Al-Harara fi Ramad

ナタ=デ=ココ

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君のぬくもり

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 聖都が、見えていた。
 砂漠の向こう、陽に焼けた岩山の縁から、白い尖塔がいくつも突き出ている。かつて、僕が毎朝顔を上げて見上げていた光景。その上に、いつものように、柔らかな光が降りていた。天頂の透明な天窓から、一本の光柱が大聖堂の天蓋に落ち、聖都全体を包むように淡く広がっている。
 昔なら、その光を見て、膝を折り、頭を垂れ、祈りの言葉が口をついて出ていたはずだった。
 けれど今、胸の奥は静かだった。ただ遠くに見えるその光が、薄い硝子越しの幻のように思えた。
 砂の上を進む足音が、低く重なっていく。
 背後では、アミールが大剣を肩に担ぎ、短く号令を飛ばしていた。革と鉄が触れ合う音、弦を締める音、調合された薬草の匂い。どれも、彼らと何度も感じてきたもののはずなのに、今はひとつひとつがやけに鋭く刺さる。
 隣を歩くザイードの肩越しに、聖都の白壁が見える。彼の皮膚は、相変わらず黒く焦げており、近づくほど熱を感じる。炎は抑え込まれているはずなのに、その気配は決して消えない。彼が低く息を吐くたび、熱と砂と鉄の匂いが混じり合った。
「……戻ってきた」
 口に出したのか、心の中で言ったのか、自分でもよく分からなかった。ただ、胸の奥にひっかかるような痛みだけが、確かな感覚として残る。
 聖都の門は、高く、冷たくそびえていた。白い石に刻まれた文言。かつて幾度となく指でなぞった神の言葉が、今はひび割れ、砂嵐に削られている。門の上から、神権政府の兵がこちらを見下ろしていた。槍の穂先が夕陽をはね返し、眩しい光を散らす。
「準備はいいか」
 ザイードが、わずかに笑いながら問いかけた。その横顔は、炎の男ではなく、ただ隣を歩くひとりの人間のものに見えた。
 僕は、静かに頷く。掌に意識を集中すると、骨の奥から冷たさが立ち上がってくる。
 あの日、信仰を捨て、彼を選んだ冷気。神に捧げるためではなく、生きるために使うと決めた氷。
 足もとの砂が、きしむ音とともに凍り始める。透明な結晶が広がり、門の前に楔のような氷の道を形作っていく。その脇で、ザイードの肩口から赤い火がふっと跳ねた。
 炎と氷が並んで、聖都の門へと向かう。
 次の瞬間、轟音が世界を満たした。ザイードの炎が門の金具を焼き、僕の氷が石の継ぎ目をこじ開ける。熱で膨張した石がきしみ、ひび割れ、やがて粉々に砕け散る。白い壁が崩れ、僕たちはその裂け目から聖都の中へと踏み込んだ。
 聖都の空気は、昔のままだった。香の匂い、油の匂い、祈りの声。けれど、そのすべての上に、今は血と煙の匂いが重なっている。
 鐘楼の鐘が鳴り響き、人々の悲鳴が飛び交う。兵たちが走り、法学者達が慌てふためきながら礼拝堂へと駆け込んでいく。
 その中に、かつて見知った衣の色をいくつも見つけた。白と金。清らかさの象徴だったはずのその色が、今はやけに薄汚れて見える。
 礼拝堂の扉は、半ば開いていた。中から、祈りの声が溢れ出している。「光よ」「慈悲よ」「守りたまえ」という言葉が重なり合い、かつて僕を酩酊させたあの響きと同じ形をしている。それでも、僕の足は止まらなかった。
 堂内に踏み込んだ瞬間、光が弾けた。
 高い天井から、ステンドグラス越しの光が降り注いでいる。赤、青、緑、金。七色の光が床の上に落ち、人々の肩や額に模様を描いていた。その光に縋りつくように、法学者達がひざまずいている。
「神よ、我らをお守りください」
「この地を、あなたの御手で――」
 祈りの言葉が飛び交う。誰も剣を握ろうとしない。彼らはただ、祈ることで世界を動かせると信じている。かつての僕と同じように。
 ザイードの炎が、走った。
 その炎は人ではなく、まず天井を目指した。ステンドグラスを支える枠に爆ぜるようにぶつかり、熱が一瞬で広がる。色硝子が耐えきれず、パリッと乾いた音を立てて割れた。
 七色の破片が、雨のように降り注ぐ。光を透かしたまま、鋭利な硝子片が祈る人々の肩や背をかすめ、床に突き刺さる。血がにじみ、それでも彼らの口からは祈りの言葉がこぼれ続けていた。
 ひとりの老いた法学者がいた。見覚えのある衣の縁、細い首筋、皺だらけの手。彼は炎に包まれながらも、空に向かって両手を掲げていた。
「神よ……」
 燃え上がる衣の中から、掠れた声が漏れる。髭が焦げ、皮膚が赤黒くただれていく。その目は、最後まで天井の向こうの何かを見つめていた。
 ザイードの足が、一瞬だけ止まった。
「……死してなお信仰を続けるか」
 小さく呟かれたその声には、嘲りはなかった。ただ、どこか遠いものを見るような、淡い哀しみが滲んでいた。
 祈りの声は、次第に悲鳴と混ざり合い、境界が消えていく。誰かが倒れ、誰かが誰かを抱き起こし、それでも「神よ」と呼ぶ声だけは止まらない。
 そのたびに、胸の奥が微かに痛んだ。かつて自分もそこにいたはずなのに、もう戻る場所ではないと知っている痛み。
 炎が天井を舐める。梁が軋み、焼け焦げた匂いが鼻を刺す。ステンドグラスは次々に割れ落ち、七色の破片が血の上に散らばっていった。光と血が混ざり、その境目が見えなくなる。
 アミールたちは、周囲を固めていた。戦える者は短剣や槍を持ち、逃げようとする兵たちを押しとどめる。
 ジャスミンは少し離れた礼拝堂の外で負傷者を引き受け、血で濡れた手を素早く動かしていた。
 誰も祈らない。ただ、自分の手と仲間の息だけを信じていた。
「行くぞ」
 ザイードが言い、僕たちは大聖堂のさらに奥へと向かった。
 そこには、黒い扉があった。
 白い石でできたこの聖都の中で、そこだけが異質だった。漆黒の石が重なり合い、触れる者を拒むように立ちはだかっている。
 その表面には、古い言語で何かが刻まれていた。かつてはその文言を神の言葉だと信じていたが、今はただ、封印の呪文にしか見えない。
 扉の前には、数人の法学者達が立ちふさがっていた。彼らは震える肩で扉を背に支えながら、本を抱きしめ、必死に文言を唱えている。
「ここは神の御座だ。穢れた足を踏み入れることは許されない!」
「ここには神があらせられる! これ以上近づくな!」
 槍も剣も持たないその姿は、滑稽でもあり、どこか痛ましくもあった。彼らは、自分たちの声だけで世界を守れると信じている。扉の向こうにいるはずの存在を、一度も見たことがないまま。
 アルミナの戦士たちが前に出る。
 アミールが片腕で大剣を構え、その刃で法学者たちの間を割って進んだ。
 殺すためではなく、道を開けるための動き。だが、混乱の中で何人かは足を滑らせ、炎の中へ倒れ込んでいく。祈りの声が途切れ、悲鳴がその空白を埋めた。
 ザイードが黒い扉の前に立つ。
 掌に炎を集め、その熱を一点に押し込む。黒石がじわりと赤く染まり、やがてひびが走る。封印に刻まれた文言が、ひとつひとつ焼き裂かれていくたびに、胸の奥で何かが崩れていくような感覚があった。
 僕は、ただ見ているしかなかった。神の御座と教えられてきたその扉が、炎に焼かれて崩れていく。その光景を、恐ろしいとは思わなかった。むしろ、ようやく現実と向き合えるような、奇妙な安堵感すらあった。
 最後の一文字が焼き切れた瞬間、鈍い音を立てて扉が内側へ倒れた。重い空気が、溢れ出す。
 中は、暗かった。
 黒い石で囲まれた小さな空間。飾りも、像も、祭壇もない。何もないのに、妙な圧迫感だけがある。空気が振動しているように感じられた。
 耳を澄ませると、どこか遠くで、鼓動のような音が微かに響いている。
「……」
 言葉が見つからなかった。
 これが、神の御座。
 世界の中心。祈りが向けられてきた場所。僕が生まれてからずっと、神の光が満ちているのだと信じてきた空間。その実体が、今、こうして目の前にある。
 何も、なかった。
 ただ、空虚な暗闇と、意味のない振動だけ。そこには、手を伸ばして触れられる「何か」すら存在しない。
「神は――いなかった」
 自分の口から漏れた声が、やけに静かに響いた。誰に聞かせるでもない、その一言が、僕自身への宣告のように思えた。
 ザイードが、肩をすくめる気配がした。
「お前は、こいつらは、空虚に祈りを捧げてたってわけだ」
 その言葉に、胸の奥がひりついた。怒りでも、嘲りでもない。ただ、どうしようもない虚しさが広がっていく。
 僕自身もそのひとりだったのだ。空っぽの闇に向かって、救いを求めて叫び続けてきた。それでも届かないのを、神の沈黙だと信じていた。
 でも、それは沈黙でさえなかった。ただ、何もなかったのだ。
 その時、外から、叫び声が響いた。
「我らが神はここにあり!」
 法学者達の声だ。
 炎と煙の中、彼らの声だけが妙にくっきりと聞こえる。続いて、布が擦れる音、重い何かを引きずる音が響いた。
 振り返ると、黒い神殿の入口に、数人の法学者達が現れていた。彼らは焼け焦げた衣を引きずりながら、何かを抱えるようにして運んでいる。
 白い布で覆われた人影――神と呼ばれたそれが、ずるずると床を引きずられながら近づいてくる。
 布の下で、何かが脈打っていた。
 胸のあたりが、不自然に膨らみ、収縮を繰り返す。血管のようなものが、布越しにも分かるほど浮き上がり、蛇のように蠢いている。鼓動の音が、先程まで空虚だったこの神殿の空気を、ねっとりと満たしていく。
 何もなかったはずの神の御座に、今、何かが連れてこられようとしていた。
 僕は、息を呑んだ。胸の奥で、冷たさと熱が同時に沸き立つ。
 それが何であるのかを、まだ言葉にはできなかった。ただ、直感だけが告げていた。
 これは、祈りの終わりであり、祈りの成れの果てであると。

 法学者達の声が、焼け焦げた礼拝堂にこだました。
「神の再誕である!」
 ひとりが叫ぶと、他の者たちも続いた。掠れた喉から絞り出されるその言葉は、祈りというより、すがりつくための呪文のようだった。彼らは震える手で、白い布に覆われた「それ」を、黒い神殿の中央までずるずると引きずってくる。
 近づくにつれて、鼓動の音がはっきりしていった。
 最初は遠い地鳴りのようだったそれが、次第に、はっきりとした心臓の音へと変わっていく。ひとつではない。ふたつ、みっつ、それ以上。いくつもの塊が、バラバラに拍動しながら、それでもひとつのリズムを形づくっている。
 法学者のひとりが、布に縫いとめられた紐を震える指で引きちぎった。
 白い布が、するりと剥がれ落ちる。
 中から現れたものを見た瞬間、肺に入っていたはずの空気が、全部どこかへ消えた。
 それは、人間の形をしていなかった。
 いや、「かつて人間だったもの」と呼ぶべきなのかもしれない。胸の中心に収まるべき心臓は、数を間違えたかのようにいくつも重なり合い、赤黒い肉塊として露出している。脇腹、喉元、背中、太腿。本来なら内側に隠されているはずの臓器が、皮膚という境界を失い、むき出しのまま脈動していた。血管が浮き上がり、蛇の群れのように全身を走り回る。透明なゼラチンのような膜がところどころに張りつき、それが呼吸のたびにぬるりと揺れる。
 それでも、顔だけは――。
 目を疑った。
 銀色の髪が、肩のあたりまで滑り落ちている。光を含んだような淡いその色は、鏡の中で何度も見てきた色だった。頬の線、額の形、睫毛の長さ。血の筋が伝うその顔は、歪んでいるのに、あまりにも見覚えがあった。
「……僕」
 声が漏れた。喉の奥から引き剝がされるように出たその一言が、自分のものとは思えなかった。
 あの顔は、僕だ。
 理解した瞬間、視界がぐらりと揺れた。足もとが消えたような感覚に襲われる。
 物心ついたときには、もう聖都にいた。白い石の壁と、高い天井と、香の匂いと、法学者達の声。父も、母も、見たことがない。訊いても「神が、お前をここへ導いた」としか言われなかった。
 思い出す。
 いつも僕を撫でていた手。祈りの言葉の間に、さりげなく混じる「愛しているよ」という囁き。夜のあと、汗ばんだ額に落とされた口づけ。あのぬるい温度を、僕は「愛」だと信じていた。
『お前は、選ばれた人間なのだよ』
『最も、神に近しい存在なのだ』
 いつだったか、そんな言葉を聞いた気がする。褒められているのだと思っていた。神に近い存在なのだと、胸を熱くしていた。
 今、目の前にある。
 無数の臓器と心臓で組み上げられた、肉の偶像。その顔だけが、僕と同じ姿をしている。血管の一本一本まで、祈りで編まれた神の形。その「完成形」がこれなのだと、一瞬で分かってしまった。
 僕は、最初から、このために造られたのだ。
 親を知らないこと。生まれた日の記憶がどこにもないこと。祈り以外の言葉を教えられなかったこと。善悪の基準すら、全て神の名で塗りつぶされてきたこと。法学者達が、無条件の愛を与えるふりをしながら、その実、僕の身体を素材としか見ていなかったこと。
 すべての点が、一気につながった。
 胸の奥で、何かが、グシャッと潰れる音がした。
 吐き気が込み上げる。けれど、胃の中は空っぽだった。喉だけが焼けるように痛む。
「……いい趣味してるぜ!」
 隣でザイードが低く笑った。怒りを押し殺したような、地を這う声だった。
 彼の周囲の空気が、一瞬で熱を帯びる。握りしめた拳から炎が噴き出した。蒼炎が渦を巻き、やがてひとつの奔流になってそれへと殺到する。
 炎が肉塊を呑み込む、はずだった。
 蒼炎が、弾かれた。
 正確には、炎が消えた。触れた瞬間、何かに吸い込まれるようにして、熱の気配だけが霧散する。焼ける匂いはない。代わりに、血の匂いだけが濃くなった。
 それの身体が、ぴくりと震えた。
 むき出しの心臓が、一斉に強く収縮する。全身の血管が膨れ上がり、赤い液体が内側で暴れ狂う。その中心から、ゆっくりとひとつの影が起き上がった。
 銀の髪が揺れる。血に塗れながらも、形だけは整えられたその顔が、僕たちの方へ向けられた。瞳は、空洞だった。虹彩も、光もない。底の見えない井戸を覗き込んだような、冷たい闇だけがそこにある。
 その闇が、僕を映し、ゆっくりと口を開いた。
 粘つくような音と共に、血の匂いが濃くなる。声帯がどこにあるのか分からないはずのその身体から、低く、濁った声が絞り出された。
「異端者は、殲滅する」
 その言葉に、何の感情もなかった。怒りも、憎しみも、慈悲もない。ただ、そう決められているからそうするとでも言いたげな、機械的な声音だった。
 その瞬間、空気が変わった。
 それの全身から、真っ赤な光があふれ出す。血管の一本一本が光の線になり、絡み合いながら礼拝堂の壁へと伸びていく。光が石を這い、天井を走り、割れたステンドグラスの縁をなぞっていくたびに、低い振動が足もとから伝わった。
 壁が、震えている。
 石と石の隙間から、血のような光が漏れ出す。まるで、礼拝堂そのものが巨大な心臓になったかのように、脈動が続く。
 伸びてきた一本の光が、ザイードの胸を貫いた。
「……っ!」
 空気が焼けた。音にならない熱が、視界を歪ませる。ザイードの身体が後ろへ弾き飛ばされ、石床を滑っていく。彼の皮膚の下で、炎と血の光がぶつかり合い、ひび割れた硝子のようにひどく不安定な色を放っていた。
 焦げた匂いが、鼻を刺す。
「ザイード!」
 名前を呼んだ声は、自分でも驚くほど掠れていた。
 それの胸の中で、無数の心臓が高鳴る。瞳孔のない目が、ゆっくりとこちらへ向けられた。その視線は、僕ではなく、僕の内側だけを見ているようだった。
 その闇に覗き込まれた瞬間、背骨の奥が冷たくなる。
 僕が造られた意味と、いま目の前にある「完成品」が、静かに重なっていた。

 ザイードがうめき声を上げ、立ち上がった瞬間、空気の温度が変わった。
 蒼い炎が、彼の背から噴き上がる。
 それは夜空のように深く、触れれば凍えるような青さすら孕んだ炎だった。焚火とは違う。怒りや焦りではなく、もっと根の底にある生きようとする意思そのものが燃えている。そんな色だった。
 言葉はいらなかった。ザイードはただ地を蹴り、炎を纏った影のように、血まみれのそれへと突撃した。
 蒼炎が柱を裂き、赤い光が迎え撃つ。
 衝突の瞬間、世界が白に塗りつぶされた。
 光と炎の音が耳を潰し、天井が震え、床が割れた。石が跳ね、溶けたステンドグラスの破片が降り注ぐ。それは鮮やかな七色のはずなのに、光の強さのせいか、すべて灰色に見えた。
 僕はその背を追うようにして歩を進め、手を伸ばした。指先が震え、魔力が血のようにざわつく。
「凍れ」
 呟くようにして、氷の術を放つ。
 空気中の水分が急速に奪われ、白い霧となり、瞬間、鋭い氷柱が幾つも生まれた。それらが奴の周囲へ一斉に突き刺さる。血と臓器のあいだに氷が食い込み、その身体を貫き、裂き、砕く。
 砕けた。
 確かに砕けたはずだった。
 しかし、その肉塊は、凍り、割れ、地に散った次の瞬間には、まるで時間を逆巻くように、繋がり、結び直され、元の形へと戻っていく。
 心臓がひとつひとつ息を吹き返し、臓器が動いて元の位置へ収まる。血管は蛇のように這いまわり、組み上がった。
 再生した。
 何度でも。
「……嘘」
 ザイードの衣の端が焦げ、蒼炎が巻き上がる。彼は再び突っ込んだ。声一つ上げずに、ただひたすら打ち据え、焼き尽くそうとする。
 しかし、そのたびに、光の波が迎え撃つ。血の光が、まるで生き物のようにザイードへ伸びる。皮膚が裂け、音もなく炎が散る。
 彼が膝をついた。
 焼け焦げた身体が、床に叩きつけられるように沈む。口の端から、くすぶるような煙が漏れた。蒼炎が歪み、揺らぎ、赤へと近づいてゆく。
 炎の色が変わる。
 蒼い炎は、ザイードそのものの強さだった。生きようとする意志の光だった。それがいま、赤い焦げ色に染まり始めている。力が抜けていくたび、炎は濁った火花のように揺れる。
「ザイード!」
 呼んでも振り向かない。振り向けない。
 奴の中心部から、臓器の蠢く音が響いた。再生を繰り返すたび、身体が膨れ、光が増し、赤い鼓動が聖堂の壁を震わせる。凍らせても、焼いても、裂いても、消えない。
 ザイードの皮膚が裂ける。淡い光の下で見えた血管が、赤黒い光を放ち始めた。炎と光の境目が滲んで、何が彼自身のものなのか分からなくなる。
 膨れあがった赤い光が聖堂の天井を照らし、ステンドグラスの破片に血の影を落とす。
 そのとき、ザイードの炎が暴れ始めた。
 弱り、赤くなっていた炎は、再び息を吹き返したように蒼く燃え始める。石を割り、柱を焦がし、空気を焼きつくす。
 制御が利いていない。彼の意志とは別に、炎そのものが苦しんでいるような揺らぎだった。
「やめて――!」
 僕の声が、熱に溶けた。
 ザイードの背がゆっくりと揺れ、彼の呼吸が荒く震える。
 このままでは、彼が、燃え尽きてしまう。
 ザイードの背からあふれ出したその蒼は、いつものように澄んではいなかった。濁り、揺らぎ、ひび割れてはまた燃え上がり、苦しげに形を変えていた。炎そのものが悲鳴をあげている。そんな錯覚を覚えた。
 奴は光を吐き、赤い鼓動を四方へ吹き荒らしていた。臓器のひとつひとつが脈動するたび、周囲の壁が震え、石が砕け落ちる。ザイードの蒼炎はそれを押し返してはいるが、押し返しているだけで、もういつ爆ぜてもおかしくない。
 ザイードは炎をまとったまま、それを抱えるように押し込み、蒼炎で包み込もうとしていた。
 その炎はすでに、敵を焼くものではなく、自分自身をも焼き尽くすものに変わりつつあった。
 焦げた匂い、血の金属臭、溶けたガラスの甘い煙。すべてが混ざりあい、呼吸するたび肺が熱で裂けそうになる。それでも僕は、足を前へ出した。
 一歩。
 床が熱で軋み、靴底が焦げる。
 もう一歩。
 視界が赤く滲む。熱気で目を開けていられない。けれど、彼の背が揺れている。その肩が、炎の中で震えている。
 僕が行かなければ。
 僕が止めなければ。
「――来るな!」
 ザイードが振り返らずに叫んだ声は、炎に焼かれ、かすれていた。怒りではない。必死だった。
「僕が冷やすから……」
 声が震えていた。熱で喉が焼け、言葉が形にならない。それでも絞り出した。
「ばか、死ぬぞ!」
「構わない!」
 その瞬間、自分でも驚くほど迷いが消えていた。この手が焼けようが、声がなくなろうが、そんなことはどうでもよかった。
 ザイードが燃えてしまうほうが、よほど怖かった。
 僕は彼の背へ手を伸ばし、その炎に自分の魔力を重ねた。
 氷の術式が形を取り、手のひらから白い霧があふれ、蒼炎へ触れた。
 瞬間、爆ぜた。
 蒸気が白い閃光となって弾け、皮膚が焼ける匂いが鼻を刺した。手の甲に鋭い痛みが走り、氷が溶けて水となり、熱で泡立つ。
 それでも、手を離さなかった。
「もう……大丈夫……」
 自分で言っていて、声が震えているのがわかった。痛みで手が痙攣している。指先が焼けて、神経がむき出しになったように痛む。それでも、彼の炎は、ほんの少しだけ落ち着いた。
 ほんの、少し。
 瞬間、ザイードが歯を食いしばり、口から灰のような煙が出ると同時に、焼け焦げた手で僕の肩を強く掴んだ。
「……ばか」
 低く、かすれた声。怒っているのではない。泣きそうだった。
 次の瞬間、彼の腕がしなる。
 視界が揺れた。
 身体が宙に浮いた。
 思考よりも早く、僕は空中を滑り、崩れた床に叩きつけられた。氷を張ろうとする間もなく、身体ごと滑り落ちてゆく。
 熱が遠ざかる。
 炎の轟音も、彼の声も、すべてが遠くなっていく。
 僕は必死に腕を伸ばした。
 けれど、もう届かない。
「なん――」
 叫ぶより早く、崩れた床の縁が切れ、僕の身体は外へとはじき出された。
 ガラスの破片とともに滑り落ち、冷えた通路の床に転がる。肺に重い衝撃が走り、息が一瞬止まった。
 立ち上がろうとした瞬間、礼拝堂の奥から眩い閃光が爆ぜた。
 彼の炎が、最後の力を振り絞るように、柱を呑み、天井を焦がし、それを押し潰していく。
 僕は這いずるようにして戻ろうとした。
 けれど、礼拝堂の中央、蒼炎の真ん中で、ザイードは、それを抱きしめるようにして立ち上がっていた。
 燃える蒼の中、その背中は大きく、そしてどこか寂しかった。
 彼は片腕を上げ、それの胸奥へと手を突き刺す。
 蒼炎が脈動した。
「……死ね」
 その声は怒りでも憎しみでもなかった。
 次の瞬間、蒼炎が爆ぜ、礼拝堂の中央が白に塗り潰された。
 蒼い火柱が天井を突き破り、硝子の破片が蒼光の中で溶け落ちていく。
 赤い臓器が、光ごと崩れ落ち、黒く焼け焦げ、塵となった。
 そして、蒼炎の中心で、ザイードの身体もまた、静かに崩れ始めた。
 彼の輪郭がひび割れ、炎とともに灰へと変わっていく。
 灰が、蒼い光の中を舞っていた。

 蒼炎の残光が、まだ空気の奥に震えていた。
 礼拝堂は、すでに建物としての形を保っていなかった。天井は崩れ、柱は折れ、溶けた硝子が空気に触れて、ゆっくりと固まりながら光を反射している。
 蒼い火がすべてを焼いたあとに残るのは、沈黙。それだけだった。
 熱はもうほとんど失われているはずなのに、空気には焦げた匂いがわずかに漂っていた。その残り香が、胸の奥をじわりと締めつける。
 僕は、崩れかけの床に手をつき、身体を引きずるようにして奥へ戻っていった。熱で焼けた皮膚が服に貼りつき、動くたびに痛みが走る。けれど、それでも、前に進んだ。
 彼が、ザイードが、そこにいるはずだから。
 溶けた床の上には、まだ蒼炎の名残が揺らめいていた。煙ではなく、ただ光だけが残ったような儚い揺らぎ。その中心に、淡い灰が静かに積もっている。
 僕は膝をついた。指先に、床の冷たさが刺さる。
 焼けただれた手を伸ばす。指が震えているのは痛みのせいだけじゃなかった。
 炎に呑まれたはずのその場所に、ほんのわずかに、熱が残っていた。
 掌でそっとすくうように、灰を包む。静かに息を吸い、そのぬくもりを確かめた。
 それは、蒼炎の熱ではなかった。戦いの残滓でもなかった。
 人の温度。
 ザイードが最後まで抱いていた決意。仲間を守りたいという、ただそれだけの願いの熱が、まだ消えずに残っていた。
 痛みで、手が震える。熱が指に染み込み、骨の奥まで届いてくるようだった。それでも、離したくなかった。
 指をぎゅっと閉じる。細かい灰が掌の中で震え、ふっと風に揺れた。
「……あたたかい」
 声はかすれ、どこかで途切れた。
 涙が出るはずなのに、熱で乾いてしまったのか、瞳がじんと痛むだけだった。
 そのとき、風が吹いた。
 崩れた天井の隙間から、朝の光が差し込み、灰を白く照らした。淡い風が舞い上げた灰が、僕の頬にひらりと触れた。
 ひとつ、またひとつ。
 まるで、涙の代わりに落ちてくるかのように。
 灰が頬を滑り、唇に触れ、胸元へと落ちていく。砂漠の朝の風は冷たかったのに、その灰だけが、不思議なほど、あたたかかった。
 祈りの声ももうない。神の名も、光の讃歌も、ここにはひとつも残っていなかった。
 ただ、ひとりの人間が残した熱だけが、僕の掌の中に息づいていた。
 そのぬくもりを抱いたまま、僕は静かに目を閉じた。
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