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第九章──忍(しのび)の想い、秘めし愛の守り手
149話
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「これは……なにゆえ、われが名が……それに、ここになにゆえ父上の御名が……それに夜月とは……?」
実の名を台帳に記され、緋美は戸惑う。
そして、そこに物語《ぶつがたり》の大意と書された内容は、まさに琥太郎と夜月が忍として最期の砕けた密命、夜月死別までの経緯が記されていた。
「いと容易きことよ。単なる芝居ぞ。緋美が演ずるは夜月……妾は琥太郎を演じ申す。緋美の……そなたにとって、こは悲劇か喜劇か……」
そう語ると紅花は役目、琥太郎になりきり、緋美も戸惑いながら夜月になる。
二人の間に上弦の月が昇る。淡い月に照らされた二人。あの時の情景が二人に浮かびあがる。そこには暗闇の中のかすかな灯り、二人の血の匂い、夜風の温もり、すべてが感じられる。ただ、音色は二人の声のみ。遠くで聞こえる敵の声、虫の鳴き声、風の音、草木の揺れる音……すべてな無音と化した。
そして、最期の段取り。夜月の身体に何本もの矢が突き刺さり、夜月の命は風前の灯。芝居は続く。
──さあ、緋美よ……そちは夜月に何を覚ゆる? 忍の掟を背き、裏切り、それでもなお、汝が指先の温もりまでも、すべてを深く愛し抜きし夜月に……──
夜月になりきる緋美だが心が乱れる。それはあの時の夜月の心とのずれ……あの時、死の迎え際、夜月の身体は冷たくなっていくのに……心は逆に導くが如く、照らす天道の如く──。
──夜月という役柄。そしてこの役柄の娘の名は緋美……これは、私は何を演じている? 何を感じねばならぬ? これは……純粋な娘への愛か……私は誰をどう演じれば……? なぜ、父上が描く戯れ芝居に心乱される……?──
「あはは……やはり叶わぬものですな……われは、忍としても……母としても、失格にて候……」
「おかしいですな……確かに心の臓を突き立てたはずが……わずかに逸れたようにて……その刹那、急所に緋美の顔が思い浮かばれて……貫けず……まこと、忍として失格……」
「琥太郎殿……妾は幼き頃より忍として鍛えられ、この道こそが宿命と思い定めて参りました……されど……緋美が産まれ、母としての情を知り申した……緋美と共に穏やかに生きたいと……淡き望みを抱くようになったのです……しかしわれは忍……掟に縛られ、許されぬ……その折、笹虎の使者が影より近づき申した……「間者となれば、領内にて庇い、望みのままに生かしてやろう」と……」
「われは……母として……緋美との安らぎを選び、物の怪にてすべてを失いました……それが……里を裏切り……そなた……琥太郎殿を裏切ると知りながらも……あぁ……緋美がわれのすべてであった……」
「赦してたもれ……われは『罰』を負おう覚悟……されど娘、されど緋美だけは……何卒……何卒情けを……情けをかけてくだされ……あのか弱き指先の温もりに情けを……」
「お、恩にきりまする……琥太郎殿……そしてどうか裏切り者の母とだけは……このことだけは誰にも口を開かずにお願いした……い……お頼みも……う……す……緋美……われの可……愛い……坊や……」
夜月の台詞を口に出せば出すほど、緋美の自信は打ち砕かれていく。母の想いが、心に広がりはじめる。目には涙をしたためながら。ただ、役者であろうとする緋美の意地が言葉を絞りだす。しかし、絞り出せば出すほど夜月の愛が緋美の心を侵食する。
ヒューヒュー……ヒューヒュー……
台帳にある指示に従い呼吸音を出す。喉元に冷たい刃があてがわれている錯覚に陥る。しかし、それは恐怖ではなかった。覚悟を纏った仮初めの母の決意の刃。
──これは……われを護るために、まことの母から受け継ぐ覚悟……ただ、ただ、冷たき刃の温かさのみ感じる……──
緋美は役者として恥ずべき行為で薄目を開け琥太郎の表情をみた。そこには絶望に打ちひしがれながらも、夜月の切なる願いを叶え、夜月の苦しみを解放しようとする表情の顔があった。
「忍の掟とは……なんぞ……」
紅花の詞にすべてが包まれた。
──これこそ……父上さまの御覚悟、まことその御面持ちより読み取り奉る……されば夜月の詞、紡げば紡ぐほどに愛は胸に沁み入る……われは……すべからくまことの母上さまの慈愛に抱かれ、なおも仮初なれども、父上さまに護られし身なりけり──
緋美は紅花の袖をぎゅっと強く掴む。掴む指先はかすかに震える。あの頃のか弱き指先の力が真の母の愛を知り、それが力強くなる。
──嗚呼……母上さまの目はなんと悲哀と慈愛で潤んでおるのだろう……すべてはまことの母上さまから託され、仮初めの、いや仮初めゆえにこそ、まことの愛に変えられた母上さま……──
顔も知らぬ夜月の、母の顔が朧気に紅花と重なる。
「母上さま……われ、母上さまのわれへの想ひを確と受け継ぎ申され、そして今まで、母上さま愛に護られしこと……今こそ、ここに悟り得たり……」
緋美の流す涙で、紅花の顔は幻の如く歪み、見ることができなかった。しかし、いつも側にあった声がいくら迷おうが、緋美の生きる道導となっていた。
──忍の掟は冷たき鎖……されど母の情は、鎖をも溶かす炎なり
──
紅花はいつもと変わらぬ笑みで、そこにいた。
──そうだ、これは、これこそが変わらぬ母の温もりだ……いつも、いつまでも……──
緋美は微笑みに包まれ、微笑みで包み返した。
「緋美よ……その笑みこそ……そなたはまことの演者になられた……ただ、ただ、わがたちの可愛いき愛娘よ……」
実の名を台帳に記され、緋美は戸惑う。
そして、そこに物語《ぶつがたり》の大意と書された内容は、まさに琥太郎と夜月が忍として最期の砕けた密命、夜月死別までの経緯が記されていた。
「いと容易きことよ。単なる芝居ぞ。緋美が演ずるは夜月……妾は琥太郎を演じ申す。緋美の……そなたにとって、こは悲劇か喜劇か……」
そう語ると紅花は役目、琥太郎になりきり、緋美も戸惑いながら夜月になる。
二人の間に上弦の月が昇る。淡い月に照らされた二人。あの時の情景が二人に浮かびあがる。そこには暗闇の中のかすかな灯り、二人の血の匂い、夜風の温もり、すべてが感じられる。ただ、音色は二人の声のみ。遠くで聞こえる敵の声、虫の鳴き声、風の音、草木の揺れる音……すべてな無音と化した。
そして、最期の段取り。夜月の身体に何本もの矢が突き刺さり、夜月の命は風前の灯。芝居は続く。
──さあ、緋美よ……そちは夜月に何を覚ゆる? 忍の掟を背き、裏切り、それでもなお、汝が指先の温もりまでも、すべてを深く愛し抜きし夜月に……──
夜月になりきる緋美だが心が乱れる。それはあの時の夜月の心とのずれ……あの時、死の迎え際、夜月の身体は冷たくなっていくのに……心は逆に導くが如く、照らす天道の如く──。
──夜月という役柄。そしてこの役柄の娘の名は緋美……これは、私は何を演じている? 何を感じねばならぬ? これは……純粋な娘への愛か……私は誰をどう演じれば……? なぜ、父上が描く戯れ芝居に心乱される……?──
「あはは……やはり叶わぬものですな……われは、忍としても……母としても、失格にて候……」
「おかしいですな……確かに心の臓を突き立てたはずが……わずかに逸れたようにて……その刹那、急所に緋美の顔が思い浮かばれて……貫けず……まこと、忍として失格……」
「琥太郎殿……妾は幼き頃より忍として鍛えられ、この道こそが宿命と思い定めて参りました……されど……緋美が産まれ、母としての情を知り申した……緋美と共に穏やかに生きたいと……淡き望みを抱くようになったのです……しかしわれは忍……掟に縛られ、許されぬ……その折、笹虎の使者が影より近づき申した……「間者となれば、領内にて庇い、望みのままに生かしてやろう」と……」
「われは……母として……緋美との安らぎを選び、物の怪にてすべてを失いました……それが……里を裏切り……そなた……琥太郎殿を裏切ると知りながらも……あぁ……緋美がわれのすべてであった……」
「赦してたもれ……われは『罰』を負おう覚悟……されど娘、されど緋美だけは……何卒……何卒情けを……情けをかけてくだされ……あのか弱き指先の温もりに情けを……」
「お、恩にきりまする……琥太郎殿……そしてどうか裏切り者の母とだけは……このことだけは誰にも口を開かずにお願いした……い……お頼みも……う……す……緋美……われの可……愛い……坊や……」
夜月の台詞を口に出せば出すほど、緋美の自信は打ち砕かれていく。母の想いが、心に広がりはじめる。目には涙をしたためながら。ただ、役者であろうとする緋美の意地が言葉を絞りだす。しかし、絞り出せば出すほど夜月の愛が緋美の心を侵食する。
ヒューヒュー……ヒューヒュー……
台帳にある指示に従い呼吸音を出す。喉元に冷たい刃があてがわれている錯覚に陥る。しかし、それは恐怖ではなかった。覚悟を纏った仮初めの母の決意の刃。
──これは……われを護るために、まことの母から受け継ぐ覚悟……ただ、ただ、冷たき刃の温かさのみ感じる……──
緋美は役者として恥ずべき行為で薄目を開け琥太郎の表情をみた。そこには絶望に打ちひしがれながらも、夜月の切なる願いを叶え、夜月の苦しみを解放しようとする表情の顔があった。
「忍の掟とは……なんぞ……」
紅花の詞にすべてが包まれた。
──これこそ……父上さまの御覚悟、まことその御面持ちより読み取り奉る……されば夜月の詞、紡げば紡ぐほどに愛は胸に沁み入る……われは……すべからくまことの母上さまの慈愛に抱かれ、なおも仮初なれども、父上さまに護られし身なりけり──
緋美は紅花の袖をぎゅっと強く掴む。掴む指先はかすかに震える。あの頃のか弱き指先の力が真の母の愛を知り、それが力強くなる。
──嗚呼……母上さまの目はなんと悲哀と慈愛で潤んでおるのだろう……すべてはまことの母上さまから託され、仮初めの、いや仮初めゆえにこそ、まことの愛に変えられた母上さま……──
顔も知らぬ夜月の、母の顔が朧気に紅花と重なる。
「母上さま……われ、母上さまのわれへの想ひを確と受け継ぎ申され、そして今まで、母上さま愛に護られしこと……今こそ、ここに悟り得たり……」
緋美の流す涙で、紅花の顔は幻の如く歪み、見ることができなかった。しかし、いつも側にあった声がいくら迷おうが、緋美の生きる道導となっていた。
──忍の掟は冷たき鎖……されど母の情は、鎖をも溶かす炎なり
──
紅花はいつもと変わらぬ笑みで、そこにいた。
──そうだ、これは、これこそが変わらぬ母の温もりだ……いつも、いつまでも……──
緋美は微笑みに包まれ、微笑みで包み返した。
「緋美よ……その笑みこそ……そなたはまことの演者になられた……ただ、ただ、わがたちの可愛いき愛娘よ……」
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