トキノクサリ

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プロローグ(鳥居祜 -6-)

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「この腕は、もう切断するしかないんだぞ! なんでこんなになるまで放っておいた!」

 叫ぶような声は、放課後の誰もいない廊下の壁や床、天井を切り裂くかのように木霊した。その険しい表情の町医者を横目に、僕は唇を噛みしめながら、ぐったりとしたままのウミを抱えて保健室に向かって走った。力なくぶら下がったウミの右腕は、その、崩壊して赤黒くひび割れていた皮膚も、今ではほどんど溶解してしまった様子で、指先から肘を超えたあたりまで完全に壊死していた。僕は…僕は、知らなかった。彼女がこんなになっていたなんて。毎日、毎日顔を合わせていたというのに。

 保健室の横開きのドアを蹴破るように開けると、急いで囲いのカーテンを手で払い、僕は真っ白なベッドの上にウミを横たえた。体温は異常に高く、汗ばんでいるのが解る。呼吸も、とても速い。僕は、彼女の夏セーラー服の胸元のホックを外し、裾のファスナーを開いてやった。若干楽になったのか、彼女は薄っすらと目を開き、僕の存在を確認すると、安心したかのように口許を緩めた。僕は…どうしてよいか解らず、ただ一度だけ頷いた。保健室の大きな窓に容赦なく叩きつける雨音と同時に、雷鳴が走り、彼女は一瞬だけ怯むような表情をした。稲光の強烈な閃光が、彼女の顔に浮かんだ汗を、より一層鮮明に見せつけてきた。

 町医者はウミの横に立ち、ペンライトを取り出すと、その瞼に手を遣り、瞳孔反応の確認をした。それから彼女の頬を数回叩くと、聞こえているか、聞こえていたら頷いてくれ、と指示をした。彼女は、激しい呼吸が落ち着かないまま、肩を大きく震わせながら、小さく頷いた。
「いまから、君の右手の指先から、順番に圧迫をしていく。痛みを感じたら、もう一度頷いてくれ」
 ニトリル手袋を片手にすると、町医者はウミの壊死した右手の中指から順番に、ゆっくりと圧迫していった。押さえる度に、彼女の腕からは組織液が滲みだし、白いシーツを赤黒く染めた。
 ウミが苦痛の表情と共に頷いたのは、肩と肘のちょうど中間あたりだった。町医者は、大きく溜息をついた。
「救急車を呼びます」
 僕が言った。町医者は険しい顔で僕の目を睨みつけた。
「こねえよ! ここをどこだと思ってる。この島に医者は俺一人だ。通常なら船を出して直ぐにでも陸の病院で診てもらう必要があるが、この時化じゃ海にでることなんてできない」
 町医者はベッドから離れると、スマホを取り出し、どこかに電話を掛け始めた。
 僕は、激しい呼吸を繰り返すウミの、左手を握りしめた。ウミはそれに気づいたのか、小さな力だが、握り返してくるのが解った。彼女のその左手も、既に皮膚が決壊して傷だらけになっている。ほんの少し前まで、彼女の透き通る白い肌は羨望の対象だった。僕には、彼女自身が、いずれこのような状況に置かれる事を覚悟していたのか、していたとしたら、それはいつごろからだったのか、計り知ることはできなかった。ただ、何とか意識を失わないように抗っているその幼い顔が、愛おしくも不憫でやりきれなかった。どうしてこんなことになってしまったんだ…!
 僕は、ウミに悟られないように、自分の頬を辿った涙をシャツの袖で拭った。

「かなり酷いな」町医者は、スマホの通話を切りながら言った。「そして残念だが時間がない。壊疽の進行速度が尋常じゃない。お前たちの抱える問題や状況が特殊である事は充分理解しているつもりだが、人智を超えた症例だ。今、ここで切り落とす」
 なんだって? 今? 病院ではなくって? この保健室で、ウミの右腕を切断するというのか?
「雨が収まれば、船を出せる筈…」僕は、懇願するように声を絞り出した。これ以上、彼女に苦痛を与えろというのか…。「明け方まで待てば…!」
「待てねえんだよ!」町医者が再び声を荒げた。「今日、一晩放置するだけで、この娘は確実に死ぬ。このままだと翌朝には壊疽が心臓まで届くだろう。それに…」
 言葉を詰まらせた。
「それに…? それになんですか?」
「今、この娘に死なれる訳にはいかんだろう」
 ああ…そうだ。そうなのだ。少なくともこの島の住民は、今、ウミに死なれる訳にはいかない。しかし…今でなければ、ウミの死に未練など、誰もないのだ。それは、逆を言えば、今はウミの為に、誰もが協力的になってくれる、という事でもある。前向きに、返ってこちらが全てを利用してやるくらいの気概で臨まないと、哀しみに溺れてしまう。僕は…ウミを護らなければならない。

 入口の扉が開いて、保健教師が入ってきた。独身で二十代の普段は気が強いこの女性も、状況に目を大きく見開くと、右手で自分の口を覆い、左手を後ろに、支えを探るようにしながら、腰が抜けたかのように、壁を背に、倒れこんだ。
「ちょうどよかった、保健師さん」町医者が早口に言った。「今、何が起こっているかを、ある程度あなたが把握している前提でのお願いですが、清潔な刃物が必要です」
 保健教師は、口を覆った手をそのままに数回素早く頷くと、今から何を行わなければならないかを理解したのだろう、声を震わせながら、涙をこぼした。
「ペティナイフならそこの流しにあると思います。あと、技術準備室か…倉庫に、鋸か鉈があったと思います…」声を絞り出した。「まさか…この娘の腕を…本当に、やるんですか?」
 悲鳴に似た声だった。
「鋸を」町医者は保健教師の状態に一切動じる様子はない。「よく洗って持ってきて下さい。消毒はここでやります」
 保健教師は再度、大きく数回頷くと、駆け足で部屋を出て行った。

 町医者はウミと僕の方に向き直ると、白衣のポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
「上腕部の皮膚と筋肉をナイフで切開して、鋸で骨を切断する。熱湯と清潔な生地が大量に必要だ」
 僕は無言で、薬缶に水を張り、コンロに掛けた。それから戸棚を開き、ありったけのタオルやらガーゼやらを取り出すと、ウミの隣のベッドに積み上げた。ウミは、自分の腕がこれからここで切断されることや、その具体的な方法を聞いていたに違いない。伺うようにウミの方に顔を向けると、彼女と目が合った。
「ユウくん…」囁く様にウミが僕の名前を呼んだ。「…手…握っててくれる…?」
 僕は再び、ウミの左手を、僕の両手で以て強く握りしめた。
「…怖い?」
 僕の問いに、ウミは大きく息を吐きだしながら、笑みを湛えると、頷いた。そうだよな…。

「持ってきました」扉が勢いよく開く音と共に、保健教師が入ってきた。「鋸と鉈。あと、キャンプや薪作りで使う斧もあったので…」
 町医者は無言でそれを受け取ると、水洗いされている事を確認し、薬缶の隣の、もう一つのコンロに火を点けた。引き出しのペティナイフと共に、コンロガスの火でそれぞれを念入りに炙った。それから戸棚にあったエタノールでガーゼを湿らせ、素早く消毒を行った。そして部屋の隅に置かれていた採血台を無造作に掴み上げると、ウミのベッドの横に設置した。
「悪いな…鎮静剤しか持ち合わせがない…大きな病院ならな…気休めにしかならんだろうが…」
 町医者はブツブツと呟く様に言いながら、医療カバンから取り出したガラス製のアンプルの首を折ると、空の注射器を挿入し、鎮静剤を補填した。それからウミの腕を押さえると、素早く投与した。ウミの意識はまだはっきりしており、今から切断される緊張に、呼吸はいよいよ速くなっているのが解った。せめて、この鎮静剤で眠ってくれれば、まだ救いがあるのだが…。
「ウミ…苦しいな、つらいよな」
 僕は握った手に力を入れながら、呼びかけるように言った。もう少しで終わるから、とか、頑張れよ、とか、この状況において、どんな言葉も全く無価値に思えて、そこから言葉を継げなかった。共感の言葉も上滑りしてしまう。僕が、彼女と代わってあげる事ができたなら…。彼女の苦しみをこの身で受け止める事ができたなら…。
 
「おい、こりゃなんだ…」町医者が、不意に声を上げた。「おい、なんだこれは!」
 熱湯の世話をしていた保健教師が声を聞きつけて、慌てて駆け寄ってきた。
 僕は、町医者が驚いた理由をすぐに理解できた。ウミの上腕の壊死境界部が、淡く黄色に発光し、そして恐ろしい速度で壊疽の範囲を広げているのだ。また…燐光だ。彼女がその稚さな躰に溜め続けているこの毒素が、こうして、彼女を際限なく蝕んで行くのだ…。そしてこの光が心臓に届いたとき、彼女はきっと息絶えるのだ。畜生…時間が、ない! このままでは、あと数分でウミが死ぬ!
「早く切断をしないと!」
 僕は町医者に向かって叫んだ。町医者は、ナイフではなく、斧を僕に渡してきた。そして、両手で僕の両肩を強く数回叩くと、真直ぐに目を覗き込んできた。
「お前がやるんだ。若さと力がある分、俺がやるよりも、この娘の苦痛は一瞬で済むだろう」
 僕は…僕は驚かなかった。そうだ。これは、僕とウミに関わる事なのだ。このクソみたいな出来事に巻き込まれる承諾をした時点で僕は、あらゆる覚悟を決めていた…筈だろう? だから、僕以外に、適任者はいない。やれ…やれ! やるんだ…! 
「いいか、ここを狙え」町医者は赤の太いマジックペンでウミの腕の皮膚に、直接、目標となる線を引いた。「当然だが…壊死した部分ではない。つまり、確実に痛い。一度で切り落とせ」
 町医者はゴム管で切断目標のすこし上の部分を緊縛した。そうしている間も、壊疽は範囲を広げている。僕は、保健教師から受け取った軍手を両手にはめた。…自分で、手が震えているのが解った。僕は、今から、この小さな女の子の、憐れな運命に翻弄された娘の、右腕を切断するのだ…。

 ウミの壊死した腕を採血台に乗せたが、この台は素材が柔らかすぎて、これでは切断ができない。町医者と保健教師は、壁際の鉄製の重い資料棚の中身を床にぶちまけると、ベッドの隣に運び、その上にウミの腕を乗せた。二人はそのままウミの腕に体重をかけ、強く固定すると、僕を見上げてから緊迫の面持ちで頷いた。合図だ。いよいよ、切断をする、僕は…ウミの表情を伺うのが、怖かった。鎮静剤で眠っただろうか。眠ったとしても麻酔のない切断は想像を絶する疼痛となる筈だ。
「…ユウ…くん…」
 ウミの掠れるような声が聞こえた。僕は、斧を両手で固く握り、振り上げたまま、自分の肩と上腕の隙間から横目でウミの目を見つめた。穏やかな表情だ…。穏やかな表情で、ゆっくりと大きく頷いた。駄目だダメだ! こんな時までウミに助けてもらっている様では、ダメだ!
 
 僕は一度だけ大きく息を吸い込むと、軍手の布が潰れてキュっと音が聞こえる程、強く斧の柄を握りしめた。震えは…止まった。

「やれ!」
 町医者が叫んだ。
 僕は、大きく息を吐きだすと同時に、斧を赤線目掛けて、思い切り振り落した。

「ううっ!」

 ウミが、激痛に、声を上げたいのを、耐えるのが解った。刃先から鈍い感覚が僕の腕に伝わった。刃は…垂直には入らず、斜めに倒れ、ウミの生きている腕を酷く複雑に抉ると共に、壊死した側の腕を殴打し、血を飛び散らせるだけだった。

「もう一度だ!」
 
 町医者が叫んだ。僕は斧を大きく振り上げると、再度、ウミの腕に叩き込んだ。
 ウミが、あああああ! と、言葉にならない、悲痛の叫び声をあげた。打撃は腕の肉をさらに抉り、骨を折ったが、切断には至っていなかった。

「諦めるな! もう一度だ!」

「うおおおおおおおぉぉぁぁぁ!」
 
 僕は大声を上げながら、もう一度、ウミの腕に斧を振り落とした。金属が激しくぶつかる音と、一瞬の火花と共に、ウミの壊死した腕は、その躰から離別した。僕は…腰が抜けて、ベッドに寄り掛かるように倒れてしまった。軍手に、血が滲むのが解った。…ウミの苦痛の、何百万分の一の痛みだ。

「気絶した」町医者はゴム管をそのままに、切断面に対し、器用に包帯をぐるぐる巻きにしながら言った。ここでは…縫合はできない。「無理はねえな…。可哀想に…唇が血だらけだ」
 …叫ぶのを我慢して、血が出る程、唇を噛みしめたのだろう。その唇もやはり、ぼんやりと燐光を放って輝いているかのように見えた。
 保健教師は、なにやら声をあげて怯えながらも、切り離された腕をタオルにくるんでいた。
 
 外からけたたましい風切り音が聞こえてきた。やがて、校庭にヘリコプターが着陸するのが見えた。そうか、町医者が、呼んだのか。

 すぐに、数名の乗組員と共に、担架が運ばれてきた。ドクターヘリ…ではない? レスキュー隊でもない。この制服は、自衛隊だ。なんで自衛隊がウミの為に派遣されたんだ?
 
 数名の隊員に対し、町医者は状況を簡潔に説明した。とにかく、陸の病院に運んで、充分な治療を受ける必要がある。
 僕は町医者と隊員の指示に従い、ウミと一緒にヘリコプターに乗り込む事になった。

 保健室を出ると、一本の傘に身を寄せ、野辺とアメリの二人が駆け寄ってきた。こんな時間まで、いてくれたのか…。
「木百合の具合は? 大丈夫なのか?」
 野辺の言葉に、僕はどう回答していいか解らなかった。力なく首肯した。彼らは、授業中にウミが突然倒れたところまでしか知らない。皮膚の傷については認識している筈だが、壊死の事や、当然、切断したことなんか知らない。
「妹のアスカちゃんに、ウミのことを伝えておいて欲しい。これから、陸の病院に行くから」
「アスカちんにね、解った!」
 僕の言葉に、アメリが力強く答えた。

 僕はヘリコプターに乗り込むと、渡された密閉式のヘッドホンをウミの耳にかけてやった。ウミは、気絶したまま、ぐったりしていた。呼吸は安定している様だ。掛けられたシーツの、彼女の輪郭線が作り出す凹凸に…失われてしまった右腕の空白を意識せずにはいられなかった。まだ、道は半ば。ウミと僕は旅の途中で彷徨っている。彼女は…もっと、その躰に、あの燐光の毒を取り込まなければならないのだ。今、この状態より、これから、より一層酷くなる事はあっても、よくなる事はないだろう。胸を切り裂くような絶望感…。僕はとにかく、ただ、彼女を護りたい。護らなければならない。死なせる訳には、いかないのだ。

 ウミの手を握りしめながら、僕は、彼女と出会った時の事を思い出していた。
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