しい場所を伝えてくれ。みんなで、生きよう」
 その言葉が、まるで最後の祈りのように聞こえた。
 焚火の光が強く揺れる。炎が人々の顔を赤く染める。それぞれが散っていく中、僕はその場に立ち尽くしていた。
 夜風が吹き抜け、砂が足もとを撫でる。火の粉が舞い、空へ消える。
 僕は目を閉じて考える。胸の中で、冷たい決意が形を取っていくのを感じた。
 行かなくては。
 彼らに、僕のせいで戦わせるわけにはいかない。この手で、終わらせる。
 焚火の熱が背中に触れたとき、それはもう暖かくなかった。静かで、痛いほど冷たい夜だった。

 夜半、焚火はもうほとんど燃え尽き、灰の中に埋もれた火が、わずかに赤を灯していた。風が吹くたびに、火の粉がふっと浮かび、夜空に消えていく。空には雲ひとつなく、星が静かに瞬いていた。
 人々は眠ってはいなかった。戦闘準備をする者、荷をまとめる者、地図を確認する者。それぞれが、最小限の音だけで動いていた。地面を踏む足音が、かすかに響く。声は交わされず、ただ必要な動作だけが夜の中で続いていた。
 僕は、子供達が寄り添って眠る天幕の中で、静かに目を開ける。隣の寝息が小さく響いていた。焚火の光が布越しに滲み、淡い赤が頬を照らしている。
 胸の奥が痛かった。この光も、声も、もう二度と戻らない気がした。
 息を潜めて立ち上がる。外の風が布を揺らす音がやけに大きく感じた。
 これでいい。
 そう思った。僕がここにいれば、きっと彼らは巻き込まれる。僕のせいで、また誰かが傷つく。それだけは、もう嫌だった。
 天幕の入口を捲り、外へ出て、歩みを進めようとしたとき、背後から声がした。
「行くのか」
 低く、静かな声。その響きに、身体が止まった。振り返ると、夜の闇の中にアミールが立っていた。片腕の影が長く伸び、地面に溶けている。月明かりを受けて、その瞳が淡く光っていた。
「僕がここにいたら、みんなが危険にさらされる」
 声を出すと、喉の奥が震えた。言葉が冷たい空気に混ざって、消えていく。
 アミールはしばらく黙っていた。風の音だけが二人の間を抜けていく。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「お前がいなくても、いつかは来た」
 短い言葉だった。けれど、その声には、確かな重みがあった。
「でも、僕が原因だ。僕は、みんなを守りたい」
 胸の奥が軋む。言葉を吐くたびに、心臓の形が変わっていくような感覚があった。
「こんな気持ちは初めてだけど。これが、仲間なんじゃないの」
 アミールはゆっくりと歩み寄る。
 その足取りは、確かで、静かだった。焚火の残り火が風に揺れ、彼の横顔を照らす。
「そうだ、オレ達は仲間だ」
 その声は、夜の中に落ちる灯のようだった。彼の目が、真っすぐに僕を見ていた。
「ともに、生きるのが仲間だ」
 アミールの声は静かで、低く響いた。
「オレはお前も含め、誰一人死なせない。悲しい顔は、させない」
 胸の奥で、何かが崩れた。息をするたびに、痛みが広がっていく。悲しみではない。それは、凍っていた心が融けていく感覚に似ていた。
 アミールは天幕の入口へ向かい、片腕で布を持ち上げた。夜風が吹き込み、布がゆっくりと揺れる。遠くの地平に、淡い月光が滲んでいた。
「それがお前の道なら、止めはしない」
 そう言って、アミールは入口を開いたまま僕を見た。
「だが、オレ達を頼ることもできると、知っておいてくれ」
 その声が、心の奥で響いた。まるで、祈りのように。
 僕は何も言えなかった。喉が詰まり、言葉が出ない。
 ただ、深く頭を下げ、歩き出した。
 足音がやけに静かに響く。背中に焚火の赤い光が当たり、遠ざかっていく。
 アミールは何も言わなかった。風の音だけが、二人の間を流れていった。
 夜空は澄んでいた。無数の星が、砂の上に散るように光っている。息を吐くと、冷たい白が宙に溶けた。
 彼らを、救いたい。
 その言葉を心の中で呟きながら、僕は夜の砂漠へと歩き出した。誰の祈りも届かない場所へ。ただ一人で。

 夜の砂漠は、昼の熱の名残をすっかり失っていた。吐く息が白く見えるほど冷たく、けれどその冷たさよりも、胸の奥に広がる不安の方が痛かった。
 天幕の並びを抜けたとき、月光の下にひとつの影が立っているのが見えた。
 ザイードだった。
 肩を落とし、両手をポケットに突っ込み、少し猫背になって夜空を見上げている。彼が微かに纏うその赤が、背中を薄く縁取っていた。
 僕が近づくと、ザイードは気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返った。その表情には、皮肉を装った軽さと、疲れを押し隠すような影が同居していた。
「奴らはお前を狙っているんだと」
 淡々とした声。けれど、その裏にある心配を、僕はもう感じ取れるようになっていた。
「知っている」
 短く答えると、ザイードが目を細めた。その視線は夜のざらついた空気よりも鋭く、そしてどこか優しかった。
「盗み聞きか? 良い趣味してるぜ」
「……うるさい」
 言い返しながら、自分の声が震えているのが分かった。怖いのか、迷っているのか、それとも――。自分でも判断がつかなかった。
「本当に、行くのか」
 その問いは、夜気より冷たく、胸に突き刺さった。
「行く。僕がここにいたら、みんなが――」
「死んでしまうって?」
 ザイードが言葉をさえぎる。彼の声が、いつもより低く響いた。
「ずいぶん舐められたものだな。俺達は死なないさ。仲間がいるから」
 胸の奥がぎゅっと縮んだ。どう返せばいいのか分からず、唇が乾いて張りついた。
 沈黙が降りてきた。砂漠の闇は深く、風が布を揺らす音だけが、二人の間に流れた。月明かりがザイードの頬を照らし、彼の影が僕の影と重なった。
「なあ」
 その声は、いつもの明るさを少しだけ失っていた。
「……」
「お前、まだあいつらを信じてんのか?」
 その瞬間、胸の奥に隠していた傷に、指先を押し当てられたような痛みが走った。言葉を探そうとしても、喉がうまく動かない。
「信じてるわけじゃない。……でも、あの人たちがいなければ、僕は生きてこれなかった。そのはずなのに――」
 声が途切れ、呼吸が乱れた。胸の奥の冷たさが一気に広がっていく。
 法学者達の微笑み、白い手、優しい声。「おいで」と囁くあの響きは、心臓の奥に今も刺さったままだ。愛だと信じていた温度が、実は枷だったと知った瞬間の痛みが蘇る。
 けれど同時に、焚火の前で交わしたザイードの言葉、アミールの太い笑い声、ジャスミンのあたたかな指先。その全部が胸の奥で静かに光った。
 ここでは誰も僕を利用しようとしない。命令もしない。「ともに生きる」と言う。
 その事実が、あまりにも優しすぎて、逆に苦しくなった。
「ここにきて、あなたと出会って、僕は、初めて、生きている」
 言葉がこぼれ落ちた瞬間、胸の奥に押し込めていた何かが決壊した。
 頬が熱くなり、視界が滲む。涙の出し方なんて、忘れていたのに。こぼれたそれは驚くほど温かかった。
 ザイードは驚きもせず、ただ静かに笑った。その笑顔は、焚火の火よりも柔らかかった。
「それが答えだろ」
 彼はゆっくりと手を伸ばした。夜風がその指先を撫で、月光が白く照らしている。
「行こう。みんなで、生きよう」
 その手が、まるで光のように見えた。決して神の光ではない。人間のあたたかな光だった。触れれば消えてしまうかもしれないのに、確かにそこにある温度。
 僕は震える指で、その手を握った。
 ザイードの掌はあたたかく、あの日、氷の檻の中で感じたぬくもりが、そのまま残っていた。手を繋いだ瞬間、胸の奥の冷たさが、完全に溶けていくのを感じた。
 涙がぽたりと落ち、砂に吸い込まれた。けれど、その涙は悲しみのものではなく、ようやく人として息をし始めた証のように思えた。
 夜空は深く、星々が瞬いている。僕はその下で、初めて、生きるという言葉の意味を理解した気がした。

 砂漠の夜は、まだ深い青のまま沈んでいた。
 しかし、遠い地平の端に、薄い光が滲み始めている。夜と朝の境目。その揺らぎの中で、僕たちは焚火の名残を囲んで座っていた。
 アミール、アスラン、ジャスミン、ザイード、そして僕。
 炎の代わりに、静かな呼吸だけが輪をつくっている。
 天幕の影では、非戦闘員たちが荷をまとめていた。東の支脈へ向かう準備。これまで何度も繰り返してきたであろう避難の流れ。それを遠くに見ながら、僕は胸の奥がずっとざわついていた。
 逃げ続ける。いつか見つかる。見つかったら、また逃げる。それがアルミナの生き方だ。誰も責めることはできない。生きるための、たったひとつの道だったのだから。
 けれど今、胸の奥に熱いものが渦巻いていた。それは恐れではなく、もっと違う、はっきりとした確信だった。
 僕は唇を噛み、静かに口を開いた。
「……聖都の警備は、今、きっと薄くなっている」
 四人の視線が、ゆっくり僕に向いた。その視線は、責めるものではなく、ただ真剣な、受け止めようとする光だった。
「僕を探すために、かなりの兵が外に出ているはずだ。それに、最近は聖都への疑念も高まっていて、聖戦士達も、今では数を減らしつつある」
 アミールがひざを組み替え、深く息を吐いた。その表情は、すでに「攻めるか逃げるか」を天秤にかけている顔だった。
 僕は続ける。
「僕は聖都を知っている。どこに門があり、どこが弱いのか、どう巡回が動くのか。それに、僕なら、氷で道を作れる」
 言葉を吐くたびに胸が震えた。恐れではない。覚悟が形になっていく震え。
 アスランが静かに紙を取り出し、聖都の地図を描いた。聖都のつくりはずっと変わっていないにしても、すらすらと描く様子に、僕は驚きを隠せない。
 彼の横顔は、夜明け前の冷たい光を宿している。
「あなたが、警備が薄いと思うのはどこですか」
 そう淡々と聞かれ、僕はそっと描かれた地図を指さす。
「なるほど。……夜明けとともに突破すれば、侵入は十分に可能でしょう」
 ジャスミンは地図を覗き込み、深く頷いた。その手元では、医薬袋の中身が次々整えられていく。心の揺らぎなど一片もない。ただ、助ける覚悟だけがそこにあった。
「医療班は後方で待機します。誰も死なせませんよ」
 その言葉はあまりに強く、まるで祈りのように美しかった。
 アミールが立ち上がる。片腕を高く振り、大剣を肩に担ぐ。その姿は夜明け前の巨影のようで、頼もしく、揺るがなかった。
「ああ。みんなで生きよう」
 笑いながらも、その瞳は鋭く光っていた。戦いを望んでいるのではない。戦いを終わらせようとしている光だ。
 ザイードが、小さな火種を掌で包むようにして灯した。その炎は小さかったけれど、不思議とあたりを優しく照らしていた。
「行こうぜ。すべてを終わらせるために」
 その声は、夜を切り裂くように力強かった。
 彼らは怖れていないのではない。怖れを抱えながら、それでも前を向いているのだと分かった。
 僕は四人の顔を見回した。アミールの揺るぎない信念。アスランの静かな理性。ジャスミンの優しい決意。ザイードのあたたかな瞳。
 そのどれにも、迷いはなかった。胸が熱くなった。さっきまでの恐怖が、音を立てて崩れていった。代わりに、ひとつの想いだけが残った。
 僕も、この輪の中にいたい。この人たちと、生きたい。
「……みんなで戦おう」
 声が震えていた。でも、その震えは弱さじゃない。初めて自分で選んだ道に、足を踏み出した証だった。
 アミールが近づき、片腕で僕の肩を叩く。大きくて、重くて、あたたかい手だった。
「それが仲間だ」
 その言葉を、僕は胸の奥で何度も反芻した。夜明けはもうすぐで、砂漠の端が淡く染まり始めていた。
 新しい光が、僕たちの影をひとつに繋げていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

行き場を失った恋の終わらせ方

当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」  自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。  避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。    しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……  恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた

しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。 すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。 早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。 この案に王太子の返事は?   王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた

下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。 ご都合主義のハッピーエンドのSSです。 でも周りは全くハッピーじゃないです。 小説家になろう様でも投稿しています。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】

皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」 「っ――――!!」 「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」 クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。 ****** ・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。

処理中です...