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あたたかな光
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夜を破って飛び出した瞬間、世界が反転した。聖都の光が遠ざかっていく。空は星を失い、風だけが残った。
氷の足場は夜気を受けてきしみ、冷気と熱が混ざり合いながら、砂原の上を滑っていった。ザイードの体は腕の中で重い。焼け焦げた皮膚の下で、まだ微かに赤が灯っている。その熱が、氷の足場をじりじりと溶かしていった。
どれだけ進んだのか分からない。祈りを棄てたあの瞬間から、時間の感覚が崩れていた。神の沈黙だけが、背後に残っている。砂の大地が広がり、空が白みはじめた頃、氷は音を立てて砕けた。
重力が戻る。ザイードの体が崩れ落ち、僕は咄嗟に抱き留める。砂が焼けるように熱い。夜明け前の光がまだ弱いのに、地面の温度はすでに皮膚を刺していた。
氷を作ろうとしても、何も生まれない。空気が乾きすぎている。水も、蒸気も、祈りも、もう何もない。
「……ザイード」
そう呼んでも、彼は目を開けない。
彼の唇から白い息が出た。けれど、それは冷気ではなく、体の内側から漏れる炎の名残。
このままでは、燃え尽きてしまう。
熱を引き留めるように抱きしめると、腕が焼けるように熱い皮膚が焦げる匂いがした。
それでも、離せなかった。せめてこの灯が消えないうちに。そう思って、砂の上を歩いた。
どこまでも、砂が続き、風の音すら、遠い。足跡はすぐに崩れ、何も残さない。背負った身体の重みが、だんだんと遠のいていく。
僕の視界の端で、光が歪む。太陽が昇り、砂が燃える。氷を作ろうとしても、指先が動かない。
「……っは」
呟いた声が、熱に溶けた。膝が折れる。
世界が滲んで、空が裏返る。最後に見えたのは、地平線の向こうの光。それが蜃気楼なのか、命の灯なのか、もう区別もできなかった。
音が消え、光がゆっくりと、赤に変わった。
***
光が、揺れていた。
まぶたの裏に、やわらかな赤が差し込む。熱ではなく、皮膚を透かして落ちる日の光。それが朝だと気が付くのに、しばらく時間がかかった。
重たいまぶたを上げると、天幕の天井が見えた。干した薬草が吊るされ、かすかに煙の匂いが漂っている。喉が渇いて痛む。指先は冷たく、腕は鉛のように重い。
そのとき、低い男の声が耳に届いた。
「……悪かったって」
ザイードの声だ。
すぐ傍、寝台の脇の椅子に腰かけ、包帯を巻かれているらしい。
彼の隣には、もうひとり誰かがいた。
女性の声。落ち着いた調子で、けれど芯のある響き。
「皆さん、心配していたんですよ。もちろん私も。彼のおかげで助かったんですから」
皆さん。その言葉に、知らない世界の匂いを感じた。
僕達以外に、誰かがいる。
この場所は、聖都ではない。
声の方を見ようとして、体を起こすと、乾いた布の擦れる音がした。二人の視線がこちらを向く。
女性が、微笑んだ。光の中で、その髪が黒曜石のように輝いていた。巻かれた髪が肩でほどけ、彼女の頬に影を作っている。緩やかな衣服をまとってはいるが、腕も顔もあらわで、思わず目をそらした。
肌を、隠していない。
それは、聖都では禁忌だった。女性が人前に肌を晒すことは、神の法に背くこと。
だが彼女は、そのことを気にも留めていないようだった。その穏やかな表情が、かえって僕を混乱させる。
「おはようございます」
女は、静かに言った。
「もう大丈夫ですよ。体調はいかがですか?」
その声は、柔らかくて、まるで寄り添うように響く。祈りの声ではない。人に向けられた、声だった。
何かを言おうとして、喉が詰まった。代わりに掠れた音だけが漏れた。
「……ここは」
女は少しだけ首を傾げ、微笑んだ。
「ここは反政府組織〈アルミナ〉の拠点です。砂漠で倒れていたあなた方を、仲間が見つけてくれたんですよ」
「安心しろ。殺したりはしないさ。お前のことは話してある」
その言葉を聞き、女性は小さく息をついて、包帯を整える。
「あなたが、彼を守ってくださったのでしょう。ありがとうございます。私達の大切な仲間を救ってくれて」
彼女の手が、僕の額に触れた。驚くほど、あたたかかった。その温度に、一瞬だけ体の力が抜ける。彼女の指先に宿る熱が、あの夜の炎よりも穏やかに、胸の奥を焼いた。
天幕の外では、風の音がした。布の隙間から、光が差し込む。誰かの笑い声と、焚火の爆ぜる音が混ざっていた。
――祈りのない朝。
世界が、少しだけ違って見えた。
天幕の布を押し開けると、光が溢れた。
乾いた風が顔を撫で、焼きたての香ばしい香りがして、声をあげて笑い合う柔らかな声が聞こえる。
外には焚火の跡がいくつもあり、そのひとつの傍で女性と子供達がピタパンを焼いていた。
丸めた小麦の生地を平たく伸ばし、熱した鉄板の上に置くと、ゆっくりと膨らむ。火の上で弾ける油の音、立ち上る煙。焼き上がった生地をひっくり返すたびに、空気の層が中で膨らみ、薄い膜が黄金色に色づく。それを紙で包み、香草を混ぜた肉とともに巻く。初めて見たわけではない。だが、その素朴な香りは、これまで見てきた何よりも豊かに思えた。
「よお」
背後からザイードの声がした。振り返ると、彼は焚火の傍に立ち、膨らんだピタパンを片手に持っていた。顔にはまだ包帯が残っているが、表情は穏やかだ。
「食ってみろ。焼きたてだぜ」
彼が差し出したのは、薄切りにした羊肉を野菜と共にピタパンで挟んだもの。肉は香草と香辛料で味つけされ、良い香りが鼻をくすぐる。熱で滲んだ脂がパンの内側に染み込み、指先に温度が伝わる。
「……これは」
「シャワルマ。知らないか」
軽い口調で言いながら、ザイードは肩をすくめた。
「知っている。聖都では、あまり食されないだけだ」
馬鹿にされたように感じて、僕が少し強い口調で返す。
すると、彼の背後から男が現れた。彼は、豪快に笑いながら話す。
「そうか、ならたくさん食べろ! こいつらの作るシャワルマはうまいぞ!」
見上げるような体格の男だった。片方の袖が空を切るように垂れ下がり、陽に焼けた肌が光を返している。その笑い声は、大地の揺れる音のように深かった。
「こいつはアミール。俺達のボスだよ。あんたからすれば、敵かな」
ザイードがそう紹介すると、男は歯を見せて笑った。
「そんなこと言うな、ザイード。オレにとっては誰だって愛すべき人間さ」
そう言って、片腕で僕の肩を軽く叩く。重くて、温かい掌だった。
「しばらくはここで休め。オレ達は誰も拒まない」
その言葉が、胸の奥に染みた。
拒まないという言葉を、聞いたのはいつ以来だろう。聖都ではいつだって、許される者と排除される者に分けられていた。だが、ここにはその線がなかった。彼らはただ、生きているという事実だけで並んでいた。
アミールが笑いながら、子供達に呼びかける。
「おい、焦げるぞ!」
子供達が慌てて鉄板を持ち上げ、声が上がる。パンが焼ける匂いと笑い声が交錯する。その音が、どうしようもなく心地よかった。
ザイードが僕の隣に立ち、少しだけ声を落とす。
「ここじゃ、みんな笑って、生きてる。それで十分だろ」
何も言えなかった。けれど、その空気が何だか心地が良かった。
風が吹いて、布が揺れる。遠くで焚火の煙がたなびき、太陽の光が砂の粒を白く照らしていた。
昼になると、空は白く霞み、空気が震えていた。天幕のそばに腰を下ろすと、子供達の声が近くから聞こえてきた。
あの黒髪の女性、僕を診てくれた人が、子供達に何かを教えている。乾いた木の机に薬草を広げ、香りを嗅がせながら話していた。
「これはミルラ。これはケシ。どちらも鎮痛剤として使われます」
子供達が真似をして、薬草をすり潰す。手のひらの上から、青い香りが広がっていく。
僕はその様子を遠くから見つめていた。
「あなたは、授業に加わらないのですか」
背後から、静かな声がした。振り返ると、浅い金髪を後ろで束ねた男が立っている。片目は眼帯に覆われていた。その残る片方の瞳は、湖のように深く澄んでいる。
「……授業?」
僕がそう聞くと、男は小さく笑んだ。
「ええ。ジャスミンが子供達に薬草の知識を教えているのですよ。彼女は私の助手であり、医者でもありますから」
「あなたは……」
「申し遅れました。私は、アスラン。まあ、ただの学者です」
彼の口調は、とても穏やかで、その姿は、どこか懐かしいようにも、知らないもののようにも見えた。
彼は天幕の陰に目をやりながら、穏やかに続けた。
「見たところ、あなたも子供でしょう。授業に加わると良い。あなたが何者であれ、ここでは、誰でも学ぶ権利があります」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
学ぶこと。それは僕にとって、許されないことだった。法学者達は、僕が何かを知ることを恐れていた。疑問を抱くことは罪であり、考えることは背徳だった。
でも、いま、薬草の香りが漂うの中で、その禁を覆す言葉が、あまりにも自然に口にされた。
アスランの声は、風のように柔らかかった。
「学びなさい。人の時間は限られているのですから」
その言葉に促されて顔を上げると、ジャスミンがこちらを見て手を振っていた。子供達が笑いながら草の汁をこぼし、指先を緑に染めている。その笑い声が、あたたかな陽の光に溶けていった。
僕は立ち上がり、彼女のもとへ歩みを進める。
「学びは、あなたの生きる糧となります」
アスランの声が風に乗って届いたとき、胸の奥で、氷のように固まっていたものが、音もなく融けていった。
それは祈りではなかったけれど、確かに、救いのように思えた。
***
朝の光は柔らかく、砂漠の端に淡く降り注いでいた。
この地に来てから、どれほどの朝を迎えただろう。冷たい夜気にも、焚火の匂いにも、少しずつ身体が慣れてきた。祈りの声が聞こえない朝にも、心がざわつかなくなっている自分に気が付く。それが怖くもあり、どこか、ほっとするようでもあった。
僕は水の入っていない桶を抱えながら、オアシスへ向かう人々の列の中にいた。
前を歩くのはアミール。背中は広く、片腕しかないのに、その足取りは誰よりも力強い。その後ろに、子供達が三人程。小さな体で、木の桶を抱えながら、笑い合っている。彼らの笑い声が、砂漠の照り返しと一緒に空へ吸い込まれていった。
「どうしてこいつらも行くんだ。僕の力を使えば――」
言いかけた僕の声を、アミールの笑いが遮った。
「オアシスを凍らせて持ち帰るってか。それは駄目だ」
「なんで。効率が悪いよ。僕なら、すぐに終わらせられる」
「でも駄目だ。みんなで行くことに意味があるんだからな」
アミールの言葉は、いつも太陽の熱をそのまま閉じ込めたようだった。その熱が、胸の奥の冷たい部分に触れて、じんわりと溶かしていく。
彼の言うことは、まだよく分からない。けれどその言葉の響きは、なぜか耳に残った。
やがて、緑の影が見えてくる。シュロの葉が風に揺れ、陽光がその隙間から水面に落ちている。
そこには、鏡のような水が広がっていた。空を映す青が眩しく、砂漠の光景とは思えないほど静かだった。
「さあ、仕事だ!」
アミールが片腕で桶を構え、水面に身を屈める。
瞬間、僕は息を呑んだ。片腕の彼が、まるで何の不自由もないように動く。腰と足の力で水を引き上げ、器を巧みに立て直す。桶の中で水が陽光をはね返し、きらきらと光った。
「器用なもんだろ」
アミールが得意げに笑う。その笑みは、どこまでも朗らかで、戦や苦しみの痕跡を微塵も感じさせなかった。
子供達が次々に桶を沈める。水が重く、二人がかりで引き上げると、勢い余って一人が倒れそうになる。そのとき、アミールが器用に足を使って、子供を支えてあげた。
「ありがと! アミール!」
「おう。気をつけろよ」
子供達が歓声を上げ、笑い声が響いた。
その笑いを見つめるうちに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
僕のなかで、何かが揺れた。こんな光景は、見たことがなかった。聖都では、不用意に笑うことも許されず、常に正しい顔を求められた。
なのに今、この人達は、誰の命令もなしに笑っている。それは、あまりにも眩しかった。
気づけば、口元が緩んでいた。自分の頬がわずかに熱くなるのを感じて、思わず視線を逸らす。その様子を見たアミールが、にやりと笑った。
「お、楽しいか」
「……別に」
「楽しいのが一番さ。お前の氷が、ちょっとでも融けたなら良かった」
その言葉に、胸の奥がわずかに震えた。
融けた。アミールは冗談のつもりで言ったのだろう。だが、僕にはその一言があまりにも正確に聞こえた。
自分の中の何かが融けている。それが何なのかは分からないけれど、人の確かなあたたかさは感じていた。
太陽がさらに高く昇り、光が水面を焼くように照らす。アミールが桶を担いで歩き出し、子供達が笑いながらその後を追う。
僕はふと、オアシスの縁にしゃがみ、水に手を浸した。冷たいはずの水が、なぜか柔らかく感じられた。そのぬくもりが、指先から胸に伝わる。こんなにも静かな温度の中で、生きている。祈りの声がなくても。神の名を呼ばなくても。
水面が揺れ、太陽の反射がアミールの頬を照らす。その光は、淡雪に射し込んだ春の光のようだった。
夜の砂漠の空気は冷たく、心臓まで沁みるようだった。昼のあの明るい熱が、嘘のように静まり返っている。
焚火の周りでは、人々が唄を歌っていた。低い笛の音と打楽器の響きが、夜空に溶けていく。
赤い火が人々の頬を照らし、笑い声がひとつ、またひとつ上がる。子供達が輪になって踊り、誰もが幸せそうにしていた。その光景を少し離れたところから見ていると、胸の奥がざわついた。
神のいない夜に、どうして人はこんなにも笑えるのだろう。
焚火の火が揺らめくたびに、記憶の奥が疼いた。
あの夜のこと。「おいで」と優しく呼んだ声。その声に逆らえず、ただ従うことが信仰だと教えられてきた。
「……ナジム様」
思わず彼の名を口にしていた。火の揺れが、あの彼の衣の裾のように見えた。あの夜の温もりは、祈りの形をした支配だった。それでも、彼の笑みを思い出すと、心臓が軋む。
「ナジム=アル=ディーンですか」
低く落ち着いた声が、背後から聞こえた。
振り返ると、火の明かりを背後に添えたアスランがいた。金糸のような髪が淡く光り、左目の黒い眼帯が闇に溶ける。右目だけが、火の赤を映していた。
「彼、しぶとく生きていたのですね」
穏やかで、どこか達観したような声だった。
「何故、ナジム様の名を――」
「かつて、私も法学者でした。神を信じ、神に裏切られた、一人の信徒だったのですよ」
アスランは微笑んで、僕の隣に腰を下ろした。火が彼の顔を照らし、影が長く地面に落ちる。
「あなたを愛し、育んでくれたのがナジムだったように、私を愛し、育んでくれたのは、姉でした」
その声は静かで、火の音に溶けていく。
「彼女が病に伏したとき、私は神に祈りました。彼女に祝福を与えてくれ。彼女を救ってくれと」
アスランは一度言葉を止め、焚火を見つめた。火がはぜて、赤い火の粉が宙に舞う。
「しかし、神は沈黙しました。結局、姉は死んでいきました。姉の死は必然だった。神も祈りもこの世界にはないのだと、そのとき、初めて知ったのです」
その言葉に、僕は顔を上げた。
「……神がいないなら、僕は何を信じればいい」
「自分です」
アスランは迷いなく言った。
「あなたの見たもの、感じたもの、それが世界の真実です。神が与える意味ではなく、あなたが選んだ意味を信じればいい」
火がぱちんと音を立てた。その音が、不思議と心に沁みた。
橙の光が砂を照らし、風が通るたびに炎の輪郭が揺らめく。アスランはその光の中に目を落とし、低い声で言った。
「神の存在なんて、誰も証明できませんし、分かりません。しかし、我々人間が今を生き、そして死んでいくことは、紛れもない現実であり、真実なのですよ」
言葉が空気に溶けるようにして、夜の静寂が戻ってくる。その響きは不思議とやさしく、胸の奥をゆっくり満たしていった。
神の存在は分からない。
それは、これまで最も恐れてきた言葉だった。神の名のもとにすべてを律し、意味を与えられてきた僕にとって、それを失うことは、世界を失うことと同じだった。
けれど今、その言葉が、なぜか救いのように感じられた。分からないということが、こんなにも静かで、広いものだったとは思わなかった。
僕は焚火を見つめた。火はただ燃えている。誰の意志もなく、誰のためでもなく。それでも確かに、そこにあった。
息を吸い込む。熱い空気が肺に満ち、胸の奥で鼓動が跳ねる。それは、生きている音だった。
神の沈黙の中で、初めて、自分の呼吸を意識した。それは祈りの形をしていなかったけれど、確かに、今、僕は生きていた。
宴が終わったあと、焚火はほとんど燃え尽きていた。灰の中に埋もれた赤い火が、かすかに脈を打っている。まるで、死にかけた心臓のように。その光が消えてしまえば、もう何も残らない気がして、僕はじっとそれを見つめていた。
この数日間、笑う人々を見た。
祈らずに、手を動かし、言葉を交わし、パンを焼いていた。彼らの声は穏やかで、どこかあたたかかった。けれど、僕の中ではまだ何かが凍ったままだった。それは恐らく、祈りを失った心の奥に残る空洞。
「祈りは済んだか」
背後から声がした。
驚くほど自然で、まるで夜の中に溶け込むような声だった。振り返ると、ザイードが立っていた。赤い残り火が彼の頬を照らし、蒼色の瞳がかすかに光っている。
その姿を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
「もう、祈ることはできない。ここの人々は神に縋ることなく、自らの力で生きている。僕も――」
言葉を吐き出すたびに、胸の奥が軋んだ。かつて僕のすべてだった祈りが、今はもう届かない。あれほど神の光を求めていたのに、今はその光を求める感情すらも思い出せなかった。
「神に祈るのも、生きることだと思うぜ」
隣に座ったザイードの声は、静かで、それでいて確かな温度を持っていた。その声が、夜気を震わせる。
「え」
僕は顔を上げた。問いというより、思わず漏れた息に近かった。
「神に縋らなきゃ生きられない奴もいる。偶々、俺らは神じゃなくて、自分と仲間を信じていただけで、お前の場合、それが神だった。それだけだろ」
その言葉が、真っすぐ胸の奥に落ちてきた。音もなく、けれど確かな重さで。
彼の言葉は、焚火の火のようだった。ゆっくりと、凍りついた心の奥に染み込んでいく。
僕は、今まで神に縋ることでしか生の意味を知らなかった。けれど、この場所で、神のいない人々が穏やかに呼吸しているのを見てきた。
それでも、僕にはまだ怖さが残っている。祈りを手放したあと、何を拠りどころにすればいいのか分からないから。
ザイードの言葉は、その迷いを包み込むようだった。否定ではなく、理解だった。
お前の場合、それが神だった。
そう言われた瞬間、ようやく自分が、誰かに、許されたような気がした。
胸の奥がじんわりと熱くなる。その熱は火のせいではなく、自分の内側から滲み出してくるものだった。
「……あなたも、自分と仲間を信じているの」
声が震えていた。問いながら、僕は恐れていた。彼の答えが、自分を遠くへ突き放すものになるのではないかと。
しかし、ザイードはただ微笑んで言った。
「そうさ、俺は俺と、仲間と――俺を救ってくれたお前を、信じてるぜ」
その瞬間、時間が止まった。言葉が風に溶けていくのを、息を呑んで見送るしかなかった。胸の奥に広がる熱が、痛いほどに優しい。信仰の炎ではない。もっと人間的で、確かに触れられるあたたかさ。
僕は何も言えなかった。それでも、その沈黙が心地よかった。消えかけた焚火がふっと揺れ、赤い光が二人の影を砂の上に重ねた。
星々が煌めく夜空は、どこまでも静かで、どこまでも深かった。神の沈黙が満ちるその空の下で、僕は初めて、人を信じることを知った。
***
いくつもの朝を越えた。
いつのまにか、焚火の匂いにも、焼きたてのパンの香りにも慣れていた。この地に来たばかりの頃、夜の静けさが怖くて眠れなかったのに、今はその静けさが心地よく感じられる。
風の音に、誰かの笑い声が混じり、それが遠くから微かに届く。そんな暮らしが、ずっと続くような気がしていた。
夕暮れが近づくと、天幕の間に赤い光が流れ込む。焚火では豆が煮え、香辛料と胡麻の匂いが混ざって、あたたかな香りを立てていた。
僕は子供達と一緒にピタパンの生地を伸ばしていた。手のひらで押すと、やわらかい生地の感触が伝わって心地良い。鉄板にのせると、内側の空気が膨らみ、金色の斑が浮かんでいく。その様子を見て子供たちが歓声を上げる。笑い声が風に流れ、空に溶けていく。
オアシスの方から水を運ぶ声も聞こえた。アミールが大鍋を抱え、ザイードがそれを支えている。
フムスを煮る音、肉を焼く音、香草の匂い。夕食の支度が進むたびに、集落の中に穏やかな息づかいが広がっていく。それは、祈りよりも静かで、確かな生活の音だった。
そんな中で、ふと遠くを見た。
陽が傾く砂の地平に、二つの影が見えた。それは最初、風に舞う砂煙のように見えたけれど、やがて人の形をとった。影はゆっくりとこちらへ向かってきて、橙の光の中でその輪郭がはっきりしていく。
「……帰ってきた」
子供の一人が呟いた。
帰ってきたのは、アルミナの偵察班だった。昼過ぎに出発していった彼らが、日が沈む頃になって戻ってきたのだ。彼らの衣は砂にまみれ、額には汗が滲んでいた。
けれど、疲れだけではない。
その目の奥に、何か強いものが宿っていた。喜びでも、安堵でもなく、もっと冷たい何か。
アミールがすぐに彼らのもとへ歩み寄る。ザイードも顔をしかめ、後に続いた。
焚火のそばにいた人々が次第に静かになり、子供たちも焼きかけのパンを手にしたまま動きを止める。沈む太陽の光が、赤い布を照らし、風が重たくなったように感じた。
偵察隊はアミールたちと軽く話すと、そのまま共に天幕へと入っていった。
僕は思わずその背を目で追った。胸の奥で、小さな痛みが走った。彼らの表情を見た瞬間、何かが変わると本能的に分かった。
焼きかけのピタを置いて、僕は天幕の方へと向かった。布の隙間から、低い声が漏れている。アミールの声、その次に偵察隊の掠れた報告。風の音と混ざり合って、言葉の輪郭が曖昧になる。
「……彼らが、動いています」
その言葉だけがはっきりと聞こえた。
「捜索隊が、もう付近まで……時間の問題でしょう」
声色からもわかるくらいに、天幕の中の空気は張り詰めていた。息をするたびに、焚火の煙が胸に刺さるように感じた。アミールの短い返答が聞こえ、続けて、もう一人の偵察員が言った。
「……氷の少年。おそらく、彼のことでしょう」
その瞬間、鼓動が一度止まった。風の音が遠のき、世界が凍ったように静まり返る。
僕を、探している。
法学者達。あの白い衣、微笑み、そして「おいで」という声。まるで遠い昔の夢の中の光景のように、鮮明に蘇った。彼らの笑顔の裏にあるものを、僕はもう知っている。それでも、あの声の響きが、今も胸の奥にこびりついていた。
『お前は選ばれた人間なのだよ』
『戻っておいで』
あの優しい声が、再び僕を呼んでいる気がした。背筋を伝う冷気とともに、記憶がよみがえる。祈りの間の灯火、鉄の匂い、鎖の音。あの日の光景が、鮮明によみがえる。
中でアミールが深く息を吐いた。
「……そうか」
低いその声が、天幕の布を震わせた。
「分かった。詳細は後で聞く。休め」
短い命令。それだけで、偵察員たちは深く頭を下げ、天幕を出ていった。
僕は慌てて、天幕の物陰に隠れる。彼らの足音が遠ざかっていく。その一歩ごとに、集落のざわめきが少しずつ戻ってくる。けれど、さっきまでの笑い声は、もうなかった。
僕は天幕の陰に立ったまま、動けなかった。胸の奥が、静かに冷えていく。
法学者達の影が、また僕の世界に戻ってきた。ここに来て、ようやく見つけた祈りのない穏やかな朝が、音もなく、崩れ始めていた。
夜が完全に降りた。星の光が砂漠を照らし、風が冷たく吹いていた。
天幕の間には焚火が並び、火の赤が人々の顔を照らしている。笑い声は消え、代わりに低いざわめきが流れていた。炎の音と、布が揺れる音。それだけが夜を満たしていた。
アミールが中央に立っていた。その背には焚火の光が映り、片腕の影が地面に長く伸びている。彼の声が、静かに夜気を裂いた。
「聞いてくれ。神権政府の捜索隊が、近くまで来ている。まだ俺たちの居場所は割れていないが、時間の問題だろう」
ざわめきが一瞬、強くなる。
子供の声が遠くで上がり、誰かが抱き寄せる気配がした。しかし、誰一人、取り乱す者はいなかった。この場所にいる人々は、もう何度も、こうした夜を越えてきたのだろうと感じる。
アミールは周囲を見渡し、深く息を吸う。
「朝になったら、非戦闘員は東の支脈の方へ退避。三日の食糧を持っていき、次の拠点を探せ」
炎が揺れ、光が彼の横顔を照らす。その声には恐れよりも、決意の響きがあった。
「戦える者はここに残れ。神権政府に見つかるまでは戦闘準備を。発見され次第、全て焼き払う」
焚火が、パチッと音を立てた。火の明かりに照らされた人々の顔は、恐怖よりもむしろ、強さに満ちていた。
アルミナはこうして生き延びてきた。祈りも旗もなく、ただ互いを信じ、次の夜明けを迎えるために。
アスランが地面に地図を広げる。細い指が、火に照らされて線を描いた。
「ここから北へ半日程の距離にオアシスがあります。東の支脈を抜け、そちらへ向かってください。詳細な道筋は私が指示します。戦闘班は、西側の遺跡に陣を敷きましょう」
落ち着いた声。それが不思議と人々の呼吸を整え、ざわめきが徐々に沈まっていく。
僕はその輪の外にいた。焚火の光の端、影の中で立ち尽くしていた。火の熱は届くのに、身体が冷たい。胸の奥で、心臓がゆっくりと沈んでいく。
僕のことは、言わなかった。
神権政府の捜索隊が来る理由は、僕なのに。僕の力を追って、彼らは砂漠を越えてくるというのに。それをアミールもアスランも分かっている。それなのに、誰も口にしない。
なぜ、黙っているんだ。僕ひとりがいなくなれば、それで済むはずなのに。僕がここにいるせいで、誰かが傷つく。
アスランが地図を示し、ザイードが火の傍に立っている。
誰も僕を見ない。彼らの沈黙が、かえって重かった。この穏やかな集落が、もうすぐ炎に包まれるかもしれないのに。それでも彼らは、何も責めず、何も問わなかった。
『お前は選ばれた人間なのだよ』
『戻っておいで』
記憶の底から、あの声が浮かんだ。法学者の笑み。白い指。やさしさの形をした、支配の声。
胸の奥が凍る。焚火の赤がぼやけ、息が詰まる。あの声が再び耳の奥で囁いた気がした。
『お前がいれば、皆が救われる』
その言葉が、まるで呪いのように響く。
僕のせいで、また誰かが死ぬかもしれない。そう思うと、胸の奥が締めつけられた。このまま、ここにいてはいけない。
アミールの声が再び響く。
「戦闘終了と同時に合図を送る。それに従い、新しい場所を伝えてくれ。みんなで、生きよう」
その言葉が、まるで最後の祈りのように聞こえた。
焚火の光が強く揺れる。炎が人々の顔を赤く染める。それぞれが散っていく中、僕はその場に立ち尽くしていた。
夜風が吹き抜け、砂が足もとを撫でる。火の粉が舞い、空へ消える。
僕は目を閉じて考える。胸の中で、冷たい決意が形を取っていくのを感じた。
行かなくては。
彼らに、僕のせいで戦わせるわけにはいかない。この手で、終わらせる。
焚火の熱が背中に触れたとき、それはもう暖かくなかった。静かで、痛いほど冷たい夜だった。
夜半、焚火はもうほとんど燃え尽き、灰の中に埋もれた火が、わずかに赤を灯していた。風が吹くたびに、火の粉がふっと浮かび、夜空に消えていく。空には雲ひとつなく、星が静かに瞬いていた。
人々は眠ってはいなかった。戦闘準備をする者、荷をまとめる者、地図を確認する者。それぞれが、最小限の音だけで動いていた。地面を踏む足音が、かすかに響く。声は交わされず、ただ必要な動作だけが夜の中で続いていた。
僕は、子供達が寄り添って眠る天幕の中で、静かに目を開ける。隣の寝息が小さく響いていた。焚火の光が布越しに滲み、淡い赤が頬を照らしている。
胸の奥が痛かった。この光も、声も、もう二度と戻らない気がした。
息を潜めて立ち上がる。外の風が布を揺らす音がやけに大きく感じた。
これでいい。
そう思った。僕がここにいれば、きっと彼らは巻き込まれる。僕のせいで、また誰かが傷つく。それだけは、もう嫌だった。
天幕の入口を捲り、外へ出て、歩みを進めようとしたとき、背後から声がした。
「行くのか」
低く、静かな声。その響きに、身体が止まった。振り返ると、夜の闇の中にアミールが立っていた。片腕の影が長く伸び、地面に溶けている。月明かりを受けて、その瞳が淡く光っていた。
「僕がここにいたら、みんなが危険にさらされる」
声を出すと、喉の奥が震えた。言葉が冷たい空気に混ざって、消えていく。
アミールはしばらく黙っていた。風の音だけが二人の間を抜けていく。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「お前がいなくても、いつかは来た」
短い言葉だった。けれど、その声には、確かな重みがあった。
「でも、僕が原因だ。僕は、みんなを守りたい」
胸の奥が軋む。言葉を吐くたびに、心臓の形が変わっていくような感覚があった。
「こんな気持ちは初めてだけど。これが、仲間なんじゃないの」
アミールはゆっくりと歩み寄る。
その足取りは、確かで、静かだった。焚火の残り火が風に揺れ、彼の横顔を照らす。
「そうだ、オレ達は仲間だ」
その声は、夜の中に落ちる灯のようだった。彼の目が、真っすぐに僕を見ていた。
「ともに、生きるのが仲間だ」
アミールの声は静かで、低く響いた。
「オレはお前も含め、誰一人死なせない。悲しい顔は、させない」
胸の奥で、何かが崩れた。息をするたびに、痛みが広がっていく。悲しみではない。それは、凍っていた心が融けていく感覚に似ていた。
アミールは天幕の入口へ向かい、片腕で布を持ち上げた。夜風が吹き込み、布がゆっくりと揺れる。遠くの地平に、淡い月光が滲んでいた。
「それがお前の道なら、止めはしない」
そう言って、アミールは入口を開いたまま僕を見た。
「だが、オレ達を頼ることもできると、知っておいてくれ」
その声が、心の奥で響いた。まるで、祈りのように。
僕は何も言えなかった。喉が詰まり、言葉が出ない。
ただ、深く頭を下げ、歩き出した。
足音がやけに静かに響く。背中に焚火の赤い光が当たり、遠ざかっていく。
アミールは何も言わなかった。風の音だけが、二人の間を流れていった。
夜空は澄んでいた。無数の星が、砂の上に散るように光っている。息を吐くと、冷たい白が宙に溶けた。
彼らを、救いたい。
その言葉を心の中で呟きながら、僕は夜の砂漠へと歩き出した。誰の祈りも届かない場所へ。ただ一人で。
夜の砂漠は、昼の熱の名残をすっかり失っていた。吐く息が白く見えるほど冷たく、けれどその冷たさよりも、胸の奥に広がる不安の方が痛かった。
天幕の並びを抜けたとき、月光の下にひとつの影が立っているのが見えた。
ザイードだった。
肩を落とし、両手をポケットに突っ込み、少し猫背になって夜空を見上げている。彼が微かに纏うその赤が、背中を薄く縁取っていた。
僕が近づくと、ザイードは気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返った。その表情には、皮肉を装った軽さと、疲れを押し隠すような影が同居していた。
「奴らはお前を狙っているんだと」
淡々とした声。けれど、その裏にある心配を、僕はもう感じ取れるようになっていた。
「知っている」
短く答えると、ザイードが目を細めた。その視線は夜のざらついた空気よりも鋭く、そしてどこか優しかった。
「盗み聞きか? 良い趣味してるぜ」
「……うるさい」
言い返しながら、自分の声が震えているのが分かった。怖いのか、迷っているのか、それとも――。自分でも判断がつかなかった。
「本当に、行くのか」
その問いは、夜気より冷たく、胸に突き刺さった。
「行く。僕がここにいたら、みんなが――」
「死んでしまうって?」
ザイードが言葉をさえぎる。彼の声が、いつもより低く響いた。
「ずいぶん舐められたものだな。俺達は死なないさ。仲間がいるから」
胸の奥がぎゅっと縮んだ。どう返せばいいのか分からず、唇が乾いて張りついた。
沈黙が降りてきた。砂漠の闇は深く、風が布を揺らす音だけが、二人の間に流れた。月明かりがザイードの頬を照らし、彼の影が僕の影と重なった。
「なあ」
その声は、いつもの明るさを少しだけ失っていた。
「……」
「お前、まだあいつらを信じてんのか?」
その瞬間、胸の奥に隠していた傷に、指先を押し当てられたような痛みが走った。言葉を探そうとしても、喉がうまく動かない。
「信じてるわけじゃない。……でも、あの人たちがいなければ、僕は生きてこれなかった。そのはずなのに――」
声が途切れ、呼吸が乱れた。胸の奥の冷たさが一気に広がっていく。
法学者達の微笑み、白い手、優しい声。「おいで」と囁くあの響きは、心臓の奥に今も刺さったままだ。愛だと信じていた温度が、実は枷だったと知った瞬間の痛みが蘇る。
けれど同時に、焚火の前で交わしたザイードの言葉、アミールの太い笑い声、ジャスミンのあたたかな指先。その全部が胸の奥で静かに光った。
ここでは誰も僕を利用しようとしない。命令もしない。「ともに生きる」と言う。
その事実が、あまりにも優しすぎて、逆に苦しくなった。
「ここにきて、あなたと出会って、僕は、初めて、生きている」
言葉がこぼれ落ちた瞬間、胸の奥に押し込めていた何かが決壊した。
頬が熱くなり、視界が滲む。涙の出し方なんて、忘れていたのに。こぼれたそれは驚くほど温かかった。
ザイードは驚きもせず、ただ静かに笑った。その笑顔は、焚火の火よりも柔らかかった。
「それが答えだろ」
彼はゆっくりと手を伸ばした。夜風がその指先を撫で、月光が白く照らしている。
「行こう。みんなで、生きよう」
その手が、まるで光のように見えた。決して神の光ではない。人間のあたたかな光だった。触れれば消えてしまうかもしれないのに、確かにそこにある温度。
僕は震える指で、その手を握った。
ザイードの掌はあたたかく、あの日、氷の檻の中で感じたぬくもりが、そのまま残っていた。手を繋いだ瞬間、胸の奥の冷たさが、完全に溶けていくのを感じた。
涙がぽたりと落ち、砂に吸い込まれた。けれど、その涙は悲しみのものではなく、ようやく人として息をし始めた証のように思えた。
夜空は深く、星々が瞬いている。僕はその下で、初めて、生きるという言葉の意味を理解した気がした。
砂漠の夜は、まだ深い青のまま沈んでいた。
しかし、遠い地平の端に、薄い光が滲み始めている。夜と朝の境目。その揺らぎの中で、僕たちは焚火の名残を囲んで座っていた。
アミール、アスラン、ジャスミン、ザイード、そして僕。
炎の代わりに、静かな呼吸だけが輪をつくっている。
天幕の影では、非戦闘員たちが荷をまとめていた。東の支脈へ向かう準備。これまで何度も繰り返してきたであろう避難の流れ。それを遠くに見ながら、僕は胸の奥がずっとざわついていた。
逃げ続ける。いつか見つかる。見つかったら、また逃げる。それがアルミナの生き方だ。誰も責めることはできない。生きるための、たったひとつの道だったのだから。
けれど今、胸の奥に熱いものが渦巻いていた。それは恐れではなく、もっと違う、はっきりとした確信だった。
僕は唇を噛み、静かに口を開いた。
「……聖都の警備は、今、きっと薄くなっている」
四人の視線が、ゆっくり僕に向いた。その視線は、責めるものではなく、ただ真剣な、受け止めようとする光だった。
「僕を探すために、かなりの兵が外に出ているはずだ。それに、最近は聖都への疑念も高まっていて、聖戦士達も、今では数を減らしつつある」
アミールがひざを組み替え、深く息を吐いた。その表情は、すでに「攻めるか逃げるか」を天秤にかけている顔だった。
僕は続ける。
「僕は聖都を知っている。どこに門があり、どこが弱いのか、どう巡回が動くのか。それに、僕なら、氷で道を作れる」
言葉を吐くたびに胸が震えた。恐れではない。覚悟が形になっていく震え。
アスランが静かに紙を取り出し、聖都の地図を描いた。聖都のつくりはずっと変わっていないにしても、すらすらと描く様子に、僕は驚きを隠せない。
彼の横顔は、夜明け前の冷たい光を宿している。
「あなたが、警備が薄いと思うのはどこですか」
そう淡々と聞かれ、僕はそっと描かれた地図を指さす。
「なるほど。……夜明けとともに突破すれば、侵入は十分に可能でしょう」
ジャスミンは地図を覗き込み、深く頷いた。その手元では、医薬袋の中身が次々整えられていく。心の揺らぎなど一片もない。ただ、助ける覚悟だけがそこにあった。
「医療班は後方で待機します。誰も死なせませんよ」
その言葉はあまりに強く、まるで祈りのように美しかった。
アミールが立ち上がる。片腕を高く振り、大剣を肩に担ぐ。その姿は夜明け前の巨影のようで、頼もしく、揺るがなかった。
「ああ。みんなで生きよう」
笑いながらも、その瞳は鋭く光っていた。戦いを望んでいるのではない。戦いを終わらせようとしている光だ。
ザイードが、小さな火種を掌で包むようにして灯した。その炎は小さかったけれど、不思議とあたりを優しく照らしていた。
「行こうぜ。すべてを終わらせるために」
その声は、夜を切り裂くように力強かった。
彼らは怖れていないのではない。怖れを抱えながら、それでも前を向いているのだと分かった。
僕は四人の顔を見回した。アミールの揺るぎない信念。アスランの静かな理性。ジャスミンの優しい決意。ザイードのあたたかな瞳。
そのどれにも、迷いはなかった。胸が熱くなった。さっきまでの恐怖が、音を立てて崩れていった。代わりに、ひとつの想いだけが残った。
僕も、この輪の中にいたい。この人たちと、生きたい。
「……みんなで戦おう」
声が震えていた。でも、その震えは弱さじゃない。初めて自分で選んだ道に、足を踏み出した証だった。
アミールが近づき、片腕で僕の肩を叩く。大きくて、重くて、あたたかい手だった。
「それが仲間だ」
その言葉を、僕は胸の奥で何度も反芻した。夜明けはもうすぐで、砂漠の端が淡く染まり始めていた。
新しい光が、僕たちの影をひとつに繋げていく。
氷の足場は夜気を受けてきしみ、冷気と熱が混ざり合いながら、砂原の上を滑っていった。ザイードの体は腕の中で重い。焼け焦げた皮膚の下で、まだ微かに赤が灯っている。その熱が、氷の足場をじりじりと溶かしていった。
どれだけ進んだのか分からない。祈りを棄てたあの瞬間から、時間の感覚が崩れていた。神の沈黙だけが、背後に残っている。砂の大地が広がり、空が白みはじめた頃、氷は音を立てて砕けた。
重力が戻る。ザイードの体が崩れ落ち、僕は咄嗟に抱き留める。砂が焼けるように熱い。夜明け前の光がまだ弱いのに、地面の温度はすでに皮膚を刺していた。
氷を作ろうとしても、何も生まれない。空気が乾きすぎている。水も、蒸気も、祈りも、もう何もない。
「……ザイード」
そう呼んでも、彼は目を開けない。
彼の唇から白い息が出た。けれど、それは冷気ではなく、体の内側から漏れる炎の名残。
このままでは、燃え尽きてしまう。
熱を引き留めるように抱きしめると、腕が焼けるように熱い皮膚が焦げる匂いがした。
それでも、離せなかった。せめてこの灯が消えないうちに。そう思って、砂の上を歩いた。
どこまでも、砂が続き、風の音すら、遠い。足跡はすぐに崩れ、何も残さない。背負った身体の重みが、だんだんと遠のいていく。
僕の視界の端で、光が歪む。太陽が昇り、砂が燃える。氷を作ろうとしても、指先が動かない。
「……っは」
呟いた声が、熱に溶けた。膝が折れる。
世界が滲んで、空が裏返る。最後に見えたのは、地平線の向こうの光。それが蜃気楼なのか、命の灯なのか、もう区別もできなかった。
音が消え、光がゆっくりと、赤に変わった。
***
光が、揺れていた。
まぶたの裏に、やわらかな赤が差し込む。熱ではなく、皮膚を透かして落ちる日の光。それが朝だと気が付くのに、しばらく時間がかかった。
重たいまぶたを上げると、天幕の天井が見えた。干した薬草が吊るされ、かすかに煙の匂いが漂っている。喉が渇いて痛む。指先は冷たく、腕は鉛のように重い。
そのとき、低い男の声が耳に届いた。
「……悪かったって」
ザイードの声だ。
すぐ傍、寝台の脇の椅子に腰かけ、包帯を巻かれているらしい。
彼の隣には、もうひとり誰かがいた。
女性の声。落ち着いた調子で、けれど芯のある響き。
「皆さん、心配していたんですよ。もちろん私も。彼のおかげで助かったんですから」
皆さん。その言葉に、知らない世界の匂いを感じた。
僕達以外に、誰かがいる。
この場所は、聖都ではない。
声の方を見ようとして、体を起こすと、乾いた布の擦れる音がした。二人の視線がこちらを向く。
女性が、微笑んだ。光の中で、その髪が黒曜石のように輝いていた。巻かれた髪が肩でほどけ、彼女の頬に影を作っている。緩やかな衣服をまとってはいるが、腕も顔もあらわで、思わず目をそらした。
肌を、隠していない。
それは、聖都では禁忌だった。女性が人前に肌を晒すことは、神の法に背くこと。
だが彼女は、そのことを気にも留めていないようだった。その穏やかな表情が、かえって僕を混乱させる。
「おはようございます」
女は、静かに言った。
「もう大丈夫ですよ。体調はいかがですか?」
その声は、柔らかくて、まるで寄り添うように響く。祈りの声ではない。人に向けられた、声だった。
何かを言おうとして、喉が詰まった。代わりに掠れた音だけが漏れた。
「……ここは」
女は少しだけ首を傾げ、微笑んだ。
「ここは反政府組織〈アルミナ〉の拠点です。砂漠で倒れていたあなた方を、仲間が見つけてくれたんですよ」
「安心しろ。殺したりはしないさ。お前のことは話してある」
その言葉を聞き、女性は小さく息をついて、包帯を整える。
「あなたが、彼を守ってくださったのでしょう。ありがとうございます。私達の大切な仲間を救ってくれて」
彼女の手が、僕の額に触れた。驚くほど、あたたかかった。その温度に、一瞬だけ体の力が抜ける。彼女の指先に宿る熱が、あの夜の炎よりも穏やかに、胸の奥を焼いた。
天幕の外では、風の音がした。布の隙間から、光が差し込む。誰かの笑い声と、焚火の爆ぜる音が混ざっていた。
――祈りのない朝。
世界が、少しだけ違って見えた。
天幕の布を押し開けると、光が溢れた。
乾いた風が顔を撫で、焼きたての香ばしい香りがして、声をあげて笑い合う柔らかな声が聞こえる。
外には焚火の跡がいくつもあり、そのひとつの傍で女性と子供達がピタパンを焼いていた。
丸めた小麦の生地を平たく伸ばし、熱した鉄板の上に置くと、ゆっくりと膨らむ。火の上で弾ける油の音、立ち上る煙。焼き上がった生地をひっくり返すたびに、空気の層が中で膨らみ、薄い膜が黄金色に色づく。それを紙で包み、香草を混ぜた肉とともに巻く。初めて見たわけではない。だが、その素朴な香りは、これまで見てきた何よりも豊かに思えた。
「よお」
背後からザイードの声がした。振り返ると、彼は焚火の傍に立ち、膨らんだピタパンを片手に持っていた。顔にはまだ包帯が残っているが、表情は穏やかだ。
「食ってみろ。焼きたてだぜ」
彼が差し出したのは、薄切りにした羊肉を野菜と共にピタパンで挟んだもの。肉は香草と香辛料で味つけされ、良い香りが鼻をくすぐる。熱で滲んだ脂がパンの内側に染み込み、指先に温度が伝わる。
「……これは」
「シャワルマ。知らないか」
軽い口調で言いながら、ザイードは肩をすくめた。
「知っている。聖都では、あまり食されないだけだ」
馬鹿にされたように感じて、僕が少し強い口調で返す。
すると、彼の背後から男が現れた。彼は、豪快に笑いながら話す。
「そうか、ならたくさん食べろ! こいつらの作るシャワルマはうまいぞ!」
見上げるような体格の男だった。片方の袖が空を切るように垂れ下がり、陽に焼けた肌が光を返している。その笑い声は、大地の揺れる音のように深かった。
「こいつはアミール。俺達のボスだよ。あんたからすれば、敵かな」
ザイードがそう紹介すると、男は歯を見せて笑った。
「そんなこと言うな、ザイード。オレにとっては誰だって愛すべき人間さ」
そう言って、片腕で僕の肩を軽く叩く。重くて、温かい掌だった。
「しばらくはここで休め。オレ達は誰も拒まない」
その言葉が、胸の奥に染みた。
拒まないという言葉を、聞いたのはいつ以来だろう。聖都ではいつだって、許される者と排除される者に分けられていた。だが、ここにはその線がなかった。彼らはただ、生きているという事実だけで並んでいた。
アミールが笑いながら、子供達に呼びかける。
「おい、焦げるぞ!」
子供達が慌てて鉄板を持ち上げ、声が上がる。パンが焼ける匂いと笑い声が交錯する。その音が、どうしようもなく心地よかった。
ザイードが僕の隣に立ち、少しだけ声を落とす。
「ここじゃ、みんな笑って、生きてる。それで十分だろ」
何も言えなかった。けれど、その空気が何だか心地が良かった。
風が吹いて、布が揺れる。遠くで焚火の煙がたなびき、太陽の光が砂の粒を白く照らしていた。
昼になると、空は白く霞み、空気が震えていた。天幕のそばに腰を下ろすと、子供達の声が近くから聞こえてきた。
あの黒髪の女性、僕を診てくれた人が、子供達に何かを教えている。乾いた木の机に薬草を広げ、香りを嗅がせながら話していた。
「これはミルラ。これはケシ。どちらも鎮痛剤として使われます」
子供達が真似をして、薬草をすり潰す。手のひらの上から、青い香りが広がっていく。
僕はその様子を遠くから見つめていた。
「あなたは、授業に加わらないのですか」
背後から、静かな声がした。振り返ると、浅い金髪を後ろで束ねた男が立っている。片目は眼帯に覆われていた。その残る片方の瞳は、湖のように深く澄んでいる。
「……授業?」
僕がそう聞くと、男は小さく笑んだ。
「ええ。ジャスミンが子供達に薬草の知識を教えているのですよ。彼女は私の助手であり、医者でもありますから」
「あなたは……」
「申し遅れました。私は、アスラン。まあ、ただの学者です」
彼の口調は、とても穏やかで、その姿は、どこか懐かしいようにも、知らないもののようにも見えた。
彼は天幕の陰に目をやりながら、穏やかに続けた。
「見たところ、あなたも子供でしょう。授業に加わると良い。あなたが何者であれ、ここでは、誰でも学ぶ権利があります」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
学ぶこと。それは僕にとって、許されないことだった。法学者達は、僕が何かを知ることを恐れていた。疑問を抱くことは罪であり、考えることは背徳だった。
でも、いま、薬草の香りが漂うの中で、その禁を覆す言葉が、あまりにも自然に口にされた。
アスランの声は、風のように柔らかかった。
「学びなさい。人の時間は限られているのですから」
その言葉に促されて顔を上げると、ジャスミンがこちらを見て手を振っていた。子供達が笑いながら草の汁をこぼし、指先を緑に染めている。その笑い声が、あたたかな陽の光に溶けていった。
僕は立ち上がり、彼女のもとへ歩みを進める。
「学びは、あなたの生きる糧となります」
アスランの声が風に乗って届いたとき、胸の奥で、氷のように固まっていたものが、音もなく融けていった。
それは祈りではなかったけれど、確かに、救いのように思えた。
***
朝の光は柔らかく、砂漠の端に淡く降り注いでいた。
この地に来てから、どれほどの朝を迎えただろう。冷たい夜気にも、焚火の匂いにも、少しずつ身体が慣れてきた。祈りの声が聞こえない朝にも、心がざわつかなくなっている自分に気が付く。それが怖くもあり、どこか、ほっとするようでもあった。
僕は水の入っていない桶を抱えながら、オアシスへ向かう人々の列の中にいた。
前を歩くのはアミール。背中は広く、片腕しかないのに、その足取りは誰よりも力強い。その後ろに、子供達が三人程。小さな体で、木の桶を抱えながら、笑い合っている。彼らの笑い声が、砂漠の照り返しと一緒に空へ吸い込まれていった。
「どうしてこいつらも行くんだ。僕の力を使えば――」
言いかけた僕の声を、アミールの笑いが遮った。
「オアシスを凍らせて持ち帰るってか。それは駄目だ」
「なんで。効率が悪いよ。僕なら、すぐに終わらせられる」
「でも駄目だ。みんなで行くことに意味があるんだからな」
アミールの言葉は、いつも太陽の熱をそのまま閉じ込めたようだった。その熱が、胸の奥の冷たい部分に触れて、じんわりと溶かしていく。
彼の言うことは、まだよく分からない。けれどその言葉の響きは、なぜか耳に残った。
やがて、緑の影が見えてくる。シュロの葉が風に揺れ、陽光がその隙間から水面に落ちている。
そこには、鏡のような水が広がっていた。空を映す青が眩しく、砂漠の光景とは思えないほど静かだった。
「さあ、仕事だ!」
アミールが片腕で桶を構え、水面に身を屈める。
瞬間、僕は息を呑んだ。片腕の彼が、まるで何の不自由もないように動く。腰と足の力で水を引き上げ、器を巧みに立て直す。桶の中で水が陽光をはね返し、きらきらと光った。
「器用なもんだろ」
アミールが得意げに笑う。その笑みは、どこまでも朗らかで、戦や苦しみの痕跡を微塵も感じさせなかった。
子供達が次々に桶を沈める。水が重く、二人がかりで引き上げると、勢い余って一人が倒れそうになる。そのとき、アミールが器用に足を使って、子供を支えてあげた。
「ありがと! アミール!」
「おう。気をつけろよ」
子供達が歓声を上げ、笑い声が響いた。
その笑いを見つめるうちに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
僕のなかで、何かが揺れた。こんな光景は、見たことがなかった。聖都では、不用意に笑うことも許されず、常に正しい顔を求められた。
なのに今、この人達は、誰の命令もなしに笑っている。それは、あまりにも眩しかった。
気づけば、口元が緩んでいた。自分の頬がわずかに熱くなるのを感じて、思わず視線を逸らす。その様子を見たアミールが、にやりと笑った。
「お、楽しいか」
「……別に」
「楽しいのが一番さ。お前の氷が、ちょっとでも融けたなら良かった」
その言葉に、胸の奥がわずかに震えた。
融けた。アミールは冗談のつもりで言ったのだろう。だが、僕にはその一言があまりにも正確に聞こえた。
自分の中の何かが融けている。それが何なのかは分からないけれど、人の確かなあたたかさは感じていた。
太陽がさらに高く昇り、光が水面を焼くように照らす。アミールが桶を担いで歩き出し、子供達が笑いながらその後を追う。
僕はふと、オアシスの縁にしゃがみ、水に手を浸した。冷たいはずの水が、なぜか柔らかく感じられた。そのぬくもりが、指先から胸に伝わる。こんなにも静かな温度の中で、生きている。祈りの声がなくても。神の名を呼ばなくても。
水面が揺れ、太陽の反射がアミールの頬を照らす。その光は、淡雪に射し込んだ春の光のようだった。
夜の砂漠の空気は冷たく、心臓まで沁みるようだった。昼のあの明るい熱が、嘘のように静まり返っている。
焚火の周りでは、人々が唄を歌っていた。低い笛の音と打楽器の響きが、夜空に溶けていく。
赤い火が人々の頬を照らし、笑い声がひとつ、またひとつ上がる。子供達が輪になって踊り、誰もが幸せそうにしていた。その光景を少し離れたところから見ていると、胸の奥がざわついた。
神のいない夜に、どうして人はこんなにも笑えるのだろう。
焚火の火が揺らめくたびに、記憶の奥が疼いた。
あの夜のこと。「おいで」と優しく呼んだ声。その声に逆らえず、ただ従うことが信仰だと教えられてきた。
「……ナジム様」
思わず彼の名を口にしていた。火の揺れが、あの彼の衣の裾のように見えた。あの夜の温もりは、祈りの形をした支配だった。それでも、彼の笑みを思い出すと、心臓が軋む。
「ナジム=アル=ディーンですか」
低く落ち着いた声が、背後から聞こえた。
振り返ると、火の明かりを背後に添えたアスランがいた。金糸のような髪が淡く光り、左目の黒い眼帯が闇に溶ける。右目だけが、火の赤を映していた。
「彼、しぶとく生きていたのですね」
穏やかで、どこか達観したような声だった。
「何故、ナジム様の名を――」
「かつて、私も法学者でした。神を信じ、神に裏切られた、一人の信徒だったのですよ」
アスランは微笑んで、僕の隣に腰を下ろした。火が彼の顔を照らし、影が長く地面に落ちる。
「あなたを愛し、育んでくれたのがナジムだったように、私を愛し、育んでくれたのは、姉でした」
その声は静かで、火の音に溶けていく。
「彼女が病に伏したとき、私は神に祈りました。彼女に祝福を与えてくれ。彼女を救ってくれと」
アスランは一度言葉を止め、焚火を見つめた。火がはぜて、赤い火の粉が宙に舞う。
「しかし、神は沈黙しました。結局、姉は死んでいきました。姉の死は必然だった。神も祈りもこの世界にはないのだと、そのとき、初めて知ったのです」
その言葉に、僕は顔を上げた。
「……神がいないなら、僕は何を信じればいい」
「自分です」
アスランは迷いなく言った。
「あなたの見たもの、感じたもの、それが世界の真実です。神が与える意味ではなく、あなたが選んだ意味を信じればいい」
火がぱちんと音を立てた。その音が、不思議と心に沁みた。
橙の光が砂を照らし、風が通るたびに炎の輪郭が揺らめく。アスランはその光の中に目を落とし、低い声で言った。
「神の存在なんて、誰も証明できませんし、分かりません。しかし、我々人間が今を生き、そして死んでいくことは、紛れもない現実であり、真実なのですよ」
言葉が空気に溶けるようにして、夜の静寂が戻ってくる。その響きは不思議とやさしく、胸の奥をゆっくり満たしていった。
神の存在は分からない。
それは、これまで最も恐れてきた言葉だった。神の名のもとにすべてを律し、意味を与えられてきた僕にとって、それを失うことは、世界を失うことと同じだった。
けれど今、その言葉が、なぜか救いのように感じられた。分からないということが、こんなにも静かで、広いものだったとは思わなかった。
僕は焚火を見つめた。火はただ燃えている。誰の意志もなく、誰のためでもなく。それでも確かに、そこにあった。
息を吸い込む。熱い空気が肺に満ち、胸の奥で鼓動が跳ねる。それは、生きている音だった。
神の沈黙の中で、初めて、自分の呼吸を意識した。それは祈りの形をしていなかったけれど、確かに、今、僕は生きていた。
宴が終わったあと、焚火はほとんど燃え尽きていた。灰の中に埋もれた赤い火が、かすかに脈を打っている。まるで、死にかけた心臓のように。その光が消えてしまえば、もう何も残らない気がして、僕はじっとそれを見つめていた。
この数日間、笑う人々を見た。
祈らずに、手を動かし、言葉を交わし、パンを焼いていた。彼らの声は穏やかで、どこかあたたかかった。けれど、僕の中ではまだ何かが凍ったままだった。それは恐らく、祈りを失った心の奥に残る空洞。
「祈りは済んだか」
背後から声がした。
驚くほど自然で、まるで夜の中に溶け込むような声だった。振り返ると、ザイードが立っていた。赤い残り火が彼の頬を照らし、蒼色の瞳がかすかに光っている。
その姿を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
「もう、祈ることはできない。ここの人々は神に縋ることなく、自らの力で生きている。僕も――」
言葉を吐き出すたびに、胸の奥が軋んだ。かつて僕のすべてだった祈りが、今はもう届かない。あれほど神の光を求めていたのに、今はその光を求める感情すらも思い出せなかった。
「神に祈るのも、生きることだと思うぜ」
隣に座ったザイードの声は、静かで、それでいて確かな温度を持っていた。その声が、夜気を震わせる。
「え」
僕は顔を上げた。問いというより、思わず漏れた息に近かった。
「神に縋らなきゃ生きられない奴もいる。偶々、俺らは神じゃなくて、自分と仲間を信じていただけで、お前の場合、それが神だった。それだけだろ」
その言葉が、真っすぐ胸の奥に落ちてきた。音もなく、けれど確かな重さで。
彼の言葉は、焚火の火のようだった。ゆっくりと、凍りついた心の奥に染み込んでいく。
僕は、今まで神に縋ることでしか生の意味を知らなかった。けれど、この場所で、神のいない人々が穏やかに呼吸しているのを見てきた。
それでも、僕にはまだ怖さが残っている。祈りを手放したあと、何を拠りどころにすればいいのか分からないから。
ザイードの言葉は、その迷いを包み込むようだった。否定ではなく、理解だった。
お前の場合、それが神だった。
そう言われた瞬間、ようやく自分が、誰かに、許されたような気がした。
胸の奥がじんわりと熱くなる。その熱は火のせいではなく、自分の内側から滲み出してくるものだった。
「……あなたも、自分と仲間を信じているの」
声が震えていた。問いながら、僕は恐れていた。彼の答えが、自分を遠くへ突き放すものになるのではないかと。
しかし、ザイードはただ微笑んで言った。
「そうさ、俺は俺と、仲間と――俺を救ってくれたお前を、信じてるぜ」
その瞬間、時間が止まった。言葉が風に溶けていくのを、息を呑んで見送るしかなかった。胸の奥に広がる熱が、痛いほどに優しい。信仰の炎ではない。もっと人間的で、確かに触れられるあたたかさ。
僕は何も言えなかった。それでも、その沈黙が心地よかった。消えかけた焚火がふっと揺れ、赤い光が二人の影を砂の上に重ねた。
星々が煌めく夜空は、どこまでも静かで、どこまでも深かった。神の沈黙が満ちるその空の下で、僕は初めて、人を信じることを知った。
***
いくつもの朝を越えた。
いつのまにか、焚火の匂いにも、焼きたてのパンの香りにも慣れていた。この地に来たばかりの頃、夜の静けさが怖くて眠れなかったのに、今はその静けさが心地よく感じられる。
風の音に、誰かの笑い声が混じり、それが遠くから微かに届く。そんな暮らしが、ずっと続くような気がしていた。
夕暮れが近づくと、天幕の間に赤い光が流れ込む。焚火では豆が煮え、香辛料と胡麻の匂いが混ざって、あたたかな香りを立てていた。
僕は子供達と一緒にピタパンの生地を伸ばしていた。手のひらで押すと、やわらかい生地の感触が伝わって心地良い。鉄板にのせると、内側の空気が膨らみ、金色の斑が浮かんでいく。その様子を見て子供たちが歓声を上げる。笑い声が風に流れ、空に溶けていく。
オアシスの方から水を運ぶ声も聞こえた。アミールが大鍋を抱え、ザイードがそれを支えている。
フムスを煮る音、肉を焼く音、香草の匂い。夕食の支度が進むたびに、集落の中に穏やかな息づかいが広がっていく。それは、祈りよりも静かで、確かな生活の音だった。
そんな中で、ふと遠くを見た。
陽が傾く砂の地平に、二つの影が見えた。それは最初、風に舞う砂煙のように見えたけれど、やがて人の形をとった。影はゆっくりとこちらへ向かってきて、橙の光の中でその輪郭がはっきりしていく。
「……帰ってきた」
子供の一人が呟いた。
帰ってきたのは、アルミナの偵察班だった。昼過ぎに出発していった彼らが、日が沈む頃になって戻ってきたのだ。彼らの衣は砂にまみれ、額には汗が滲んでいた。
けれど、疲れだけではない。
その目の奥に、何か強いものが宿っていた。喜びでも、安堵でもなく、もっと冷たい何か。
アミールがすぐに彼らのもとへ歩み寄る。ザイードも顔をしかめ、後に続いた。
焚火のそばにいた人々が次第に静かになり、子供たちも焼きかけのパンを手にしたまま動きを止める。沈む太陽の光が、赤い布を照らし、風が重たくなったように感じた。
偵察隊はアミールたちと軽く話すと、そのまま共に天幕へと入っていった。
僕は思わずその背を目で追った。胸の奥で、小さな痛みが走った。彼らの表情を見た瞬間、何かが変わると本能的に分かった。
焼きかけのピタを置いて、僕は天幕の方へと向かった。布の隙間から、低い声が漏れている。アミールの声、その次に偵察隊の掠れた報告。風の音と混ざり合って、言葉の輪郭が曖昧になる。
「……彼らが、動いています」
その言葉だけがはっきりと聞こえた。
「捜索隊が、もう付近まで……時間の問題でしょう」
声色からもわかるくらいに、天幕の中の空気は張り詰めていた。息をするたびに、焚火の煙が胸に刺さるように感じた。アミールの短い返答が聞こえ、続けて、もう一人の偵察員が言った。
「……氷の少年。おそらく、彼のことでしょう」
その瞬間、鼓動が一度止まった。風の音が遠のき、世界が凍ったように静まり返る。
僕を、探している。
法学者達。あの白い衣、微笑み、そして「おいで」という声。まるで遠い昔の夢の中の光景のように、鮮明に蘇った。彼らの笑顔の裏にあるものを、僕はもう知っている。それでも、あの声の響きが、今も胸の奥にこびりついていた。
『お前は選ばれた人間なのだよ』
『戻っておいで』
あの優しい声が、再び僕を呼んでいる気がした。背筋を伝う冷気とともに、記憶がよみがえる。祈りの間の灯火、鉄の匂い、鎖の音。あの日の光景が、鮮明によみがえる。
中でアミールが深く息を吐いた。
「……そうか」
低いその声が、天幕の布を震わせた。
「分かった。詳細は後で聞く。休め」
短い命令。それだけで、偵察員たちは深く頭を下げ、天幕を出ていった。
僕は慌てて、天幕の物陰に隠れる。彼らの足音が遠ざかっていく。その一歩ごとに、集落のざわめきが少しずつ戻ってくる。けれど、さっきまでの笑い声は、もうなかった。
僕は天幕の陰に立ったまま、動けなかった。胸の奥が、静かに冷えていく。
法学者達の影が、また僕の世界に戻ってきた。ここに来て、ようやく見つけた祈りのない穏やかな朝が、音もなく、崩れ始めていた。
夜が完全に降りた。星の光が砂漠を照らし、風が冷たく吹いていた。
天幕の間には焚火が並び、火の赤が人々の顔を照らしている。笑い声は消え、代わりに低いざわめきが流れていた。炎の音と、布が揺れる音。それだけが夜を満たしていた。
アミールが中央に立っていた。その背には焚火の光が映り、片腕の影が地面に長く伸びている。彼の声が、静かに夜気を裂いた。
「聞いてくれ。神権政府の捜索隊が、近くまで来ている。まだ俺たちの居場所は割れていないが、時間の問題だろう」
ざわめきが一瞬、強くなる。
子供の声が遠くで上がり、誰かが抱き寄せる気配がした。しかし、誰一人、取り乱す者はいなかった。この場所にいる人々は、もう何度も、こうした夜を越えてきたのだろうと感じる。
アミールは周囲を見渡し、深く息を吸う。
「朝になったら、非戦闘員は東の支脈の方へ退避。三日の食糧を持っていき、次の拠点を探せ」
炎が揺れ、光が彼の横顔を照らす。その声には恐れよりも、決意の響きがあった。
「戦える者はここに残れ。神権政府に見つかるまでは戦闘準備を。発見され次第、全て焼き払う」
焚火が、パチッと音を立てた。火の明かりに照らされた人々の顔は、恐怖よりもむしろ、強さに満ちていた。
アルミナはこうして生き延びてきた。祈りも旗もなく、ただ互いを信じ、次の夜明けを迎えるために。
アスランが地面に地図を広げる。細い指が、火に照らされて線を描いた。
「ここから北へ半日程の距離にオアシスがあります。東の支脈を抜け、そちらへ向かってください。詳細な道筋は私が指示します。戦闘班は、西側の遺跡に陣を敷きましょう」
落ち着いた声。それが不思議と人々の呼吸を整え、ざわめきが徐々に沈まっていく。
僕はその輪の外にいた。焚火の光の端、影の中で立ち尽くしていた。火の熱は届くのに、身体が冷たい。胸の奥で、心臓がゆっくりと沈んでいく。
僕のことは、言わなかった。
神権政府の捜索隊が来る理由は、僕なのに。僕の力を追って、彼らは砂漠を越えてくるというのに。それをアミールもアスランも分かっている。それなのに、誰も口にしない。
なぜ、黙っているんだ。僕ひとりがいなくなれば、それで済むはずなのに。僕がここにいるせいで、誰かが傷つく。
アスランが地図を示し、ザイードが火の傍に立っている。
誰も僕を見ない。彼らの沈黙が、かえって重かった。この穏やかな集落が、もうすぐ炎に包まれるかもしれないのに。それでも彼らは、何も責めず、何も問わなかった。
『お前は選ばれた人間なのだよ』
『戻っておいで』
記憶の底から、あの声が浮かんだ。法学者の笑み。白い指。やさしさの形をした、支配の声。
胸の奥が凍る。焚火の赤がぼやけ、息が詰まる。あの声が再び耳の奥で囁いた気がした。
『お前がいれば、皆が救われる』
その言葉が、まるで呪いのように響く。
僕のせいで、また誰かが死ぬかもしれない。そう思うと、胸の奥が締めつけられた。このまま、ここにいてはいけない。
アミールの声が再び響く。
「戦闘終了と同時に合図を送る。それに従い、新しい場所を伝えてくれ。みんなで、生きよう」
その言葉が、まるで最後の祈りのように聞こえた。
焚火の光が強く揺れる。炎が人々の顔を赤く染める。それぞれが散っていく中、僕はその場に立ち尽くしていた。
夜風が吹き抜け、砂が足もとを撫でる。火の粉が舞い、空へ消える。
僕は目を閉じて考える。胸の中で、冷たい決意が形を取っていくのを感じた。
行かなくては。
彼らに、僕のせいで戦わせるわけにはいかない。この手で、終わらせる。
焚火の熱が背中に触れたとき、それはもう暖かくなかった。静かで、痛いほど冷たい夜だった。
夜半、焚火はもうほとんど燃え尽き、灰の中に埋もれた火が、わずかに赤を灯していた。風が吹くたびに、火の粉がふっと浮かび、夜空に消えていく。空には雲ひとつなく、星が静かに瞬いていた。
人々は眠ってはいなかった。戦闘準備をする者、荷をまとめる者、地図を確認する者。それぞれが、最小限の音だけで動いていた。地面を踏む足音が、かすかに響く。声は交わされず、ただ必要な動作だけが夜の中で続いていた。
僕は、子供達が寄り添って眠る天幕の中で、静かに目を開ける。隣の寝息が小さく響いていた。焚火の光が布越しに滲み、淡い赤が頬を照らしている。
胸の奥が痛かった。この光も、声も、もう二度と戻らない気がした。
息を潜めて立ち上がる。外の風が布を揺らす音がやけに大きく感じた。
これでいい。
そう思った。僕がここにいれば、きっと彼らは巻き込まれる。僕のせいで、また誰かが傷つく。それだけは、もう嫌だった。
天幕の入口を捲り、外へ出て、歩みを進めようとしたとき、背後から声がした。
「行くのか」
低く、静かな声。その響きに、身体が止まった。振り返ると、夜の闇の中にアミールが立っていた。片腕の影が長く伸び、地面に溶けている。月明かりを受けて、その瞳が淡く光っていた。
「僕がここにいたら、みんなが危険にさらされる」
声を出すと、喉の奥が震えた。言葉が冷たい空気に混ざって、消えていく。
アミールはしばらく黙っていた。風の音だけが二人の間を抜けていく。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「お前がいなくても、いつかは来た」
短い言葉だった。けれど、その声には、確かな重みがあった。
「でも、僕が原因だ。僕は、みんなを守りたい」
胸の奥が軋む。言葉を吐くたびに、心臓の形が変わっていくような感覚があった。
「こんな気持ちは初めてだけど。これが、仲間なんじゃないの」
アミールはゆっくりと歩み寄る。
その足取りは、確かで、静かだった。焚火の残り火が風に揺れ、彼の横顔を照らす。
「そうだ、オレ達は仲間だ」
その声は、夜の中に落ちる灯のようだった。彼の目が、真っすぐに僕を見ていた。
「ともに、生きるのが仲間だ」
アミールの声は静かで、低く響いた。
「オレはお前も含め、誰一人死なせない。悲しい顔は、させない」
胸の奥で、何かが崩れた。息をするたびに、痛みが広がっていく。悲しみではない。それは、凍っていた心が融けていく感覚に似ていた。
アミールは天幕の入口へ向かい、片腕で布を持ち上げた。夜風が吹き込み、布がゆっくりと揺れる。遠くの地平に、淡い月光が滲んでいた。
「それがお前の道なら、止めはしない」
そう言って、アミールは入口を開いたまま僕を見た。
「だが、オレ達を頼ることもできると、知っておいてくれ」
その声が、心の奥で響いた。まるで、祈りのように。
僕は何も言えなかった。喉が詰まり、言葉が出ない。
ただ、深く頭を下げ、歩き出した。
足音がやけに静かに響く。背中に焚火の赤い光が当たり、遠ざかっていく。
アミールは何も言わなかった。風の音だけが、二人の間を流れていった。
夜空は澄んでいた。無数の星が、砂の上に散るように光っている。息を吐くと、冷たい白が宙に溶けた。
彼らを、救いたい。
その言葉を心の中で呟きながら、僕は夜の砂漠へと歩き出した。誰の祈りも届かない場所へ。ただ一人で。
夜の砂漠は、昼の熱の名残をすっかり失っていた。吐く息が白く見えるほど冷たく、けれどその冷たさよりも、胸の奥に広がる不安の方が痛かった。
天幕の並びを抜けたとき、月光の下にひとつの影が立っているのが見えた。
ザイードだった。
肩を落とし、両手をポケットに突っ込み、少し猫背になって夜空を見上げている。彼が微かに纏うその赤が、背中を薄く縁取っていた。
僕が近づくと、ザイードは気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返った。その表情には、皮肉を装った軽さと、疲れを押し隠すような影が同居していた。
「奴らはお前を狙っているんだと」
淡々とした声。けれど、その裏にある心配を、僕はもう感じ取れるようになっていた。
「知っている」
短く答えると、ザイードが目を細めた。その視線は夜のざらついた空気よりも鋭く、そしてどこか優しかった。
「盗み聞きか? 良い趣味してるぜ」
「……うるさい」
言い返しながら、自分の声が震えているのが分かった。怖いのか、迷っているのか、それとも――。自分でも判断がつかなかった。
「本当に、行くのか」
その問いは、夜気より冷たく、胸に突き刺さった。
「行く。僕がここにいたら、みんなが――」
「死んでしまうって?」
ザイードが言葉をさえぎる。彼の声が、いつもより低く響いた。
「ずいぶん舐められたものだな。俺達は死なないさ。仲間がいるから」
胸の奥がぎゅっと縮んだ。どう返せばいいのか分からず、唇が乾いて張りついた。
沈黙が降りてきた。砂漠の闇は深く、風が布を揺らす音だけが、二人の間に流れた。月明かりがザイードの頬を照らし、彼の影が僕の影と重なった。
「なあ」
その声は、いつもの明るさを少しだけ失っていた。
「……」
「お前、まだあいつらを信じてんのか?」
その瞬間、胸の奥に隠していた傷に、指先を押し当てられたような痛みが走った。言葉を探そうとしても、喉がうまく動かない。
「信じてるわけじゃない。……でも、あの人たちがいなければ、僕は生きてこれなかった。そのはずなのに――」
声が途切れ、呼吸が乱れた。胸の奥の冷たさが一気に広がっていく。
法学者達の微笑み、白い手、優しい声。「おいで」と囁くあの響きは、心臓の奥に今も刺さったままだ。愛だと信じていた温度が、実は枷だったと知った瞬間の痛みが蘇る。
けれど同時に、焚火の前で交わしたザイードの言葉、アミールの太い笑い声、ジャスミンのあたたかな指先。その全部が胸の奥で静かに光った。
ここでは誰も僕を利用しようとしない。命令もしない。「ともに生きる」と言う。
その事実が、あまりにも優しすぎて、逆に苦しくなった。
「ここにきて、あなたと出会って、僕は、初めて、生きている」
言葉がこぼれ落ちた瞬間、胸の奥に押し込めていた何かが決壊した。
頬が熱くなり、視界が滲む。涙の出し方なんて、忘れていたのに。こぼれたそれは驚くほど温かかった。
ザイードは驚きもせず、ただ静かに笑った。その笑顔は、焚火の火よりも柔らかかった。
「それが答えだろ」
彼はゆっくりと手を伸ばした。夜風がその指先を撫で、月光が白く照らしている。
「行こう。みんなで、生きよう」
その手が、まるで光のように見えた。決して神の光ではない。人間のあたたかな光だった。触れれば消えてしまうかもしれないのに、確かにそこにある温度。
僕は震える指で、その手を握った。
ザイードの掌はあたたかく、あの日、氷の檻の中で感じたぬくもりが、そのまま残っていた。手を繋いだ瞬間、胸の奥の冷たさが、完全に溶けていくのを感じた。
涙がぽたりと落ち、砂に吸い込まれた。けれど、その涙は悲しみのものではなく、ようやく人として息をし始めた証のように思えた。
夜空は深く、星々が瞬いている。僕はその下で、初めて、生きるという言葉の意味を理解した気がした。
砂漠の夜は、まだ深い青のまま沈んでいた。
しかし、遠い地平の端に、薄い光が滲み始めている。夜と朝の境目。その揺らぎの中で、僕たちは焚火の名残を囲んで座っていた。
アミール、アスラン、ジャスミン、ザイード、そして僕。
炎の代わりに、静かな呼吸だけが輪をつくっている。
天幕の影では、非戦闘員たちが荷をまとめていた。東の支脈へ向かう準備。これまで何度も繰り返してきたであろう避難の流れ。それを遠くに見ながら、僕は胸の奥がずっとざわついていた。
逃げ続ける。いつか見つかる。見つかったら、また逃げる。それがアルミナの生き方だ。誰も責めることはできない。生きるための、たったひとつの道だったのだから。
けれど今、胸の奥に熱いものが渦巻いていた。それは恐れではなく、もっと違う、はっきりとした確信だった。
僕は唇を噛み、静かに口を開いた。
「……聖都の警備は、今、きっと薄くなっている」
四人の視線が、ゆっくり僕に向いた。その視線は、責めるものではなく、ただ真剣な、受け止めようとする光だった。
「僕を探すために、かなりの兵が外に出ているはずだ。それに、最近は聖都への疑念も高まっていて、聖戦士達も、今では数を減らしつつある」
アミールがひざを組み替え、深く息を吐いた。その表情は、すでに「攻めるか逃げるか」を天秤にかけている顔だった。
僕は続ける。
「僕は聖都を知っている。どこに門があり、どこが弱いのか、どう巡回が動くのか。それに、僕なら、氷で道を作れる」
言葉を吐くたびに胸が震えた。恐れではない。覚悟が形になっていく震え。
アスランが静かに紙を取り出し、聖都の地図を描いた。聖都のつくりはずっと変わっていないにしても、すらすらと描く様子に、僕は驚きを隠せない。
彼の横顔は、夜明け前の冷たい光を宿している。
「あなたが、警備が薄いと思うのはどこですか」
そう淡々と聞かれ、僕はそっと描かれた地図を指さす。
「なるほど。……夜明けとともに突破すれば、侵入は十分に可能でしょう」
ジャスミンは地図を覗き込み、深く頷いた。その手元では、医薬袋の中身が次々整えられていく。心の揺らぎなど一片もない。ただ、助ける覚悟だけがそこにあった。
「医療班は後方で待機します。誰も死なせませんよ」
その言葉はあまりに強く、まるで祈りのように美しかった。
アミールが立ち上がる。片腕を高く振り、大剣を肩に担ぐ。その姿は夜明け前の巨影のようで、頼もしく、揺るがなかった。
「ああ。みんなで生きよう」
笑いながらも、その瞳は鋭く光っていた。戦いを望んでいるのではない。戦いを終わらせようとしている光だ。
ザイードが、小さな火種を掌で包むようにして灯した。その炎は小さかったけれど、不思議とあたりを優しく照らしていた。
「行こうぜ。すべてを終わらせるために」
その声は、夜を切り裂くように力強かった。
彼らは怖れていないのではない。怖れを抱えながら、それでも前を向いているのだと分かった。
僕は四人の顔を見回した。アミールの揺るぎない信念。アスランの静かな理性。ジャスミンの優しい決意。ザイードのあたたかな瞳。
そのどれにも、迷いはなかった。胸が熱くなった。さっきまでの恐怖が、音を立てて崩れていった。代わりに、ひとつの想いだけが残った。
僕も、この輪の中にいたい。この人たちと、生きたい。
「……みんなで戦おう」
声が震えていた。でも、その震えは弱さじゃない。初めて自分で選んだ道に、足を踏み出した証だった。
アミールが近づき、片腕で僕の肩を叩く。大きくて、重くて、あたたかい手だった。
「それが仲間だ」
その言葉を、僕は胸の奥で何度も反芻した。夜明けはもうすぐで、砂漠の端が淡く染まり始めていた。
新しい光が、僕たちの影をひとつに繋げていく。
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