Al-Harara fi Ramad

ナタ=デ=ココ

文字の大きさ
4 / 4

君のぬくもり

しおりを挟む
 聖都が、見えていた。
 砂漠の向こう、陽に焼けた岩山の縁から、白い尖塔がいくつも突き出ている。かつて、僕が毎朝顔を上げて見上げていた光景。その上に、いつものように、柔らかな光が降りていた。天頂の透明な天窓から、一本の光柱が大聖堂の天蓋に落ち、聖都全体を包むように淡く広がっている。
 昔なら、その光を見て、膝を折り、頭を垂れ、祈りの言葉が口をついて出ていたはずだった。
 けれど今、胸の奥は静かだった。ただ遠くに見えるその光が、薄い硝子越しの幻のように思えた。
 砂の上を進む足音が、低く重なっていく。
 背後では、アミールが大剣を肩に担ぎ、短く号令を飛ばしていた。革と鉄が触れ合う音、弦を締める音、調合された薬草の匂い。どれも、彼らと何度も感じてきたもののはずなのに、今はひとつひとつがやけに鋭く刺さる。
 隣を歩くザイードの肩越しに、聖都の白壁が見える。彼の皮膚は、相変わらず黒く焦げており、近づくほど熱を感じる。炎は抑え込まれているはずなのに、その気配は決して消えない。彼が低く息を吐くたび、熱と砂と鉄の匂いが混じり合った。
「……戻ってきた」
 口に出したのか、心の中で言ったのか、自分でもよく分からなかった。ただ、胸の奥にひっかかるような痛みだけが、確かな感覚として残る。
 聖都の門は、高く、冷たくそびえていた。白い石に刻まれた文言。かつて幾度となく指でなぞった神の言葉が、今はひび割れ、砂嵐に削られている。門の上から、神権政府の兵がこちらを見下ろしていた。槍の穂先が夕陽をはね返し、眩しい光を散らす。
「準備はいいか」
 ザイードが、わずかに笑いながら問いかけた。その横顔は、炎の男ではなく、ただ隣を歩くひとりの人間のものに見えた。
 僕は、静かに頷く。掌に意識を集中すると、骨の奥から冷たさが立ち上がってくる。
 あの日、信仰を捨て、彼を選んだ冷気。神に捧げるためではなく、生きるために使うと決めた氷。
 足もとの砂が、きしむ音とともに凍り始める。透明な結晶が広がり、門の前に楔のような氷の道を形作っていく。その脇で、ザイードの肩口から赤い火がふっと跳ねた。
 炎と氷が並んで、聖都の門へと向かう。
 次の瞬間、轟音が世界を満たした。ザイードの炎が門の金具を焼き、僕の氷が石の継ぎ目をこじ開ける。熱で膨張した石がきしみ、ひび割れ、やがて粉々に砕け散る。白い壁が崩れ、僕たちはその裂け目から聖都の中へと踏み込んだ。
 聖都の空気は、昔のままだった。香の匂い、油の匂い、祈りの声。けれど、そのすべての上に、今は血と煙の匂いが重なっている。
 鐘楼の鐘が鳴り響き、人々の悲鳴が飛び交う。兵たちが走り、法学者達が慌てふためきながら礼拝堂へと駆け込んでいく。
 その中に、かつて見知った衣の色をいくつも見つけた。白と金。清らかさの象徴だったはずのその色が、今はやけに薄汚れて見える。
 礼拝堂の扉は、半ば開いていた。中から、祈りの声が溢れ出している。「光よ」「慈悲よ」「守りたまえ」という言葉が重なり合い、かつて僕を酩酊させたあの響きと同じ形をしている。それでも、僕の足は止まらなかった。
 堂内に踏み込んだ瞬間、光が弾けた。
 高い天井から、ステンドグラス越しの光が降り注いでいる。赤、青、緑、金。七色の光が床の上に落ち、人々の肩や額に模様を描いていた。その光に縋りつくように、法学者達がひざまずいている。
「神よ、我らをお守りください」
「この地を、あなたの御手で――」
 祈りの言葉が飛び交う。誰も剣を握ろうとしない。彼らはただ、祈ることで世界を動かせると信じている。かつての僕と同じように。
 ザイードの炎が、走った。
 その炎は人ではなく、まず天井を目指した。ステンドグラスを支える枠に爆ぜるようにぶつかり、熱が一瞬で広がる。色硝子が耐えきれず、パリッと乾いた音を立てて割れた。
 七色の破片が、雨のように降り注ぐ。光を透かしたまま、鋭利な硝子片が祈る人々の肩や背をかすめ、床に突き刺さる。血がにじみ、それでも彼らの口からは祈りの言葉がこぼれ続けていた。
 ひとりの老いた法学者がいた。見覚えのある衣の縁、細い首筋、皺だらけの手。彼は炎に包まれながらも、空に向かって両手を掲げていた。
「神よ……」
 燃え上がる衣の中から、掠れた声が漏れる。髭が焦げ、皮膚が赤黒くただれていく。その目は、最後まで天井の向こうの何かを見つめていた。
 ザイードの足が、一瞬だけ止まった。
「……死してなお信仰を続けるか」
 小さく呟かれたその声には、嘲りはなかった。ただ、どこか遠いものを見るような、淡い哀しみが滲んでいた。
 祈りの声は、次第に悲鳴と混ざり合い、境界が消えていく。誰かが倒れ、誰かが誰かを抱き起こし、それでも「神よ」と呼ぶ声だけは止まらない。
 そのたびに、胸の奥が微かに痛んだ。かつて自分もそこにいたはずなのに、もう戻る場所ではないと知っている痛み。
 炎が天井を舐める。梁が軋み、焼け焦げた匂いが鼻を刺す。ステンドグラスは次々に割れ落ち、七色の破片が血の上に散らばっていった。光と血が混ざり、その境目が見えなくなる。
 アミールたちは、周囲を固めていた。戦える者は短剣や槍を持ち、逃げようとする兵たちを押しとどめる。
 ジャスミンは少し離れた礼拝堂の外で負傷者を引き受け、血で濡れた手を素早く動かしていた。
 誰も祈らない。ただ、自分の手と仲間の息だけを信じていた。
「行くぞ」
 ザイードが言い、僕たちは大聖堂のさらに奥へと向かった。
 そこには、黒い扉があった。
 白い石でできたこの聖都の中で、そこだけが異質だった。漆黒の石が重なり合い、触れる者を拒むように立ちはだかっている。
 その表面には、古い言語で何かが刻まれていた。かつてはその文言を神の言葉だと信じていたが、今はただ、封印の呪文にしか見えない。
 扉の前には、数人の法学者達が立ちふさがっていた。彼らは震える肩で扉を背に支えながら、本を抱きしめ、必死に文言を唱えている。
「ここは神の御座だ。穢れた足を踏み入れることは許されない!」
「ここには神があらせられる! これ以上近づくな!」
 槍も剣も持たないその姿は、滑稽でもあり、どこか痛ましくもあった。彼らは、自分たちの声だけで世界を守れると信じている。扉の向こうにいるはずの存在を、一度も見たことがないまま。
 アルミナの戦士たちが前に出る。
 アミールが片腕で大剣を構え、その刃で法学者たちの間を割って進んだ。
 殺すためではなく、道を開けるための動き。だが、混乱の中で何人かは足を滑らせ、炎の中へ倒れ込んでいく。祈りの声が途切れ、悲鳴がその空白を埋めた。
 ザイードが黒い扉の前に立つ。
 掌に炎を集め、その熱を一点に押し込む。黒石がじわりと赤く染まり、やがてひびが走る。封印に刻まれた文言が、ひとつひとつ焼き裂かれていくたびに、胸の奥で何かが崩れていくような感覚があった。
 僕は、ただ見ているしかなかった。神の御座と教えられてきたその扉が、炎に焼かれて崩れていく。その光景を、恐ろしいとは思わなかった。むしろ、ようやく現実と向き合えるような、奇妙な安堵感すらあった。
 最後の一文字が焼き切れた瞬間、鈍い音を立てて扉が内側へ倒れた。重い空気が、溢れ出す。
 中は、暗かった。
 黒い石で囲まれた小さな空間。飾りも、像も、祭壇もない。何もないのに、妙な圧迫感だけがある。空気が振動しているように感じられた。
 耳を澄ませると、どこか遠くで、鼓動のような音が微かに響いている。
「……」
 言葉が見つからなかった。
 これが、神の御座。
 世界の中心。祈りが向けられてきた場所。僕が生まれてからずっと、神の光が満ちているのだと信じてきた空間。その実体が、今、こうして目の前にある。
 何も、なかった。
 ただ、空虚な暗闇と、意味のない振動だけ。そこには、手を伸ばして触れられる「何か」すら存在しない。
「神は――いなかった」
 自分の口から漏れた声が、やけに静かに響いた。誰に聞かせるでもない、その一言が、僕自身への宣告のように思えた。
 ザイードが、肩をすくめる気配がした。
「お前は、こいつらは、空虚に祈りを捧げてたってわけだ」
 その言葉に、胸の奥がひりついた。怒りでも、嘲りでもない。ただ、どうしようもない虚しさが広がっていく。
 僕自身もそのひとりだったのだ。空っぽの闇に向かって、救いを求めて叫び続けてきた。それでも届かないのを、神の沈黙だと信じていた。
 でも、それは沈黙でさえなかった。ただ、何もなかったのだ。
 その時、外から、叫び声が響いた。
「我らが神はここにあり!」
 法学者達の声だ。
 炎と煙の中、彼らの声だけが妙にくっきりと聞こえる。続いて、布が擦れる音、重い何かを引きずる音が響いた。
 振り返ると、黒い神殿の入口に、数人の法学者達が現れていた。彼らは焼け焦げた衣を引きずりながら、何かを抱えるようにして運んでいる。
 白い布で覆われた人影――神と呼ばれたそれが、ずるずると床を引きずられながら近づいてくる。
 布の下で、何かが脈打っていた。
 胸のあたりが、不自然に膨らみ、収縮を繰り返す。血管のようなものが、布越しにも分かるほど浮き上がり、蛇のように蠢いている。鼓動の音が、先程まで空虚だったこの神殿の空気を、ねっとりと満たしていく。
 何もなかったはずの神の御座に、今、何かが連れてこられようとしていた。
 僕は、息を呑んだ。胸の奥で、冷たさと熱が同時に沸き立つ。
 それが何であるのかを、まだ言葉にはできなかった。ただ、直感だけが告げていた。
 これは、祈りの終わりであり、祈りの成れの果てであると。

 法学者達の声が、焼け焦げた礼拝堂にこだました。
「神の再誕である!」
 ひとりが叫ぶと、他の者たちも続いた。掠れた喉から絞り出されるその言葉は、祈りというより、すがりつくための呪文のようだった。彼らは震える手で、白い布に覆われた「それ」を、黒い神殿の中央までずるずると引きずってくる。
 近づくにつれて、鼓動の音がはっきりしていった。
 最初は遠い地鳴りのようだったそれが、次第に、はっきりとした心臓の音へと変わっていく。ひとつではない。ふたつ、みっつ、それ以上。いくつもの塊が、バラバラに拍動しながら、それでもひとつのリズムを形づくっている。
 法学者のひとりが、布に縫いとめられた紐を震える指で引きちぎった。
 白い布が、するりと剥がれ落ちる。
 中から現れたものを見た瞬間、肺に入っていたはずの空気が、全部どこかへ消えた。
 それは、人間の形をしていなかった。
 いや、「かつて人間だったもの」と呼ぶべきなのかもしれない。胸の中心に収まるべき心臓は、数を間違えたかのようにいくつも重なり合い、赤黒い肉塊として露出している。脇腹、喉元、背中、太腿。本来なら内側に隠されているはずの臓器が、皮膚という境界を失い、むき出しのまま脈動していた。血管が浮き上がり、蛇の群れのように全身を走り回る。透明なゼラチンのような膜がところどころに張りつき、それが呼吸のたびにぬるりと揺れる。
 それでも、顔だけは――。
 目を疑った。
 銀色の髪が、肩のあたりまで滑り落ちている。光を含んだような淡いその色は、鏡の中で何度も見てきた色だった。頬の線、額の形、睫毛の長さ。血の筋が伝うその顔は、歪んでいるのに、あまりにも見覚えがあった。
「……僕」
 声が漏れた。喉の奥から引き剝がされるように出たその一言が、自分のものとは思えなかった。
 あの顔は、僕だ。
 理解した瞬間、視界がぐらりと揺れた。足もとが消えたような感覚に襲われる。
 物心ついたときには、もう聖都にいた。白い石の壁と、高い天井と、香の匂いと、法学者達の声。父も、母も、見たことがない。訊いても「神が、お前をここへ導いた」としか言われなかった。
 思い出す。
 いつも僕を撫でていた手。祈りの言葉の間に、さりげなく混じる「愛しているよ」という囁き。夜のあと、汗ばんだ額に落とされた口づけ。あのぬるい温度を、僕は「愛」だと信じていた。
『お前は、選ばれた人間なのだよ』
『最も、神に近しい存在なのだ』
 いつだったか、そんな言葉を聞いた気がする。褒められているのだと思っていた。神に近い存在なのだと、胸を熱くしていた。
 今、目の前にある。
 無数の臓器と心臓で組み上げられた、肉の偶像。その顔だけが、僕と同じ姿をしている。血管の一本一本まで、祈りで編まれた神の形。その「完成形」がこれなのだと、一瞬で分かってしまった。
 僕は、最初から、このために造られたのだ。
 親を知らないこと。生まれた日の記憶がどこにもないこと。祈り以外の言葉を教えられなかったこと。善悪の基準すら、全て神の名で塗りつぶされてきたこと。法学者達が、無条件の愛を与えるふりをしながら、その実、僕の身体を素材としか見ていなかったこと。
 すべての点が、一気につながった。
 胸の奥で、何かが、グシャッと潰れる音がした。
 吐き気が込み上げる。けれど、胃の中は空っぽだった。喉だけが焼けるように痛む。
「……いい趣味してるぜ!」
 隣でザイードが低く笑った。怒りを押し殺したような、地を這う声だった。
 彼の周囲の空気が、一瞬で熱を帯びる。握りしめた拳から炎が噴き出した。蒼炎が渦を巻き、やがてひとつの奔流になってそれへと殺到する。
 炎が肉塊を呑み込む、はずだった。
 蒼炎が、弾かれた。
 正確には、炎が消えた。触れた瞬間、何かに吸い込まれるようにして、熱の気配だけが霧散する。焼ける匂いはない。代わりに、血の匂いだけが濃くなった。
 それの身体が、ぴくりと震えた。
 むき出しの心臓が、一斉に強く収縮する。全身の血管が膨れ上がり、赤い液体が内側で暴れ狂う。その中心から、ゆっくりとひとつの影が起き上がった。
 銀の髪が揺れる。血に塗れながらも、形だけは整えられたその顔が、僕たちの方へ向けられた。瞳は、空洞だった。虹彩も、光もない。底の見えない井戸を覗き込んだような、冷たい闇だけがそこにある。
 その闇が、僕を映し、ゆっくりと口を開いた。
 粘つくような音と共に、血の匂いが濃くなる。声帯がどこにあるのか分からないはずのその身体から、低く、濁った声が絞り出された。
「異端者は、殲滅する」
 その言葉に、何の感情もなかった。怒りも、憎しみも、慈悲もない。ただ、そう決められているからそうするとでも言いたげな、機械的な声音だった。
 その瞬間、空気が変わった。
 それの全身から、真っ赤な光があふれ出す。血管の一本一本が光の線になり、絡み合いながら礼拝堂の壁へと伸びていく。光が石を這い、天井を走り、割れたステンドグラスの縁をなぞっていくたびに、低い振動が足もとから伝わった。
 壁が、震えている。
 石と石の隙間から、血のような光が漏れ出す。まるで、礼拝堂そのものが巨大な心臓になったかのように、脈動が続く。
 伸びてきた一本の光が、ザイードの胸を貫いた。
「……っ!」
 空気が焼けた。音にならない熱が、視界を歪ませる。ザイードの身体が後ろへ弾き飛ばされ、石床を滑っていく。彼の皮膚の下で、炎と血の光がぶつかり合い、ひび割れた硝子のようにひどく不安定な色を放っていた。
 焦げた匂いが、鼻を刺す。
「ザイード!」
 名前を呼んだ声は、自分でも驚くほど掠れていた。
 それの胸の中で、無数の心臓が高鳴る。瞳孔のない目が、ゆっくりとこちらへ向けられた。その視線は、僕ではなく、僕の内側だけを見ているようだった。
 その闇に覗き込まれた瞬間、背骨の奥が冷たくなる。
 僕が造られた意味と、いま目の前にある「完成品」が、静かに重なっていた。

 ザイードがうめき声を上げ、立ち上がった瞬間、空気の温度が変わった。
 蒼い炎が、彼の背から噴き上がる。
 それは夜空のように深く、触れれば凍えるような青さすら孕んだ炎だった。焚火とは違う。怒りや焦りではなく、もっと根の底にある生きようとする意思そのものが燃えている。そんな色だった。
 言葉はいらなかった。ザイードはただ地を蹴り、炎を纏った影のように、血まみれのそれへと突撃した。
 蒼炎が柱を裂き、赤い光が迎え撃つ。
 衝突の瞬間、世界が白に塗りつぶされた。
 光と炎の音が耳を潰し、天井が震え、床が割れた。石が跳ね、溶けたステンドグラスの破片が降り注ぐ。それは鮮やかな七色のはずなのに、光の強さのせいか、すべて灰色に見えた。
 僕はその背を追うようにして歩を進め、手を伸ばした。指先が震え、魔力が血のようにざわつく。
「凍れ」
 呟くようにして、氷の術を放つ。
 空気中の水分が急速に奪われ、白い霧となり、瞬間、鋭い氷柱が幾つも生まれた。それらが奴の周囲へ一斉に突き刺さる。血と臓器のあいだに氷が食い込み、その身体を貫き、裂き、砕く。
 砕けた。
 確かに砕けたはずだった。
 しかし、その肉塊は、凍り、割れ、地に散った次の瞬間には、まるで時間を逆巻くように、繋がり、結び直され、元の形へと戻っていく。
 心臓がひとつひとつ息を吹き返し、臓器が動いて元の位置へ収まる。血管は蛇のように這いまわり、組み上がった。
 再生した。
 何度でも。
「……嘘」
 ザイードの衣の端が焦げ、蒼炎が巻き上がる。彼は再び突っ込んだ。声一つ上げずに、ただひたすら打ち据え、焼き尽くそうとする。
 しかし、そのたびに、光の波が迎え撃つ。血の光が、まるで生き物のようにザイードへ伸びる。皮膚が裂け、音もなく炎が散る。
 彼が膝をついた。
 焼け焦げた身体が、床に叩きつけられるように沈む。口の端から、くすぶるような煙が漏れた。蒼炎が歪み、揺らぎ、赤へと近づいてゆく。
 炎の色が変わる。
 蒼い炎は、ザイードそのものの強さだった。生きようとする意志の光だった。それがいま、赤い焦げ色に染まり始めている。力が抜けていくたび、炎は濁った火花のように揺れる。
「ザイード!」
 呼んでも振り向かない。振り向けない。
 奴の中心部から、臓器の蠢く音が響いた。再生を繰り返すたび、身体が膨れ、光が増し、赤い鼓動が聖堂の壁を震わせる。凍らせても、焼いても、裂いても、消えない。
 ザイードの皮膚が裂ける。淡い光の下で見えた血管が、赤黒い光を放ち始めた。炎と光の境目が滲んで、何が彼自身のものなのか分からなくなる。
 膨れあがった赤い光が聖堂の天井を照らし、ステンドグラスの破片に血の影を落とす。
 そのとき、ザイードの炎が暴れ始めた。
 弱り、赤くなっていた炎は、再び息を吹き返したように蒼く燃え始める。石を割り、柱を焦がし、空気を焼きつくす。
 制御が利いていない。彼の意志とは別に、炎そのものが苦しんでいるような揺らぎだった。
「やめて――!」
 僕の声が、熱に溶けた。
 ザイードの背がゆっくりと揺れ、彼の呼吸が荒く震える。
 このままでは、彼が、燃え尽きてしまう。
 ザイードの背からあふれ出したその蒼は、いつものように澄んではいなかった。濁り、揺らぎ、ひび割れてはまた燃え上がり、苦しげに形を変えていた。炎そのものが悲鳴をあげている。そんな錯覚を覚えた。
 奴は光を吐き、赤い鼓動を四方へ吹き荒らしていた。臓器のひとつひとつが脈動するたび、周囲の壁が震え、石が砕け落ちる。ザイードの蒼炎はそれを押し返してはいるが、押し返しているだけで、もういつ爆ぜてもおかしくない。
 ザイードは炎をまとったまま、それを抱えるように押し込み、蒼炎で包み込もうとしていた。
 その炎はすでに、敵を焼くものではなく、自分自身をも焼き尽くすものに変わりつつあった。
 焦げた匂い、血の金属臭、溶けたガラスの甘い煙。すべてが混ざりあい、呼吸するたび肺が熱で裂けそうになる。それでも僕は、足を前へ出した。
 一歩。
 床が熱で軋み、靴底が焦げる。
 もう一歩。
 視界が赤く滲む。熱気で目を開けていられない。けれど、彼の背が揺れている。その肩が、炎の中で震えている。
 僕が行かなければ。
 僕が止めなければ。
「――来るな!」
 ザイードが振り返らずに叫んだ声は、炎に焼かれ、かすれていた。怒りではない。必死だった。
「僕が冷やすから……」
 声が震えていた。熱で喉が焼け、言葉が形にならない。それでも絞り出した。
「ばか、死ぬぞ!」
「構わない!」
 その瞬間、自分でも驚くほど迷いが消えていた。この手が焼けようが、声がなくなろうが、そんなことはどうでもよかった。
 ザイードが燃えてしまうほうが、よほど怖かった。
 僕は彼の背へ手を伸ばし、その炎に自分の魔力を重ねた。
 氷の術式が形を取り、手のひらから白い霧があふれ、蒼炎へ触れた。
 瞬間、爆ぜた。
 蒸気が白い閃光となって弾け、皮膚が焼ける匂いが鼻を刺した。手の甲に鋭い痛みが走り、氷が溶けて水となり、熱で泡立つ。
 それでも、手を離さなかった。
「もう……大丈夫……」
 自分で言っていて、声が震えているのがわかった。痛みで手が痙攣している。指先が焼けて、神経がむき出しになったように痛む。それでも、彼の炎は、ほんの少しだけ落ち着いた。
 ほんの、少し。
 瞬間、ザイードが歯を食いしばり、口から灰のような煙が出ると同時に、焼け焦げた手で僕の肩を強く掴んだ。
「……ばか」
 低く、かすれた声。怒っているのではない。泣きそうだった。
 次の瞬間、彼の腕がしなる。
 視界が揺れた。
 身体が宙に浮いた。
 思考よりも早く、僕は空中を滑り、崩れた床に叩きつけられた。氷を張ろうとする間もなく、身体ごと滑り落ちてゆく。
 熱が遠ざかる。
 炎の轟音も、彼の声も、すべてが遠くなっていく。
 僕は必死に腕を伸ばした。
 けれど、もう届かない。
「なん――」
 叫ぶより早く、崩れた床の縁が切れ、僕の身体は外へとはじき出された。
 ガラスの破片とともに滑り落ち、冷えた通路の床に転がる。肺に重い衝撃が走り、息が一瞬止まった。
 立ち上がろうとした瞬間、礼拝堂の奥から眩い閃光が爆ぜた。
 彼の炎が、最後の力を振り絞るように、柱を呑み、天井を焦がし、それを押し潰していく。
 僕は這いずるようにして戻ろうとした。
 けれど、礼拝堂の中央、蒼炎の真ん中で、ザイードは、それを抱きしめるようにして立ち上がっていた。
 燃える蒼の中、その背中は大きく、そしてどこか寂しかった。
 彼は片腕を上げ、それの胸奥へと手を突き刺す。
 蒼炎が脈動した。
「……死ね」
 その声は怒りでも憎しみでもなかった。
 次の瞬間、蒼炎が爆ぜ、礼拝堂の中央が白に塗り潰された。
 蒼い火柱が天井を突き破り、硝子の破片が蒼光の中で溶け落ちていく。
 赤い臓器が、光ごと崩れ落ち、黒く焼け焦げ、塵となった。
 そして、蒼炎の中心で、ザイードの身体もまた、静かに崩れ始めた。
 彼の輪郭がひび割れ、炎とともに灰へと変わっていく。
 灰が、蒼い光の中を舞っていた。

 蒼炎の残光が、まだ空気の奥に震えていた。
 礼拝堂は、すでに建物としての形を保っていなかった。天井は崩れ、柱は折れ、溶けた硝子が空気に触れて、ゆっくりと固まりながら光を反射している。
 蒼い火がすべてを焼いたあとに残るのは、沈黙。それだけだった。
 熱はもうほとんど失われているはずなのに、空気には焦げた匂いがわずかに漂っていた。その残り香が、胸の奥をじわりと締めつける。
 僕は、崩れかけの床に手をつき、身体を引きずるようにして奥へ戻っていった。熱で焼けた皮膚が服に貼りつき、動くたびに痛みが走る。けれど、それでも、前に進んだ。
 彼が、ザイードが、そこにいるはずだから。
 溶けた床の上には、まだ蒼炎の名残が揺らめいていた。煙ではなく、ただ光だけが残ったような儚い揺らぎ。その中心に、淡い灰が静かに積もっている。
 僕は膝をついた。指先に、床の冷たさが刺さる。
 焼けただれた手を伸ばす。指が震えているのは痛みのせいだけじゃなかった。
 炎に呑まれたはずのその場所に、ほんのわずかに、熱が残っていた。
 掌でそっとすくうように、灰を包む。静かに息を吸い、そのぬくもりを確かめた。
 それは、蒼炎の熱ではなかった。戦いの残滓でもなかった。
 人の温度。
 ザイードが最後まで抱いていた決意。仲間を守りたいという、ただそれだけの願いの熱が、まだ消えずに残っていた。
 痛みで、手が震える。熱が指に染み込み、骨の奥まで届いてくるようだった。それでも、離したくなかった。
 指をぎゅっと閉じる。細かい灰が掌の中で震え、ふっと風に揺れた。
「……あたたかい」
 声はかすれ、どこかで途切れた。
 涙が出るはずなのに、熱で乾いてしまったのか、瞳がじんと痛むだけだった。
 そのとき、風が吹いた。
 崩れた天井の隙間から、朝の光が差し込み、灰を白く照らした。淡い風が舞い上げた灰が、僕の頬にひらりと触れた。
 ひとつ、またひとつ。
 まるで、涙の代わりに落ちてくるかのように。
 灰が頬を滑り、唇に触れ、胸元へと落ちていく。砂漠の朝の風は冷たかったのに、その灰だけが、不思議なほど、あたたかかった。
 祈りの声ももうない。神の名も、光の讃歌も、ここにはひとつも残っていなかった。
 ただ、ひとりの人間が残した熱だけが、僕の掌の中に息づいていた。
 そのぬくもりを抱いたまま、僕は静かに目を閉じた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

行き場を失った恋の終わらせ方

当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」  自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。  避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。    しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……  恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。 ※他のサイトにも重複投稿しています。

失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた

しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。 すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。 早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。 この案に王太子の返事は?   王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた

下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。 ご都合主義のハッピーエンドのSSです。 でも周りは全くハッピーじゃないです。 小説家になろう様でも投稿しています。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】

皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」 「っ――――!!」 「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」 クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。 ****** ・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。

処理中です...